僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~京都市東山区 新那智山 今熊野観音寺~

2018-01-30 18:52:52 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 西国三十三所巡礼の寺院へお参りすると、寺院に西国巡礼独特の雰囲気を感じることがあります。
信仰の熱気のようなものとでもいえばよいのでしょうか、巡礼の霊場を辿っていくことによって熱気とともに包容されていくような安堵感さえ覚えてしまいます。

そこには西国三十三所巡礼が「観音巡礼」であることの影響があると思いますが、巡礼寺院は庶民的な観音信仰が文化として根付いている場所だからなのかもしれません。
「今熊野観音」は西国第十五番霊場で、京都東山の地にありながらも人は少なめで落ち着いた趣のある寺院でした。



今熊野観音寺は807年弘法大師・空海が熊野権現のご霊示を受けて当地に庵を結ばれ、嵯峨天皇より管財を賜って十一面観音像(秘仏)を本尊として御堂を造営されたのが始りとされます。
また平安末期の1160年には後白河上皇が本尊を本地仏として「新熊野神社」を造営されたとも伝わります。



今熊野観音寺には朱色の「鳥居橋」を渡って入山することになりますが、“鳥居”と橋の名に付くのは熊野権現との関わりの深さからなのでしょう。
今では“寺と神社は別のもの”のようになっていますが、明治の神仏分離令で神仏習合が禁止されるまでは習合が普通の姿だったといわれます。

今熊野観音寺は南北朝の兵火・応仁の乱などで伽藍を焼失したと伝わりますが、その後見事に復興されて現在に至るとされます。
鐘楼には年代を感じさせる石塔や石地蔵が並び、信仰の歴史を伺い知ることが出来ます。



梵鐘を撞くことは出来ませんが、この梵鐘は太平洋戦争のときに供出されたものの、元のままの姿で残されて無事戻ってきたという逸話があるそうです。
“運が良かったのは観音様のご加護があったから”といい解釈が出来そうですね。



境内には観音様の石仏が祀られていました。(阿弥陀菩薩・准胝観音・十一面観音・不動明王・地蔵菩薩かな?)
寺院の裏の巡礼道には西国三十三所の観音石仏が祀られた祠があり、簡易的な三十三所巡礼もできます。



今熊野観音寺の本堂はかつての奥の院順礼堂にあたると伝えられ、現在の建物は1712年に宗恕祖元律師によって建立されたものと寺の由緒遠隔にありました。
本堂の中で読教されている姿は見えませんでしたが、声明のような美しい響きの御祈祷の声が聞こえてきて、朝のひっそりした寺院に響いておりました。





外陣の雰囲気はまさに三十三所巡礼の寺院の雰囲気が漂っています。
三十三所巡礼の寺院に共通するのかもしれませんが、奉納された奉納額や千社札が貼られているのを見ると、その信仰の歴史に魅力を感じてしまいます。



御本尊の「十一面観世音菩薩」は秘仏のため拝観できないものの、光に照らし出されたお前立ちが神々しい姿を観せておられます。
厨子の右の脇陣には「恵比寿神」「三面大黒天」「准胝観音座像」が祀られ、左の脇陣には「薬師如来立像」「十一面観音立像」が祀られておりました。





パンフレット

さて、内陣の正面に興味深いものを見つけました。
最近「懸仏」に関心があるのですが、ここで懸仏に出会えるとは思いもしておらず、嬉しい発見です。

懸仏は神仏習合の証として、一般的に神社で御神体とされる“神鏡”と“仏”が合体した姿をしています。
画像では見えませんが、円形の10時と2時の位置には獅子の造形が取り付けられており、状態もいいものです。
今熊野観音寺の境内には「稲荷社」「熊野権現社」「金龍弁財天」など小さな神社があり、かつての神仏習合の歴史が遺されていることが実感できます。



懸仏との思わぬ出会いですっかり気をよくして、大師堂へお参りをいたしました。
「ぼけ封じ観音像」の後方に大師堂はあり、暗い堂内には不動明王像がかすかに見ることが出来ます。





寺院の裏山にあたる巡礼参道を登っていくと、西国三十三所巡礼の各寺院の観音石仏が祀られた祠が続き、一番上にある鮮やかな朱色の「医聖堂」へとたどり着きます。
「医聖堂」には医界に貢献された多くの方々が祭祀されているそうですが、朱色があまりにも鮮やかなのは平成28年に丹塗りの塗り替えをされたためのようです。



境内の隅には“当山創建時(平安様式)”のものとされる「三重石塔」がありました。
かなり風化した感がありますが、それゆえの味わいのある石塔です。



今熊野観音寺は“真言宗泉涌寺派”の寺院で西国三十三所巡礼寺院であるとともに、「泉涌寺」の塔頭寺院の一つに数えられています。
しかし泉涌寺のような皇室的な印象は全くなく、静寂とは違う意味での静かで落ち着きのある寺院と印象を受けます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御朱印蒐集~安土町 繖山 桑實寺~

2018-01-25 19:05:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 桑實寺がある「繖山」は安土山の隣にある433mの山で、西国三十三箇所巡礼の「観音正寺」のある山と言った方が分かりやすいでしょうか。
繖山には南北朝の時代から戦国時代にかけて観音寺城があり、近江源氏の佐々木氏や近江守護・六角氏の居城があったとされます。

観音寺城は、足利義昭を奉じて上洛する織田信長との戦いで六角氏が開城して落ち延びた後は廃城となったようで、現在では遺構を残すのみとなっています。
繖山の頂上付近には観音正寺が建てられていますが、桑實寺は繖山の中腹にある古刹になります。



観音正寺は表参道なら石段1200段、林道を使っても450段という石段登りが必要な寺院ですが、この桑實寺も500段ほどの石段を登っていく寺院でした。
行きも帰りも誰一人出会わない石段をひたすら登っていくのは石段好きの当方にとっては至福の時間だといえます。
聞こえてくるのは近くの茂みから聞こえてくる小鳥たちの囀りのみ。気持ちの晴れるいい時間です。



桑實寺は677年に天智天皇の勅願寺として創建され、薬師如来坐像を本尊とする天台宗の寺院です。
開山は定恵上人とされており、定恵上人が法会を営んだ時に琵琶湖中から薬師如来が現れ大光明がさしたとの縁起が伝わります。
この定恵上人は、藤原鎌足の長男、弟は藤原不比等の家系の方で、神祇を司った中臣氏(後の藤原氏)の子孫が出家するというのは興味深い話です。



また桑實寺の“桑が実る寺”の寺名の由来は、定恵上人が中国より桑の木を持ち帰り、この地で日本で最初に養蚕を始めたことによるものだそうです。
往時には二院一六坊の僧坊があり、足利第一二代将軍義晴が3年間仮幕府を開いたとされますから、往時には栄えた歴史のある寺院だといえます。



石段をしばらく登ると山門があり、「西国薬師第四十六番霊場」の看板が「天台宗 桑實寺」と共にかけられているのが見えてきます。
山門を抜けるとすぐそばには1769年建立されたという地蔵堂が建てられており、お参りしてからしばしの間の一休みです。



地蔵堂と道を挟んだ祠には南北朝時代のものとされる「地蔵菩薩の石仏」が祀られて、風化はしているものの味わい深い石仏に気持ちが落ち着いていくのが分かります。
この地蔵菩薩は、元々は桑實寺の寺領であった瓢箪山古墳頂上に安置されていたものを、明治初年に桑實寺本堂の参拝者の便宜を計るため移設されたと書かれてありました。



ところで、石段はこれで終わりかと思いきや、実はここからが本番でさらに登り続けることになります。
寺院巡りを始めてから石段登りは苦にならなくなっていますので、息を切らせながらも登り続けます。



本堂近くの正寿院が見えてきたらあと僅か。もう目の前に本堂があります。



受付を済ませてから、まずは梵鐘を撞かせていただきました。
梵鐘は昭和二十六年再建とありましたので戦災が癒えつつあった頃に再建されたのでしょう。余韻が長く響く梵鐘でした。



本堂は室町時代初期の再建で、国の重要文化財に指定されています。
入母屋造、檜皮葺きの古刹感のある本堂で紅葉も色づいていた時期でしたが、御朱印を書いて頂いた僧の方以外は誰一人出会うことはありませんでした。



ところで、繖山の隣の安土城にいた頃の信長と桑實寺にまつわる話です。
ある日、信長が竹生島に参詣に出て留守だった日に、今日は帰って来ないだろうと思い込んだ女房衆が桑實寺などへお詣りに行ったそうです。
ところが信長はその日に戻ってきてしまい、これに激怒した信長は女房衆を寺の長老もろとも成敗したそうです。
怠慢な行動をして油を売っていたのは女房衆の責とはいえ、信長とは厳しい人ですね。(竹生島事件)



受付におられた僧の方から本堂の左からお入り下さいと言われ、本堂の中へ入らせていただきました。
本尊の「薬師如来坐像」は30年に一度開帳する秘仏ですので、代わりに前住職作の薬師如来坐像が安置されていました。



内陣にも入れるということでしたので入りましたが、内陣の須弥壇・脇陣には仏像の数々が安置されています。
秘仏の薬師如来坐像は厨子の中に納られていて拝観は出来ませんが、前住職作の御前立ちの横には「日光・月光菩薩」。その左右には「十二神将」が6躰づつ安置されていました。





脇陣には「天台大師」「伝教大師」の坐像が並び、後方には「大日如来坐像」と「阿弥陀如来坐像」が安置されています。
大日如来坐像は1438年に三重塔(現在はない)の建立時に彫像された仏像で、大日如来が好きな当方にとっては見飽きることのない仏像です。



右の脇陣には「不動明王立像」を中心に「阿弥陀如来坐像」「弁財天像」が祀られています。
この「弁財天」は竹生島信仰に見られる「宇賀弁財天」でしたが、かつて内湖のあったこの安土の地と竹生島は想像以上に近い存在だったのかもしれませんね。





さて、御前立ちの薬師如来を作られた前住職は他にも仏像を彫られていたようです。
外陣には前住職作の「不動明王立像」「観音菩薩立像」「薬師如来坐像」が置かれていました。
仏師としても修行されていたのでしょうか。



山門の前によく景色が見える場所がありましたので写真を撮ってみましたが、前方の湖は西の湖でしょう。
手前の山は長命寺山で、後方に見える冠雪した山は比良山系でしょうか。
この位置からでは琵琶湖は全く見えませんね。



受付におられた僧の方は大変丁寧な方で、当方も何度も“ありがとうございました。”と頭を下げて寺院を後にしました。
そしてまた独りで長い石段を降りていく時には何とも晴れ晴れとした気持ちになっていましたよ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御朱印蒐集~京都 宇治市 黄檗山 萬福寺~

2018-01-20 17:13:13 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 日本の禅は大きくは「曹洞宗」「臨済宗」「黄檗宗」の三つがあります。
臨済宗では「公案」という修行者が悟りを開くための課題に取り組みながら座禅修行をする、いわゆる「禅問答」の修行だとされます。
曹洞宗では「只管打坐」という座禅することそのものが悟りの姿だとされており、臨済宗の寺院と曹洞宗の寺院では訪れただけでも全く違う印象を受けてしまうことがあります。

はてさて、もう一つの黄檗宗はいかなる寺院か?
黄檗宗の末寺には参拝したことはありますが、大本山である萬福寺へは今回が始めての参拝となりました。

 

黄檗宗は中国明朝の臨済宗(臨済正宗)の僧・隠元禅師によってもたらされ、大本山である萬福寺は1661年に開基されたとされます。
隠元禅師が中国から日本にもたらせたとされるものには“美術・建築・印刷・煎茶・普茶料理、隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹(タケノコ)・木魚”があるといわれ、特にその名の付いた“隠元豆”は有名ですね。



1661年に建立された総門(重文)は、黄檗宗の建築物の特徴である“中央部分が高く、左右が低く”作られた独特の門になっています。
日本固有の建築物とは様相が全く違う黄檗宗の門は「牌楼式」と呼ばれていて如何にも中国的な雰囲気を感じる門です。



総門から少し行ったところにある三門(重文)は1678年の建立で、三門の先には天王殿・大雄宝殿・法堂が一直線に並びます。
中国の臨済宗には三門はないそうですが、日本の臨済宗の寺院には三門があるため、少し遅れて三門が建てられたという話があるようです。
いずれにしても巨大で見上げるような迫力のある三門です。



総門からの直線上には1668年建立の「天王殿(重文)」があります。
本堂の前に一直線に堂を置くのは中国式の伽藍配置だということですが、そういう目で寺院を見たことはなかったように思います。

堂の中の正面には像高約110cmの布袋尊像が祀られているのが近づくにつれて見えてきます。
正面に布袋尊が祀られていることは少し不思議な感じがしますが、中国では布袋さんは弥勒菩薩の化身だと言われていることに由来するようです。





この天王殿で驚いたのは2mを超える四天王像でしょうか。
布袋尊(弥勒菩薩の化身)を守護するように四方を守護していますが、この四天王像なかなかの迫力です。


増長天


持國天


広目天


多聞天

さらに堂の裏側へ回ると、韋駄天像の大きな姿に再び圧倒されます。
仏像は、萬福寺造営の際に明より招かれた仏師・范道生の作とされ、衣装の柄などには中国の影響がみられるように思います。



天王殿を裏側から出ると正面には萬福寺の本堂となる「大雄寶殿(重文)」と向き合うことになります。
大雄寶殿は1668年に建立された建物で、日本で唯一チーク材を使った歴史的建築物だとされます。



本堂・大雄寶殿の御本尊の「釈迦如来坐像」と脇侍に「迦葉と阿難」立像が並ぶ釈迦三尊になります。
この釈迦三尊の直線距離の位置には天王殿の裏側に祀られている韋駄天像がありますから、護法善神としての韋駄天が離れた場所から釈迦を守るという配置になっているようです。



また、釈迦三尊の左右には一八羅漢が祀られており、見た瞬間にリアルなその姿に驚きました。
日本では一六羅漢が一般的ですが、黄檗宗では一八羅漢が加わります。この理由についてはよく分らないのですけどね。





萬福寺の伽藍は屋根付きの回廊で結ばれており、天候に左右されず修行僧の方が行き来できるようになっていました。
萬福寺では修行僧の姿を何度も見掛け、僧の方は参拝客には目もくれず修行に励まれておられましたが、この回廊でも1列になって粛粛と歩いて行く僧の方々の姿がありました。



斎堂の前には木魚の原型といわれる大きな木の魚の「開ぱん」が吊るされています。
室内からは読教が聞こえていましたが、斎堂は食事する場所でちょうど昼時でしたので、もしかすると食事の時間だったのかもしれません。



三門から直線に並ぶ堂宇の最奥には「法堂(重文)」という説法をするための大きな堂宇がありました。
堂前面の勾欄は卍くずしの文様となっており、ここにも中国風の雰囲気が漂っています。





萬福寺の「七堂伽藍」は“総門・三門・天王殿・大雄寶殿・法堂・斎堂・開山堂”とあり、最後の堂宇として開山堂へ立ち寄ることとしました。
開山堂は開山・隠元禅師を祀るお堂になっていますが、黄檗宗・隠元の名を知らなくとも“隠元豆・西瓜・蓮根”など日本人の生活に溶け込んでいる食材を広めた人と言い換えれば親近感が湧きますね。





回廊の一角には梵鐘があり、撞いてもいいところでは梵鐘を撞かせていただいて音色を聞くのが楽しみなんですが、残念ながらこの梵鐘は撞けませんでした。
修行僧が多い寺院ですから、梵鐘には梵鐘本来の役目があるということなのだと思います。
また、境内の入口にも中国風の鐘楼がありましたので、萬福寺には2つの梵鐘があるようですね。





『禅』という言葉には日本的なイメージを強く受けてしまいますが、黄檗宗の寺院では中国的な影響が色濃く残っているといわれています。
中国で発展した禅宗は、鎌倉時代に始まった臨済禅は室町期にかけて日本独自の発展をしていったのに対して、比較的新しい江戸時代に伝わった黄檗宗は当時の中国の臨済禅の影響が強いということなのでしょう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「言葉にできない心の表現 古久保憲満の世界」~八日市文化芸術会館~

2018-01-17 20:18:18 | アート・ライブ・読書
 「アール・ブリュット」は、“正規の美術教育を受けていない人が、既存の芸術の影響や流行などに左右されず、自分の内面から湧き上がるイメージを表現した芸術として評価されています。
フランス語でアール・ブリュットは「生の芸術」という意味。英語では「アウトサイダー・アート」と呼ばれるため一般的には障がい者による芸術と考えられていますが、果たしてそれは正しいのでしょうか?
そもそも障がい者と健常者の「境の定義」なんてのは決めようはありませんからね。

古久保 憲満さんは、1995年東近江市生まれの画家で、海外でも巡回展が開催され、国内での受賞歴もある方です。
八日市文化芸術会館では「東近江市にゆかりのある芸術家シリーズvol.9」として「アール・ブリュット 言葉にできない心の表現 古久保憲満の世界」展を開催されています。



会館に行ってみて、まず展示室の前で古久保さん本人が絵を描かれていたのには驚かされました。
大きな紙に絵はルーペでもないと見えないくらい細い線での作画で、小さなパーツを描き込んでいって作品が作られていきます。
紙の上には筆箱(袋)に詰め込まれた色鉛筆が置かれてあり、紙の四方から中心に向かって“架空の都市”が増殖していくように建設されていきます。



時々来場者の方が古久保さんに話しかけておられましたが、絵の話になると実に饒舌に話しておられました。
話が切れると、すぐに絵に没頭していかれますが、それだけ描きたい衝動が強いのかと思います。
描かれた都市が発するエネルギーは常に彼の想像力の中に拡がっているのでしょうね。



展示されている絵は幼少期に描いたものも含めて約100点だということでしたが、中には長さ10mほどもある大作も何点かあります。
絵のタイトルを書くと...
「和歌山白浜城天守閣」「神戸に安土城があったら ありえへんけど」「復興する東日本 福島」など日本のパラレルな都市・建築や、「ハリウッド タワー オブ テラー映画スタジオセット」「未来の上海 ディズニーランド」「平壌国際空港ターミナルビル 成安通り レーニン通り 思想」など海外の架空の都市・建築など多岐に渡るテーマが取り上げられています。

展覧会では子供向けの企画もあり、『ワークショップ 古久保さんといっしょに「未来の東近江」描こう!』や『みーつけた!古久保さんの絵の中からさがそう!』という関連イベントがありました。
『みーつけた!』は、6つの絵のパーツを緻密な絵の中から探すという企画で子供向けにも関わらず、参加させていただきました。

 

何度も絵を見返しながら、やっと全問見つけることが出来ましたので、参加賞のポストカードを頂くことが出来ました。
この企画のおかげで緻密な絵の隅々まで見ることが出来ましたので、とても良い企画だったと思います。



“どこにも存在しない架空の創造都市を思い描く願望”はもしかすると誰にもあることかもしれません。
それは理想郷なのか夢の街なのかは人それぞれかと思いますが、当方にとっては、もう一つのパラレルワールドを想像してみることは夢見る力の再生とも言えます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御朱印蒐集~京都 伏見区 醍醐山 醍醐寺~

2018-01-12 18:38:18 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 豊臣秀吉の晩年、最期の花を咲かすように催されたのが「醍醐の花見」だったといいます。
「醍醐の花見」は、秀吉の近親者を初めとして諸大名の配下の女房女中衆約1300人を集めた花見の宴のことをいい、秀吉物のドラマではクライマックス近くに登場する華やかながらも秀吉が最期の輝きを見せる定番のシーンです。

その醍醐の花見が催されたのが京都伏見にある醍醐寺で、真言宗醍醐派の総本山であるとともに西国三十三所の第11番札所でもある寺院です。
醍醐寺は「上醍醐」と「下醍醐」の2つのエリアがありますが、今回は下醍醐への参拝となりました。



 

国宝・三宝院唐門を横目に見ながら入山しますが、この勅使門には「菊」と「五七の桐」の大きな紋に金箔が施されています。
天皇の御紋と豊臣秀吉の紋が並列に並べられてあるあたりに、秀吉の力が強大だったことが伺われますね。



入山は駐車場の関係で総門から入らず西大門(仁王門)から入ってしまいました。西大門は1605年豊臣秀頼によって再建されたものとされます。
醍醐寺には参拝客が多く、なかでも西国三十三所の札所であることから巡礼衣装の方の多さには少し驚きました。



西大門に安置されている金剛力士像は元は南大門にあったとされ、平安後期の1134年に造立された像だそうです。
重要文化財の指定を受けていますが、力感・迫力のある力士像というより何となく愛嬌のある子供力士のような愛嬌のある仁王様でした。





仁王門を前にして、まずは特別史跡・特別名勝になっている三宝院へと向かいます。
三宝院は醍醐寺の本坊的な存在であり、歴代座主が居住する坊にあたることから格式高い寺院ということになります。
また三宝院は門跡寺院であることから、公家の出の身分の方が座主を務めた、世が世なら一般人は近づくことすら出来ない高貴な寺院だったのでしょう。

三宝院には国宝・唐門の他にも国宝・表書院があり、部屋は「葵の間」「秋草の間」「勅使の間」などに長谷川派の障壁画が描き込まれ、門跡寺院としての佇まいが満載されています。
庭園にはあまり関心を示さない当方ですが、この「三宝院庭園」は広くて美しい庭園だと惚れ惚れとしてしまい、しばらく縁側に腰掛けて落ち着いてしまった庭園でした。





醍醐寺の本堂となる金堂は醍醐天皇の御願により926年に創建された建物で、2度の焼失の後に豊臣秀吉の命により、紀州(和歌山県)湯浅から移築が計画され、秀頼の時代の1600年に完成されたとされます。
現在の建築はその時代のもので国宝に指定された威風堂々とした建物です。



須弥壇には重要文化財の「薬師如来坐像(像高約132cm・鎌倉期)」、脇侍に「日光・月光菩薩(像高約145cm・鎌倉期)」の薬師三尊が祀られ、四隅を「四天王立像(像高200cm・平安期)」が守護しています。



醍醐寺(下醍醐)には鐘楼が2ヶ所あり、こちらは金堂の近くにある一つ目の鐘楼です。
寺院巡りをしているうちに、すっかり梵鐘好きになってしまいましたので鐘楼のまわりを一回りして眺めてしまいました。



醍醐寺で西国三十三所巡礼の札所になっているのは「観音堂」。
建物は1930年に建立され大講堂として使用されていたのですが、上醍醐にあった「准胝堂(本来の札所)」が2008年に落雷により焼失してしまったため、仮に札所が移されて仮「観音堂」となっているようです。

須弥壇には中央に「阿弥陀如来坐像(平安期?)」が祀られ、左の脇陣には智拳印を結んだ金剛界「大日如来坐像」が2躰。
右の脇陣には「地蔵菩薩坐像」が安置されています。好きな「大日如来像」が2躰同時に観られるのは非常にありがたいことです。



比較的新しい建築物の感のある「真如三昧耶堂」は建立されたのが1997年ですから最近のお堂ということになります。
もとは949年に創建された「法華三昧堂」が始まりだといいますが、1470年に焼失してしまったものが、近年になって生まれ変わったようです。
須弥壇には「釈迦涅槃像」が祀られており、真新しい感は拭えませんが涅槃像が祀られている寺院はそう多くはないので興味深いところがあります。



大きな不動明王の石仏の後方にあるのは「不動堂」。
内部には「矜伽羅」「制た伽」の2童子を従えた「不動明王立像」が祀られていました。



諸堂を歩いていくと2つ目の鐘楼が見えてきます。
梵鐘は2つとも撞くことは出来ませんので、こっちらの梵鐘もぐるりと一回りして眺めてみます。
こちらの梵鐘はお釈迦様?阿弥陀様?が彫られており、その下を撞木で撞くようになっている少し変わった彫り物になっていました。





醍醐寺の五重塔は951年に完成された京都府下で最も古い木造建築物だといわれます。
高さ38mの塔に対して相輪が約13メートルもあり、屋根も階が上がるに従って小さくなっているため、落ち着いた感じのする塔でした。
初層の内部には壁画が描かれ国宝になっていますが、五重塔自体も建築物として国宝に指定されている宝物になっています。





弁天池には弁財天を祀る「弁天堂」が建てられていました。
すでに紅葉は終わっている季節でしたが、僅かに残る紅葉が朱色の弁財堂に色を添えておりました。



さて、醍醐寺には「霊宝館」という国宝や重文だけで7万5千点以上、未指定の文化財を含めると約10万点以上に及ぶ寺宝を収蔵するとされる宝物館があります。
「霊宝館」は「平成館」「本館」「仏像棟」に分かれて膨大な文化財を所蔵していますが、これには醍醐寺が廃仏毀釈の影響を受けなかったことの影響があるようです。


  注)いただいた展示リストでは98の文化財が展示されています

「平成館」では「薬師三尊像(平安期・国宝)」、牛にまたがっている珍しい「閻魔天騎牛像(平安期・重文)」、半跏座で像にまたがる「帝釈天騎象像(平安期・重文)。
迫力のある「五大明王像(平安、江戸期・重文)」と素晴らしい仏像群が並びます。

「仏像棟」では入って右から「吉祥天立像(平安期・重文)」、古色が美しい「如意輪観音踏み下げ像(平安期)」、智拳印を結ぶ「大日如来坐像(平安期)」。
人を惹きつける「十一面観音立像(鎌倉期)」、もう一つの「五大明王像(平安期・5躰とも重文)」、金箔がわずかに残る「阿弥陀如来坐像(平安期・重文)」。
漆塗りの美しい「千手観音立像(平安期・重文)」など枚挙にいとまがない。

他にも「曼荼羅」「絵画」「書籍」「工芸品」などの膨大な文化財が展示されていたのには驚きます。
知らずに訪れたのですが、ちょうど特別展の期間だったのが幸いで本当に多くの寺宝を見ることが出来ました。


(境内にあった小さな滝)

西国三十三所の本来の札所である「准胝堂」は現時点で再建の情報がありませんが、再建の折には今回行けなかった上醍醐の拝観も兼ねて再訪したいと思います。
この巨大な寺院をそれこそ1日かけて参拝してみたいものですね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御朱印蒐集~京都府八幡市 石清水八幡宮~

2018-01-08 17:28:18 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 神社のことを呼ぶ時に『日本三社』や『三社参り』と呼ばれる神社があります。その三社とは「伊勢神宮」「賀茂神社(上賀茂・下鴨)と「石清水八幡宮」とされています。
岩清水八幡宮は、京都府八幡市・男山(標高143m)の山上にある神社で、創建は平安時代の860年、八幡宮総本社の宇佐神宮(大分県宇佐市)から勧請されたのが始まりとされています。

男山は、京の都の裏鬼門にあたり、表鬼門にあたる比叡山とともに都の守護・国家鎮護の神社であったと伝わります。
御祭神は「応神天皇(誉田別命)」「比咩大神(宗像三女神)」「神功皇后(息長帯姫命)」を祀り、厄除開運の神として信仰を集める神社です。



石清水八幡宮には2度目の参詣となりますが、“男山”の名から受ける印象もあってか、力強さや猛々しさを感じる神社です。
かつては源義家が石清水八幡宮で元服し自ら「八幡太郎義家」と名乗ったとされる話や、織田信長が「黄金の雨樋」を造営して武運長久を祈ったという話などが伝わることからも武門隆昌の神社だったことが伺い知れます。



参詣したのは正月3日でしたが、さすがに大神社だけあって参拝者は波のように押し寄せていました。
山上までは“男山ケーブル”で上がるつもりでしたが、あまりの人の多さに結局歩いて石段を登ることにしました。

最初にある一之鳥居は元々は木造りだったようですが、1636年以降は石造りの鳥居に変えられたようです。
逆光で眩しい鳥居の扁額に書かれている「八幡宮」の「八」の字はよく見ると「双鳩」のハト姿になっていますね。





露天が並ぶ参道を少し歩くと、山麓に下院にあたる「頓宮」へ入る門が見えてきます。
ここからは「石清水八幡宮境内」として国の史跡に指定された領域になります。



門から中へ入ると頓宮があります。
この宮には年に一度、山上の御本殿より御神霊が御遷しされて重儀が斎行される社殿だということです。
本来の建物は、1868年(慶応4年)の鳥羽伏見の戦いで焼失してしまい、現在の建物は1915年に造営されたものだそうです。



朱色の回廊に囲まれた頓宮で行われる「勅祭 石清水祭」は「生きとし生けるもの」の平安と幸福を願う祭儀として始まったとされ、山上の本社から山麓の頓宮まで御鳳輦(神輿)が下る荘厳な儀式だといわれます。
また、山上へつながる南門は、もとは山上の南総門だったものを移築されたもののようです。





さて、頓宮を出て二之鳥居をくぐると表参道の始まりです。
ゆるやかな勾配の石段ですのでさほど苦にはならず、むしろ木々に囲まれた参道を登るのは気持ちが良い。





三之鳥居までくるともう先には南総門へとつながる参道に入ります。
参道の奥に見える神々しい朱門に心躍りますが、さすがに石清水八幡宮。人の多さにも驚きます。



近年は正月らしい気分で年の初めの行事を行うということもなく、スーパーやモールも元旦から営業していますから、あっさりとした正月を迎えていますが、やはり初詣だけは晴れやかな正月気分になりますね。
3日とはいえ、数多くの方が参詣してここには正月ムードが漂っています。神矢を持って帰られる方もチラホラありましたよ。



手水舎にも人が一杯です。
身を清めて神様に今年一年の祈願をしたい気持ちは皆同じですね。



南総門から入り手水舎を超えると、いよいよ石清水八幡宮の本殿への道となります。
現在の社殿は1634年徳川家光が造営したもので、国宝に指定された建造物です。



楼門に回廊がつながり、その奥に内殿・外殿があるようですが、八幡造と呼ばれる2つの殿はこの位置からは見えませんね。
正月の行事なのだと思いますが、正面には8mといわれる大きな矢が立てられていて、これが石清水八幡宮に対して当方が持っている“力強く猛々しいイメージ”につながっているのだと思います。





本社横の神楽殿では巫女さんが何度も舞われていたので何事かと不思議だったのですが、参詣を終わられた方が持っていた神矢は実はこの神楽殿で清め祓いされたものだったようです。
お神楽奉仕で神矢を持った巫女さんに清め祓いされた神矢を、巫女さんの神楽鈴で清められた方々が受け取られます。実に興味深い神事です。





にぎやかだった山上の本殿や表参道とは打って変わって、裏参道はひっそりとしています。
石清水八幡宮はかつては神仏習合の宮寺として栄えたのですが、明治の廃仏毀釈の影響を強く受けたようです。そのため、参道には堂宇跡や石垣が現在もいくつか見受けられました。



裏参道を下って一之鳥居まできましたので、ここらで精進落としとなります。
屋台の連なる参道で見つけたのはインド料理の看板!



どこへ行ってもインド料理に目がないもので、昼食用にテイクアウトとなりました。
“tabla indian restrant”という店のようですが、どこから来られているのでしょうね。
記念写真をお願いしてみました。



石清水八幡宮のある男山は、山上に本殿があり山全体が神宮になっているような山です。
しかし、山の奥深い霊山との印象はなく、むしろ都(京都)から参詣しやすい場所にある八幡さんの印象すら受けます。

武運長久を祈願する武士たちが訪れた神社、宗廟として皇室のご崇敬の厚い神社、厄除開運を祈願する老若男女が参詣に訪れる神社。
八幡大神御託宣によると「世は変われども神は変わらず」とあります。これは日本人の心かもしれませんね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御朱印蒐集~東近江市 赤神山 太郎坊宮・阿賀神社~

2018-01-04 18:30:18 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 ここ数年、正月の初詣は「太郎坊宮」へ参詣に行っています。
もっとも正月三ヶ日には他の神社にも参詣しますので、“太郎坊さんには欠かさず参詣している”といった方がいいのかもしれません。

太郎坊宮は赤神山(標高357m)の中腹にある神社で、まず赤神山の岩肌が剥き出しになった力強い霊山の神秘的な姿に魅力を感じます。
御祭神は「正哉吾勝勝速日天忍穂耳大神」という神で、天照大神の第一皇子神とされます。御祭神の名前には勝利を象徴する意味が込められているといわれますので、ご利益は「勝運の神」となります。

 

阿賀神社(太郎坊宮)は今から1400年前の創祀とされており、山を御神体とする磐境信仰の霊山とされてきたと伝わります。
信仰が深くなるにつれ修験道の行者が修行するようになり、その姿が「太郎坊天狗」として伝えられてきたと社伝にあり、古くからの山岳修験の場だったことが分かります。



自宅を出た時に本降りだった雨も赤神山が見えてきた頃には止み、晴れ間が広がってきました。
“太郎坊天狗が大風を吹かせて雨雲を山から追いやってくれた”と勝手に解釈して、740段余りといわれる石段を登ります。



後述する「赤神山 成願寺」まではすぐ登れますが、成願寺横にある鳥居からが本格的な石段登りの始りです。
ある意味でこの石段登りが楽しみで訪れているともいえますが、苦しい道を進んだ先に感動があるのかもしれませんしね。



朝は雨模様で足元が悪かったのと混雑を避けて早めに到着したのが幸いして、例年なら行列になる石段もガラガラの状態で登れます。
石段が空いているのでどんどん登っていけるのはいいのですが、その分休むことが出来ないため逆にしんどかったですけどね。



途中にある「龍神舎」でも悠々と手水させて頂くことが出来ましたので、やはり早起きは三文の得ということなのでしょう。
岩の間に龍が一体、水を吐く龍が一体。水を吐く龍は時々凄く勢いよく水を吐きますので、周囲にいる人はその度に驚かされていました。



車で登られた方の駐車場のある参集殿の表参道からは、毎年本殿まで1時間ほどの行列が出来ますが、今年はあっという間に登れてしまいました。
以前に雪の正月に参拝した時よりもあっけなかったかもしれませんね。
参拝客が少なかったおかげで御神体「夫婦岩」の前にある「赤神山稲荷社」にもゆっくりと参拝することが出来ました。



「夫婦岩」の前には太郎坊宮の額のある鳥居にしめ縄が張られており、神域である証となっています。
この岩は「磐境信仰発祥の地 近江高天原」との但し書きが建てられていました。
高天原とは日本神話で天上の世界とされていますから、まさに神の住む場所となります。



「夫婦岩」は右が男岩、左が女岩で、全長12m幅80cmの岩の間の道を進みます。
良い心の持ち主が通ると願い事が叶い、悪い心の持ち主が通ると岩にはさまれてしまうという謂われのある岩です。



夫婦岩を抜けると、蒲生野の眺望が拡がる展望台の山側に「本殿」があります。
神社全体が山の壁面に張り付いているようになっていますから、本殿も小さな社になっています。
本殿に参詣した頃はまだ巫女さん(バイト?)は準備中でしたが、禰宜の方は堂内で既に待機されていました。



太郎坊宮に参詣した際に楽しみにしているのは“蒲生野の拡がる田園風景とタマミズキの赤い実”です。
今年も真っ赤な実がよく実っており、変わらぬ季節の光景に安堵いたします。



「一願成就社」のおみくじの所で今年の運気を占ってみる。
おみくじは吉凶の順位では“普通”の結果でしたが、大過なく万事平穏な年になるのが一番良いのかもしれませんね。

裏参道には各所に「七福神の石像」と道の終わりには「福助さんの石像」が安置されています。
ゴツゴツした岩の合間に安置されている七福神にも独特の味わいがあります。






参集殿の近くまで降りてきて、まずは恒例「太郎坊だんご」でちょっと一服して石段を降りていきます。
太郎坊宮への石段の分岐点にあった「赤神山 成願寺」まで降りたら、今度は寺院の初参りです。

「成願寺」は799年に最澄によって開山され、一時は50有余の坊や塔頭を有する寺院だったと伝わります。
その後、信長の焼き討ちにより焼失したものの、1640年に本堂と鐘楼を再興したとされます。



以前に成願寺の内陣でお参りさせて頂いたことがありましたが、天台宗の古刹として見所の多い寺院です
本尊の「薬師如来坐像」こそ秘仏のため拝観できなかったものの「お前立ちの薬師様」「十二神将」「二天像」「閻魔像」と驚くような仏像が祀られています。
梵鐘を撞かせていただくことが出来ますので、さっそく撞かせていただきました。



梵鐘には、昭和37年5月吉日鋳造の銘があり、「薬師瑠璃光如来」の名とともに天女と龍の彫り物があります。
この梵鐘はここ数年、毎年の年初に最初に撞く梵鐘になってきていますね。



年の初めに思う事。
毎年、その時の状況によって違いますが、“何事にも地味でもじっくり穏やかに”といった心境です。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする