僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~京都府宇治田原町 補陀洛山 禅定寺~

2019-03-31 18:53:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 日本茶の産地というと個人的には静岡茶と宇治茶が思い浮かびますが、日本茶の産地は実際は数多く、全国で20ヶ所以上の産地があるようです。
確かに山間の地へ行くと茶畑があるのを見受けることがあり、各地域の名前の付いたお茶を目にすることがあります。

国道307号線で宇治田原の辺りへ行くと山の斜面に広がる茶園が多くありますが、この宇治田原のお茶はもちろん宇治茶として出荷されるものです。
その宇治田原には3m近い巨大な「十一面観音菩薩像」を祀る「禅定寺」があり、一目その御姿を観たいと寺院へと参拝しました。



禅定寺は奈良東大寺の別当・平崇上人によって平安時代の中期に建立された華厳宗の寺院で、藤原摂関家の庇護を受けて発展していったといいます。
寺領は一千町歩を越える広大なもので、1071年に平等院の末寺となった後も繁栄していた寺院だったようです。



戦国時代には一時荒廃していたことがあったようですが、1680年に月舟宗胡によって曹洞宗の寺院として中興されたとされます。
従って藤原時代の仏像を数多く残しながらも、禅宗寺院として現在も残っているある意味で特殊な歴史を持った寺院といえるかもしれません。



「壱の門」への短い石段を登ると、すぐに「仁王門」が見えてきます。
仁王門は1719年の建立されたものとされ、江戸期の再興後の建物になります。



仁王門には阿吽の金剛力士像が祀られており、横には大草鞋が奉納されていました。
金剛力士像は江戸期のものとされていますので、仁王門が建立された頃に祀られた仏像なのでしょう。





入ってすぐの場所には「禅定寺五輪塔」がありますが、これは南北朝時代の1342年12月4日に作られたものと履歴が明確になっているようです。
仏像を除外すると寺院で最も古いものということになりそうですね。



境内にある堂宇は「本堂」「観音堂」「十八善神」の3つになり、特に本堂の重厚な茅葺き屋根が目をひきます。
外観だけ見ると古民家のようにも見える建築物です。



まずは「観音堂」へ参拝しますが、「園通閣」という扁額が掛けられた観音堂の内部は不思議な空間となっていました。
なぜかというと、「観音堂」と名の通り幾つかの仏像が安置されているにも関わらず、座禅道場にもなっているということです。



右の脇陣には地蔵菩薩坐像が居られ、何とも独特の表情をされています。
慈悲の表情というよりは少し怒っているような、あるいはちょっとヤンチャなお顔つきです。



左の脇陣には薬師如来坐像と大日如来坐像。
薬師さんには痛みがあったようで補修されていますが、この首のかしげ方には少し変わっていて、左下を見る姿勢をされています。
まるで床に伏した人の横に座り、救いに来られたような印象を受けるような姿に見えてきます。



正面に当たる場所には御本尊は写真だけで、数躰の仏像が安置されています。
これらの仏像は念持仏のようなものだったのか、廃寺になった寺院のものか、奉納されたものなどかは分かりませんが、集合体のように祀られていました。



横の壁にも仏像が幾つか置かれてありますが、違和感を感じるのは多くの観音像が祀られている前が座禅の席になっていることでしょう。
面壁座禅とは違って観音像を前にしての座禅となるのは、奈良仏教に始まって平安仏教の影響を受け、禅宗(曹洞宗)へと変遷した寺院の歴史が影響しているのかもしれません。



重厚な茅葺き屋根の「本堂」も江戸期の建築物で、平成18年に茅葺き屋根の修復が終わったようですが、要した年月は実に4年といいます。
これだけの厚みのある茅葺き屋根の修復には、やはりそれだけの年月が必要となってくるのでしょう。



堂内は特に特別なものはありませんが、この広い内陣で檀家の方が集まって法要などを営まれるのかと思います。
禅定寺の文化財的な仏像は全て「宝物殿」に保管されていますので、本堂は祈願や法要などの宗教的な場となっています。



本堂で興味深かったのはお釈迦様や観音菩薩を描かれた絵でした。
室内には独特の描き方の「馬頭観音」が掛けられてあり、建物の外にある外壁には「平成の大涅槃図」として巨大な壁画が描かれてありました。



「平成の大涅槃図」は、開創千年記念事業として構想二年・制作三年余の歳月を掛けて開眼法要が行われたもので、絵は「私の仏様」として十二歳の少女から八十五歳のお年寄りまで日本中から募集して描かれた涅槃図だそうです。
室内からですから全容は見えず、かなり色あせてはきていますが、完成当時の写真を見ると実に色鮮やかな大涅槃図でした。





本堂の縁側を進むと庭園が拡がり、縁側に設けられた「悟の窓」と「迷の窓」から覗くことができ、裏側に回っても庭園が拡がっています。
庭園は規模はそれほどではないものの、後部に広がる山を借景とした味わいのある庭です。



さて、禅定寺の凄さはやはり仏像の凄さに尽きるでしょう。
文化財指定されている仏像は宝物殿に納められていますが、実に素晴らしい仏像群です。

入館して左から「大威徳明王像(藤原期・像高60cm)」と「文殊菩薩騎獅像(藤原期・像高57cm・重文)」が並びます。大威徳明王はなぜか“牛ではなく象”に乗っていました。
その横には四天王のうち「増長天(藤原期・像高163cm・重文)」と「広目天(藤原期・像高158cm・重文」が迫力のある姿を見せてくれます。
右側には「延命地蔵菩薩半跏像(藤原期・像高88cm・重文)」が安置され、その横に残りの四天王である「持国天(藤原期・像高164cm・重文)」と「多聞天(藤原期・像高161cm・重文)」が並んで四方を守護しています。

あまりの素晴らしさに床に座り込んでずっと観ていたのは「十一面観音立像(藤原初期・重文)」でした。像高は何と286cmと大きな十一面観音像です。
金色の光背があることも威光を増しているのですが、力強くも美しい仏像は旧国宝であり、現在も国宝候補といわれている仏像です。



「日光菩薩(本尊とほぼ同時期・像高203cm・重文)」と「月光菩薩(同・像高208cm・重文)」も2mを越える大きな仏像で実に見応えのある御姿です。
日光・月光は薬師如来の脇侍、十一面観音像は毘沙門天坐像・不動明王坐像を脇侍とするのが一般的ですが、ここでは十一面観音の脇侍になっています。
これは日光・月光菩薩は舟禅師によって、光明山寺から移されたものとする説があることから、禅定寺では通常とは違った三尊になっているようです。



ところで、禅定寺には生花の心得のある方がおられるのでしょう。
あちこちに生けられた花が置かれて、彩鮮やかに寺院に季節の色を添えています。



最後は寺院の外から見る宇治田原の景観です。
柿の実はほとんど収穫しておられないのでしょう。熟れきった実がたくさんぶら下がっています。
柿の実を求めてヒヨドリがやってきて啄む姿が見られますので、いい施しになっているようです。



宇治田原は奈良・滋賀・大阪と隣接する地域になり、「南山城六山」と呼ばれる寺院があります。
また「十一面観音巡礼」がキャンペーンされるように仏教文化が花開く地域のようです。
“かくれ古寺”のようにひっそりとしているなかで、各寺院は見事な仏像を有している実に興味深い場所です。


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御朱印蒐集~京都府京田辺市 息長山 観音寺(大御堂)~

2019-03-28 05:39:39 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 寺院へ参拝した時、御本尊の厨子が開かれて本尊が姿を現す瞬間ほどドキドキすることはありません。
特別開帳の時に大勢の人の前で御開帳される時もそうですが、自分一人だけの場合は特に緊張感と共に何ともいえない感動があります。

今回の観音寺では一人だけでの御開帳となり、それはまるで“いとうせいこう&みうらじゅん”か“五木寛之”か“中村芝翫”かといったTV番組を思い浮かべる瞬間でもありました。
国宝・十一面観世音菩薩とのまさしく一期一会の出会いに感謝致します。



京都府南部の京田辺市や木津川市などの辺りは南山城地方とも呼ばれ、十一面観音の多い地域だといわれます。
滋賀県の湖北地方も観音の里と呼ばれるように十一面観音が多い地方ですが、南山城地域は奈良県と隣接し、旧街道に近いこともあり、天平・平安の仏教文化が根付いてきた地域のようです。



観音寺は天武天皇の勅願により法相宗の僧・義淵(西国札所・岡寺などの創建者)によって創建された親山寺(筒城寺)が始まりとされ、744年には東大寺初代別当・良弁僧正によって再興し、普賢教法寺としたとされます。
その後、度々の火災に遭いつつ、藤原氏の援助によって再興されるも1565年に再び焼失した後は堂宇一つを残すのみとなったようです。

石標は少し離れた場所に埋もれるように残されており、また鐘楼も少し御堂とは離れていうことから、かつての寺域は現在よりも遥かに広かったことが伺われます。
冬の寂しい田園の先に寺院がありますが、案内板がなければここでいいのか?と疑問が湧くような場所にある寺院でした。



本堂から少し離れた位置に鐘楼があり、駐車場の横には綺麗なトイレが設置されています。
帰り際にはタクシーで参拝に来られたご婦人がおられましたので、訪れられる仏像好きが多い寺院なのかと思います。



国宝の仏像が安置されている場所は一般的には宝物館などの施設になると思うのですが、この観音寺ではごく普通の堂宇に安置されています。
かつては五重塔などの堂宇が立ち並んでいたようですが、現在はこの観音堂と前方庭園を残すのみとなっています。



本堂までの石畳を歩いて本堂へと向かいますが、この観音堂は1953年に再建されたという比較的新しい御堂で、外観からでは国宝仏像が安置されているイメージが湧かない造りとなっています。
ここでまさかあの素晴らしい十一面観音像に出会えるとはこの時点では想像もつきません。





この地が奈良の仏教文化と深くつながっていると感じたのは大御堂に置かれた「東大寺・二月堂の修二会」のお水取りに使われる竹でした。
「二月堂竹送り」では周囲20cm・重さ100㌔の根付きの真竹を掘り起こし、観音寺で「竹寄進」の法要の後、二月堂まで運ぶそうです。





二月堂では籠松明として杉の葉やヘギ・杉の薄板で籠目状に仕上げられ、火の粉を散らしながら回廊を駆ける修二会のクライマックスの際に使われるようです。
この儀式は第二次大戦や風水害によって途絶えたものの、1978年に40年ぶりに復活したといいます。





まず受付となっている住職さんの家(庫裡)へ行って拝観したい旨伝えると“本堂の前でお待ちください、”とのこと。
しばらくすると私服から僧衣に着替えられた御住職が来られ“では本堂へお上がりください。”と案内される。

厨子はこの時、閉められていましたが、線香を焚かれてご焼香を済ませるといよいよ御開帳です。
須弥壇の前でたった一人に行われる御開帳の何と贅沢でもったいない時間よ。至福の時間です。





木心乾漆の十一面観音像は約173cmとほぼ等身大で一部補修はされているとのことでしたが、凹凸が際立ち体躯もよく、顔立ちや目線に力強い意志の強さを感じます。
南山城はかつて天平文化の影響が強く、興福寺の末寺が幾つかあってこのような素晴らしい仏像が残されているのでしょう。
しかし、奈良の都の衰退と共にそれぞれの寺院は無住化していってしまったそうです。

当初は奈良仏教の影響下にあった南山城の地域も、その後は真言仏教の影響を受けるようになり、観音寺も真言宗智山派の寺院となっています。
そんな経緯もあってか、脇陣には数躰の「薬師如来坐像」や「一二神将軍」「不動明王立像」が祀られており、密教の影響が見られます。



国宝指定の十一面観音像全7躰の一覧資料が置かれていましたが、実際に拝観した仏像もそうでない仏像も含めてそれぞれ魅力があります。
観音寺の十一面観音は、写真左にある聖林寺(奈良県桜井市)の十一面観音像と比較されることが多いようですが、同じ木心乾漆像である以外にもよく似た印象を受けますね。

見たことのないお経がありましたが、これは「般若絵心経」という漢字の読めない方にもお経を唱えることが出来るように作られた絵による経典だそうです。
細かく見ていくと分かりやすい絵(言葉)になっていますが、どういう意味なんだろうと悩ましいものもいくつかあります。



南山城は十一面観音像を祀る寺院が多く、また“かくれ古寺”のようにひっそりと佇む寺院や磨崖仏が多い地域のようです。
時間をかけてゆっくりと天平・藤原の文化に触れたい地域になります。


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御朱印蒐集~京都府京田辺市 霊瑞山 酬恩庵 一休寺~

2019-03-24 14:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 一休宗純は世に名前をよく知られ親しまれている禅僧ですが、それは禅僧としてというよりアニメ「一休さん」に描かれたような頓知(とんち)の小坊主の印象が強いですね。
安国寺で修行する一休さんが寺社奉行の蜷川 新右衛門とともに、将軍・足利義満や豪商・桔梗屋 利兵エを頓智でやり込める物語を覚えている方も多いかと思います。

アントニオ猪木が一休禅師の言葉として引用する座右の銘として有名になった、
  この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ
  危ぶめば道はなし
  踏み出せばその一足が道となり その一足が道となる
  迷わず行けよ 行けばわかるさ

いい言葉ではあるのですが、実は一休禅師の言葉ではなかったのは今回知ったことです。



通称・一休寺は鎌倉時代に臨済宗の大應国師が中国で禅を学んだ後、当地に禅道場(妙勝寺)を開いたのが始まりとされます。
その後、兵火によって復興ならずにいたものを一休宗純(六代法孫)が1455~6年に復興して、ここで後半生を送ったといいます。
「酬恩庵」は師恩にむくいるという意味で名付けられたようですが、現在では通称名の「一休寺」の方が有名となっています。



簡素な総門から入山することになりますが、塀は五本筋塀で堂宇のある側には堅牢な石垣が築かれていて、寺格を感じさせる造りとなっています。
一休寺は臨済宗大徳寺派の寺院ではあるものの、利休切腹の一因となった本山の三門とは随分と違いがあるようです。



入山すると左に手水舎、右に石垣、中心にはまっすぐに伸びる石畳の参道が続きます。
参道に植えられている樹はカエデでしょうか?一休寺は紅葉の名所だそうです。(「そうだ 京都、行こう。」キャンペーンで取り上げられている))



拝観の手続きを済ますと最初にある建物は「浴室(重要文化財)」となります。
1650年に加賀・前田利常(利家子息)によって建てられた重要文化財の建築物で内部は蒸し風呂になっているといいます。
手前の看板には東司・禅堂とならぶ三黙堂として静寂さを大切にする修行の場と案内されています。



浴室の右手には絵馬掛所が設けられており、アニメ一休さんのキャラクターのイラストもあります。
絵馬には「一善一年」の言葉が書かれ、屏風の虎を捕まえる一休さんの図柄が書かれてあるのが面白いですね。





浴室のある辺りで曲がると本堂までの苔むした参道が続いています。
右手には「宗純王廟」という一休禅師の墓所があり、1481年に当寺院で88歳で亡くなった一休禅師を祀っています。
門扉に菊花の章があるのは一休禅師が後小松天皇の落胤とされていて、墓所を宮内庁が御陵墓として管理していることにようものだそうです。





「庫裡(重要文化財)」は1650年加賀前田家によって建てられたもので、室内をつたって「方丈(重要文化財)」や方丈の三面にある方丈庭園へと周ることが出来ます。
庫裡へ入ってすぐのところには“虎を捕まえますから追い出してください”の頓智話を連想させる虎の絵の屏風があり、顔出しパネルを使っての撮影ポイントになっています。





見事な方丈の庭園を一回りした後、「本堂(法堂)」へと向かいます。
「本堂(重要文化財)」は1429~1441年に六代目室町将軍・足利義教公により建立された建築物とされ、本尊・釈迦如来坐像と文殊普賢菩薩像が安置されていますが、内部が暗いためその姿は確認出来ませんでした。



本堂横にある「宝物殿」を観てから、向かう先は「開山堂」で「妙勝寺(創建時の寺名)」を開山した大應国師を祀っています。
大正時代に改築されているようですが、様式は古式を充分に伝えるものではないでしょうか。



開山堂の奥には放生池があり、何ヶ所かに一休禅師の像が祀られてありました。
晩年の一休禅師の像には“頓知の一休さん”のイメージが濃い当方には違和感がありますが、宝物館に展示されていた頂相とはよく似ており、忠実に再現されているのかと思います。



むしろ若い姿の“一休さん”の方に親しみが湧きますが、この一休さんの銅像は聡明な一休さんにあやかろうとしてか頭の部分が撫でられてテカテカに光っていますね。
池に掛けられた小さな橋の横には“このはし わたるべからず”の頓智話が投げかけられていますが、なかには真に受ける人もいるかも?





奇妙で面白いのは寺院の山手にある「二十世紀の森」ではないでしょうか。
“一休酬恩会 1999”の看板がありましたが、数十体の珍妙な石仏が道沿いに置かれてあります。



羅漢像になるのだと思いますが、どれも不思議な像となっています。
共通するのは愛嬌があってどの像も笑みを浮かべていることで、実に洒落っ気のある石像たちでした。







ところで、寺院の出口近くには「三本杉」という一休禅師御手植の杉の名残りが残っています。
かつての三本杉は一休禅師・蜷川 新右衛門・蓮如上人が1本づつ植えたとの逸話も残ります。

樹齢500年の三本杉は1961年の第二室戸台風で倒れてしまい、今の杉は1965年に植え直した杉だといいます。
史実に基づく話がどうかは分かりませんが、蓮如上人と一休禅師の交流に関する話は幾つかあり、既存の宗教観にとらわれない逸話が残されているようです。



一休禅師の遺した言葉の一つに下のものがあります。
“南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ”

日常に当てはめ直すと実にうんちくのある言葉です。
アニメの一休さんじゃありませんが、“はーい。慌てない慌てない。一休み一休み…”といったところですね。


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「表現する日々-アールブリュット展-」~湖南市 甲西文化ホール

2019-03-20 17:07:07 | アート・ライブ・読書
 「アールブリュット」は専門的な美術の教育を受けていない人たちが自発的に生み出した「生の芸術」を意味しますが、一般的には障がい者の造った芸術作品として認知されていると思います。
その一つには英語でいうアウトサイダー・アートが集団・組織の外部の人のような受け取られ方をされたこともあるようです。
それはさて置くとしても、日本でアールブリュットというジャンルが確立されてきていることに対して批判的になる必要はないでしょうし、むしろアート作品に触れる機会が多いことは歓迎すべきことなのかもしれません。

滋賀県は障がい者福祉に熱心に取り組んでおられる県ですので、各地域で定期的にアールブリュット展が開催されます。
滋賀県の湖南市では「表現する日々-アールブリュット展-」と題して、「甲西文化ホール」と「レストラン潮」の2会場で同時開催されました。



レストラン潮の会場へは立ち寄れなかったものの、甲西文化ホールでは7人の作家の約90点の作品が展示されており、それぞれの作家の個性豊かな作品を見ることが出来ました。
到着した時には展示スペースにはまだ誰も来ておられない状態でしたが、そのうちに一人二人と来場して来られ、どの方も一人でじっと作品をご覧になっておられたのが印象に残ります。



企画・製作は、湖南市の「特別非営利法人はれたりくもったり」で、近江学園と3つの社会福祉団体の協力の元に開催されています。(グローバンバン・信楽青年寮・やまなみ工房)
案内文には“彼らには製作に対しそれぞれ独自の必然性がその日常にあります。”との言葉が添えられてありました。



比嘉野歩治さんの作品は色鉛筆で描かれた絵が2枚展示されており、タイトルは両方共「女の人」となっています。
少年の頃から絵を描くのが好きだった比嘉さんは、2007年に現在通っているアトリエへ通うようになってから女性の写真を見て絵を描くようになったといいます。
色鉛筆を濃く塗り込んで作品を造られるそうですが、その絵はデフォルメされて力感に溢れている。



岡元俊雄さんは墨汁を使って絵を描かれ、描く時には寝転がり肩肘付いて割り箸に墨をつけて描かれるといいます。
また、絵は墨汁のみではなく、墨汁で描いた絵に絵の具を塗って描いた作品もありました。
タイトルは奇しくも比嘉さんの絵と同じ「女の人」ですが、比嘉さんの絵と岡元さんの絵が並ぶ様は壮観なものがあります。
(ポスターの絵は「レストラン潮」に展示されているようです)



小幡正雄さんは集めたダンボールに色鉛筆で多様な主題で描かれる作家さんです。
施設では作業に従事したあとは作品造りに没頭し、部屋には作品が積み上げられていたといいます。

赤鉛筆を好んで使われるそうですが、素材がダンボールということもあって薄オレンジのような、薄茶色のような色調の作品が多かったように思います。
主題に結婚式や家族を取り上げておられるものが多かったのですが。その絵が土偶のようにも見えてきてプリミティブな印象を受けます。



村田 清司は最初は施設で和紙を漉いていたそうですが、その後に絵を描くようになり、田島 征三さんと共著で3冊の絵本を出版されているそうです。
クレヨンとマーカーで描かれた絵からはほのぼのとした優しさが伝わってきますが、障がいや病がありながらもこんな優しいタッチの絵を描き続けておられるそうです。



油性マーカーで一気に描き上げたような作品を造られているのは木村茜さん。
赤のマーカーで描かれた「自転車」「お線香花火」「うちわ」「注射」の4枚の作品は、青のマーカーで描いても絵には同じ形があります。
湖南市のふるさと納税では湖南市に寄付すれば木村茜さんの「うちは」か「注射ガンバロウネ」の絵が返納されるそうです。



造形作品は大江正章さんと西川智之さんの作品が展示されている。
西川さんの作品は6作品中の3作品が「うさぎのリンゴ」と題が付いています。
うさぎのリンゴは無数のうさぎが積み上がってリンゴを形作っていますが、この作品は下から見上げるようにして見た方が面白いですね。



アールブリュット作品からは、それぞれの作家の心の中にある光景がストレートな形で表現されて、見る方の心理に迫ってくる強いものを感じます。
当然、人工物でありながらも自然的なもの、あるいは根源的なものを感じる作品群という言い方も出来るのではないかとも思っています。


<追記>
“滋賀県にはあちこちにアールブリュット作品がある”と実感したのは、立ち寄った先にあった小さなアールブリュット作品コーナーでした。
そこに展示されているとは露知らずでしたが、甲西文化ホールでも紹介されていた小幡正雄さんの作品が4点。
タイトルは「無題」ですが、お父さんとお母さんと子供・花・船・お父さんとお母さんが描かれています。



同じく、大江正章さんの陶芸作品で「きりん」「うま」「ねこ」「かえる」の愛嬌のある作品が4点。
猫が一番大きく造られていて、招き猫のポーズをとっていますね。



思いもかけない場所にまでアールブリュット作品が溶け込んでいるのは面白い現象です。
造る人・支援する人・受け入れてくれる人がうまく機能していることで、街を歩く我々に普通の景色としてアート作品を見せていただけます。


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御朱印蒐集~京都市左京区 東山 慈照寺(銀閣寺)

2019-03-17 13:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 応仁の乱が起こらなかったら京都には膨大な数の国宝や重要文化財が残されていたのではないか?と思うことがあります。
それは京都の寺院へ参拝するたびに“応仁の乱により灰塵に帰し”という言葉を何度も聞くからなのでしょう。

応仁の乱のトリガーの一人に足利義政がいますが、義政は政治よりも黄鯛の数寄者として名を馳せた将軍だといわれ、「東山文化」を築いて銀閣寺こと慈眼寺を建立し“わび・さび”の文化を発展させた方とされます。
もしかすると義政が政治的に無能だった訳ではなく、もはや将軍一人の力では武将を抑えきれない時代になっていたのかもしれませんけどね。

 

慈眼寺(銀閣寺)は臨済宗相国寺門派の塔頭寺院で、1490年に義政によって造営され、夢窓疎石によって開山されたといいます。
よく足利義満が建立した金閣寺と並び称されることがあり、金箔を貼った金閣寺のように銀閣寺には銀箔を貼っていたと思いがちですが、銀箔は貼ってなかったという調査結果があるそうです。
極端にいうと秀吉と利休のような違いともいえなくはありませんね。



総門までの石畳は雰囲気のある参道となっており、総門も質素な造りの門となっています。
人の姿が少ないのは駐車場に停まっていた大型バス2台が発車時間になっていたから。
ただし境内にはそれなりに人は多かったですけど、京都の有名寺院にしたら少ない方でした。



総門を抜けると銀閣寺垣という大刈込の通りになります。
高さがあるだけに迫力がありますが、葉刈りはさぞや大変なことでしょう。



中門から境内に入ってすぐに目に入ってくるのは「向月台」という大きな盛砂になるでしょうか。
高さが180cmもあるということですが、かつては向月台の上に座って東山にある月待山から昇る月を眺めるためのものだったといいます。



本堂の前に広がる砂の庭は「銀沙灘」という白砂を66cmの高さに盛り上げて造られているそうです。
砂を使った枯山水の庭園を観る機会は多いですが、ここ銀閣寺の向月台と銀沙灘は規模といい、独特の世界観といい、他には類を見ない庭園になっています。
ただし、この数奇な盛砂は義政の時代にこの形になったのではなく、江戸後期になってからということですので、当時の嗜好とは少し違っているようです。



花頭窓から銀沙灘と月待山の借景へと続く庭を覗いてみます。
禅宗の寺院によく見られる花頭窓は鎌倉時代に中国から伝来したものとされ、神社や城郭にも使われるようになったといいますが、やはり禅宗の寺院のイメージが強いのではないでしょうか。



銀閣寺といえば、錦鏡池をはさんで対岸に見える「銀閣(観音殿)」の印象が強いですが、「本堂(方丈)」は別に存在します。
建物は江戸時代初期の再建だとされており、内部には本尊・釈迦牟尼仏を安置し、池大雅・与謝蕪村の襖絵があるといます。
この位置から本堂を見ると、正面に向月台と銀沙灘が観想することができるようです。





「本堂」と「東求堂」の間には珍しい形をした「銀閣寺形手水鉢」があり、四角い形の鉢に格子文様が彫り出されています。
上部にある水溜めは円形の形をしており、数寄者好みの手水鉢となっていました。



国宝に指定されている「東求堂」は1486年の建立で、檜皮葺きの現存する最古の書院造りとされます。
仏間には阿弥陀如来を安置し、「同仁斎」と呼ばれる四畳半の間は茶室の始まりとも言われているそうですが、内部は特別拝観時にしか観られないようです。



庭園の奥の方には「洗月泉」と呼ばれる小さな滝がありました。
細く落ちてくる滝の下の池は澄んで水面は安定しており、映し出された月を眺めるのでしょうか。
池には大量の硬貨が投げ入れられといて、アルミと銅の色合いに不思議な美しさがありましたね。



さらに山側には「お茶の井」という義政公お茶用の湧水があります。
この庭園の石組は昭和6年に発掘されたものといい、西芳寺(苔寺)の竜淵水石垣を模範に造られたとされます。
この「お茶の井」の水は現在もお茶会等の飲料水に使用されていると書かれてあります。



