僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

「諸木神社の勧請縄(トリクグラズ)と「北脇の山の神」~蒲生郡日野町北脇~

2021-02-27 05:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 勧請縄は集落の入口や鎮守の神社の参道などに祀り、悪いものが入ってこないようにする結界として、あるいは五穀豊穣や子孫繁栄を祈願する民俗行事だとされます。
滋賀県では湖東地方や湖南地方に集中しているといわれ、それぞれ集落独特の祀り方をされており、中央に吊るされるトリクグラズには独特の伝統があるようです。

以前より国道307号線を走行している際に、気になる勧請縄があり、今回立ち寄ってみることにしました。
蒲生郡日野町北脇は東近江市と隣接しており、近くには工業団地や滋賀県警航空隊や機動警察隊などがある場所ですが、古くからの信仰は守り続けられているようです。

諸木神社の勧請縄(トリクグラズ)



「諸木神社」は4世紀初めに創始されたとされ、中世の資料には「諸祇」と記録されていることから多くの神が祀られている神社とされています。
御祭神は主祭神に「第1座木神 句句廼馳命」、境内社に「第2座火神 軻遇突智命」「第3座 土神 埴安命」「第四座金神 金山彦命」「第五座水神 罔象女命」と諸々の神が祀られ、神は他にも「大山咋命(日吉神社)」「木花咲耶姫(落神神社)」が祀られる。
さて、参道の先には勧請縄が見えてきて、中央にトリクグラズが吊るされているのが分かります。



太く編まれた勧請縄の立派さに恐れ入りますが、これだけの大繩を編むには大変な労力がかかったことでしょう。
大繩が結ばれている樹の枯れ加減からもプリミティブな印象が伝わり、この地の信仰の姿が伺えます。



トリクグラズは“丸に十文字”の家紋のような形に造られており、上部には榊のような葉が付けられている。
このトリクグラズによって結界が張られて、悪いものを寄せ付けないようにしているのかと思います。



それほど数多くのトリクグラズを見たことはないとはいえ、集落によって独特の造形で祀られているのは興味深く感じます。
まさしくこの世に一つしかない造形で、その形は集落でずっと引き継がれてきたものなのでしょう。



諸木神社の勧請縄は、片方は通常の縄になっているが、もう片側には大きな房となっています。
北脇ではもう一カ所の勧請縄をこの後に見ましたが、造り方は同じようになっていましたので、集落独特の勧請縄なのかもしれません。



勧請縄を抜けて神社の境内へ入ると、何とも気の利いた手水がありました。
元は尺で水を受けていたのでしょうけど、コロナ対策で龍の吐水を半分に割った竹で流して、手で受けるスタイルとなっています。
スギの若い枝が蹲(つくばい)に挿されているのも雰囲気良く感じます。



境内には御神木が祀られていましたが、この樹はまだこれからの樹ですね。
境内には何カ所か伐採された切り株がありましたので、何本かは整備されたのかと思います。



この日は駐車場に何台も車が停まっており、社務所の中には何人かの人が座っておられる様子でした。
少し高い位置にある本殿の前には祭壇が組まれ、供物や清酒が奉げられていて、太鼓の準備までされていましたので何か祭典が行われる日だったようです。



本殿の横には立派な注連縄の巻かれた石が祀られていましたが、これはこの神社の磐座なのか?とも思える祀り方です。
石碑に何か彫られているのかもしれないが読み取れない。背後にある石仏は地蔵さん?



この諸木神社には国の重要美術品に指定されている石灯籠があるといい、数ある石灯籠の中から探してみる。
鎌倉時代後期の作風を伝えるというこの石灯籠は造りも細やかで、均整の取れた姿をしており、他の石灯籠が並んでいても一際目立ちます。



北脇の山の神

国道307号線を少し北上したところにも勧請縄があり、道切りのような印象を受ける勧請縄です。
手前に置かれているのはおそらく昨年まで吊っていた勧請縄だと思われ、柵のようなものが何カ所にもあるのは結界ということなのでしょうか。



同じ北脇区ということもあり、大繩の造り方や祀り方はよく似ていますが、何か雰囲気が違います。
神社の勧請縄が村の鎮守の神を守るものなら、こちらは集落の背後にある山の神を祀っているように感じます。



山側には御神木と思わしきスギがあり、注連縄が巻かれていますが、独特の形をしたシンボルが注連縄に挿されています。
普通に考えると男女が合体したように見え、上が女性で下が男性というこなのかもしれません。
このシンボルには生命の誕生と子孫繁栄を祈願した願いのようなものが感じられます。



御神木の横には現在の御神木より遥かに大きな木の切り株がありましたので、古来より山の神の祭場として守り続けられてきた場なのだと思われます。
北脇地区ではこの「山の神の勧請縄」と「諸木神社の勧請縄」が対になって地域を守り、地域が守ってきた歴史が今も残されているのでしょう。



勧請縄はあるはずと思って訪ねても、取りやめてしまった集落も多々あり、集落単位で勧請縄を祀っていたのを地域でまとめたりするケースもあるようです。
失ってしまうのはあまりにも惜しい民俗文化や信仰が滋賀県には数多く残ります。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「行事神社」と「新川神社」の勧請縄(トリクグラズ)~滋賀県野洲市~

2021-02-24 17:50:05 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の湖東地方や湖南地方には独特の形の勧請縄が吊るされ、その縄の中央にトリクグラズと呼ばれる象徴的なシンボルが吊るされることがあります。
勧請縄は「道切り」とも呼ばれ、集落の入口や村境、神社の鳥居や参道に吊るされることが多く、集落の中へ入ろうとする魔や疫病など悪いものの侵入を防ぐためのものとされます。

