僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

小谷山城址と山頂登山~本丸には「長浜武将隊」が登場!~

2022-09-30 17:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 浅井氏3代の居城であった小谷山城は、3代長政の時代に織田信長が越前の朝倉義景討伐の兵を挙げた時に義兄・信長から離反して姉川の戦いで戦うことになります。
姉川の戦いは信長軍の勝利に終わったものの、堅固な山城であった小谷城を落とせなかったとされますが、越前の朝倉氏を滅亡させた後に、羽柴秀吉の軍勢の急襲により落城し、久政・長政は自刃したという。

小谷城址では秋のイベントで「小谷城シャトルバス」が運行していて“番所”までバスで行け(期間外はマイカー可)、イベント期間中は小谷城跡の要所で地元語り部ガイドがご案内をしてくれます。
城址ファンではないものの、城跡を巡りながら小谷山の山頂を目指そうという、ちょっと観光登山のようなハイキングに出かけてみました。



好天に恵まれた連休最終日とあって駐車場には他府県ナンバーの車が多く、バスを待つ人(ほぼ満員)や麓から登山される方、出陣の準備をする「長浜武将隊」の方などでにぎわっていました。
係のおばさんに山頂までの時間を聞くと“本丸から1時間くらいかなぁ。最後の登りはキツイですよ。”とのことでしたのでトータルで1時間半くらいを想定してバスに乗り込みます。

バスはたった5分の道のりでしたが、心地よい晴天がそうさせているのか和やかな雰囲気で林道を進み、下車した後は“番所”を通って“御茶屋跡”を通過する。
“番所”はかつて登城者の検問所があった場所だといい、“御茶屋跡”は主郭の最先端に位置する曲輪の軍事施設で、かつては庭園もあったとされています。



道は石がゴロゴロとしている場所があるものの、広くて歩きやすい整備された道です。
シャトルバスで来られた方は城跡を目的に来られている方が大半ですので、スタスタと歩いていた当方は集団から抜け出して城跡を巡っていくことになります。



“首据石”は初代・亮政が六角氏との合戦の折、敵方に内通していたかどで家臣の今井秀信を殺害し、首をこの“首据石”にさらしたと伝えられているという。
織田信長が台頭し始めた戦国時代の近江国は、北に浅井氏・南に六角氏が覇権を争っており、信長は長政とお市の政略結婚で同盟を固める。
しかし、長政は信長が浅井氏の盟友である越前・朝倉氏を攻めたことで同盟は破綻して、お市は数奇な人生に翻弄されます。



長政の妻や子が居住したとされる“大広間”(「千畳敷き」と呼ばれる曲輪)の前には“黒鉄御門”と呼ばれる御門跡が往時の小谷城の面影を残している。
浅井家が滅亡した後、長浜の地は羽柴秀吉に与えられますが、秀吉は琵琶湖に面した長浜城を築城して、小谷城は破壊して廃城にしたといいます。



この辺りにおられた地元語り部ガイドの方に“桜馬場跡の端まで行くと景色がいい場所があるよ。”と教えてもらい“桜馬場跡”の端まで行ってみる。
見降ろす景色の正面にあるのは虎御前山で、信長が小谷城を攻めた時に最前線の砦を作った山。その奥には琵琶湖に浮かぶ竹生島と琵琶湖近くの山本山が見えます。
小谷城に籠城したものの、すぐ目の前に自軍を遥かに凌ぐ兵力の織田軍が迫っているのは恐怖としかいいようがなかったでしょう。



南東方向には奥に伊吹山、田園地帯を挟んで見えるのは「姉川の合戦」で浅井・朝倉軍が軍議を開いた大依山と岩崎山。
右の田園地帯の奥には小谷の支城の横山城のあった横山。姉川の戦いで勝利した信長は横山城の城番として秀吉を配置したという。



“本丸跡”は落城寸前まで長政が居住していた場所で、高さ12mの位置に南北40m・東西25mの広さを持ち、別称「鐘ノ丸」とも云われるそうです。
ただし場所は広いけれど、広場があるだけで何もないのでかつての姿は想像するしかない。



“大堀切跡”は長政の本拠である本丸と、久政の籠る小丸を区切る堀跡とされているが、夜半に攻め入った秀吉軍により占拠されてしまったという。
これにより久政軍と長政軍の親子は分断され、小谷城の落城へとつばがる。この際にお市と浅井三姉妹は信長軍へと引き渡される。



中丸や京極丸から回り込んだ場所には“大石垣”の一部が残る。
野面積みの大石垣は自然石をそのまま積み上げているので、手や足を掛ける場所が多く登りやすい感じがするが、排水性が高いため崩れにくいという利点があるそうです。



城址の最後の砦は“山王丸”であるが、石垣が破壊されて岩がゴロゴロと転がり、一種独特の姿をしている。
ここには廃城前に山王権現が祀られていたといい、現在は麓の小谷寺の一角に祀られているという。
小谷寺には美しい「如意輪観音像」が安置されており、コロナで御開帳が中止されているものの、惚れ惚れするような仏像です。



山王丸から先はいよいよ急階段の登りが始まります。
麓で地元の方に聞いた時に、“最後はしんどい山道ですよ。”と聞いていたが、ラスト600mから始まる木段は息が切れて何度も立ち止まることになりました。



湖北の山では熊の出没情報を時々聞きますが、小谷山も例にもれず熊に遭遇する可能性のある山だと聞きます。
熊に遭遇したらどうしようとちょっと怖さがあったのですが、この日は山頂まで登られる方がチラチラとおられましたので、不安は解消。
雑談も出来ましたのでほのぼのとした楽しい思いをさせて頂きました。



大嶽(おおずく)城跡は初代の亮政が1523年頃に築城したと伝えられている。
信長の小谷城攻めの時には朝倉氏が布陣したが、形勢不利とみた朝倉軍は一乗谷へ撤退。信長軍は追撃して朝倉氏の滅亡へとつながる。

山頂へ着くと何やらにぎやかな声。山仲間なのでしょう70代くらいのおじいさんやおばぁさんがガヤガヤとやっています。
楽しそうな姿を見ていると、年を重ねてもやはり大事なのは健康なんだと実感します。



小谷山は500mにも満たない低山とはいえ、最後の急坂を登ってきたので達成感は充分に感じられます。
紅葉の季節に登れば、また違った意味での楽しみがあるような山です。



また、小谷山は登る途中に何ヶ所か眺望の良い場所があるのも魅力的です。
地元の方の話だと、NHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(平成23年度)の時に、かなり整備されたそうで、放映前は“桜馬場”などは藪が茂り入ることも出来ない場所だったそうです。
この方角は桜馬場からも見えましたが、標高が高くなっているため西池まで見えるようになった。