定番すぎるほど定番なのが錦鏡池の向こうに見える銀閣(観音殿)の風景でしょうか。
国宝に指定されている銀閣は当地に義政が造営した東山山荘が始まりでしたが、義政は銀閣寺の完成を待たずにこの世を去ったとされています。





銀閣の閣上には鳳凰が置かれ、銀閣に祀られている観音菩薩を守護しています。
銀閣は横や後ろからなら近くで見ることが出来ますが、錦鏡池越しに見るのがやはりベストになります。



さて、少し離れた山の斜面には「被爆アオギリ里子運動-アオギリの願い-」として、広島の原爆投下で大火傷しながらも生き続けたアオギリの木の子孫が里子にきて植林されています。
赤いコーンが吊るされて目印となっており、核兵器廃絶と生きることの命を大切に...と平和を訴えるアオギリの願いを伝えています。



銀閣寺の高台から見る銀閣寺の境内と、遠く見えるのは北白川の町並みでしょうか。
京都の寺院から見える市内の様子は、盆地ゆえにいろいろな方向から見ることができるのも京都の寺院巡りの楽しみの一つですね。



寺院を出た後は琵琶湖疎水沿いの哲学の道を少し歩いてみました。
春には桜の小道となるようですが、殺風景な冬の小道で思案に暮れてみる。




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御朱印蒐集~京都市山科区 亀甲山 勧修寺・仏光院~

2019-03-14 05:32:12 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都山科の「勧修寺」は真言宗山階派の大本山の一つに数えられ、皇室との関係の深い門跡寺院になります。
真言宗は大きくは古義真言宗と新義真言宗に分けられるといい、古義真言宗の本山として有名なのは金剛峯寺・東寺・醍醐寺・仁和寺・泉湧寺・中山寺、新義真言宗の本山には智積院や長谷寺などがあるようです。

真言宗には十八本山と呼ばれるように各宗派があるようですが、これは宗派が幾つかに分かれている臨済宗や浄土真宗よりも多い。
教義の違いや経緯については分かりませんが、その時代ごとの歴史の影響もあるのかもしれません。

 

勧修寺は桜や蓮の名所だともいいますが、花の季節でなかったこともあり、訪れる人は疎らです。
京都の中心部にある寺院は異常なまでに人が多いのですが、山科まで来ると人は少なくゆっくりと散策できます。



勧修寺は900年、醍醐天皇が生母である藤原胤子の追善のために勧修寺を創建し、法相宗の僧・承俊によって開山されたとされます。
代々の法親王が入寺する門跡寺院として栄えたものの、1470年に応仁の乱の兵火により焼失。
その後、皇室と徳川家(家綱・綱吉など)の援助によって再興したとされます。



山門までの道には白壁の築地塀がありますが、道路が舗装されていなかったら時代劇の舞台だなぁなどと思いながら歩く。
門跡寺院なのに4本筋塀なのを不思議に思いますが、これは御所に対しての配慮のようですね。



山門で受付を済ませて中門を抜けると宸殿・書院・観音堂・本堂などの堂宇と「修寺氷池園」という庭園が見えてきます。
広々とした境内には2~3組の参拝者しかおられず、入山とともに鳴り始めた案内放送を聞きながらゆっくりと歩き出す。



芝生の向こうの建物は「宸殿」で、明正天皇(江戸時代初期)の旧殿(1676年造営)を下賜され、明治の初期には小学校の校舎として使用されていたこともあったとか。
「書院(重要文化財)」は1686年後西天皇の旧殿を下賜されたもの、「本堂」は1672年に霊元天皇の仮内侍所を下賜されたものということで皇室ゆかりの堂宇が並びます。
ただし、どの堂宇も中には入れず外から観るだけになり、本堂は台風の被害なのか屋根にブルーシートが被っていました。



「勧修寺氷池園」は氷室の池を中心とした池泉庭園となっています。
よく整備されて整った庭園というよりも、自然な状態にまかせたままの庭園といった感じでしょうか。



池の周囲を取り巻くように「西国三十三所巡礼」寺院の御本尊の石仏が祀られていて、一回りすれば西国観音巡礼が出来るようになっています。
また、境内の山側にある修行大師の像の周囲には「四国八十八ヶ所霊場」の霊石踏みもあって簡易的な巡礼が出来ます。



池の横の森にそびえ立つのは「千年杉」という老木。
案内板には“勧修寺は京都一水鳥の多い寺と言われている。夕方になると琵琶湖から帰ってくる水鳥のお宿になる。とありました。
水鳥といってもおそらく鷺のことを言っているのでしょうけど、以前はサギのコロニーになっていたのかもしれませんね。



「観音堂」は昭和6年の再建で「大斐閣」とも呼ばれる御堂です。
中には観音立像が安置されていますが、昭和初期の仏像なのでしょうか。少し違和感を感じる仏像です。





書院の前庭に庭園があり、ここには樹齢750年ともいわれるハイビャクシンが枝を拡げています。
根に近い部分は幹が幾十にも重なりあった独特の姿をしています。





このハイビャクシンの緑に埋もれるように「勧修寺型灯篭」と呼ばれる水戸黄門(光圀)が寄進した灯篭がユニークな姿で立っています。
しばらく前庭を歩いていたら、植え込みの中からジョウビタキの雄が可愛い姿を現したりして心が和みます。



ところで、勧修寺の御朱印はすぐ近くにある「仏光院」で頂くことになりますが、仏光院には壮絶な話があります。
仏光院は、昭和21年に勧修寺の境内に身体障害者の収容厚生施設を創立された大石順教尼が、昭和26年に勧修寺の塔頭があった場所に再建建立された寺院といいます。

順教尼は元は大阪堀江の芸妓でしたが、明治38年に養父・万次郎が起こした「堀江六人斬り事件」の巻き添えで若干17才で両腕を切り落とされてしまったそうです。
その後、紆余曲折ありつつも数々の苦難をのり超え、出家・得度して六人斬り犠牲者の追善と身体障害者の救済に人生を捧げられたといいます。
順教尼は身体障がい者から心の母と慕われていましたが、昭和43年に81歳で生涯を閉じられています。



また、順教尼は両手がないままに口に筆を咥えて書画を描きいて日展に入選、日本人として東洋で最初の世界身体障害者芸術家協会の会員に選ばれたといいます。
猟奇事件の被害者として両手のない自身を見世物として巡業生活(と書かれることがある)、出産と離婚といった壮絶な半生を過ごしながらも、慈母観音と慕われ身体障害者に尽くした順教尼の言葉があります。

「何事も成せばなるてふ言の葉を胸にきざみて 生きて来しわれ(順教尼)」


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御朱印蒐集~京都市山科区 華頂山 元慶寺~

2019-03-11 06:05:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 西国三十三所観音巡礼の番外札所は3寺あり、それぞれ西国観音巡礼の創始者・徳道上人、復活発展させた花山法皇ゆかりの寺院となっています。
奈良県桜井市の発起院は徳道上人が開き晩年を隠棲した寺院で、兵庫県三田市の花山院(菩提寺)は花山法皇が晩年を過ごした寺院で、両方とも御廟があります。

今回訪れた元慶寺は花山天皇が19歳の時に出家して花山法皇となった寺院とされ、番外札所として信仰を集めています。
寺院としての規模は小さいながらも西国巡礼の番外札所として参拝に来られる方も多いようです。



元慶寺は六歌仙の一人として知られる遍昭僧正(他には在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大伴黒主)が868年に建立し、877年には清和天皇の勅願寺となり元慶寺と改めたとされます。
寺格も高く多くの寺領で栄えたようですが、応仁の乱で灰塵に帰し、1789年から4年をかけて再興されたようです。



竜宮門の造りとなっている「鐘楼門」も江戸時代の再興建築物の一つで、住宅地の細い道路に面して建てられています。
この鐘楼門には平安時代作の「梵天」と「帝釈天」の等身大の立像が安置されていたようですが、2躰は京都国立博物館に出陣中ということで写真のみが掛けられていました。



数多くの千社札が貼られた鐘楼門の向こうに境内が見えますが、奥にある庫裡までが境内となっています。
よく寺院に千社札が貼られていることを見ますが、千社札からは確かに寺院の活気のようなものを感じますが、建築物を痛めることにはならないのでしょうか。



「本堂」はこじんまりとした造りになっており、まずは線香を焚いてお参り致します。
早朝でしたのでまだ誰も線香をあげておられなかったため、最初の1本になったのは何となく気持ちが良い。





元慶寺の御本尊は薬師瑠璃光如来が祀られ、扉には菊花紋が付けられていますので皇室ゆかりの寺院であることが分かります。
軒の内側にも千社札がたくさん貼られており、毎度ながらどうやってあんな高い所に貼れたのか不思議になります。



さほど広くはない境内に幾つか石碑があり、獅子のような石像の上の碑は「元慶寺再興碑」とされ、寛政元年(1789年)に元慶寺再興第二世釈亮雄という方が元慶寺の歴史と想いを彫られたもののようです。
もう一つの石碑には梵字でしょうか、記号のようなものが彫られています。他には遍照僧正(開山:歌人)の歌碑と素性法師(歌人)の歌碑がありました。





寺院の案内板によると、“花山天皇は986年、外孫・懐仁親王の皇太子即位を画策する右大臣・藤原兼家と道兼親子の策謀により、在位2年で退位・出家されることになった”とあります。
しかし、花山法皇となったことによって西国三十三所観音霊場巡りを復興することになったのは、花山法皇が生まれ持った定めだったということなのかもしれません。


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御朱印蒐集~和歌山市 紀三井山 金剛宝寺護国院(紀三井寺)~

2019-03-08 05:50:05 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「紀三井寺」の正式な寺名は「金剛宝寺護国院」ですが、「護国院」と言われてピンとくる人はおそらく少なく一般的には紀三井寺で知られる有名寺院だと思います。
紀三井寺は西国三十三所巡礼の第2番札所にあたる寺院で、救世観音宗の総本山となる寺院です。

西国巡礼寺院であることや和歌山の有名寺院ということもあって、観音巡礼の熱気のある寺院のイメージを想像していましたが、どちらかというと弔いの寺院・供養の寺院といった印象を強く受けました。
そこには紀州徳川家とのつながりが深かったことや、宗派名(救世観音宗)から受ける印象も影響しているのかと思います。

 

寺院は770年、唐僧・為光上人によって開基されたと伝承されています。
上人が諸国を巡る行脚の途中に、名草山山頂あたりに霊光を観じられて翌日登山され、そこに千手観音様の尊像をご感得したとされます。



その後、歴代天皇の御幸があり、また後白河法皇が当山を勅願所と定められたこともあり、鎌倉時代には500人を越える僧呂が止住したといいます。
また、江戸時代に入ると紀州徳川家歴代藩主が頻繁に来山され、「紀州祈祷大道場」として尊崇されたともされます。



山門は室町時代の1509年に建立され金剛力士像を祀っていますが、現在の建物は重要文化財の指定はあるものの、かなり改修されているように見えます。
金剛力士像は室町期のものなのかと思いますが、どちらかというとスリムで鎌倉期にあるような筋肉隆々でデフォルメされた仁王様ではありません。

山門を抜けると“ざんげ(懺悔)と招福の水場”があり、まず身を清めます。
寺院全体でも石像や石碑が多く、奉納する方や寺院で新たに造られたものが多くあるようですね。



紀三井寺本堂へは合計231段の石段を登ることになりますが、石段は女厄33段・男厄42段・還暦厄60段などそれぞれの石段に厄の名前が付けられています。
幅の狭い急な石段ですので登りにくいことこの上ないとはいえ、登ることで厄除けの御利益があるとのことでゆっくりと登っていく。

この石段は「結縁坂」と呼ばれており、若き日の紀の国屋文左衛門の逸話が残されているようです。
母を背負ってこの坂を登って観音様にお参りしていた文左衛門でしたが、ある日途中で草履の鼻緒が切れて困っているところに玉津島神社の宮司の娘が通りかかり、鼻緒をすげ替えたのをきっかけに二人は結ばれたそうです。
文左衛門は宮司の出資金によるみかん船で大儲けしたそうですから、出会いの妙ということなのでしょう。



「紀三井寺」には3つの霊泉(清浄水・楊柳水・吉祥水)が湧くことから、紀州の三井水の意味で名前の由来となっているといいます。
最初にある井戸は「清浄水」といい、不動明王が祀られてる上から霊泉が落ちてきています。



清浄水の近くから道を外れて山道を少し進んだ先にあるのは「楊柳水」になりますが、こちらは井戸にカバーが掛けられて石仏が安置されているのみです。





石段に戻ると、途中に「波切り不動」や「見返し大師」の堂宇があります。
見返し大師で御朱印(上の2枚目)を頂き、丁寧な対応をしていただいた後、再び残りの石段を登ります。





還暦にはまだ年数があるけれど還暦厄の60段の石段を登りきると、そこからは平坦な境内地となります。
まず鐘楼が目に入りますが、この鐘楼は1588年建立の重要文化財だそうです。
修復されて朱色が塗られていると年月を感じさせない姿になりますね。



本堂は1779年建立とされており、六角堂・大師堂・放生池の先に建てられています。
紀三井寺は桜の名所と聞いていますが、確かに桜の木が非常に多い寺院でした。





本堂のすぐ前にはソメイヨシノの標準木があり、この桜は和歌山地方気象台気象観測用になっていることから、近畿地方に春の到来を告げる開花宣言の基準となる桜木になっているそうです。
現物を見たので春の開花宣言の時にこの桜の木を思い起こすことができそうですね。



外陣は多くの奉納額が掛けられて西国巡礼寺院特有の佇まいが感じられます。
御堂の正面に懸仏が掛けられているのも実に魅力的です。





内陣へは入れませんでしたので地下にある霊宝殿へ入ってから本堂を後にします。
さらに本堂の上層エリアにある境内には多宝塔があるため上へと登ってみました。

多宝塔は1449年の建立で1441年に倒壊した塔に替って再建されたとされ、重要文化財に指定されています。
紀三井寺の重要文化財の堂宇はよく整備がされているので古さを感じない外観になっています。



ところで、紀三井寺では新仏殿が建てられ、内部に日本最大の観音である「大千手十一面観音像」が安置されています。
この仏殿は遠くからもよく見える背の高い堂ですが、それもそのはずで内部には高さ12mの仏像が安置されているのです。

仏像は2008年に現代の仏師・松本明慶によって造られた仏像だといいます。
まだ落慶してから10年ほどの仏像ですので、これから時代を刻んでいく仏像なのでしょう。





さて、ここまで3つの霊泉のうち2つは確認出来ましたが、あと一つの吉祥水が見つかりません。
改めて地図を確認してみると、どうやら紀三井寺には裏門があり、そちらに「吉祥水」があるようです。

まず山門を出て裏門まで歩いていき、裏門におられた方に聞いてみると、さらに300mほど先に井戸はあるようです。
裏門は駐車場はあるものの、人の往来が少ないのか何とか門が残されているといった状態です。



住宅地を歩いていくと目印だと教えてもらった地蔵さんの祠があり、そこから民家のすぐ横を通る石段を登っていきます。
石段を登りきると不動明王を祀った「吉祥水」がありました。
山につながる湿気の多そうな場所に湧く霊泉ですが、手入れはよくされています。



最後に楽しみにしていたのは和歌の浦の風景でした。
残念ながら曇り空で景観はいまいちでしたが、片男波公園には興味を惹かれました。

片男波公園は、和歌浦湾に注ぐ和歌川の河口部に沿うようにできた延長千数百メートルにも及ぶ狭長の砂州半島だそうで、天橋立を連想させる景観です。
天気がいい日は淡路島が見えるようですが、曇り空では海の向こうは霞んでしまって見えないですね。



それではとばかりに和歌山城を探してみたが、裸眼では見えない。
あたりをつけて望遠で見ると...ありました。
1957年の再建とはいえ、徳川御三家の紀伊徳川家の居城になります。



まだまだ満願には遠い西国三十三所巡礼ですが、これで和歌山エリアは終了です。
2019年中には満願して、もう一度「谷汲山 華厳寺」へ参れそうな気配となってきました。合掌。


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御朱印蒐集~和歌山県紀の川市 粉河産𡈽神社(粉河寺)~

2019-03-05 06:16:06 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 西国三十三所3番札所の粉河寺の境内には、粉河寺の鎮守社である「粉河産𡈽神社」が祀られています。
粉河産𡈽神社は粉河寺の本堂の横後方に、風猛山を背にして本殿を構える神社です。

創建は770年の粉河寺が創始された時に、鎌垣庄内各村の氏神を勧請して祀ったのが始まりとされ、現在は粉川郷の総社(総鎮守)となっているようです。
神社には末社が14社あり、稲荷・白山・護国・吉野・熊野など馴染みのある社もありますが、なかには「一言」・「楠」など聞きなれない社も含まれています。



神社の名前の『𡈽』(土に点)の文字が不思議でしたので宮司の方に聞いてみると、𡈽は『つち』とは読まず『すな』と読むということでした。
おっしゃっていた内容は「かつては“出産”は“穢”につながると考えられていたため、出産の時には家とは別に産屋を建てて砂を引き、そこに敷布を敷いて産んでいた」といいます。
このことが『産𡈽(うますな』の由来になっているとのことでした。



こういった話は初めて聞きましたが、苗字で聞くことのある土橋(つちはし)、𡈽橋(どばし、点は省略)は、かつては「土」「𡈽」と別々の字が当てはめられていたそうですが、現在は同じ『土』の字を使って読みだけが違うようになったとも聞きました。
御祭神は「天忍穂耳命」と「丹生津比賣命」で、一般的には農耕神である天忍穂耳命と「丹(水銀)」を連想させる丹生津比賣命となっています。



参拝した日は12月の後半でしたので、本殿には“初詣”ののぼりと“戌”の大絵馬が準備されており、本殿の前には“猪”の大絵馬が置かれてありました。
この絵馬は、翌日以降は布を掛けられて大晦日まで祈祷され元旦に本殿に祀られるとのことで、“写真撮るなら今だけしか撮れないよ。”とおっしゃっていました。



本殿の横には“孔雀のピーちゃん”という綺麗な孔雀が飼われており、宮司さんの話だと“この子は滋賀県の三井寺の孔雀の孫かその血統になるんだよ。”ということで、にわかに親近感が湧いてきます。
話している時には見やすい位置にいたものの、興味を持って撮ろうとした時には食事中とタイミングが悪かった。



お参りしたあと来た道を戻ることになりますが、途中には伏見稲荷大社のような鳥居の参道もあります。
ここにも“初詣”ののぼりがあがっていましたので、正月の準備中といったところで、大晦日から正月にかけては大いににぎわうのでしょうね。



粉河寺の境内には巨木「踞木地のクスノキ」が堂々たる姿を見せてくれます。
横にみえる石碑には「踞木地」の文字が彫られており、石碑は粉河寺の開祖・大伴孔子古が踞(うずくま)って下を通る鹿を狙ったという故事に因んだものだそうです。
この楠の幹に手を当ててみると、冬にも関わらず暖かい感触があり、樹は生き物であると感じ入ります。





粉河寺は「粉河観音宗」の総本山で、「粉河産𡈽神社」を鎮守社としていますが、境内には天台宗系の「十禅律院」があります。
十禅律院は平安時代の990年の創建された塔頭寺院だったようですが、江戸時代後期の1800年に紀州藩10代藩主徳川治宝によって天台宗に改宗されたそうです。



西国三十三観音を安置するといわれる「六角堂」は1720年建立(1995年解体修理)の建築物で、ひっそりとした佇まいの堂宇でした。



粉河産𡈽神社の末社の一つである「大神社」は粉河寺の大門近くにあり、御神木として楠を祀っています。
楠は樹齢千年余り、胴回り15m・高さ25mといわれ、同じく粉河寺にある「踞木地のクスノキ」とならび見事な霊木となっています。





大門を背に駐車場へと向かうと朱色の大門橋の先にかつての門前町が見えます。
季節にもよるのでしょうけど、閉まっているお店も多くひっそりとしています。
開いているお店にはミカンがザルに盛られて売られていたけど、時期的に人通りはなく寂しい感じがしましたね。




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五箇荘近江商人屋敷~雛匠 東之湖『近江上布雛展』~

2019-03-02 17:18:33 | アート・ライブ・読書
 滋賀県では「びわ湖のひな人形めぐり」と題して、8つの市町観光協会の共催で“ひな人形展”が開催されています。
開催地は“東近江市(五箇荘)・近江八幡市・日野町”などの近江商人屋敷に展示されているもの、“竜王町愛荘町・坂本や石山の大津市の寺院や観光施設での展示”など各地域に渡っての開催となります。

毛色の違ったものとしては“彦根藩井伊家に伝わる雛道具”や“長浜市のガラスのお雛様展”ということになりますが、今回訪れた東近江市の五箇荘近江商人屋敷では雛匠「 東之湖」さんの雛人形展が開催されています。
現在、滋賀県在住の東之湖(とうこ)さんは、ひな人形作りの全行程を一人で行う人形作家で、びわ湖を始めとする滋賀の風景や近江八景をテーマとして作品を作られている方です。



五箇荘は繖山・和田山・箕作山に周囲を囲まれた田園地帯で、聖徳太子に縁のある寺院が多い地域です。
近くには西国三十三所札所の観音正寺や石馬寺などがあり、集落内(金堂)にも聖徳太子創建伝説のある寺院が残るといいます。



五箇荘は幕末から明治~昭和戦前にかけて近江商人を輩出したとされますが、最初は農閑期に天秤棒を担いでの産物廻しから始めて、現在も続く大企業の系譜を作ったのですから並み外れた商才と努力と言う他ありません。
「外村繁邸」は、東京日本橋と高田馬場に呉服木綿屋を開き活躍した家で、繁は昭和初期の小説家として名を馳せた方のようです。



縁側から望む庭には雛人形が飾られてあり、“お雛さまの園遊会”と名付けられています。
もちろん室内にも数多くの雛人形が飾られてありますが、かつての豪商の家に伝わる雛人形ですからレトロ感もあって見事な人形たちでした。(18組の雛人形が展示)



「外村宇兵衛邸」は外村繁家の本家筋にあたり、呉服類の販売で商圏を広げ、全国長者番付に名を連ねるほどの豪商だったといいます。
現在の御幸毛織(ミユキ)を株式会社化して高級紳士服メーカーの礎を築いた方ともされています。



外村宇兵衛邸で目を引くのは「御殿飾り」の雛人形でしょうか。
御殿を京の御所に見立てて飾られていますが、現代の人は段飾り雛に目が慣れてしまっていますから、こういう雛飾りには違和感と魅力を感じてしまいます。



御殿飾りは明治・大正・から戦後にかけて流行したものだそうですが、主に西日本で人気があったようです。
江戸では段飾りが発展し、関西では御殿飾りが発展したようですから、やはり関西人の根底には京都文化への愛着があったのでしょうね。



この御殿飾りは宮中の嫁入りを表現しているといい、六人官女は宴の料理を運んでいうのだとか。
確かに官女はみな華やかな宴に相応しい表情をしていますね。



余談ですが、外村宇兵衛邸ではお内裏様とお雛様のコスプレで写真撮影できるようになっていましたので、お内裏様の衣装で写真撮影をさせていただきました。
観光さんに見られるので多少恥ずかったのですが、“高貴な姿で気品に溢れてますね。”と自分で言うお内裏さんでした。

さて、いよいよ東之湖さんの雛人形が展示されている中津準五郎邸へと向かいます。
中津準五郎は朝鮮半島に百貨店を開業して、「百貨店王」の名を欲しいままにした方でしたが、終戦とともに資産の大半が海外だったために閉店の憂き目にあわれたといいます。



東之湖さんの作品は滋賀県で鎌倉時代から発展した麻織物の近江上布を使って、ひな人形製作の全ての工程を一人で行っておられるそうです。
「清湖雛(せいこびな)物語」は2004年から五箇荘の雛人形めぐりに人形の寄贈をされており、“近江八景”シリーズは既に七景までが製作されています。



来年の雛人形めぐりに「石山秋月」が製作されたら“近江八景”は完成となります。
人形は生き生きとした表情に今にも動き出しそうな姿をしており、何よりも魅力的なのは衣装の素材感や色彩の良さだと思います。



「唐崎の夜雨(近江八景)」は2019年に製作された人形で“男性的な女性的な魅力で女形を表現、時雨を和傘に櫻の花びらの道”を歩きます。
びわ湖を表現した白砂の上を「六人官女(2007年)」のうちの三人官女が竹に乗って湖上に浮いています。



美しいオレンジの色彩の衣装を纏って音を奏でるのは「十人囃子(2008年)」。
“湖面に桜をうつし、明ける近江の郷”湖周にさく桜をイメージした作品とあります。



「無垢の女神(2011年)」は“原点に復帰し「純粋、清楚な気持ちで未来に向かって進んでいきたい」の思いで白無垢の十二単に...”とあります。



「聖水の舞(2004年)」は滋賀のシンボル琵琶湖をモチーフにした作品で、五箇荘の「雛人形めぐり」に最初に寄贈された人形です。
「男雛(2006年)」は「聖水の舞」が一人では淋しそうとの声を受けて製作され、一般募集で「清湖雛」と命名されたといいます。



最後に訪れたのは藤井彦四郎邸になります。
藤井彦四郎は糸の販売で創業した後、いち早く人絹(レーヨン)に着眼して、スキー毛糸で財を築いた方といいます。

敷地にはログハウスがありますが、これは海外で見て気に入ってすぐに建てたもの。
航海で利用した船が気に入ったといって、その場で買ったなど逸話はいろいろとある方のようです。



玄関に座る主人の人形は京都の本宅だった「和中庵(現在はノートルダム女学院が所有)」にあったもので、泥棒よけに使われていたものだそうです。
藤井彦四郎邸にも東之湖さんの人形が展示されていて、下は東日本大震災の被害から復興に向けて努力されている方々への自身が出来る支援として作られた「絆雛」シリーズとありました。





邸宅内には水琴窟のような美しい音色が響いていて、何の音かと思って見ると「ハンドパン」という楽器の演奏でした。
「ハンドパン」はインドのガタムとトリニダード・トバゴ共和国ノスティールパンを参考にして、2000年頃にスイスのPANArt社が開発した楽器のようです。
雛まつりに合わせた曲調で演奏されていましたが、ワールドミュージックやアンビエントミュージックにも合いそうな楽器ですね。



商人屋敷4館を巡ってお雛様を見て歩きましたので、そろそろお昼ご飯の時間です。
食事は古民家を使った茅葺き屋根の「めんめんたなか」さんで雛定食をいただきます。
室内も古民家そのままの雰囲気たっぷりで、食事の出来上がりを待っていると庭の木にはヤマガラがやって来て、一足先に食事中なんて光景もありました。





ひな祭りに食べるものというと...ちらし寿司・白酒・ひなあられ・菱餅などがありますが、はて菱餅って食べた記憶がない。
ちょうど商人屋敷で菱餅を売っていましたのでお土産に買って食べてみることに...。
菱餅の赤・白・緑の3色は、赤は魔除け(桃の花)、白は清浄(雪)、緑は健康(新芽)を表すそうですね。




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