ある意味では「野神さん」や「道祖神」に近いものがあると思いますし、勧請縄やトリクグラズは集落によってそれぞれ独自の形が継承されており、同じものは見られないようです。
神社に奉納される注連縄は神域を守る結界だとすると、勧請縄やトリクグラズは集落の入口や辻で村人を守る結界といえるのかもしれません。

行事神社の勧請縄(トリクグラズ)



勧請縄やトリクグラズは継承が途絶えたり、簡素化されたりして行ってみないとあるかどうか分からないのですが、まずは野洲市行畑にある「行事神社」へと向かいました。
「行事神社」は御本柱に金山毘古神を祀り、境内社の八幡宮に應紙天皇、春日神社に天児屋根命を主祭神として祀る神社で、本社→春日神社→八幡宮の順で拝礼するのだといいます。



鳥居を抜けて境内に入ると目に飛び込んでくるのは勧請杭に吊るされた勧請縄と個性的なトリクグラズ。
勧請縄は集落ごとに祀り方が違うとはいえ、実に神々しく感じる勧請縄です。



12本吊るされた小縄は、カシの枝束を結んだ縄にカシの葉が下げられているのだという。
勧請縄に吊るされる縄や葉は12本になっていますが、これは12カ月間の無事安寧を祈願したものなのでしょう。



12本吊るされた小縄の形も特徴的ですが、他に類を見ない形のトリクグラズには圧倒されるほかありません。
中心に「上」を書かれた木札を付けたトリクグラズは太陽をイメージしているのでしょうか。
燦燦と陽を照らす太陽の下、魔を祓い豊作に恵まれるようにとの祈りの姿のようにも思えます。



上・横・右斜め・左斜めに4本づつの割竹で円を描くように造られたトリクグラズのなんと神々しい事。
滋賀の民俗行事や神事・信仰は、地域や集落によって祀る対象も祀り方も様々ですが、現存しているものが多く興味は尽きません。



境内には木製の格子の中にかつての御神木を思われる樹の根が祀られていました。
もはやオブジェのような姿になっていますが、自然のものに神の姿を見る日本人の感性が息づいています。



行事神社は神亀元年(724年)、御上神社の神託を受けた三上宿禰海部廣国が勧請したのが最初だとされ、「三上別宮」とも称されるといいます。
社殿は慈覚大師・円仁により造営され、南北朝期に修造されたと伝わり、本殿は一間社流造の建築物です。



神社の鳥居の外には鎌倉期の石仏という「背くらべ地蔵」と「阿弥陀如来立像」の2躰が祀られていました。
2躰の石仏は、中山道を行き交う人の道中を護ったとされ、当時は乳児がよく死んだので「我が子もこのお地蔵さんくらいになれば、あとはよく育つ」と背くらべさせるようになったとの伝承が伝わるそうです。



どうしても一度この目で見てみたかった行事神社の勧請縄(トリクグラズ)に出会えて感謝することしきり。
せっかく野洲市に来ているので、もう一カ所「新川神社」へと向かいます。

新川神社の勧請縄(トリクグラズ)

新川神社は社殿によると、天武天皇が大友皇子と野洲川を隔てて皇位を争われた際に勝利祈願をされ成就されたことにより、朱鳥元年(686年)に造営されたと伝わります。
近くを流れる野洲川が度々氾濫し社殿・境内等は、その被害を受け荒廃するに至ったものの、その度ごとに再興の篤志が寄せられて現在まで祀られているといいます。



鳥居に掛けられているのは普通の注連縄なのですが、境内の途中にはなんとも個性的な勧請縄(トリクグラズ)が吊るされています。
円形を描く4つのトリクグラズが吊るされ、縄には上から先端が刀のように削られた竹に付けられた御幣が12本。
17本ぶらさがる小縄は地面すれすれの長さになっており、のれんのように通ってもいいのかどうか悩ましく感じる。



トリクグラズは集落ごとに姿が違うとはいえ、先の行事神社のものと比べてもあまりに違い過ぎる。
それが集落の個性だと言ってしまえばそれだけですが、多種多様な形で民俗文化が継承されてきたのには驚きを隠せません。





御幣が付けられた竹はまさに刀の如く。
悪いものを打ち祓う呪具ともいえますが、それは自然信仰に始まり、修験道・神道・仏教・道教・陰陽道などの影響を受けて伝承されてきたとされる言葉にも納得致します。



境内には御神木の古木があり祀られています。
神社の裏門の前には伐採された1mほどのスギがありましたので本来は2本の御神木があったということになるのかもしれません。



ゴツゴツした根が瘤のように盛り上がっているのは、さしずめ象の足といったところか。
裏側には痛みが進み洞が出来ていて、修復されていましたが、幹などをみているとまだまだ健在と言える樹です。



新川神社の御祭神は「須佐之男命」で配祀神には「大物主命」と「奇稲田媛姫」を祀ります。
境内社は本殿の右に多賀神社と大神宮、左に若宮神社と日吉神社。この神社でも参拝の順序が決まっています。
本殿は一間社流造の建築物ですが、行事神社にはなかった外削ぎの千木があり、同じくらいの規模の本殿でも建築様式に違いが見られるのが面白い。



境内社はもう一つ社があって、それは放生池にある厳島神社でした。
この放生池はかなり深い水深の池で中には鯉が泳いでいるものの、底が見えない深さに神秘的な感じすらする池に少し怖さも感じます。



湖東地方でも個性的な勧請縄(トリクグラズ)が見られたのは良かったと思います。
勧請縄の文化は廃止されたり簡略化されている場所も多く、失われつつある民俗行事だといわれますが、確かに巡った中の2カ所にはもう勧請縄は存在していませんでした。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「長浜盆梅展」早川鉄平さんの切り絵と鳥取大山和傘

2021-02-23 10:33:33 | アート・ライブ・読書
 長浜の春の風物詩「長浜盆梅展」は今回で第70回を迎え、始まったのは1952年だといいますから、よく続いてきたものだと感心致します。
盆梅展では約300鉢の盆梅の中から開花状態に合わせて約90鉢が展示され、もっとも長寿の梅は樹齢400年とされる古木になります。

今年の盆梅展では切り絵作家の早川鉄平さんと盆梅のコラボ展示が企画され、昨夏の慶雲館と切り絵のコラボに続いて開催されています。
また、期間限定で鳥取大山和傘とのコラボ展示も行われているといいますので、日が暮れてからライトアップされている長浜慶運館へと足を運びました。



慶雲館は1887年に明治天皇の行幸の際、昼食と休憩をするために建てられた建物で、本館と前庭・本庭の池泉回遊式庭園を有する私費で建てたとは思えないほどの豪奢な建築物です。
しかも、慶雲館に明治天皇夫妻が滞在されたのは1時間もなかったといいますから、その尽力たるや恐るべし。



門の左右に盆梅が飾られた門から入ると、まずは前庭が拡がります。
前庭や本庭に置かれている石碑や灯籠は巨大なものが多いのですが、これはかつて慶雲館の横に長浜港があったゆえ、巨石を搬入することが出来たからのようです。



橋を渡って中門を抜けると本館への入口が見えてきます。
来場者が多かったのですが、ほとんどの方は鳥取大山和傘を撮りたくて来られていたようでした。



鳥取大山和傘は建物の本庭側の縁側と盆梅が並ぶ大広間、玉座の間がある2階に展示されています。
盆梅の並ぶ場所に人が少ないのは、皆さん鳥取大山和傘を撮れる位置に集まっているから。



和傘の後方にある盆梅は、樹齢400年の「不老」です。
会場内には組織培養増殖で培養した「不老」の苗が展示されていましたが、もうしうまく育ったとしても400年後の2400年頃。どんな世の中になっているでしょうね。



本館の2階へと上がると玉座の前に和傘の展示がありました。
障子のガラスに映る和傘を熱心に撮られているカメラマンがおられましたよ。



少し話してみると、庭に今人が集まっているから空いている方へ回ってきたんだ。
庭が空いてきたら下へ降りる。とのことで写真を撮るのにも作戦が必要ということのようです。



1階の会場にも和傘と盆梅のコラボが展示中ですが、和傘が派手なだけに盆梅もこのくらいの大きさだと、盆梅と和傘のコラボらしくなってきます。
室内は解放されているとはいえ、梅の仄かな香りが漂う。ただ今年は寒冬なので花の開花状態が遅いかも。



梅の花を撮られている方もいるにはいるけど少なく、これは部屋の入口付近に全体図を撮りたいカメラマンが密になっていて、気をつかっているからなのでしょう。
梅を楽しむには和傘展示の期間を外した方が得策です。



さて、別館では切り絵作家の早川鉄平さんと盆梅のコラボ展示が見られます。
動物の森の中で咲く梅の花ということだと思いますが、少し趣向を変えた演出です。



早川さんの切り絵で当方が好きなのは、ライトアップされた切り絵や透過して背景が見える切り絵ですが、庭や図書館や屋外のあちこちに展示するインスタレーションも魅力的です。
米原市の山間に暮らし、豊かな自然と野生動物との出会う日常を過ごされている早川さんならではの世界観に魅かれる方は多いと思います。





梅の花の影に見えるのはニホンカモシカでしょうか。
湖北の山で出会えるとちょっと嬉しくなる動物です。



2月とはいえ、もう街中でも花を付けた梅を見かけるようになってきてもう少しで春が来ると感じられるようになってきました。
いろんな場所へ出かけたくなる季節になりますが、ワクチン接種の順番はいつ頃巡ってくるのでしょうかね。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「霊仙 落合神社のケヤキ」~滋賀県犬上郡多賀町霊仙 落合集落~

2021-02-20 07:07:07 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 鈴鹿山系の霊仙山麓に霊仙三村といわれた「落合・今畑・入谷」の集落があり、そのうちの落合と今畑の2つの集落はすでに廃村になっていて、入谷は冬季無人になる集落だといいます。
かつては畑作や林業、炭焼き等で生計を立てていたと考えられますが、炭や林業が産業として成り立ちにくくなったことや豪雪地帯ゆえの不便さなどにより過疎化していったのかと思います。

多賀町の最奥にあたるのが落合集落で、集落の神社には「落合神社のケヤキ」という巨樹があり、雪で通行止めになる前に落合集落へと向かいました。
県道・多賀醒井線を走行している時には路肩に雪だまりを見るだけでしたが、「河内の風穴」のあたりから積雪量が多くなり、入谷集落・今畑集落あたりから積雪量が多くなってくる。



平地に全く積雪のない状態でも山麓には雪があるのには当然のことながら驚くとともに、我ながら無謀さに呆れてしまいます。
道路の雪は開けられているとはいえ、芹川には雪が残ります。もう芹川の源流近くまで来ているのでしょう。



山側に墓地が見えたので落合集落近くまで来ているのは把握できたものの、もうUターンできる場所はなく、戻るつもりもない。
集落の建屋が見えてきたのはいいが、この道を進めというのか。ギリギリ通れる道幅でカーブの先も見えない。



道路脇は雪だまりがあって駐車する場所がありませんので、止む無く道に車を停めたまま「落合神社」へ参拝します。
尚、落合集落から先に細い道(おそらく男鬼集落とか武奈集落の方向)はありましたが、通行止めで除雪は全くされておらずここが終点となります。



雪は固まってはいたものの、歩いていると雪にズボッと足がはまってしまい、雪に慣れていないので歩きにくい。
祠へ近づいていくと、祠の左奥に「落合神社のケヤキ」が黒く大きな影のように見えてくる。





「落合神社のケヤキ」は幹周7.4mで樹高は30m。推定樹齢は300年以上とされており、主幹は苔に覆われている。
根元は雪のため確認できませんが、太い主幹は過酷な環境を行く抜いてきたたくましさがあります。



このケヤキは見ようによっては巨大な巨人が両手を上げてこちらを睨んでいるようにも見えます。
場所の凄さもあるとはいえ、この迫力にはあらがうことは出来そうにはありません。



境内には魅力的なスギの巨樹があります。
このスギは分岐した支幹がさらに分岐して独特の形となっており、落合神社のもう一つの見所かもしれません。



手水舎の奥にもまだ太さはありませんが、樹が育っています。
集落の方も歩いてみたかったのですが、雪が多く踏み跡もないので入れず集落の全貌は分からずじまい。



小川を挟んだ向こう側に祠がありました。
地蔵堂かと思いますが、とてもじゃないけど渡る勇気のおこらない橋しかありませんでしたので、これは諦めます。
祠の前には注意書きと箱が見えますが、これは登山届を入れる箱で、ここは「霊仙山落合登山口」のようです。





ところで、河内の風穴から落合集落との間の道に他府県ナンバーを含む数台の車が駐車しているので不思議に思い見てみると、そこには「霊仙山今畑登山口」がありました。
“熊出没注意”とある看板の横から続くこの登山道を登って行かれる方は凄いなぁと改めて感心します。



落合集落から河内地区へ戻り、芹川に沿って下流に向かうと、道幅は広くなり積雪量も減ってきて、人の姿もある普通の集落になります。
下村集落に入って目に飛び込んできたのは「山之大神」の石碑です。



かつては山之神の祠があったようですが、今は石碑のみ。
後方の山の斜面には神木らしき樹がありますが、神木とされているかも不明の若い樹です。



さらに道を戻ると、「鯖大師」の石碑と弘法大師の名前が書かれた祠が祀られている場所がありました。
関係あるかは不明ですが、四国の遍路には鯖大師と空海に関係する伝説があるといい、塩鯖を運ぶ馬方に空海がおこした奇跡譚だそうです。
さて、鯖大師の祠を過ぎると今度は小さな名もなき滝に出会います。



霊仙山は標高1094mのピークを持つ山ですが、広がる山中には廃村になった集落を含めて、幾つもの集落があり、かつては学校や役場などもある生活圏が築かれていたようです。
舗装された細い道路は通じているとはいえ、麓辺りでも携帯電話は圏外になってしまう今の人間からすると不安を感じてしまう所です。
しかし、かつては笑い声が絶えないようなつつましくも穏やかな集落だったのではないかと想像します。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「井戸神社のカツラ」~滋賀県犬上郡多賀町向之倉~

2021-02-17 06:20:20 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 多賀町と岐阜県・三重県につながる鈴鹿山系の山には、なぜこんなところに集落があるのかと不思議に感じるような山中に集落があり、廃村になっても守り続けられている信仰が残ります。
「井戸神社のカツラ」は以前から一度訪れてみたい場所でしたが、湿気の多い時期や夏場には山ヒルが多い場所ということで冬場まで訪れるのを見送っていました。

冬になりいよいよ「井戸神社のカツラ」を見ようと芹川沿いの県道を川内方面に向かって進んで行くと、地図に「屏風岩」と表示され、山の上方に巨大な一枚岩が見えてきます。
屏風岩は正確には「芹谷屏風岩」と呼ばれているといい、ロッククライミングのクライマーの名所となっているとか。

屏風岩にも驚きましたが、もっと驚いたのが山の上部に道が見えたことで、調べてみると山の上には「屏風」という集落があるといい、冬季は無人になるものの人が住んでいるといいます。
一部しか知らないとはいえ、鈴鹿山系に点在する集落の多さには驚くばかりです。



県道を進めば「河内の風穴」ですが、途中で芹川に架かる橋を渡り廃村となっている「向之倉」集落へと向かいます。
「向之倉」集落への道も急カーブこそ少ないものの、道は離合不能なほど細く、落石も多い。
落石をすり抜けようとすると、ガードのない道の崖側へ車を寄せることになりヒヤヒヤものです。

朽ちそうになっている家屋が見えてくると、そこは集落の跡。奥深い山の集落跡へ到着です。
案内板がありましたので車を停めて細い道を歩き出しますが、山ヒルや蛇はいない時期とはいえ、今度は獣に遭遇しないかと怖ろしくなる。



カツラの巨樹がある場所は、井戸神社のかつての境内となるのだと思いますが、山の中にぽっかりと開けた窪地のような場所。
曇り空で陽の光が差し込んでいなかったこともあって、幻想的な空間は異界へ迷い込んだかのような錯覚を起こしてしまいます。



山の奥地にあり人っこ一人いないにも関わらず、何か周りの森がザワザワとしていて、物音がうるさいが何の音か分からないし、動くものは何も見えない。
もし、水木しげるさんがこんな天気の日の朝にここを訪れていたら、どんな絵を描かれるのだろうと想像してみる。

おそらく日常とはかけ離れたこの場所を、精密な精緻で描いた異界の姿を描かれるのではないでしょうか。
ここに棲む目には見えないものまで描いてくださるかもしれませんね。



「井戸神社のカツラ」は主幹より大小12本の幹に分かれて株立ちしていて、幹周は11.6m・樹高39m・(推定)樹齢は約400年。(滋賀県指定自然記念物の看板)
株立ちした幹はそれぞれ天に向かって真っすぐに伸びていて、その神々しさには何か宿るものがあっても不思議ではない。



境内地と思われる窪んだこの場所の一番低い所には、かつて集落の井戸として使われていたのかと思われる沼地があります。
地元の言い伝えによると、“この沼地には大きな巳様(蛇)が住んでいて、年一回の沼ざらえの時には、カツラの木の中に移られる”との白蛇伝説があります。



カツラの樹の後方に祀られた井戸神社の御祭神などは不明なものの、多賀大社の末社という話もあります。
井戸神社で祭典が行われる時は多賀大社の神主さんが来られて神事を務められ、その際には集落を離れた方も戻られるそうです。



井戸神社にお参りしてもう一度カツラの樹を眺める。
根を張っている場所は沼地(井戸)のすぐそばですから、豊富な水を吸い上げてこのような巨樹になってきたと思いますが、幹周が12mあるというのはもの凄い迫力です。



上を見上げてみても垂直に伸びた幹の林立には、神々しくもあり、幻想的でもある姿に言葉もありません。
カツラの樹を中心としたこの窪地にいると、別世界や異界にいるように思えてならないのです。



向之倉集落は、昭和40年代に廃村になったとされていますが、井戸神社やその周囲は荒れ果てた感がありませんので、年に何回か整備に来られる方がおられるのかと思います。
廃村になってから50年ほど、集落は消滅状態とはいえ、鎮守の神社は今も護られています。



来た道を戻り車に乗り込んだとたんに雨が降り出し、雨が降るなか細い林道を恐々と県道まで戻ります。
芹川に架かる橋まで戻り、川を眺めると巨石がゴロゴロところがる川の風景に見惚れます。



もっと芹川の上流域の河内辺りまで行くと、また川の良さが増してきますが、今回はここから眺める。
ここより下流側は川岸整備が整い過ぎてしまいますので、源流に近いこの辺りが見るには良いのかもしれません。



さて、県道に入るとさらに雨脚が強くなり、ザーザー降りとなって雨はなかなか止むことはありませんでした。
「井戸神社のカツラ」に居たのは雨が降り出す前のギリギリの時間だったようです。
何か巡り合わせの縁みたいなものを信じたくなります。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「保月の地蔵杉」~滋賀県犬上郡多賀町保月~

2021-02-14 07:01:01 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 多賀町は彦根市街地からさほど距離がある自治体ではありませんが、山中へ入ると10以上の廃村や限界集落があるといいます。
山中にある集落への道は酷道といえるような細くて曲がりくねった道になるため、冬季などは暮らしていくのも不便であったと思われますし、降雪時は閉ざされてしまうことも想定されます。

多賀大社の奥宮「調宮神社」から、多賀大社の御神木である「杉坂峠の杉」を経由して進んで行くと、廃村となった保月集落の外れに「保月の地蔵杉」がありました。
杉坂峠までの離合も出来ない細くて曲がりくねった道を戻るのが嫌で進んでしまったのですが、「保月の地蔵杉」が見えてきた時は感動の瞬間でもありました。



地蔵さんが祀られていると思われる小さな祠の両端に鳥居のように立つ2本のスギも見事なれば、祠の後方に立つ合体樹と思われるスギも実に素晴らしい。
環境省の「巨樹・巨大木データベース」には保月に4本のスギが登録されており、最大のスギは幹周5.1m、樹高30mとされ、樹齢は300年以上とされている。
一方で、多賀観光協会では幹周7.3m、樹高37m、樹齢400年とされており、これは測定方法の違いかと思われます。(多賀観光協会では「薩摩杉」と紹介されている)



祠の後方にあるスギが幹周7.3mのスギなのでしょう。
ほぼ同じような太さの2本のスギが根元でひとつになっていますので、長年の成長過程で合体樹になっていったのかと思います。



裏側の山を少し登ってみると巨樹の全容が明らかになります。
光の当たる側から見た地蔵杉は素人目にも木肌が美しいスギで、近在の木材商の中でこの木を知らぬ者はいないといわれる価値の高い銘木として知られているといいます。



同じく山側から祠を眺めると、3本の美しい巨樹に祠が守られていることが分かります。
この祠に祀られているのは「乳地蔵」と呼ばれており、乳の出にくい女性にご利益があるといいますので、近くの集落の方の信仰があったのでしょう。



「保月の地蔵杉」のもう一つの呼称の「薩摩杉」とは何なのかについてですが、関ヶ原の戦いで西軍として戦った島津義弘率いる島津隊の退き口だったため、薩摩の名が付いたといいます。
関ヶ原の戦いで小早川秀秋の寝返りにより総崩れとなった西軍は敗走を始め、島津隊は東軍を敵中突破で切り抜け、このルートを使って湖東~湖南を経て、最後は堺からの海運で薩摩まで退却したとされます。

思いも知らなかった歴史の舞台に遭遇して想像力が高まるばかりですが、東軍の追跡隊に追われながらこの過酷な山道を退却した苦労は察して余りあるものです。
「保月の地蔵杉」と名乗っているのは、江戸時代に入り井伊家が居城を構える彦根藩のお膝元の多賀に、薩摩を称えるような「薩摩杉」と名乗ることは出来なかったからなのでしょう。
しかも、関ヶ原の戦いで井伊直政は島津隊に大けがを負わされていますからなおさら「薩摩」の名では呼べない。



祠の右にあるスギは、3本の中でもっとも力強くて威圧感を感じます。
巨樹を見ていると、ただ巨木というだけではなく、何か見えない力が宿っているように思えてしまいます。



立ち去る前、最後のもう一度「乳地蔵」の祠と3本の御神木と向き合う。
ここまで来るだけでもハンドルを握る手に汗をかくような道でしたが、来た甲斐があったというものです。



多賀の山中には廃村や限界集落が点在していますが、なぜこのような山深い場所に集落があったのか不思議に思います。
生活の糧は、林業や製炭・豊富な山の幸と耕作での自給などかと想像しますが、かつては集落に寺院や小学校や役場などがあったといい、住民の方が暮らしていくには充分な豊かさだったのかと思います。

保月の集落からさらに先へ進んだのですが、途中で通行禁止の看板があり、そこで道を折り返す。
またあの道を戻るのかと不安と億劫さを感じつつ、林道の入口にある芹川の橋までやっとのことで戻ってくる。



林道の入口になる「調宮神社」の鳥居の前にある芹川の橋を越えると、そこから先は県道17号多賀醒井線が通じており、ごく普通の農村風景が広がります。
芹川も上流域にあたるとはいえ、川岸は整備されて穏やかな流れの長閑な風景です。



山中にあった「乳地蔵」の祠や地蔵杉の周辺はあまり荒れておらず、誰か世話をされている方がおられるようでした。
離村しても地元の神様をお守りする信仰心の篤さと故郷への想いが、今も多賀の山村の人々の心の拠り所になっているのだと思います。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多賀大社奥宮「調宮神社」と「杉坂峠のスギ(栗栖のスギ)」~滋賀県犬上郡多賀町栗栖~

2021-02-11 11:11:11 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 多賀大社奥宮「調宮神社」

「多賀大社」は“お伊勢お多賀の子でござる”の俗謡にうたわれるように、伊勢神宮内宮の主祭神「天照大神」の親とされる「伊邪那岐命」と「伊邪那美命」を御祭神として祀ります。
多賀町には「多賀大社」と共に多賀二座といわれる「胡宮神社」や、多賀大社の末社または奥宮とされる「大瀧神社」があり、大社ゆかりの神社が集中する地域です。

「多賀大社」ゆかりの神社としては、他にも御旅所とされる「調宮神社」があり、4月の古例大祭(多賀まつり)・11月の大宮祭では本社のご神幸があるといいます。
「調宮神社」の由緒書によると、“神代の昔 伊邪那岐大神は杉坂山にご降臨され、次いで栗栖の里にて暫くお休みになられたことが當社の創祀とされる”と伝わります。



彦根から「多賀大社」への道の途中で芹川に沿うように曲がって進むと、「調宮神社」の鳥居が見えてくる。
神社にはかつて「調宮神社のスギ」と呼ばれる巨樹があったようですが、10年程前に突然倒れてしまったといい、今はその姿を見ることは出来ません。



本殿の横にあるのは、すっかり葉が落ちてしまったイチョウの樹です。
苔のよく生えた境内にやや傾きながら立っています。





本殿は芹川を背にして杉坂山に向き合うように建っており、山を背にしていないのは杉坂山にご降臨された大神を栗栖の里へお迎えするためなのでしょう。
玉垣の間にある鳥居に掛けられた注連縄に頭が当たりそうになるようなこじんまりとした本殿ですが、清流の音と時々通る車の音以外は何も聞こえてこない静寂の神社です。



境内の入口には苔と岩の庭園があり、境内の奥には磐座がありました。
磐座も苔むして味わい深く、注連縄は土色に変色してしまっていますが、存在感のある磐座です。





磐座の上部から木が生えているのかと思って裏側に回り込むと、実際は磐座の下から生えてきた木が磐座にかぶさっていたようです。
苔は日の当たる方向にだけ生えており、山側となる日蔭側にはなく、表裏で受ける印象が全く変わります。



多賀町は調宮神社の辺りまでは農村風景が見られますが、これより先は山道が続き三重県や岐阜県と山でつながるようです。
芹川に沿った道を進んでいくと、確認されている鍾乳洞では滋賀県唯一ともいわれる「河内の風穴」があります。

「杉坂峠のスギ(栗栖のスギ)」

「調宮神社」の参拝を終えた後、もう一カ所立ち寄りたいところがあったのですが、正確な場所を把握していなかったのと、頼りにしていた携帯電話が圏外で確認しようもなく、取り合えず林道へ入ってみます。
この林道は以前にも通ったことがありますが、道幅は狭くカーブや傾斜が多い上に離合用スペースがほとんどないため離合困難な酷道です。

分かっていてなぜ進んで行ったのか...。
一つには前回訪れて感動した多賀大社の御神木「杉坂峠のスギ(栗栖のスギ)」を見たかったのと、廃村集落や山中での自然との出会いに期待があったからです。



「杉坂の御神木」「杉坂峠のスギ」「栗栖のスギ」「杉坂 三本杉」など幾つもの名で呼ばれるこのスギは、多賀大社の御神木として祀られています。
「調宮神社」の由緒にあるように、伊邪那岐大神が天から降りたった地と言われていて、降臨した伊邪那岐は峠を下って栗栖の里に鎮まられたと伝承されています。



別の伝承では、“道中、村人に柏の葉に盛られた栗飯を出され、たいそう喜んで召し上がられ、その時にに地面に挿された杉の箸が成長して大木になった”との由来もあるといいます。
多賀大社には似たような話が「多賀大社のケヤキ (飯盛木)」にも伝わり、同じく多賀大社の御神木とされており、滋賀県内では箸や残材を地に挿したものが巨樹になったとの伝承は幾つかあります。



山中にある御神木はかつては13本あったが、現在は4本が数えられており、中でも三本杉と呼ばれるスギは県下最大といわれている。
幹周は11.9m、樹高37m、推定樹齢400年とされているこのスギは合体木だろうとされていますが、その神々しさに圧倒されてしまいます。



林道への入口には“熊出没注意”の看板があり、熊が出てもおかしくないような山の中ですから怖いながらもスギの近くまで降りてみる。
スギを反対側から見るとまた違った姿を見せてくれ、斜面に真っすぐに立っていることが分かります。