北西方向には山本山系の山々と奥には葛籠尾と奥琵琶湖。
琵琶湖には竹生島が浮かぶように見え、手前には田園地帯が広がっている。



本丸跡まで下山してくると、「長浜武将隊」の面々が勢揃い。
石垣の前には武将・鎧姿の姫・足軽・前田利家?が睨みを効かせており、足軽はこちらに槍を向けている。



石垣の上には毛利勝永?と明智光秀?の武将と子供の武将。
兜の前立を見てすぐに誰か分かる知識はないので武将の名は正確ではないと思いますが、格好が決まってますね。



「長浜武将隊」の方々には大サービスして頂いて、石垣の上に登ってもらって全員集合の記念撮影です。
日本五大山城にも数えられる小谷城の城跡に武将が揃い、石垣の上から見降ろされると戦国の世にタイムスリップしたような楽しさがあります。



観光登山を楽しんだかのようにしてシャトルバスの発着点である“番所跡”まで戻ってきたが、ちょうど昼時でバスの運行がなく30分待ち。
地図を確認すると林道を下って望笙峠まで下りると“追手道”という旧道に入れそうでしたので、駆け足で林道を下って追手道から下山する。
追手道は急坂で石がゴロゴロとした歩きにくい道でしたが、麓から登ってもよかったかもしれませんね。


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比叡山延暦寺「横川中堂」と「元三大師堂」

2022-09-28 19:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 比叡山延暦寺を訪れたのはもう何度目になるでしょうか?
訪れるたびに行きたい場所や見たい場所が毎回違うのですが、今回は千日回峰道の一部を歩いて「玉体杉」へ行くこと、「黒谷青龍寺」へ参拝すること、「椿堂特別御開扉」に参拝することでした。

山中を歩いたのは峰道を「玉体杉」までと「黒谷青龍寺」の往復、西塔の「弥勒仏」の辺りまでだけでしたが、中心エリアから外れて歩くと観光エリアとは違った比叡山の魅力が発見できます。
しかし、横川エリアを歩く頃になると膝とふくらはぎに張ってきて、酷暑で怠けていた夏場の運動不足が祟ってしまいました。



横川の駐車場に車を停めた時、山側に「玉体杉」への道筋を示す看板があり、もし「玉体杉」から横川まで歩いていたらここに到着するんだなぁと確認ができました。
朝から悩まされた霧は横川エリアを参拝する頃にやっと消え、雲に覆われて麓の景色は見えないものの、しっとりとした雰囲気の中での参拝となりました。



横川中堂は848年、慈覚大師・円仁によって創建され、信長の比叡山焼き討ちによって全焼。秀吉が再建したものの昭和17年の雷火により再び全焼。
現在の御堂は、昭和46年に鉄筋鉄骨コンクリート建てで復元され、建物も朱色の鮮やかさから新しい印象の御堂に見えます。
本尊は平安後期の作とされる「聖観音菩薩立像」を祀っており、仏像が焼き討ちを逃れたのは横川中堂を担当した秀吉が逃がしたとの説もあります。



横川中堂の正面横には「赤山宮」が祀られており、赤山宮は慈覚大師・円仁が入唐留学の時、中国の赤山で新羅明神を守護神として勧請し、自らの呪命神としたという。
無事10年間の中国での修行が終わったので、帰国後この地に祀ったのが赤山宮で、除災延寿と方徐の神として祀られているという。



横川エリアの参道には西国三十三所の石仏が並んでおり、この石仏は第三十三番満願霊場の「谷汲山華厳寺」の十一面観世音菩薩。
西国三十三所巡礼は、三十二の札所と番外3所は参拝出来ていますが、あと1寺姫路の圓教寺だけがお参りできていません。機会を作って満願したいところです。



では、今回の比叡山参拝の最後となる「元三大師堂」へお参りします。
初めて元三大師堂へ参拝した時は、まだ雪が残っていて、屋根から落ちる雪の音に驚いたものでしたが、今回は汗を拭きながらの参拝です。



諡号・慈恵大師、通称・元三大師こと良源は滋賀県長浜市虎姫町に生まれ、12歳の時に比叡山で修行を始めて第十八代天台座主にまでなった僧です。
今も良源の生誕地の三川町には「元三大師御産湯井」が残り、良源を御本尊として祀る「玉泉寺」があります。

「玉泉寺」には「降魔大師像」や「御籤箱」が残されているといい、良源の母が出産祈願したという野瀬町の「大吉寺」には室町期の良源座像が祀られているという。
また高島市新旭町の「米井大泉寺」も良源の生誕地とされ、この寺院にも「大師産湯」の池があるといいますので、滋賀県での元三大師信仰は根強い。



慈恵大師・良源は「おみくじ」の元祖としてであったり、角大師・豆大師に変化して疫病神を払う魔除けの護符のモデルとしての方が有名かと思います。
坂本の辺りでは玄関に角大師の護符を貼っている家も見受けられ、湖南地方では豆大師を田圃の守り神としている地域があるそうです。

「角大師」は良源が夜叉の姿と化した姿を護符にしたもの、「豆( 魔滅 )大師」は33体の大師の護符で、観音の化身ともされる良源が衆生を救うため三十三の姿に化身した護符だという。
余談になりますが、良源の生誕地の虎姫にある虎御前山の展望台からは、田圃に古代米で描いた角大師の姿が拝め、「角大師の里」の文字も描かれます。



元三大師堂はもとは慈恵大師・良源の住居跡で、堂内ではあの有名なおみくじの受付がありました。
自分が進むべき道に迷っている時に、進む道を決めるのは自分とはいえ、住職に相談して元三大師に強く背中を押してもらえたら迷いなく進めるのではないでしょうか。



横川エリアは広く、全域は巡っていませんが、そろそろ歩くのも限界になってきましたので、最後の最後に「龍ヶ池弁天」にお参りして、本日の比叡山を終わりとします。
龍ヶ池に棲んでいた大蛇は人に害を与えていましたが、良源の霊力により改心して「龍神」となり、弁天さまの侍者となったと伝わります。
龍ヶ池の水中には無数のオタマジャクシがいましたが、ここはモリアオガエルの産卵場所になっているようですので、この無数のオタマジャクシはモリアオガエルなのかと思います。



西塔や黒谷ではひどい霧で視界がなく景色は全く見えませんでしたが、横川エリアや仰木へのドライブウェイでは、どんよりした雲に覆われつつも琵琶湖を眺めることが出来ました。
琵琶湖大橋の架かる南湖は湖とは思えないほど幅が狭く、まるで大きな川に架かる橋のようです。



湖南では現在地がもし分からなくても、三上山の位置で現在いる場所が推測出来ます。
写真はありませんが、比叡山から見る沖島は湖東から見る沖島とは随分と見た印象が違うことにも驚きます。



<追記>
元三大師のことをもう少し知るために「疫神病除の護符に描かれた元三大師 良源」(サンライズ出版)を入手しました。
分かりやすくてすぐに読み切れる本でしたが、次は滋賀県での元三大師の民俗信仰を詳しく書いた本を探そうかと思います。




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比叡山「椿堂特別御開扉」と西塔「弥勒石仏」~比叡山は未だに霧の中~

2022-09-25 15:52:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県には聖徳太子にまつわる伝承や伝説が多く残り、聖徳太子によって開基されたという寺院が99寺にも及ぶという。(朝日新聞記事による)
聖徳太子が実際に当時の淡海の国で活躍したかどうかは怪しいところですが、一つには飛鳥から淡海を通って越前から挑戦半島を行き来した聖徳太子ゆかりの渡来人の影響があったのかもしれません。

滋賀県では聖徳太子の伝説が多く残る反面、比叡山延暦寺を中心とした天台宗文化が多くの残るなかで、比叡山延暦寺の西塔にも聖徳太子の伝説に由来する「椿堂」があります。
現在「椿堂」では堂内と御本尊・千手観世音菩薩像が初めての特別公開されていますので、西塔エリアではまず椿堂へと向かいました。



「椿堂」は、聖徳太子が比叡山に登られた時に使った椿の杖が地に挿されたまま残され、やがて芽を出し大きく育ったという伝説に由来する御堂とされます。
最澄に遡ること約200年も前に聖徳太子が比叡山に入山したのは伝説の域は出ないと思いますが、それだけ太子信仰には根強いものがあるのでしょう。



西塔の参詣道から入り、「にない堂」や「釈迦堂」とは別方向へ進むとすぐに椿堂が見えてきます。
御堂の横には巨樹が2本。御堂の正面にはスローブが付けられていて、まだ新しいスローブの木の色が奥に輝く黄金色の「千手観世音菩薩像」を浮き上がらせるように見えます。



椿堂の説明板には“お堂の傍に伝説因んだ椿の大木があります。”と書かれていたが、御堂の周辺には杉の巨木はあっても椿の大木は見当たらない。
椿堂に居られた僧侶の方に聞いてみると“鐘楼の横にある椿がその木です。”とのことで、下がその椿の木です。



「千手観世音菩薩像」は像高は約85cmで黄金色に輝き、結縁の五色線が拝所までつながっています。
本尊の胎内には約9センチの胎内仏の「菩薩半跏像」が納められていたといい、7世紀の作とされる「菩薩半跏像」は比叡山に伝わる仏像で最古のものだといいます。



延暦寺の解説板には“太子は如意輪観音像3体を泰安し、一つは大和の橘寺・もう一つは京都六角堂に、残る一つを比叡山の椿堂に安んじた。”
“如意輪観音は三寸(約9センチ)であったことから、千手観音の木造を造って胎内仏として埋め込んだ。”
“比叡山焼き討ちの際は大泉坊乗慶が三井寺に隠し、焼き討ち後の再興に及んでこの地に戻した。”とある。

過去には通貨するだけだった「椿堂」の特別御開扉が拝観出来ましたので、次は西塔の「にない堂」方向へ歩き出します。
常行堂では現在90日間の「四種三昧」の最中でありお静かに!と注意書きがあり、堂内では常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧の行が行われていたようです。
「四種三昧」は三年籠山行の後に行われる修行で、中国の天台大師による『摩訶止観(まかしかん)』に基づく修行だという。



静まり返った「にない堂」も霧に包まれており、自然のゆらぎや鳥や蝉の声だけが響いています。
「にない堂」から石段を下って「釈迦堂(転法輪堂)」へ着くが、参拝は後にして釈迦堂の横から再び山の中へ入ります。



「釈迦堂(転法輪堂)」の左から入る山道が千日回峰行のルートだと思いますが、ほどなく「延暦寺相輪橖」が見えてきます。
「延暦寺相輪橖」は高さ11.65mの橖で、三重塔や五重塔の屋根にある相輪を柱に付けた仏塔の一種とされ、元は最澄が820年に創建。
中には妙法蓮華経や毘盧遮那経を納めたと伝えられているという。

現在の相輪橖は明治28年頃に改鋳された青銅製の橖で国の重要文化財に指定されている。
橖の下部の蓮華座の上には天女の彫刻が施されているが、ここも霧で霞んでしまい細部までは見えない。



相輪橖の近くには「弥勒石仏」があったはずなのだが、見つからずしばらく周辺の道を歩いて探してみる。
前に訪れた時はすぐに見つかったのになぜか場所が分からない。よくよく見るとシダの間に道らしきものがある。
雨で濡れたシダの間をすり抜けるのは何とも気持ち悪いので駆け足で通り抜けると香炉ケ丘にある「弥勒石仏」が見えてきた。



「弥勒石仏」は像高2.5mの大きな石仏座像で、鎌倉初期の石仏だとされます。
光背が欠けているのは信長の比叡山焼き討ちが原因ともいわれることもあり、かつてはこの辺りにあった弥勒堂が荒廃して石仏だけが残ったという話もあるという。



この石仏が発見されたのは1959年のことだといい、ある女性が釈迦堂の後ろの丘に大きな石仏があるのを発見されたのだとか。
おそらくは数百年の間、草の中に埋もれ、あるいは草に覆い隠されて風雪から守られてきたともいえる石仏ですが、霞んだ山の中でポツンと佇んでおられる姿はあまりにも孤独で且つ美しい。





石仏の背後に回り込んで光背を見ると、3つの丸い輪の中に梵字が刻まれています。
梵字は「釈迦」「文殊」「普賢」の釈迦三尊を表しているといい、下部の四角い彫り込みは経典を納めるための場所だとされています。



回峰道は先に進めば「玉体杉」から横川エリア-八王子山を経て日吉大社まで続きますが、ここまでで折り返す。
釈迦堂に参拝して境内を歩いていると、「円戒国師寿塔」のある場所に出る。
円戒国師は西塔南上坊で20年間修学されていたが、10年に及ぶ応仁文明の大乱(応仁の乱)でおきた世の惨状を見るに忍びず、社会浄化に身を挺するため、「黒谷青龍寺」に隠棲されたという。

いわゆる生前葬となる訳ですが、先ほど訪ねた「黒谷青龍寺」との縁を感じざるを得ません。
ここで気づいたのは石仏や石塔にはさまれて「板碑」が祀られていたこと。
「板碑」は鎌倉時代から安土桃山時代にかけてつくられた供養塔ですが、関東に多いとされ滋賀県では見かける機会の少ない石塔です。



西塔の最期に境内にある2本の合体杉の間に祀られた石仏を拝んで帰ります。
勝手に「木の又地蔵」と呼びますが、杉の又の部分に祀られた石仏と苔むした地面との対比が美しい場所です。



これでこの日、比叡山で予定していた場所はこれで全て巡ることができました。(「玉体杉」「黒谷青龍寺」「椿堂特別御開扉」+α)
最後に横川エリアに立ち寄ることにしますが、ここまできてやっと霧がはれてきた。なんか日常に戻っていってしまうような残念さを感じます。


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比叡山「黒谷青龍寺」~霧の中の参道を行く~

2022-09-22 17:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 比叡山の千日回峰道を峰道から「玉体杉」まで行って折り返し、今度は北谷にある「黒谷青龍寺」を目指して谷を下っていきます。
「黒谷青龍寺」は慈恵大師・良源を開基とし、若き頃の法然上人が遁世して仏道修行に励んだ寺院とされていて、比叡山の中でも辺境になる寂しい場所にあります。

比叡山には東塔・西塔・横川の3つのエリアがあり、その中には16の谷が存在して「三塔十六谷」と呼ばれるといいますが、「黒谷青龍寺」はそれとは別に「別所」と呼ばれる谷になるという。
黒谷は古くより俗世と関わりを断ち切る隠遁の地となっていたということもあり、鬱蒼とした山中の谷に青龍寺はありました。



千日回峰道の分岐の辺りでこの日唯一見た人は、若そうな女性がアウトドア系の服装に行者が使うような長い杖を持ちチンチンと鳴る錫杖か鈴のような音が聞こえて気が付いた。
横川方面への峰道を歩いていかれるようでしたが、どこまで歩いていかれるのだろうと思いつつ、当方は熊鈴をカランカランと鳴らしながら黒谷への道を下ります。



「黒谷青龍寺」は寺院の方は車の通行が可能なようでしたが、道は未舗装の林道が続きます。
しかし“谷”と名が付く場所ですので、途中からただひたすら下るのみの道に変わります。
30分くらい谷を下ることになりましたが、下りた分だけ登り返さないといけないのが辛そうです。



墓石が並ぶ参道まで来ると青龍寺の山門が見えてきて、正面には石仏が祀られている。
本堂の横にも大量の石仏や石塔が祀られており、これは比叡山全体に言えることですが石仏が各所に見られます。
信長の比叡山焼き討ちで亡くなられた方の菩提と弔われてきた歴史があるとされており、この石仏の多さは山麓の仰木の辺りまで見られます。



山に連なる斜面には石垣が積まれていて、寺院は誰も来ないような山の中にひっそりと、厳粛に祀られている。
山門前に車が1台留まっていたが、おそらく青龍寺の方が来られているようでした。
後述しますが、寺院の手前の長い石段は車も通れるようになっているようであるが、慣れた人でないとかなり危険な道に見えます。



山門から境内に入ると、まず目に飛び込んでくるのが4本の巨樹杉と真ん中にある天満宮の祠です。
比叡山の修行自体が俗世との関わりを断つことことから始まっている側面がありますが、「別所」としての青龍寺は比叡山中の辺境の寺院と呼べると思います。



境内の山側には城郭を思わせるような石垣が積まれ、苔に覆われた場所もあります。
本堂の前の椅子に座って境内を眺めていると、寂寥感が心を覆うが、逆に気持ちが落ち着いて行くような感覚にも陥ります。



建築は本堂・小堂・鐘楼などがあり、鐘楼は撞いても良いようなので撞かせて頂きましたが、寺院に詰めておられる方をのぞいて、撞いた鐘の音が聞こえる範囲に人はいないように思えてしまいます。
青龍寺は天台宗の寺院ですが、法然上人の特別霊場ということがあって、管理は浄土宗総本山の知恩院が行っているといいます。
正式名称は「比叡山黒谷青龍寺」ですが、浄土宗では「元黒谷」というといい、比叡山の信仰の多様性を感じることが出来ます。



本堂は予約拝観かと思っていましたが、実際に行ってみると拝観可能となっていて、内陣での参拝が可能です。
堂内には御朱印の必要な方は版木を叩いて下さいとあり、障子を開けた廊下に確かに版木が吊るしてあり、御朱印をもらいに来られる方が多いのかもしれません。
予約拝観の寺院だと思っていたので、黒谷青龍寺の境内や建物などの雰囲気を感じて戻ろうと思っていたにも関わらず、内部拝観させて頂けたのは嬉しい出来事でした。





参拝を済ませて本堂から出ると、屋根の下に木のベンチがあり、そこに座ってしばらく境内を眺めてみます。
境内の石碑にある法然上人の『月影のいたらぬ里はなけれどもながむる人のこころにぞすむ』という言葉を噛みしめてみる。
右側には青龍寺で修行を開始した頃の「法然像」、隣には天台宗真正派(本山・西教寺)の開祖・真盛像が並び、法然像の右側にはたくさんの石塔が祀られていました。



山門の外には先ほど降りてきた石段の急勾配が待っている。
歩く場合は真ん中を歩き、寺院の方が車を使用する際は両端の滑り止めのある部分にタイヤを載せて移動されるようです。



石段の端には無数の石塔が並びます。
名も知れぬ、名も残さず、生きてその生涯を終えた人々の菩提が祀られているのでしょう。



これより谷からの登り返しを進み、もう一つの目的であった西塔の「椿堂」特別公開を拝観したいと思います。
西塔エリアでは「にない堂」「釈迦堂」に参拝して、最後に横川の「元三大師堂」や「横川中堂」にも参拝したいと思います。


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比叡山「玉体杉」~霧の中の千日回峰道~

2022-09-19 17:07:08 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 比叡山の千日回峰行は、最初の3年間は年間連続100日を、4・5年目は連続200日の回峰行を行うといい、約30キロの回峰道を歩くという。
5年間で700日を満行した後、9日間の断食・断水・断眠・断臥の4無行の過酷な「堂入り」を行い、6・7年目で千日の回峰行を終えると「大行満阿闍梨」となるとされている。

30㌔~最大84㌔ある千日回峰道の道中で行者が唯一座ってもいいという場所には「玉体杉」という巨樹があり、無動寺回峰道と呼ばれる回峰道の西塔エリアと横川エリアの中間辺りにあるという。
比叡山へ行こうと決めていた日は前夜から雨が続いていたが、千日回峰行に雨も雪もないだろうと、ごく一部の回峰道だけではありますが、「玉体杉」まで歩くことにしました。



比叡山の山中では雨はなんとかあがったものの、霧が濃くて視界が悪い。
気温が低かった上に霧がミストのように体に纏わりついてきて体が冷えてしまいそうなのでウインドブレーカーを着てちょうど良いくらい。
麓は30℃以上になるのに朝の山中はとても寒い。



「黒谷青龍寺」との分岐で分かれて峰道の回峰道を歩くと、道自体は難コースではないが、道のあちこちに大きな水溜まりがあったりして、避けきれず靴の中が少し湿ってくる。
木々の間を飛ぶ野鳥の姿もあったが、視界が悪いため識別出来ず。近くに出てきたムシクイの仲間は、眉斑が明瞭な鳥だったものの一瞬で藪の中に消える。
何度か会った猿は単独で遠巻きにこちらを眺めている姿が多く、集団に会わなかったのは幸いでした。



途中からは木段が多くなり、登り道となる。
霧はいっこうに晴れず、頭上からは木の枝に付着した雨水が落ちてきたりして“何でこんな天気の日に山中を歩いているのだろう。”と一瞬思うが、先へ進みたい気持ちの方が優る。
回峰道を深夜の2時から6時間かけて巡拝する回峰行者の方を思えば、僅かな道中であり、この雰囲気の中でも怖さや気味の悪さは全く感じず、むしろ心地よさまで感じてしまいます。



歩きにくい道ではありませんでしたが、水たまりの多さに難儀します。
実際の回峰行は足袋と草鞋で真っ暗な道を歩くのですから、特に冬などは身も凍るような厳しい行になると思います。



回峰道の上を見上げると独特の形をした巨石があった。
滋賀県の湖東地方には巨石が見られる山が多いが、比叡山では地質の違いなのかあまり巨石を見ることはありませんでした。
滋賀県側にある日吉大社の奥宮(八王子山の頂上のすぐ下)に祀られる磐座「金大巌(こがねのおおいわ)」などはありますが、岩という意味では湖東と湖西で山の地質に違いがあるようです。



木段を登り切った開けた小ピークに近づくと、「玉体杉」の全景が見えてきます。
この居地でも枝や樹幹の部分は霞んでしまっていますが、逆に幻想的な雰囲気が心を捉えます。



玉体とは天皇の体を意味し、回峰行の行者は御所の天皇の健康祈願をしたといいます。
回峰行者の方はこの「玉体杉」の横にある蓮台石に腰かけて、天皇(玉体)や国家の安寧をもたらすための祈願をして真言を唱えられるのでしょう。



「玉体杉」は正面から見ると複数の杉の合体樹のようであり、幹周は最大で5mくらいありそうに見える。
比叡山には巨樹が何本も見られますので、特別大きな巨樹という訳ではありませんが、回峰行にとっては特別な巨樹といえると思います。



杉は二股になった部分が特徴的ですが、実際は3本の幹が並んで立っています。
どちらの方向から見ても根が盛り上がるように地面を這い、枝は大きく湾曲しています。



「玉体杉」のすぐ下には回峰行者が座る蓮台石があり、行者はおそらく夜が明ける前の暗闇の中、ここで祈祷をされているのかと思います。
当初はここから眺める京都市街の景色を楽しみにしていたが、霧に包まれて数メートル先も真っ白で何も見えず。
天気が良ければ糺の森(下鴨神社)や京都御所の森などが見えるといいますので、これは残念でした。



動画で「玉体杉」を撮ってみました。
なぜだかこの動画を撮影中にバッテリーが切れてしまい、ただの荷物化してしまいました。



最後に根っこの部分を撮ります。
尾根の上から回峰道に向かって根が伸びていて、樹勢の良さを感じる杉でした。





この地点から横川までは約2㌔。
戻ってくるのも大変なので、回峰道を分岐まで戻って「黒谷青龍寺」への谷道を下りてみます。


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「巨石の神々を訪ねる道」~東近江市猪子山~

2022-09-16 12:39:39 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 猪子山はちょっと歩くには手頃なコースで、途中までは舗装された道路があることから朝は地元の人のウォ-キングコースにもなっており、たくさんの方が歩かれている。
この道は地元の方のウォーキングの他にもトレイルランニング、繖山への縦走登山の方など訪れる方は様々ですが、古墳あり岩神あり岩舟あり磐座あり巨石あり花ありと低山ながら見所の多い道です。

「北向岩屋十一面観音」への参拝道の石段の横に分岐があり、「巨石の神々を訪ねる道」という看板が以前より気になっていました。
今回、猪子山へ訪れたのは「巨石の神々を訪ねる道」を歩いてみたかったためで、日課のように登って行かれる地元の方に交じって坂道を登っていきました。



「上山天満天神社」への分岐まで登った辺りで舗装された道に飽きてきたので、下ってきたおばあさんに神社から観音さんまで登れますか?と聞いてみる。
“登れますけど、こんないい道じゃなくて急な木の階段の道ですよ。その道はこの舗装道が出来る前の参拝道で、昔はその道を登っていたんだけど...。”
“じゃ行ってみます。”ということで、「上山天満天神社」へ参拝してコース変更になりました。



「上山天満天神社」は、御祭神に天常立命と菅原道真公を祀り、御祭神は高嶋郡比良山より岩船に乗って湖上を東に進んで繖山麓に渡って勝菅の岩屋の壇上に鎮まったと伝承されているという。
境内社は麓に祀られる「岩船神社」で、岩船神社では社殿の裏に舟の形をした巨石を祀っており、伝承と一致しています。



境内には木段の道が2カ所あり、境内入口近くの道の方が近道だと先のおばあさんに聞いてはいたが、木が被っていて薄暗さを感じたので、陽当りのいい遠回りの道から登ることにします。
この猪子山を含む繖山の道は、ほぼ木段登りになりますが、自然の中の道を歩くのは心地よいですね。



しかしながら木段の道は急勾配が続きます。
木段の登り方も多少とはいえ慣れてきていますので、辛くなはいものの、やはり息が切れます。



途中で岩の門のような場所に出てくる。
山道を登っていくと時々このように道の両端に岩のある岩門のような場所がありますが、山の聖域の境の結界あるいは山門のような印象を受けます。



そろそろ本コースに合流できるかと思い始めた頃、見晴台のような巨石のある開けた場所に出ました。
座れる場所があったのでここで給水。



見晴台からの風景は西の湖や琵琶湖、湖西の山々までが見渡せます。
猪子山から琵琶湖を隔てて北西には「白髭神社」がありますから、湖上を舟で一直線に行くことが出来れば、近い位置にあると言えます。
近年は麦への転作が増えているのか、麦の田圃が多くなっているように感じますが、麦は刈り取られた後、何に加工されるのでしょうね。



ここを登り切れば合流地点かと考えながら、名残り惜しみつつ最後の石段を登ります。
といいつつも、どこに合流するのか知らずに登っているのだから、いい加減なものです。



合流したハイキングコースは猪子山山頂を通り過ぎた場所にあり、道は北向岩屋観音方向と雨宮龍神社方向に分かれています。
今回の目的は「巨石の神々を訪ねる道」でしたので、北向岩屋観音方向へ向かいます。



さぁここからは下るだけ...と思いきや、猪子山山頂方向は再び木段の登りです。
距離はわずかですので登っていくとすぐに猪子山頂上の三角点に到着です。



猪子山は標高268mの低山にも関わらず、さほど遠くはない場所からホトトギスの鳴き声が聞こえてきたのは意外でした。
大きな山だとトケンの鳴き声って結構遠いものなのですが、小ぶりな山ゆえに声の主は近くにいるのかもしれません。

遠回りコースで登ってきましたので、通常「北向岩屋観音」へ参拝するコースとは反対になり、まず出会うのは「玉祖神命」の磐座からです。
今でこそ道が整備されていて誰でも訪れることが出来ますが、古代の山中でこの巨石を見た人々が、巨石に宿る神を感じたであろうことは想像にかたくありません。



もう一つの磐座である「天鈿女命」は、建物や観音堂が被って全貌が確認出来ませんが、「北向岩屋観音」堂がこの磐座の岩窟を覆うように建てられています。
中にある岩窟の奥には十一面観音菩薩石像が祀られており、いつ参拝しても堂内にはお線香の香りが立ちこめています。
この日、堂内では参拝者がずっとお経をあげておられましたので、堂内に入るのを遠慮しましたが、参拝者の多い観音堂です。





「巨石の神々を訪ねる道」は、上からだと「北向岩屋十一面観音」の休憩所の裏の階段から降りていくことになります。
道に点在する巨石は、巨石の神々と案内されているが、信仰の対象だったのかは不明です。

最初に登場するのは「白瀧大神(屏風岩)」で、フレームには納まらないサイズの巨石はまさに屏風岩の名に相応しい。
思わず水木しげるの漫画に登場する妖怪「ぬりかべ」を思い起こしてしまいますね。



「猪岩」は、見ようによっては猪(四つん這いの動物)に見えますが、果たして如何にといったところ。
巨石は、形のイメージから動物の名前や顔に見立てられていますので、後から岩の名前が付けられたのかもしれません。



「天児屋命(モアイ神)」の天児屋命は、天岩戸にこもった天照大神を引き出すために、祝詞を奏した神とされており、中臣氏及び藤原氏の祖神とされている神。
しかしながら「モアイ神」という名称はないだろうと思いつつも、正面から見るとモアイ像の顔に見えてくるのが面白い。



「巨石の神々を訪ねる道」は「北向岩屋十一面観音」の裏参道にあたる位置にありますが、大多数の方は表参道の石段を登られているように思います。
また猪子山~繖山の縦走をされる方が登る道ともずれているため、巨石に興味のない方はあまり通られない道かと思います。
道路が出来る前の参道がどうなっていたのか?参詣道が通じていたのか?など興味深いですね。



「石凝姥命(母ゾウ神)」の石凝姥命は、、天照大神が天の岩屋戸に隠れた時に鏡を作った神とされている神で、この神も天の岩屋戸神話に関係する神です。
母ゾウ神とも名付けられていて、確かにゾウを正面から見た時の姿にも言われてみればゾウにも見えます。



「母ゾウ神」と対になるのは、「子ゾウ岩」。
こちらの岩もゾウがこっちへ向かって歩いてくるような姿をしています。
自然の巨石を信仰の対象として祀るといった感覚よりは、動物の姿に例える柔らかな見立てとなっているのがこの道の特徴なのでしょう。



「巨石の神々を訪ねる道」の最後は「太玉命(人面神)」でした。
太玉命は、玉を用いて祭りを行う司祭者とされ、天照大神の岩戸隠れの際に、勾玉や鏡や和幣などを取り持って祭りを行ったとされます。
人面に見えるかどうかは人それぞれでしょうね。




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田村山(一簣山)の国造り神話と民話「鯉が池」と「猫岩」~滋賀県長浜市の低山~

2022-09-12 06:13:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 長浜市の南端、琵琶湖からほど近い場所にある「田村山(一簣山)」は、標高138mの低山で、ものの数分で山頂に到着出来てしまうような山です。
しかし、こんな低山と言う勿れ、田村山(一簣山)には琵琶湖と富士山にまつわる神話や、雨乞いの民話が残る伝説の山でもあります。

田村山が(別名)一簣山と呼ばれる由来となっているのは、次の神話によるという。
神々の時代に、日本一高い山と日本一大きな湖をつくるために、近江の土を掘って富士山を造った時に、掘った跡が琵琶湖になり、運んだ土が富士山になったという神話がある。
月の神さまに照らされて神々はモッコ(簣)で土を運んだが、夜が明けてしまいモッコに残った土がこぼれて出来たのが田村山(一簣山)だという。(同じ話は三上山にも伝わる)



琵琶湖方面から田村山へ向かうと、「忍海神社」の一之鳥居へ到着し、長い参道を歩いて本殿へと進むことになる。
二之鳥居からは鬱蒼とした境内に入り、静寂に包まれた本殿は、田村山を背負ったような場所にある。



境内では地元の方が朝の参拝に来られており、挨拶を交わしたが、毎日の日課にされている方が複数おられるようです。
「忍海神社」は御祭神に素盞鳴尊を祀り、上古より鎮座していた「只越神社」と明治の時代に「一簀山神社」が合祀された後に付けられた社名とされている。



滋賀県では集落や地域でお祀りする神社が各村単位でありますが、どこの集落へ行っても立派な社殿の神社が多いことに驚く。
忍海神社も同様に、大きな鳥居と広い参道、立派な本殿と整備された境内から、集落で手厚くお祀りされていることが伺われます。



本殿の周辺にはかつては御神木であったと思われるスギの切り株が3本あり。
伐られた切り株からはシダのような植物が芽吹いていて、生命の循環や逞しさを感じることが出来ます。



神社の境内でお会いした方に“田村山はどこから登ればいいですかね?”と聞くと、“どこからでも登れますよ!”とのことでしたので、神社脇にあった登山口から登ってみる。
雨が続いていたので地面は濡れていて滑りやすいが、傾斜がそれほどでもないので歩みは早い。



すぐに分岐に到着して尾根道に出たので、まずは山頂方向へ向かってみます。
道は広いし、倒木や躓きそうな根もないが、カラスのネグラでもあるのかやたらとカラスの声がして飛び交う姿を見かける。



尾根道を直進していったら「鯉が池」という枯れ池が見えてきた。
今は窪みしか残ってはいないが、この池には民話「鯉が池」の話が伝わるという。

「鯉が池」には池の主という大きな鯉が住んでいて、村里に住む娘に恋をし稚児の姿に化して会いにきて、二人は恋に落ちる。
娘の母は、稚児の家を知りたくて、稚児の裾に釣り針を取り付けて糸でたどれるようにしたところ、山頂の池の中に釣り針を付けられて死んでいる鯉を見つける。

母親の夢枕に稚児が出てきて“この付近は水不足になるだろう”と語り、悔いた母親は池までお詫びに行く。
すると急に空が曇り、大雷雨となり、池の中から大きな鯉が現れ、龍と化して中天目指して昇って行ったという。
この民話には幾つかのバリエーションがあるようですが、この地における雨乞いに関する民話なのかと思います。



さて、少し道を戻って山頂を目指して登っていくと、すぐに山頂に到着します。
麓から数分で山頂に到着しましたから、里山散策といった処でしょうか。



山頂の広場には三角点があり、これは二等三角点で、点名は「加田村」というのだという。
こんな低山にも三角点があるのかとも思ったが、そもそも三角点は測量をするために4㌔おきに設置されているものなので、山の高低とは関係はないようですね。



山頂の近くにはベンチが置かれた展望所があり、そこからは伊吹山や霊仙山が見渡せるようですが、雲に阻まれて景色は見えない。
落葉して晴れた冬に訪れれば、冠雪した伊吹山や霊仙山が見渡せそうです。



田村山の山頂や「鯉が池」は山の東側にあり、分岐まで戻って尾根道を西に進むと、忠魂碑と琵琶湖の景色が望める場所があります。
この案内板は田村山では唯一の案内です。田村山には4カ所くらい登り口がありますが、尾根道に出たら東西に行ったり来たりすることになります。



忠魂碑の前からは琵琶湖や竹生島が望めます。
実はこの場所は、撮り鉄の方の撮影ポイントになっており、「SL北びわこ号」が運航していた頃は、撮影の方が車で駐車する場所を探すのも困難だったとか...。



ここで下山することにしましたが、帰りは別の道を選び、忠魂碑の横から下山して「多田幸寺」の横へ下りました。
「多田幸寺」は平安時代に天台宗寺院として開かれ、国の重要文化財の本尊・薬師如来坐像を祀られているという。
寺院は個人拝観されていないため、初薬師の日に参拝するか50年に一度の御開帳を待つしか拝観出来ない仏像だとされています。



ところで、田村山には「猫岩」という岩石群があるはずであったが、場所が分からず下山してしまったのが心残りでした。
どうしても見て見たかったので、地図で道を確認し直して、もう一度登り直して「猫岩」を探しに行きました。
「猫岩」への最短コースは猫石登山道から登ることですが、車を駐車する場所がなく、一旦山頂まで登り切って下山していくという遠まわりルートで行きました。



信仰があった気配は感じられませんが、山で出会う岩石群には心惹かれる思いがします。
圧倒されるような巨石ではないものの、周辺が綺麗に整備されていることを考えると、山の見所のひとつにと地元の方が尽力されているのかもしれません。
あるいは遠い昔には何らかの信仰の対象となっていたことも考えられますね。



田村山は標高も低く、単立で大きな山とは言えない山ですが、実際に登ってみると神話や民話が残り、岩石群もある山でした。
自分の足で歩いてみると、小さなことでもいろいろと発見があるものです。




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己高山 「居張瀧(イバリ滝)」と「施環の瀧」~長浜市木之本町古橋~

2022-09-08 06:25:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県湖北地方に聳え立つ「己高山(標高923m)」は、古くから霊山として信仰を集めたとし、奈良時代に北陸より「白山信仰」、平安時代には比叡山天台宗の影響を受け、独自の信仰へとつながっていったという。
融合して結びついていった信仰は、「己高山仏教文化圏」を形成して平安期には己高山7ヶ寺が栄えたといい、観音信仰は湖北一帯にひろがっていったとされています。

己高山の山中には行きたい場所が複数あるのですが、古橋辺りは熊の出没情報も多く、一人で登るのは怖い感じがして行けない山になっています。
ガイドツアーがあれば参加したいと思いますが、通常は登山客の多い山なのかも不明で、長浜の観光情報サイトにも“1人での登山は控えていただくとともに熊の出没情報にご注意ください。”とある。



山登りはいずれ機会があればということになりますので、己高山の山麓にある2つの滝へ行ってみることにしました。
古橋から己高庵方向へ向かうと、登山届の提出BOXと登山者用の駐車場があり、その先には分岐があります。
目指す滝は有名でも人気のある滝でもないものの、滝は分岐の左の道の先と右の道の先に1曝づつあり、まずは左の道を進んでみる。



林道は砂利道とはいえ、最初は平坦な道でしたが、段々と細くなり穴ぼこだらけの酷道になってしまいました。
そもそもこの道は、林業関係者以外の方が通る道ではないようで、登山者は歩いて登山口を目指すための道です。
とはいえ、車で入ってしまったものは仕方がない。行ける所まで進むことにします。



8月初旬に大雨で増水した高時川が氾濫しましたが、己高山の渓流も雨続きで水量が多く、渓流の横の林道にも水溜まりが幾つも残って、薄暗く小雨まで降ってくる。
林道を走るのは慣れてはいるとはいえ、こんなボコボコした道は緊張しますし、どこかにUターンできる場所はあるのだろうかと不安にもなる。

登山するとなるとこの道を30分くらい歩かないと登山口にすら到着出来ませんので、林道歩きだけで心が折れてしまいそうです。
林道の雰囲気を動画で撮りたくなって撮り出したが、地面がボコボコで車の揺れが激しく冷や冷やものです。



林道の途中には「山ノ神」の看板が立ち、道の反対側には石の祠が祀られ、祠の周辺を樹木が取り囲んでいます。
山ノ神には、春になると山ノ神が山から降りてきて田の神となるという言い方がされますが、ここではむしろ林業などの山仕事の神としての性格が強いのではないでしょうか。



祠のすぐ下には高時川に流れ込む渓流があり、山への信仰と同時に水の恵みへの感謝の祈りを奉げた場所なのかもしれません。
古橋集落では山麓に山ノ神、集落の境界に野大神が祀られていますが、同じ神が季節によって交替しているのかどうかは定かではない。



もうすぐ登山口の分岐という所までくると、巨石の上から流れ落ちる「居張瀧(イバリ滝)」へと到着します。
「居張瀧」は己高山鶏足寺が華やかなりし頃、行者達はこの瀧に打たれて心身を清めて登山したと伝えられているといいます。



見上げるような巨石から流れ落ちる滝は、霊山・己高山の場の雰囲気もあって実に神秘的です。
雨が続いた時期でしたので水量はやや多めのようでしたが、轟音と共に水が流れ落ちて行をするような滝ではなく、山へ入るための禊のための滝といった感じです。



巨石の滝の水の落ちる部分には、人が禊に入るのにちょうどいいくらいの凹みがある。
現地の案内板には“水量豊富のとき瀧に向かって目を閉じると瀧音とともに白装束の行者の姿が浮かびます。”と書かれてあり、想像するとちょっと怖くなる。



己高山にかつて存在して現在廃寺となった寺院の仏像や寺宝は「己高閣・世代閣」に納められており、己高山七ヶ寺を引き継ぐ寺院には多数の仏像が残されています。
己高山仏教文化圏に属する寺院(観音堂)の仏像群は、仏像としての見事さとともに、守り続けてきた村の人々の想いの強さがあり、「観音の里」と呼ばれるに相応しい信仰の歴史があります。
その信仰の中心にあった山ですから、この滝ひとつをとっても神秘的な空気が漂います。





登山口手前の分岐には谷を流れる渓流に架かる橋があり、そこから見た渓流の様子です。
橋の上からの上流方向と下流方向ですが、なかなかの激しい水流になっています。





ここでUターンできましたので、登山届の提出BOXがあった分岐まで戻って、今度は分岐の右の細い道に入ります。
道を進んでいくと「施環(せんかん)の瀧」というもう一つの滝があり、滝見台も設置されています。



「施環の瀧」には往古 役小角がこの川上に座す神に参詣の際、水垢離をしたという伝説の滝で、以来この地を訪れる多くの僧達がこれに習ったという伝承があるという。
滝は数mほどの小さな滝で、木々が茂っているため見にくいが滝壺があるのは確認出来ます。



滝見台は滝の上から落下口を見降ろすような場所にあり、水が落ちていく様子が見れます。
目的であった2つの滝を見ることが出来ましたのでこれで戻りますが、この道ではUターンする場所が見つからず延々とバックで林道を戻ることになってしまいました。



「施環の瀧」から山中を進むと法華寺跡があるといい、法華寺は羽柴秀吉に寺小姓だった石田三成(佐吉)が三杯の茶を出した「三献の茶」の伝承が伝わります。
同じ話は米原市の観音寺にも伝わりますので真偽のほどは分かりませんが、光成の母の実家は古橋とされていますので、法華寺との縁があった可能性があります。
また己高山の山中には、関ヶ原の戦いに敗れた石田三成が逃れたとされる「大蛇の岩窟・オトチの洞穴」が残っているといい、光成と古橋(己高山)のゆかりの深さが伝わります。




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映画「ブレット・トレイン」~世界一運の悪い殺し屋 ブラッド・ピット~

2022-09-04 12:50:00 | アート・ライブ・読書
 “世界一運の悪い殺し屋”ことレディバグ( ブラッド・ピット)が受けたミッションは、東京発京都行の超高速列車に乗っているブリーフケースを回収して次の駅で降りるという簡単な任務でした。
しかし、列車にはブリーフ奪取の指令を受けた9人の殺し屋が乗り込んでおり、次々と襲われながらも、劇中でそれぞれの殺し屋との因縁が明らかになっていく。

撮影はコロナのパンデミックとロックアウトにより日本でのロケーションは行われず、アメリカのスタジオで製作されたこともあって、日本のようで日本でないような光景の中で新幹線のようで新幹線ではない「ゆかり」号が疾走する。
出演者の一人である真田広之さんは、殺し屋木村の父で元はヤクザの大親分の峰岸の舎弟の設定ですが、年月を経て老いた剣の達人で登場する姿は、ドラマ「ウエスト・ワールド」のムサシのキャラを連想させます。



「ブレット・トレイン」はハチャメチャでスピード感のあるストーリーでありつつも、ストーリーが散りばめられたエピソードに全て結びついていき、最後まで目の離せない映画でした。
映画館の大画面・大音響の中で見てこそ楽しめる映画だったと感じ入り、映画の楽しさを再認識させられる映画だったと思います。

映画館で映画を見るのはコロナ渦もあったので久しぶりで、最後に劇場で見た映画はクエンティン・タランティーノ監督作品の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」。
この映画でブラッド・ピットはディカプリオと共演していましたが、どちらの映画でもタフだけど冴えない男のキャラをうまく演じていますね。



ところで、映画でのブラッド・ピットの不運と当方の不運がリンクしてしまったエピソードです。
映画館に入る前に自動販売機で飲み物を買おうとしたところ、ゴトンと飲み物が落ちる音がしたのに、取り出し口には落ちてこない。
返金レバーを回しても手ごたえはなく、取り出し口から手を入れても何もない。自販機をゴンゴンと叩いて口をついた言葉が“クソ野郎!”。

130円損したと気分が悪かったが、映画の中で同じような自販機にお金を食われるシーンが出てきた時は大笑いでした。
吐き捨てた言葉まで映画のシーンと同じでしたので、どうやら当方は映画を見る前からてんとう虫( ブラッド・ピット)の不運に感染していたようです。



「ブレット・トレイン」はハリウッド映画ですが、原作は日本の作家・伊坂幸太郎の「殺し屋シリーズ」の第2作「マリアビートル」です。
「マリアビートル」は第1作の「グラスホッパー」の続編になるということで、中古本チェーン店で2冊とも購入してきました。
映画と原作の違いや共通点が楽しみですが、さてどちらの本を先に読み始めましょうか?


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