ここへ来ると、“巨樹の力”と共に“場所の力”のようなものを感じてしまい、同時に神聖さと怖さも感じてしまいます。
張り詰めたような空気感と緊迫感は、やはり神の宿る場所ならではのエネルギーのようなものからきているのかもしれません。



驚いたのは、ふと気が付くとそこに人が一人おられたこと。
車が停められている形跡もなく、気配もなかったのに突然現れた感じでしたが、どうやら道を歩いてここまで来られていたようです。

その方は当方と入れ替わるようにして先へ道を進んで行かれましたが、見ていると林道を凄いスピードで歩いていかれ、みるみる姿が見えなくなっていきます。
駆け上がていく姿を例えると、グレートトラバースのプロアドベンチャーレーサーの田中陽希さんのようなスピードで、まるでアドベンチャーレースを走るかの如く。
車で追い越して林道を進んだ後、折り返してきた帰り道で再び姿を見た時は、呆れるほどの距離を移動されていましたので、その凄さには驚くばかり。まさしく超人です。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小倉宗さんの「浮酔絵展」~愛知川駅コミュニティハウス「るーぶる愛知川」~

2021-02-07 15:25:25 | アート・ライブ・読書
 浮酔絵師・小倉宗さんから「浮酔絵展」のポストカードが届いたのは2月初旬の某日のこと。
毎年、長浜市で開催されるアートインナガハマでお会いできるのが例年の常でしたが、今年は新型コロナによりイベント自体が中止で小倉さんの絵を見るのは2年ぶりになります。
個展を開かれたりされているようではありますが、如何せん遠方で開かれる美術展が多く、滋賀での開催は実にありがたい。



「浮酔絵展」と題されたギャラリー展が開催されるのは、近江鉄道「愛知川駅」の新駅舎として建てられたコミュニティハウス「るーぶる愛知川」のギャラリーです。
「るーぶる愛知川」には駅ギャラリーの他にも郷土物産展示スペースや物産品の販売、情報交換スペースなどが併設され、かつての宿場町の趣を残す小さな美術館となっています。



愛知川駅ギャラリーでは一か月ごとに作家さんを変えながら展示されているといい、一人の作家のギャラリーとしてはちょうど納まりのよいスペースではないかと思います。
小倉さんの作品は約20点ほど展示されていましたが、既に「売約済」の紙が貼られている絵もあり、相変わらずの人気の高さが伺えます。



久しぶりに見る小倉さんの絵は、新型コロナにより自粛期間の2年間で少し作風(言い換えると趣向)が変わった絵があるように感じられました。
当方が小倉さんの絵を見たのは2007年からですから、約15年もの間には趣向が変わった絵が描かれるのは当然かもしれませんけど...。



ギャラリーに入ってすぐに目に入ってくる「てっぺん」という大作にはユミンが8匹。
2013年の作品のようですが、見様によっては母ユミンをてっぺんに子ユミンが群がり、父ユミンが下の方でマンドリンのような楽器を奏でている。
小倉さんも気に入られておられるのか、この作品には値段は付いていませんでした。



今回、面白いなぁと思ったのは「卑弥呼」のシリーズです。
「卑弥呼」と名付けられた女性が年代ごとに3枚の絵で描かれており、絵は「卑弥呼19歳」から始まります。
髪飾りと首飾りは卑弥呼のようであり、服は現代風の服という姿からは、特別な存在の女性が卑弥呼のイメージとなっているように感じられます。



「卑弥呼27歳」ではユミンを膝の上に乗せた女性が、色鮮やかな朝顔の花の服を着られています。
2作品ともに服のデザインが割烹着かエプロンのように見えるところに安らぐような想いが伝わってきますね。



卑弥呼シリーズ?の3作目は「卑弥呼49歳」。
何となく餓鬼のような姿勢をしており、目の前にあるのは土器のような器と骨?



絵は見る人が感じるままに見たらよいのだと思っていますが、お尻の模様が火焔型土器のように見えてしまうのは当方だけでしょうか。



「卑弥呼」シリーズは並んで展示されているわけではなく、別々の場所に展示されているにも関わらず、目を引きます。
2020年、コロナ渦の中で小倉さんが想いを込めて描かれた作品なのでしょう。特に印象に残った3枚でした。

小倉さんの絵には鯨や鳥の絵があり、麒麟を描いた大きな絵も展示されていました。
「美日華瑠」と名付けられた絵には2頭の麒麟と2つの三日月。バランスが抜群ですね。



オグラオレンジに彩られたユミンの美しい作品は「阿留九と理夏縄」。
ユミンの来ている黒い服の生地に薄く描かれた黒い模様が隠し味で、グラデーションのように描かれた文字は絵のタイトルのようです。



ところで、小倉さんから送っていただいたポストカードで気になることがありました。
葉書には武装した埴輪の切手が貼られていたのですが、これには興味津々になりました。



何の切手か検索してみると『国宝シリーズ 第一集「考古資料」』の切手です。
さっそくこの国宝シリーズ「考古資料」の切手を注文しましたが、この切手の驚きもあって「卑弥呼」シリーズにグッときたものがあったのかもしれません。



余談ですが、このところ埴輪とか古墳とか好きになってきていて、埴輪のアイテムが増えてきています。
ちょうど納まりがいいのでPCの前に並べていますが、実際は箸置きや指サックを飾っているだけ。



小倉宗さんの絵は今までアートインナガハマで見るしか機会がありませんでしたので、個展で見るのは初めてのことになりました。
ギャラリーの外から中の様子が見えた時は、ワクワクした気持ちとなり、どこから見ていこうかと悩ましくなる。
想像していた以上の作品数が展示されていたこともあって、随分と満たされた気持ちになってギャラリーを後にすることになりました。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木之本町の野神さん~「伊香高校のケヤキ」と「黒田のアカガシ」~

2021-02-02 18:08:08 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「野神」さんは五穀豊穣の神として何百年もの間、各集落で祀られてきたといい、毎年夏頃になると各集落で野神祭の祭事が行われるといいます。
一般的に野神さんは集落の端に巨樹や石を祀ることが多く、悪いものが入らないようにしたり、悪いものを集落から追い払う集落の結界としての役割も果たしてきたともいわれます。

伊香高校のケヤキ(野大神)

滋賀県の湖北地方では野神信仰は特に旧高月町の野神さんが紹介されることが多く、集落ごとに観音さまを祀る観音信仰と相まって、湖北地方の自然や仏に対する信仰の深さを感じます。
高月の隣町の木之本町にも野神信仰はあり、その一つの「伊香高校のケヤキ(野大神)は、高校の校門の中の前庭に野神さんが祀られています。



しかし困ったことが一つ。野神さんは学校の門の中にあるため許可がないと入れません。
行くだけいって学校に電話して聞いてみようと思いながら現地に着くと、地元の方が数名で掃除中でしたので、これ幸いと声をかけてみる。
“そうぞ入って。”とのことでしたので、これで不審者扱いされることはないだろうと一安心して野神さんへ向かいます。



樹の幹はほぼ空洞となっていて、途中で折れている枝の内部にもポッカリと穴が開いているのが痛々しい。
とはいえ、脇から生えた枝がよく伸びていますので、生命力の強さに感心する反面、幹の部分の異形の姿には言い知れない妖しさを感じてしまいます。





幹には注連縄が巻かれ、御幣が供えられており、野神さんとして祀られているのだが、疑問が一つ湧いてきます。
「野大神」と彫られた石碑は、本来ならば樹の前にあるはずなのだが、石碑の正面は斜め対面にある。

石碑の後方の樹は、野神さんとは思えないサイズであり、注連縄なども見受けられないので野神さんではないようです。
そこにかつて野神さんがあったのか?と調べてみると、石碑の両サイドに2本のケヤキがある写真があり、以前は石碑の横後方にも野神さんがあったようです。



野神さん野間手に立てられた長浜市の「保存樹指定樹木標識」の案内板によると、樹種はケヤキで樹高は約18m。
幹周は約8~9mとされており、樹齢は“約1000年~1300年といわれている”とあった。



このケヤキは正面から見ると大きな空洞があるが、後方から見ると朽ち果てそうな感じはない。
“命あるものはいつか朽ちるから美しい”と言われる方がありますが、痛みながらもなお枝を伸ばしているその姿からは生命感の強さや生きる意志のようなものを感じます。

黒田のアカガシ(野神)

伊香高校のケヤキのある「木之本町木之本」の隣村の「黒田」地区には「黒田のアカガシ(野神)」というまだ見ぬ巨樹があります。
夏前に一度訪れようとしたのですが、アカガシがある場所までの道が竹藪の横の細い登り道で、草がぼうぼうに生えたジクジクと湿気の多い道で蛇でも出そうで気持ち悪くて断念しています。
しかし今回は草がほぼなく、ぬかるみもなかったため安心して登ることが出来ました。



山へ向かって細い道を進むと、すぐに獣除けの鉄柵があり、鉄柵を開けて少し登ったところに黒田のアカガシはある。
周辺は整備されてちょっとした広場のようになっており、周囲に背の高い樹がないおかげでアカガシは陽の光を浴びて生き生きとした姿に見えます。



「黒田のアカガシ」は滋賀県の天然記念物に指定され、大阪市と新聞社が企画した「新日本名木百選」にも選ばれている名木で、幹周は6.9mもあり、間近で見るとその太さに感動する。
樹高は15mとされ、樹齢は300~400年。集落では御神木として毎年「野神祭」が行われていいるといいます。



アカガシは本州(宮城県・新潟県以南)・四国・九州など比較的暖かい地方に広くみられ、旧伊香郡のような寒冷地にはほとんどみられず、わずかにびわ湖周辺及び菅山寺周辺に自生しているだけだといいます。
黒田のアカガシのように巨木で村里近くに自生しているのは稀少な樹木として学術的に高い価値があるといい、アカガシとしては県内最大級の巨樹だとされます。



太い幹はすぐに数本の枝に分かれ、上部に伸びる枝葉さらに枝分かれして、葉がこんもりと茂って樹勢も良さそうです。
山の斜面にあるためやや集落側に傾いていて、巨樹を支えるように根はしっかりと張っている。



下から見上げてみてもゴツゴツとした複数の枝が空に向かって伸びており、まさに神の依り代の樹といえます。
地域の方々が数百年、何世代にも亘って守り続けてきた信仰と環境保全の証の樹の出会えるのは幸せなことだと思います。



斜面の山側には根が盛り上がるように這い、アカガシを支えています。
この根の部分も間近に見ると異様なまでの迫力があります。





黒田のアカガシのある山は天正寺という曹洞宗寺院の裏山にありますが、すぐ近くには「観音の里 たかつきふるさとまつり」の御開帳寺院「大澤寺」があります。
同じ黒田地区には伝千手観音立を祀る「黒田観音寺」、いも観音の「安念寺」があり、観音の宝庫の村ともいえます。
2020年の「観音の里 たかつきふるさとまつり」は新型コロナのため中止になってしまいましたが、次回開催された時には再訪したい場所です。

追記
本屋さんの立ち寄った時、「長浜み~な」という雑誌に『「野神信仰」って何ですか?』長浜市と米原市の野神さんが特集されているのを偶然発見。
野神さんの分布や詳細が細かく書かれていて、湖北の野神さんを網羅しています。
併せて閉館中の琵琶湖文化館の至宝を特集している「湖国と文化」誌も購入。2冊とも実に興味深い。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする