僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~和歌山新宮市 熊野速玉大社

2017-08-31 18:39:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』は、奈良県の「吉野・大峰」、和歌山県の「高野山」「熊野三山」の三つの霊場と奈良県・和歌山県・三重県に連なる3本の参詣道を対象として登録されています。
その中の「熊野三山」は「熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社」の3つの霊場のことをいい、日本古来の自然崇拝と修験道の修行の場であったとともに仏教との神仏習合が融合した文化の地とされています。

近畿にありながら未踏の地であった熊野地方でしたが、気持ちの切替をしたい時期でもあったことから熊野詣を計画し、この度ついに訪れることが叶いました。
和歌山県新宮市出身の文豪・佐藤春夫の“空青し 山青し 海青し 日はかがやかに 南国の...”の詩そのままの快晴(猛暑)に恵まれて、初の熊野三山への旅で大いに気持ちをリセット(甦り)することができました。



最初に参詣したのは「熊野速玉大社」。
縁起によると、熊野の神々は神代の頃に神倉山のゴトビキ岩に降臨され、景行天皇五十八年(128年)に現在の社地に神社を造営されたといいます。
その際に「新宮」と号されたそうですので、それが現在の「新宮市」の名につながっているのかもしれませんね。





鳥居を抜けて参道を歩いていくと、樹齢1000年といわれる巨大な梛(ナギ)の木があり、目を奪われます。
この御神木は高さ20m弱・幹周り5mとされ、平重盛(清盛の長男)のお手植えとも伝わるようです。
“ナギ”は読みが“凪”に通じることから海上安全の護符として、葉が左右対象で切れにくいことから夫婦円満(良縁)のご利益があるとして信仰を集めているそうです。



神門には“日本の祈り 未来へ繋ぐ”と書かれてあり、神仏習合の色合いが感じられる言葉に感じられます。
言葉からは、修験道的な厳しさよりも仏教的な柔らかさの印象を受けてしまいます。



拝殿の奥には「結宮・速玉宮・奥御前三神殿・上三殿・八社殿」の各宮が並んでおり12柱の神様が祀られているとされます。
主祭神が祀られているのは結宮と速玉殿になりますが、社殿は1883年に全焼し、再建された現在の社殿は1967年の建物ですので建物自体は古いものではないようです。



主祭神は「熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)」と「熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)」の夫婦神です。
熊野速玉大神は「伊邪那岐神(イザナギ)」、熊野夫須美大神は「伊邪那美神(イザナミ)」となりますから、イザナミ・イザナギの国産み・神産みの夫婦が祭神となっているということになりますね。



神社の屋根にはよく“鰹木(かつおぎ)”や“千木(ちぎ)”がありますが、千木の先端部を見ると男神か女神のどちらを祀っているかが分かるといわれます。
先端部が“内削ぎ(水平に削る)”のが女神で、“外削ぎ(内側を先端にして斜めに削る)”が男神となりますが、男神・女神の両方を主祭神に祀るこの神社は非常に分かりやすい千木になっていました。





熊野は神仏習合の色濃いところがあり、神仏習合の考えから本地垂迹という神々は仏の化身として現れた権現とする思想があるようです。
例えば、“熊野夫須美大神の本地仏は千手観音”、“熊野速玉大神の本地仏は薬師如来”、“天照大神の本地仏は十一面観音”となるようです。



並ぶ社殿とは別の位置に建てられているのは「手力男神社」と「八咫烏神社」。
天手力男神は、天照大神(イザナギ・イザナミの子とされる)を天岩戸から引っ張り出した力の強い男神といわれます。

八咫烏は三本足のカラスで、神武天皇御東征に際に天皇の軍隊を熊野国から大和国へ道案内し勝利に導いたとされることから、熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社)では八咫烏を「神々の使い」として信仰しているそうです。
そのせいか、熊野の各地で八咫烏の像をよく見かけることになりました。





熊野速玉神社にはいくつかの国宝・重要文化財を所蔵されており、その一部を熊野神宝館で展示されています。
館内では太刀や神服など展示されていましたが、気になったのは館の入口に置かれていた武蔵坊弁慶の像だったかもしれません。

比叡山ならともかく、なぜここに弁慶像があるのか不思議でしたが、調べてみると...
・弁慶の出自は速玉大神に仕えた熊野三党の一つの鈴木一族であった。
・源義経に従った弁慶は源頼朝の追討を受けてこの地で討死した。...と書かれてありました。



冒頭で引用した詩人・作家の佐藤春夫は明治末から昭和にかけて活躍した方で故郷・新宮を愛してやまなかった方と聞きます。
アンソロジー本で短編を読んだ程度なので作品のことは詳しくは分かりませんが、この洋館は佐藤春夫が亡くなるまで過ごした家ということです。
神戸異人館にあるような洋館の中には和室や八角塔などがあり、特に八角塔の中にある八角形で広さ2畳ほどの書斎はここで過ごしたら落ち着くだろうなぁと思うような部屋でした。



紀伊半島を新宮まで下る道は、三重県に入った辺りから深い山々の間をすり抜けていくような道です。
長距離ドライブで山の美しい景色に飽きてきた頃に広々とした太平洋が見えてきて、景勝地や延々と何㌔も一直線に続く長い浜があります。

日差しは滋賀県に多い曇空とは違って燦々として、明るさが全く違いますね。
ミカンが年中収穫出来る場所があるということでしたが、色づいた稲穂も随分と時期が早いようにも思えます。
和歌山南部は、まさに南国の雰囲気といった印象を強く感じる、“空青し、山青し、海青しの国”です。


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御朱印蒐集~京都 高雄 高雄山 神護寺~

2017-08-27 20:19:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 日本に密教を伝えたのは「比叡山延暦寺を開山した伝教大師・最澄」と「高野山金剛峯寺を開山した弘法大師・空海」になりますが、京都・高雄山の中腹に建立された神護寺は密教の2大開祖の最澄と空海が入山した寺院とされています。
最澄と空海は804年に遣唐使として唐へ渡りますが、最澄は宮廷の侍僧として派遣され、空海は私度僧として留学していますので身分や扱いは随分と違ったことでしょう。

いわゆるエリート官僚のような立場であった最澄と、在野の一人の僧であった空海が後に日本の密教界の両巨頭となったのはある意味で興味深い話です。
さらに最澄は1年間の留学予定でしたが、空海は20年後に帰国するように命じられていたそうですから、すぐに帰国して欲しいと望まれて渡唐した最澄と短期での帰国を望まれなかった空海とでは宮廷の期待度にもかなり落差があったようです。



結局のところ空海は、青龍寺の恵果和尚より密教の奥義を伝授され、約半年間の修行で胎蔵界・金剛界の灌頂を受けて、2年間の留学で帰国してしまいます。
これは空海は唐に渡る前にすでに密教の知識を得ていたという説もあり、密教習得の準備万端で唐へ渡った確信犯といった感があります。

空海は20年の留学の約束を2年で切り上げてしまったためそのまま都へ入ることは叶わず、太宰府に数年の滞在をした後に京都高雄の神護寺へ入り14年間滞在したとされます。
京都・東寺や高野山・金剛峯寺での空海の活躍はその後の時代になるということになります。



寺院近くの駐車場に車を停めて寺院へ向かおうとすると、駐車場のおじさんが熱心に寺の歴史や見所、参拝順序などについて説明してくださります。
同世代くらいかと見えましたが、“今日は蒸し暑いので一回りすると汗びっしょりになるだろうから、戻ってきたらそこの清滝川の冷たい水でひと泳ぎするといいよ。”と真面目な顔でおっしゃられるので少々驚きます。
“石段が結構キツいけどだいたい20分くらいで登れるよ。”と言われて登りかけましたが、覚悟して登ったこともあってか?この石段はあっけなく登りきることが出来ました。





参道を上り詰め、楼門が見えてくるようなると石段の幅が広くなり、青モミジの美しさに楼門が実に良く映えて見えます。
神護寺は紅葉の名所だそうですが、青モミジの季節も非常に美しいと思います。最高気温が35℃を超える時期でしたから訪れる人も少なかったですしね。



楼門には左右に仁王像が睨みを効かせていましたが、神護寺の仁王様は筋肉隆々にデフォルメされた像ではなく、リアルなマッチョといった印象を受ける像でした。
この楼門は江戸初期の1623年の建立とされます。



境内には堂宇がいくつかありましたが、駐車場のおじさんから“まずかわらけ投げで厄除けしてから金堂へ行くのがよい。”と言われていましたので、言いつけ通りにまずは“かわらけ投げ”で厄除けを致しました。
どこを狙ったらいいのかよく分らないままに真っ直ぐ遠くへ投げようと気合を入れて投げたものの、3投全てがヘナヘナと落ちて行ってしまいました。
かわらけ投げは不調に終わりましたが、この高雄の景色はホント山ばかりで、山中の古刹にいるのが堪らなく嬉しくなってくる。





さて金堂へ行くにもまた雰囲気のいい石段がありました。
神護寺は平安時代に2度焼失していて、1184年に後白河法皇の勅許を得て、源頼朝の援助もあって往年以上の復興を果たしたとされます。
しかし応仁の乱によって再び焼失。1623年に楼門・毘沙門堂・五大堂・鐘楼を再興、現在の金堂と多宝堂は1934年に新築されたものとされます。



この神護寺は空海と縁の深い真言宗の寺院ですが、開基は平安京造営の責任者であった和気清麻呂とされます。
清麿はここ高雄に愛宕五坊の一つとして高尾山寺を建立し、清麿の祈願寺であった神願寺を824年に合併して「神護国祚真言寺」と寺名を改めたそうです。
最澄や空海が入山したのは高尾山寺の頃に和気一族に招かれたからといわれます。



神護寺金堂には真言密教由来の仏像が数多く祀られていましたので、かなり興奮して拝観させていただきました。
本尊は国宝の薬師如来立像。両脇には向かって右に重要文化財の日光菩薩立像、左に同じく重要文化財の月光菩薩立像(共に平安時代前期)。

その横には室町時代の十二神将立像が6躰づつ並び、両端には四天王(右に多聞・持國、左に広目・増長)が守護しています。
その他にも阿弥陀如来坐像(鎌倉期)、愛染明王(鎌倉期)が祀られ、昭和時代の大黒天・如意輪観音・地蔵菩薩・弁財天と須弥壇・脇陣に仏像が並びます。

内陣に座って当方があまりに熱心に見ていたこともあってか、僧侶の方から“神護寺は初めてですか?”と聞かれ、“仏像に見惚れてました。”と答えると寺歴や仏像について説明をしてくださり助かりました。


「薬師如来立像」(国宝)・・・ポストカード

御本尊の国宝・薬師如来像は像高約170cmのカヤの一本造りでその表情も相まって威圧感を感じる仏像です。
手の位置がやや高く、右手には施無畏印を結び、左手には薬壺をお持ちの平安時代初期の延暦年間の作の非常に力強い感じのする貞観仏ということになります。

この薬師如来立像は写真家・土門拳も撮影されており、土門さんは“「好きな仏像は」と問われれば、即座に「神護寺 薬師如来立像」と答えるのが常である。”と言葉を残されています。
以前に購入した土門拳の写真集を改めて見直してみると、確かにこの薬師如来像の鬼気迫るような写真が載せられていました。


「薬師如来立像」(国宝)・・・ポストカード

神護寺にはもう1躰、重文の薬師如来がありますが、その仏像は薬師如来像は京都国立博物館に寄託されています。
実はその仏像は京都国立博物館で開催された「海北友松展」での「仏像入門」の展示室にも展示されていたのを記憶していますが、どんな仏像だったかとなると記憶が曖昧となってしまいます。




十二神将(室町期)・・・パンフレット

神護寺にはもうひとつ国宝の仏像があり、多宝堂の中に収められていますが、通常非公開で春と秋の特別公開の時しか見ることは出来ないようです。
その仏像は「五大虚空像菩薩像」という5躰の仏像で、写真は公開されているので雰囲気は分かります。
特別公開の時は訪れる人が多いそうですから、金堂の内陣には入れなくするようですので両方の仏像をを観て堪能するというのは難しくなるようですね。



境内の堂宇は、「重文・毘沙門天立像(拝観不可)を祀る毘沙門堂(江戸時代)」・「重文・板彫弘法大師像(秘仏)を祀る建物としても重要文化財の大師堂」・「五大堂(江戸時代)」などが立ち並びます。
僧侶の方から説明のあった明王堂の話では、神護寺にはかつて弘法大師が彫られたとされる不動明王像がありましたが、その像は平将門の乱の時に関東へ出開帳され、御本尊として成田山新勝寺が建立されたとされます。
現在の明王堂の不動明王像は、平安時代の後期に神護寺に収められた仏像と考えられているそうです。



さらに興味深い話として、成田山新勝寺は歌舞伎の市川家とつながりが深く、成田山の山号から「成田屋」の屋号にもつながっているとの話があります。
不動明王ゆかりの逸話があってのことなのかもしれませんが、神護寺の明王堂には七代目市川團十郎の筆になる扁額が掛けられていました。



寺院の出口付近には空海が硯に見立てたとされる硯石が祀られていました。
この硯石にも空海ゆかりの逸話があるようですね。



寺院を出て駐車場まで戻ってくると、再び駐車場のおじさんとの話の再開です。
“これから何処へ行くんですか?高雄を巡ってみるとまだ見所がありますよ。”と言われたのですが、“市内へ出て行きたい所がありますので。”としばらく話をしてお別れする。

神護寺への道は季節柄もあって走行する車はほとんどないのですが、このおじさんは道路の真ん中まで出てきて満面の笑顔で大きく大きく手を振って見送ってくれています。
その姿はゆるやかなカーブを過ぎてルームミラーで後方が見えなくなるまでそのまま見送ってくださっているのが確認出来ます。
感動してしまうくらい大きく大きく大きく手を振られている...その姿が未だに心に焼きついています。


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御朱印蒐集~大津市 紫雲山 聖衆来迎寺~

2017-08-24 07:03:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 人間国宝の噺家「桂米朝」さんは、『地獄八景亡者戯』という1時間を超える大ネタを得意とされていたといいます。
『地獄八景亡者戯』は、米朝さんが埋もれかけていた上方落語の古い噺を聞き取り再構築して完成させた噺だそうですが、これがとにかく面白い。

食あたりで死んだ男が冥土の旅に出るところから噺は始り、「三途の川」「賽の河原」「六道の辻」「閻魔の丁」などのお馴染みの冥土の旅をしていくのですが、次々と登場するご気楽な死者達が場面ごとにドタバタ劇を演じます。
地獄への旅路の世界も現世同様の人間臭い登場人物ばかりが登場し、「三途河(しょうづか)の婆」の半生記、渡し賃をダジャレで決める「渡し舟の鬼」、御堂筋ならぬ「冥土筋」には芝居小屋や寄席が軒を連ね、寄席には現世にいた米朝さんが“近日来演”の看板まで掛かる。また新興宗教まで含んだ各宗旨の「念仏」商店が並ぶ「念仏通り」など、珍奇な光景が繰り広げられる「地獄めぐり」の噺です。

さて、「地獄めぐり」に旅立つにはまだ早いと思っている当方とはいえ、地獄の様子が見てみたい!ということで大津市比叡辻にある「聖衆来迎寺」へ地獄絵図を拝観しに参りました。



聖衆来迎寺は、比叡山の麓“坂本”の近くにある天台宗の寺院で、寺伝によると790年に伝教大師によって地蔵教院として建立されたと伝わります。
1001年には比叡山横川恵心院の先徳源心和尚(恵心僧都)が紫雲山聖衆来迎寺と称し、念佛弘通の道場の寺として開山したとされる寺院です。



「表門」は明智光秀の坂本城の旧城門と伝えられている重要文化財指定を受けた門とされます。
大津の坂本界隈へ訪れると明智光秀の名を聞くことが多くなりますが、坂本の地は光秀が城主だった坂本城のお膝元だったことが大きく影響しているのでしょうね。





さて、聖衆来迎寺は「比叡山の正倉院」とも呼ばれる国宝・重文が数多く収蔵されている寺院ですが、それは1571年の織田信長の比叡山焼き討ちを免れたことが一つの理由とされています。
なぜ焼き討ちを免れたのかは、1570年に信長に敵対する浅井・朝倉連合軍と戦って討死した宇佐山城主・森可成(森蘭丸の父)を当時の住職が密かに運んで葬ったことに信長が恩義を感じていたためといわれています。
この戦には反信長側として比叡山延暦寺の僧兵も加わったとされますが、同じ天台宗の寺院でありながら敵方だった森可成を葬った住職の菩提心が寺院を救ったということになるのかと思います。



聖衆来迎寺では毎年8月16日に「十界図(絹本著色六道絵 15幅 )」が寺宝「虫干会」として公開されます。
十界図(地獄絵図)は鎌倉時代に描かれたもので国宝になっていますが、オリジナルは博物館に寄託されているため、公開されるのは模本です。
ただし、模本とはいえ250年以上前の江戸時代に描かれたもので、保存がよいため色彩豊かで見ごたえ充分の絵図だったと思います。






この地獄絵図は、源心(恵心僧都)が『往生要集』の中で説いた六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上界)と六道の上にある「仏界・菩薩・縁覚・声聞」を合わせた十界を現した「十界図」を絵図にしたものとされます。
『往生要集』は念仏により、西方極楽浄土の阿弥陀如来の国に往生することを書いた本とされ、文中には地獄の様子が精細に記述されているようです。



地獄への入り口のまず最初の難関は、「閻魔王界罪科軽量決断所」での閻魔様の裁きになるのでしょうか。
娑婆にいた時の罪科を問いただされれば、誰だとて“叩けば埃が出る身”。罪を告白させられてしまうのでしょう。





第二幅の「等活地獄」は“生き者を殺した者が行く地獄”で、“極熱の糞尿を喰らわされる”、“鉄の鍋で豆を煎るように煎られる”という怖しい地獄です。
またこの地獄に落ちる者は、お互いに敵愾心を抱き、罪人同志が争い、血肉をかきむしりあって骨だけが残るとされますが、骨になっても何度も元の状態に戻され、その苦しみは500年間続くといいます。



第三幅の地獄は「黒縄地獄」といって、“生きものを殺し、盗みを働いた者が落ちる地獄”。
苦しみは等活地獄の10倍となり、体を切り刻まれ炎で焼かれる怖しい地獄は千年続くといわれます。
永遠とも思える年月の間、苦しみ続けなければならないのでしょう。



第四幅の地獄は「衆合地獄」でこの地獄は“生きものを殺し、盗みを働き、淫欲にふけって善行に励まなかった者が落ちる地獄”とされていて、この地獄では寿命が2千年になるといわれます。
“淫欲にたぶらかされて刀の刃の如き樹を昇り降りして、体がズタズタになっても淫欲が止まらない”とか、“口を開いて炎を流し込んで臓腑を焼き尽くすのでその苦しみはいいようがない”とありましたが、それが2千年繰り返されるとはまさしく地獄の中の地獄です。



『人間界』には前世において五常・五徳を保った徳によってたどり着ける世界とされます。
人間は死ぬと九つの相を経て、醜くも腐敗していき、最後は灰になり冥道へ行く。生きとし生けるものの無常観を感じてしまいますね。





地獄絵図を描いた絵師は、よくこんなサディスティックで、またマゾヒスティックな絵を発想をしたものです。
源信(恵心僧都)の『往生要集』に書かれた話を絵図にしているとのことですが、往生要集では“心を清らかにして仏を念ずれば必ず救われる”と締められているそうです。

さて、地獄の怖しい話はここまでとして、聖衆来迎寺には仏像などの文化財が多く収蔵されています。
地獄絵が虫干しされている本堂(重文)には三体本尊として、「釈迦如来坐像」「阿弥陀如来坐像」「薬師如来坐像」が祀られていました。
三体本尊の中で「釈迦如来坐像」は鎌倉時代の作とされて重要文化財指定を受けていますが、他の2躰は製作年代がそれぞれ違うということです。



脇陣にも「馬頭観音」、平安~鎌倉期の「地蔵菩薩立像」が「不動明王と毘沙門天」を脇侍に祀られており、元愛宕山大権現の本地仏であったともいわれる「地蔵菩薩立像(鎌倉期)」が「不動明王と毘沙門天」を脇侍に祀られています。
また天井にも色彩豊かな天女が描かれており、内陣に入ると地獄から天国への道が開けてきたかのような印象すら受けます。

内陣に座って仏像を観ていると、虫干しに参集された世話役の方から“熱心に見ておられますので少し説明します。”といって専門書を片手に説明をしていただくことが出来ました。
詳しかった方が亡くなられたので質問に答えられるように本の中で大事なことが書いてある所へ付箋をはさんで持ってきたんですよ!”とは何とも微笑ましくて嬉しい。

如来像の説明や寺伝を説明して頂いた後に教えていただいたのは「厨子の裏にある仏画」でした。
“目ではよく見えないけど、フラッシュをたいて撮れば浮きあがってきますよ!”とお言葉を頂いて写真を撮らせていただきました。



本堂から客殿(重文)には建物の中の廊下でつながっていましたが、客殿に安置された仏像もまた素晴らしい仏像群が並びます。
客殿の本尊は秘仏でしたが、両脇に南北朝期の「日光・月光菩薩(重文・室町期)」、更にその横には「十二神将」が並び、「引接阿弥陀仏」、平安時代前期作の重文「十一面観音立像」が並びます。
特に「十一面観音立像」と「日光・月光菩薩立像」は、今回拝観出来て良かったなぁと感謝したくなるような美しい仏像でした。



客殿には「賢人の間」「龍虎の間」が続き、狩野探幽・尚信の襖絵や寺院所蔵の掛け軸などが各部屋に展示されてありました。
「恵心僧都の袈裟」や宇多法皇より賜った「御鼓」などもあり、これだけ文化財が揃うと「比叡山の正倉院」と称されるのも納得しますね。

境内には数個の石仏が祀られています。
この石仏は十一面観音・三体本尊(釈迦・阿弥陀・薬師)・地蔵菩薩という意味なんだろうと思います。



地獄絵図を実際見ると、その想像力の豊かさに驚かざるを得ません。
もう少し地獄絵図を知りたい!ということで『地獄絵を旅する』という入門書を購入してしまいました。



“現世は時に地獄なのか”“地獄は心の中に巣食うものなのか”“地獄絵図を観ることによって戒めを知るのか”など考えてみる機会になったかもしれません。
地獄の概念というものは、仏教の中だけでなくキリスト教やイスラム教の中にもあると聞きます。神道にも黄泉の国なるものがありますから、死後の世界観は人類共通の課題なのかもしれません。


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ゴイサギとホシゴイをパチリ!

2017-08-21 07:18:18 | 野鳥
 湖北の田園地帯をウロウロしてみると、早生の稲が稲穂を垂れて黄金色に色づいてきていることに季節が進んでいるのを感じてしまいます。
月が変われば早い田圃では稲刈りが始まるのかと思うと、秋近しと思わざるを得ませんね。

暑さの方は盆を境に若干マシになったようにも感じますが、“暑いのは暑い!”には変わりがない。
といったところで、この天候では探鳥もままならず...というかほとんど留鳥といった状態ですね。
結局、夏鳥のちょっと面白そうなやつは探してみたけど見当たらずで、愛想のいいゴイサギ・ホシゴイにお相手をしていただきました。



ゴイサギがやって来た頃は同じ場所に集まっていたように思いますが、この頃は一帯に分散しているようです。
琵琶湖のエリにゴイサギ・ホシゴイの集団が集結し始めたらお別れの季節となりますが、その時もそう遠くはないのかもしれませんね。



琵琶湖の少し沖にユリカモメの大群が見えるようになって、ツクツクボウシの声が消える頃には違った野鳥が入ってくる?
稲刈りの終わった田圃にも何か姿を見せてくれるかな?



ゴイサギはエサを探しているようではありましたが、獲れそうな雰囲気はなかったですね。
狩りの上手なイメージのある鳥ではないように思います。



琵琶湖岸の道路を走行していると、電線にミサゴが留まっているのが見えます。
近づくにつれて“ピーピー”とよく鳴いている。よく鳴いてくれるのだけど同じポーズだけなのでワンカットのみ。



そろそろ秋の大移動の季節が始まるかもしれません。
この秋の渡り鳥の第1号は何になりますかね。


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御朱印蒐集~京都七条 永観堂(禅林寺)~

2017-08-18 18:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 寺院に祀られている仏像には“事前情報なしで参拝してみたら凄い仏像に出会った!”というケースと、“どうしてもこの目で見てみたい仏像!”があると思います。
永観堂(禅林寺)の「みかえり阿弥陀」は後者の“どうしても見てみたい仏像”の一つでした。

永観堂は銀閣寺へと疏水沿いに続く“哲学の道”の出発点にほど近く、すぐ隣には南禅寺が門を構える東山にある寺院でした。
車で行きましたので、湯豆腐屋さんが並ぶ南禅寺前の参道から南禅寺中門を抜けて、南禅寺境内から住宅地を回り込んだすぐの場所に永観堂はありました。
永観堂へ入っても総門を車で抜けて駐車場に行くのですが、門を車で抜ける寺社はよくあることとはいえ“こんなとこ車で入ってもいいのかなぁ?”という違和感を感じてしまいます。



「永観堂」という名は通称で、正式には「聖衆来迎山 無量寿院 禅林寺」といいますが、第七世永観律師にちなんで「永観堂」と通称されているといわれます。
永観堂こと禅林寺は、863年に空海の高弟・真紹僧都が清和天皇より「禅林寺」の寺号を賜り、真言密教の道場として重要な役割を果たしたとされています。



「禅林寺」が「永観堂」と呼ばれるようになった由縁は、中興の祖とされる「第7世住持・永観律師(1033年~1111年)への信仰によるものだと案内にあります。
永観は念仏修行に励み、日々の生活に苦しむ人々や病人への施しに熱心に取り組まれた方とされ、永観堂を念仏道場として発展させたとされます。



「禅林寺」の現在は、浄土宗西山禅林寺派の総本山とされていますが、平安時代の永観の時代は「真言・三論(南都六宗)・浄土」の考えが混在していたといいます。
浄土宗への変換は、鎌倉時代に第12世の静遍僧都が法然上人に帰依したことが始まりとされています。
教義のことは全く分かりませんが、真言宗の僧であった静遍僧都は当初「専修念仏」の考えに反発していたそうですが、最後は法然の教えに帰依したと伝わります。



東山を背後にした永観堂は別名「もみじの永観堂」と呼ばれるそうですが、大家にその名に恥じないようなもみじの寺院でした。
紅葉時には大混雑するようですのでその時期の参拝は躊躇われますが、青もみじが広がる様子を見ていると、さぞや紅葉時には見ごたえがあるだろうと想像致します。



総門は1840年の建築とされ「高麗門」といわれる様式のようです。中門は1713年建築で「薬医門」といわれる様式で前にせり出したような軒になっています。しかし青もみじの勢いが良すぎて門が隠れてしまってますね。
勅使門は唐門様式で1830年の建立とされます。前にある盛り砂は訪れた勅使が踏んで身を清めるためとされており、手のかかった盛り砂といい、土壁の5本筋塀といい、格式の高さを感じさせてくれる門ですね。



大玄関で靴を脱いで建家内に入ると、「釈迦堂・瑞紫殿・御影堂・阿弥陀堂」などの諸堂を拝観することになります。
最初にお参りする瑞紫殿には「火伏せの阿弥陀」と呼ばれる阿弥陀如来が祀られていました。元々は5躰の仏像が安置されていたそうですが、応仁の乱で焼失してしまい、この阿弥陀如来像だけが唯一残ったことから「火伏せの阿弥陀」と呼ばれているそうです。
左右には愛染明王・不動明王がしっかりと脇を固めています。


「火伏せの阿弥陀」(江戸時代)・・・パンフレット

諸堂の間にはいくつかの庭園があり、上の池には羊草が美しい花を咲かせ、カエルの声が響いてきます。
歴史のある寺院ですから客間も多く「孔雀の間・四季の間・虎の間・松の間・仙人の間」などの部屋にはそれぞれ障壁画が飾られていました。



廊下を進むと水琴窟があり、尺で水をかけると美しい音色が聞こえますので、しばし聞きいることに。



“龍の背を歩くようだ”と言われる「臥龍廊」はまさに龍が体をくねらせているような廊下でした。
山の斜面に沿わせて組まれている急勾配の廊下で見事な曲線の廊下となっていました。



釈迦堂には「釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩」の釈迦三尊。
御影堂には左右に祀られた四天王像に守られた厨子が4つあり、須弥壇の中央には法然上人像が祀られてある寺内最大の建物でした。





さて念願の「みかえり阿弥陀」が祀られている本堂の阿弥陀堂は一番奥にありました。
「みかえり阿弥陀」は1階の須弥壇にはおられませんでしたが、左の脇陣には「智空上人像・當麻曼荼羅・空顕上人像」、右の脇陣には「永観律上人・十一面観音立像・地蔵菩薩立像(平安前期作)」が祀られています。
上人像というのはどなたの像なのか見分けがつかないのが難点です。



阿弥陀堂の上階へ行くとやっと「みかえり阿弥陀」に出会うことができます。
平安後期~鎌倉前期に造られたとされる重要文化財の仏像ですが、そのお姿よりもまずサイズに驚いてしまいます。
実はもっと大きい仏像だと思っていたのですが、像高は77cmと想像していたより少し小さい印象を受けます。

「みかえり阿弥陀」(鎌倉時代初期・重文)は、永観律師が念仏を唱えながら行道していた時、阿弥陀如来が須弥壇を降り歩き始めたとされます。驚いた永観律師が歩みを止めると、振り返り“永観遅し”とおっしゃったとされます。
この話を聞くと、怪奇譚というよりも阿弥陀如来の人間ぽい話で、“共に進もうではないか、遅れても待っているから。”といったような「みかえり阿弥陀」の慈愛が感じられ、この方は“きっと衆生を受け入れてくださる仏さま”なんだと思えてしまいます。




「みかえり阿弥陀」・・・パンフレット

境内で最も高い位置にあるのは多宝堂で、御影堂の近くから約140段登った若王子山(標高183m)の中腹に建てられています。
1928年に建てられた比較的新しい堂宇ですが、山の中腹の木々の中で存在感があります。



多宝堂のすぐ下からは京都東山の景色が広がります。
右の小山は黒谷山、中央右寄りの奥には愛宕山、市街地の左側の四角い建物は京都ホテルオークラと書かれてありましたが、こうして見るとやはり京都は盆地ですね。



境内の端の方には不動明王を祀った滝がありました。
不動明王とか滝とか好きなんですよね。



御朱印場では「三鈷の松」という縁起物のお守りをいただきました。
「三鈷の松」は御影堂の横にある松の古木で松葉が3本あることから、宝具の三鈷杵に例えられて「三鈷の松」と呼ばれ、真心・智慧・慈悲の3つの運を授かるとされています。



ところで、「みかえり阿弥陀」についてはもう一つ話があって、“外陣に参拝者がくると正面にいる人には姿が拝めるが、正面に入れない人のために横を向いて、正面の人だけでなく多くの人に姿(顔)が見えるようにみかえりの姿となっている”とも書かれてありました。
衆生のもとに歩み寄るような珍しいお姿の「みかえり阿弥陀」に心静まる想いがします。


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御朱印蒐集~福井県小浜市 棡山 明通寺~

2017-08-13 20:03:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 作家の五木寛之は2年間で『百寺巡礼』を行うという企画の番組にかつて出演されていて、巡礼の旅番組として放映するとともに、随筆として国内・海外合わせて16冊の巡礼紀行を書かれています。
「日本人の原風景・原点とは何かを見つめ直し、日本人が見失ったもの(目に見えない価値)を求めていく旅」をテーマにした番組・本でしたから、寺院めぐりを始めた当方にとってはいい巡り合わせで知った番組・本でした。

しかし、実際は2年間で百寺を巡礼するということは、かなりのハイペースでの寺院巡りが必要となります。
当方もしょっちゅう寺院に行っているように思っていましたが、御朱印蒐集を始めてからの2年足らずで訪れた寺院は約70寺と百寺にはとても届きそうにはありません。

寺院へはただ闇雲に訪れるわけではなく、その寺院に何らかのひかれるものや興味を感じるものがあって参拝するわけですので、行ってみたい寺院を見つけることもまたそう簡単ではないとも思います。
この明通寺は、参拝する前日に五木寛之の『百寺巡礼』の録画を見ていて、山中の古刹感・仏像美にひかれて参拝を思い立ち、急遽お参りすることになった寺院です。

 

明通寺は滋賀県側から行くと、高島市今津から福井県へ入り、鯖街道(若狭と京都を結ぶ街道)を進んでいって、松永川を上流へと延々と遡っていった山間の自然豊かな場所にありました。
日本海に面した小浜のイメージとは一線を画したような山の中に、ひっそりと人気(ひとけ)のない落ち着いた空気の流れる古刹に近づくと、参拝前から気持ちが満たされてくるのが分かります。



駐車場から寺院へは、彼岸と此岸を区切ったかのような赤い橋を渡っていくと、石碑が見えてきて橋の下には綺麗な渓流が流れています。
渓流を見ているとカワガラスの姿があり、付近の木々にはヤマガラが飛び交う姿が見え、自然豊かな山里の風景に思わず気持ちが和みます。



明通寺は縁起によると、806年に征夷大将軍・坂上田村麻呂が堂宇を創建し、棡の木(ゆずりぎ)を切って「薬師如来」「降三世明王」「深沙大将」の3躰を彫って安置したのが始りとされます。
蝦夷征伐に功のあった田村麻呂でしたが、明通寺の開創にあたっては“戦勝祈願”ではなく、“征戮(せいりく)した蝦夷たちの浮かばれない魂を弔うため”とされているそうです。
優れた武人であったとされる田村麻呂は晩年に近づくにつれ慈悲の心が強くなってきたのかもしれませんね。



まず山門(仁王門)への石段登りから始まるのですが、登るのが嬉しくなるような石段が一直線に続いています。
山門は1772年に再建された建築物で、250年近い歴史が感じられる山門です。



仁王門には鎌倉時代作とされる像高190cmの迫力のある阿吽の仁王様が左右を固めています。
仁王像は1264年に造られた像だと考えられており、筋肉隆々の体と気迫のある顔で750年に渡って寺門を守護されてきたのかと思うと、仁王様の厳しい表情も相まって気が引き締まる思いがします。

 

明通寺は、真言宗御室派(総本山は仁和寺)の寺院で最盛期には25坊が並んだ大寺院だったとされます。
福井県で国宝に指定された建築物はここ明通寺の「本堂」と「三重塔」の2つだけだそうですが、両方共「古色蒼然」といった言葉がよく合う建築物だと思います。



本堂は、鎌倉時代中期の1258年に再建されたとされ、桧皮葺の入母屋造の本堂の歴史を感じさせる古色の堂々とした姿にはかえって美しさを感じてしまいます。
この本堂では年配のご住職が参拝者が訪れるのを待たれていて、到着した参拝者を招き入れて外陣で寺院の説明をして下さります。





参拝者はこの時、当方一人でしたので一人だけのための説明となってしまい申し訳なかったのですが、淀みのない説明をしていただき感謝をしております。
お話が終わると“内陣でお参り下さい”と言っていただき、仏像を間近で拝むことが叶いました。



内陣には中央に御本尊である「薬師如来坐像」、向かって左に「深沙大将」、右に「深沙大将」と三尊が脇侍として並び、その前には十二神将が守護するように安置されています。
本尊の「薬師如来坐像」はかつては秘仏で33年に一度の御開帳だったそうですが、先代のご住職の英断によって常時公開されるようになったといわれます。
「薬師如来坐像」(重文)は左手に薬壺、右手は与願印、像高約145cmの結跏趺坐の坐像で、平安時代の後期作とされています。

「深沙大将」は、三蔵法師(玄奘)の西遊記に登場する沙悟浄のモデルとなった仏教の守護神で、重文に指定された「深沙大将」は4躰だけとされています。(他の3躰は「京都・金剛院」「和歌山・金剛峯寺」「岐阜・横蔵寺」...多分)
腹部に子供の人面を付け、左手には蛇を持ち、頭上には髑髏を乗せ、憤怒の表情をしている檜の一本造りで像高2.54mの大きな鬼神です。


「深沙大将」・・・ポストカード

「降三世明王」は、四面八臂で憤怒の表情の明王で、大自在天(シヴァ)と妻烏摩妃(パールヴァティー)を踏みつけています。
降三世印と呼ばれる印を結び、仏教でいう三つの煩悩を焼き尽くし、仏教へ従わせることで民衆に救済の手を差し伸べている明王様とされており、この仏像も像高2.5mの大迫力の仏像です。


「降三世明王」・・・ポストカード

内陣には鎌倉末期作の「十二神将立像」が並び、脇陣には「聖観音立像」と「弘法大師・空海像」が祀られていて、内陣の素晴らしい仏像を見ていると明通寺は仏像の宝庫の寺院であると感じられます。
ご住職の話によると、“この寺院は僻地にあるため、歴史上の戦乱や兵火を免れることが出来ていろいろなものが残された”とおっしゃっていましたが、現在まで残されてきたのは運が良かっただけではないと思います。

さて、もう一つの国宝建築物の三重塔は本堂と同じく鎌倉時代中期の1270年に再建されたものとされます。
石段を登って行くのですが、少し離れた位置から見るのが一番美しく見えるのではないでしょうか。



三重塔の初層には現在公開されていませんが、「釈迦三尊像」と「阿弥陀三尊像」が安置されているようです。
初層内部の4天柱内を内陣とし、正面に「釈迦三尊像」・背面に「阿弥陀三尊像」ふが安置され、四天柱・四方壁には十二天像壁画が描かれているようです。


「釈迦三尊像」・・・看板


「阿弥陀三尊像」・・・看板

三重塔の上部にかつて取り付けられていた「相輪」が本堂に置かれてありましたが、間近で見る相輪の想像以上の大きさに驚くこととなり、塔高さ約22mの大きさを相輪からも実感することになりました。



ところで、明通寺にはもう1躰、重要文化財の仏像がおられます。
庫裡に祀られている「不動明王立像」でこの仏像も平安藤原期末期の仏像とされています。
ただし、明通寺の不動明王は明治の頃に焼けてしまったため、廃寺になってしまった松林寺の脇仏を譲り受けたものということでした。


「不動明王」(平安末期・重文)・・・ポストカード

この明通寺で感じたのは、その古刹感を感じる建築物の魅力と仏像の素晴らしさとは別に、ご住職や朱印場の方の応対が非常に丁寧だったことでしょうか。
“合掌に始り合掌に終わる。”、参拝する側も気持ちを引き締めて参拝させていただきました。

帰り道には明通寺からほど近い「瓜割の滝」へ立ち寄りました。
瓜割の滝は“夏でも水につけておいた瓜が割れるほど冷たい”とされ、ポリタンクやペットボトルを持って名水を持って帰る方の行列がありました。

滝の近くには2ヶ所に鳥居がありましたので、神聖な聖域とされてきた場所なのだと思います。
案内板には「泰澄大師の時代から神水として尊ばれてきた」と書かれてありましたので、白山信仰の聖域のひとつだったのかもしれません。
(泰澄大師:奈良時代の修験道の僧・白山信仰の開山者)





寺院で説明していただいたご住職は、“百寺巡礼”に出演されていた方だと思われます。
放映されてから十数年過ぎていますので、その年月を感じざるを得ないお姿のようにも見えました。
1200年以上続く寺院の歴史の中での一瞬の出会いでしかないとはいえ、感慨深い寺院になったと思います。


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御朱印蒐集~京都市下京区 下鴨神社(賀茂御祖神社)~

2017-08-10 17:28:58 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都市下京区に建つ「下鴨神社」は京都市北区に建つ「上賀茂神社」と共に山城国の一之宮とされています。
2つの神社は葵祭の祭儀が行われる神社として有名で、儀式としては平安時代の貴族由来の伝統行事ということになるようです。

下鴨神社の御祭神は「賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)」と「玉依媛命(たまよりひめのみこと)」で、賀茂建角身命は古代の京都(山城国)を開かれた神として祀られ、玉依媛命はその子供として祀られています。
紀元前90年頃には神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録も残っているそうですから、平安京の遥か以前から信仰されていた神社とされます。



神社の案内によると、奈良時代の544年から葵祭が行われているとされており、都が平安京へ遷都されてからは国と首都京都の守り神として、皇室の氏神さまとして特別な信仰をされてきたとあります。
この下鴨神社は当方が京都をドライブする時のルート上にあって、今まで何度も神社の森を横目に見ながら参拝しようと思いつつこれまで参拝が叶わなかった神社でしたが、やっと訪れることができました。



車で行くと楼門のすぐ前にある南口鳥居に着いてしまいますので、このまま参拝するか、一之鳥居まで行ってから参拝するか悩みます。
南口鳥居は神社の正面になってしまいますので、やはり“広大な「糺すの森(ただすのもり)」を一之鳥居まで行って正式な順番で入ろう!”と思い神社の反対方向へ参道の往復をしました。

しかし、歩いてみるとこれがなかなか距離があります。表参道の両端を流れる小川を眺めながら森の間の道を二之鳥居まで延々と歩くことになりました。
糺すの森を出た先にある住宅地の方に鳥居(一の鳥居)が見えてきましたので、さらに住宅地にある一之鳥居まで歩いて行き、そこから改めて参拝のスタートとしました。





“糺すの森”は京都の市街地にあるとは思えないような鬱蒼とした森で参道脇には神木と思われる巨大な樹もあります。
この“糺すの森”からは縄文時代の遺跡や遺物が発見されているらしく、この地に石器時代からの歴史があった場所ともいわれています。



鳥居の横には“世界文化遺産”と掘られた石碑が建てられていて、『古都京都の文化財』の世界文化遺産は1994年に登録され、京都(比叡山延暦寺は滋賀県)の下鴨神社・上賀茂神社を含む17の神社・仏閣が登録されています。
ここ数年、日本の遺産が世界遺産の登録されたというニュースを毎年聞きますが、登録されることによって遺産が保護されていくのは残していくという意味でいいことだと思います。



参道の一角には「さざれ石」も祀られていました。
さざれ石は、大きな神社で希に見ることがありますが、“ちいさな石(さざれ石)が巌(いわを・岩石)となって、苔むすまで”と長い年月をかけて栄えるようにという意味があるそうです。



さて、“糺すの森”の参道を折り返してスタート地点まで戻ってきて、南口鳥居をくぐるといよいよ楼門が見えてきます。
楼門は高さが13mあるとされ、左右に廻廊がつながっている重要文化財の建築物です。
この日はお日柄が良かったのか結婚式があったようで、文金高島田の新婦さんの初々しい姿がありましたよ。



下鴨神社の社殿には2棟の国宝と31棟の重要文化財があるといいます。
「舞殿」は、葵祭の時に天皇の勅使が御祭文を奏上される場所とされ、東遊(雅楽の演奏)の舞が奉納されています。
1628年の式年遷宮での造変後は21年ごとに解体修理されていて、重要文化財の指定を受けています。





「橋殿」は御蔭祭のとき、御神宝を奉安する御殿とされており、御手洗川をまたぐように建てられています。
この橋殿も舞殿と同様に重要文化財指定を受けていて、21年ごとの解体修理をされているそうです。



御本殿の前には「言社」という七つの社があり、干支の12支を七つの社に分けてお祀りしています。
ここでは参拝者の皆さんもそれぞれの干支の社に分かれて参拝することになります。



参拝は「中門」で行うことになるのですが、参拝はここまで。
中には加茂建角身命を祀った「西本殿」と玉依媛命を祀った「東本殿」があり、共に国宝に指定されていますが、わずかに垣間見える本殿に向かっての参拝となります。



境内には「御手洗社(井上社)」と呼ばれる社が御手洗川につながる井戸の上に祀られています。
この御手洗川では「水占い」という水につけると字が浮き出てくるおみくじがあって、おみくじを引かれている女性が多かったですよ。
“葵祭”では斎王代の禊が行われる場所だそうですから今日は斎王代の気分で!といった感じですね。



斎王代が乗ると思われる牛車も境内の御車舎に保管されておりました。



御手洗(みたらし)川は“みたらし団子”発祥の地とされていて、これはみたらしの池に湧く水の泡を人の形にかたどったのが由来とされています。
滋賀県大津市の唐崎神社もみたらし団子発祥の地といわれていますが、はてさてどちらが本家なのでしょうね。

ただ下鴨神社のみたらし団子は少し変わっていて、一番上の団子がしたの4つと少し離れていて人形に見立てた形になっています。
下鴨神社の西参道を出て北大路通にお店はありましたが、さすが大繁盛しているようでしたよ。



下鴨神社のみたらし祭りは、毎年7月の土用丑の日の頃に御手洗社の湧水に足を浸して歩いていき、蝋燭を献灯するお祀りだそうです。
無病息災を祈って誰でも参加出来るお祭りだそうですので、下鴨神社は葵祭の斎王代の清めの貴族行事と庶民の祈りの行事が同居してきた神社といえるのかもしれません。


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御朱印蒐集~京都北区 賀茂別雷神社(上賀茂神社)~

2017-08-06 17:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 御朱印巡りを趣味にしている人は意外と多く、当方の身の回りにも何人かそういう方がおられます。
もっとも御朱印についてはそれぞれこだわりがあるようで、例えば“寺院巡礼だけ”とか“神社巡礼だけ”などいろいろと趣向があるようです。
その中の一人は寺院からも一般の神社からも御朱印は頂かず、『一之宮』の神社の御朱印だけをもらっている方がおられます。

『一之宮』とはその地方の中で最も社格の高いとされる神社のことで、上賀茂神社は山城国(京都府の南半部)の一之宮となります。(山城国では下鴨神社も一之宮)
近江国(滋賀県)では一之宮が「建部大社」、二之宮が「日吉大社」、三之宮が「多賀大社」「御上大社」と社格が付けられてます。



「上賀茂神社」「下鴨神社」といえば、葵祭(賀茂祭)が有名で、TVでしか見たことはないのですが、王朝・貴族の祭りの伝統が守られた雅な祭りのようです。
祭りの主役となるのは毎年選ばれる「斎王代」ですが、その艶やかな姿を見ていると往時の京都貴族の姿が想像されますね。



上賀茂神社の御祭神は「賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)」で“雷(神鳴り)”の神として「厄除・方除・八方除・災難除などの御神徳があるとされます。
「賀茂別雷命」は神代の昔、本殿の背後にある神山(こうやま)にご降臨され、奈良時代の天武天皇の時代(678年)には賀茂神社として造営されたと由緒書きにあります。



一之鳥居から二之鳥居の間は広い参道となっていて、5月の初旬には「足汰(あしぞろえ)式」(5月1日)や「賀茂競馬(かもくらべうま)」(5月5日)が行われる神事の馬場となるそうです。
この上賀茂神社の「賀茂競馬」と下鴨神社の「流鏑馬神事(やぶさめしんじ)」は2社とも馬の神事を執り行った後に「埒(らち)があいて」葵祭が始まるということのようです。
(*「埒があく」:上賀茂神社発祥の言葉とされ、競馬が終わると埒があけられて、賀茂祭(葵祭)の神事が始まることを語源としているそうです)。



現在、上賀茂神社は「式年遷宮」(社殿の修理・修復)をされている最中でしたので、あの有名な楼門はなんとホロの中。
境内の配置が分からなかったため、楼門が見つからず“楼門はどこやろ?”と探してしまいましたが、ホロに包まれていては見つからないわけです。



上賀茂神社といえばシンボルマークになっているのは細殿の前に盛られた円錐形の「立砂(たてずな)」でしょうか。
この立砂は、上賀茂神社の神体である神山(こうやま)を模して作られ、鬼門にまく清めの砂の起源とされるそうです。立砂の頂上には松の葉が差されていて、右の立砂の松の葉は二葉・左の立砂の松の葉は三葉。これは陰陽道では神の出現を願うという意味があるといわれています。



上賀茂神社の社殿は“国宝が2棟”と“重要文化財が41棟”とあるとされている文化財建築の宝庫でもあるのですが、この細殿も1628年に造り替えられた重要文化財の建築物の一つになります。
それにしても国宝・重要文化財合わせて43棟の建物があるとは、凄い話ですよ。



上賀茂神社の境内には「明神川」・「御手洗川」・「御物忌川」・「ならの小川」と複数の名前のついた水量豊富な川が流れていますが、手水舎の水も吐出量が多く冷たい水が出ていました。
この水は「神山湧水」という名水で神山のくぐり水を汲み上げているそうで手を浸すととても冷たい。尚、この水は飲料水としても基準を満たしている名水とされています。



境内の細殿の横には「舞殿(橋殿)」と「土屋」が建てられており、土屋の方は「著到殿」ともいい、かつては神社関係者の著到殿(装束の着替えを行うところ)として用いられていたとされます。
しかし、現在は祓所として使用されているそうです。(1628年造替:重要文化財)



「舞殿(橋殿)」は夏越大祓(なごしのおおはらえ)のお祭りでは橋殿から御手洗川に人形が流される神事が行われる建物とされています。(1863年造替:重要文化財)
かつては勅使御拝の殿舎として使われていたとされるこの建物は橋殿の名のように御手洗川をまたぐように建てられていました。



舞殿越しに「御手洗川」を眺めると、舞殿がフレームのようになります。
ここでは「御手洗川」となっていましたが、上賀茂神社の境内を流れる川は“御物忌川と御手洗川が合流して「ならの小川」となり、境内を出ると明神川となる”とされています。配置を頭に入れないと少しややこしいですね。



さていよいよ参拝ということになり、中門へ向かうことになります。
中門は1928年に造替された重要文化財の建築物で通常はここから参拝することになります。



しかし、ここで目に入ったのは『国宝・本殿特別参拝』の赤い看板でした。
看板には「神職による案内」「国宝・本殿前にて参拝」「ご神宝類の拝観」とまで書かれていましたので、さっそく特別拝観を申し込みます。



受付を済ませると『浄掛(きよかけ』を首に掛け身を清めてから、直会殿(なおらい)でお祓いを受けます。
この浄掛をしないと本殿のある神域には入れないとされており、この姿でお祓いを受け神職からの説明を受けていると大変厳粛な想いがしてきます。



またこの浄掛には桧皮が抄き込まれていて、よく見ると二葉葵の絵の下地に檜皮がすいてあるのが見えます。
説明を聞いた後に「本殿」「権殿」のある内詣へ入り、再び説明を受けます。

本殿と権殿は全く同じ造りの建物で、共に国宝に指定された桧皮葺・流造の社です。
権殿は遷宮の時などに一時的に神様に仮住まいしていただくための社といわれます。
上賀茂神社は国宝指定のため伊勢神宮のように建て替えによる遷宮は出来ないということですので、上賀茂神社では大改修による遷宮をされているそうです。



式年遷宮は平成20年から始り、平成31年までの約14年間の工期とされ、工事あと3年ほど続くそうです。
遷宮にかかる総工費は23億円と見積もられているようですが、最終的には30億円くらいになりそうとのことですから、一大事業となりますね。



上賀茂神社には20社以上の摂社・末社があって全てを把握は出来ませんが、「賀茂山口神社」に関係した奇妙な石が祀られていました。
「陰陽石」という願い岩で、境内の渉渓園に龍の住む池があり、その池のそこから出土した岩とされます。
岩の横には“両手で同時に手を触れてから賀茂山口神社へお参り下さい。”と書かれた看板がありました。

陰陽石は陰と陽が融合した姿を表すとされていますので、まず陰陽道との関係が思い起こされます。
「賀茂(氏)」の名が付き、八咫烏のおみくじがあったりしますから、上賀茂神社は陰陽道との関係がありそうですが、これについての明確な話はなさそうですね。


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御朱印蒐集~大津市 立木山 立木観音(安養寺)

2017-08-02 18:28:28 | 野鳥
 大津市石山市を流れる瀬田川の畔、南郷にある立木観音へ参拝致しました。
道を挟んだ横には水量豊富な瀬田川が流れており、その反対側にある立木山の石段を登って寺院へ行くことになります。

瀬田川は琵琶湖から唯一流れ出る河川ですが、南郷洗堰(瀬田川洗堰)を超えて川幅が狭くなってくると水流も強くなり勢いのある河川へと変わります。
この瀬田川は京都へ入ると宇治川となり、木津川と合流して大阪では淀川となりますから、琵琶湖を水源とした京阪の水のライフラインでありながら、琵琶湖の水害対策の役目も果たしている堰ということになりますね。



立木山観音は815年、弘法大師・空海が諸国を修行中に「瀬田川の畔に来れれた時に対岸の山の上に光る霊木を見つけられましたが、急流のため渡ることが出来ませんでした。そこへ白い牡鹿が現れて、大師を光る霊木まで導き、雄鹿は観世音菩薩に変化(へんげ)した」という伝説があるそうです。
空海はその時、厄年であったため霊木に観世音菩薩を刻んで堂宇を建てたのが、立木観音の始まりとされているようです。



立木観音へ向かう石段は整備が行き届いているとはいえ、その数なんと800余段あり、正直これはキツい石段登りです。
石段はコの字型の螺旋になっているのですが、道中の両脇は木々に遮られて視界はほとんどなく、高度が上がってきていることだけは分かるものの、今自分がどの位置まで来ているのかが全く分かりません。

登りかけたばかりで高度の低い場所では瀬田川の水の音と車の走行音が聞こえていましたが、途中からは野鳥の囀りだけになってきます。
もう休憩したいと思うようになった頃に遠くから鐘の音が聞こえてきて、やっと寺院に近づいていることを実感出来るという次第でした。
とはいっても、鐘の音が聞こえてきてからもまだ石段は随分長いあいだ続いていましたけどね。



この門が見えてきたら境内まであとわずか。
800段くらいの石段のある神社仏閣は他にもありますが、この石段は自分が今どの辺まで来ているのかが分らないため余計に疲労感を感じてしまいます。“ただひたすら登り続けよ!”というような石段でした。



境内に入った頃には息も絶え絶え、流れるように汗が吹き出している状態で、涼しい顔で軽々と登ってきた若い家族連れや健脚の中高年の方が羨ましく思えてしまいます。
まずは休憩ということで、振る舞いの御茶所で柚子湯をいただいて息を整え汗が引くのを待つ。この御茶所は体を休めるのにとても助かりました。



本堂の拝所から本尊は見えませんでしたが、御本尊は聖観世音菩薩とされているそうです。
他にも平安時代作の広目天・多聞天・弘法大師尊像などが祀られているとされ、空海ゆかりの真言宗の寺院かと思っていると、実は浄土宗の寺院なんだそうです。
どこかの時期に何らかの理由で宗派が変わったのでしょうね。



拝所にはたくさんの提灯が吊るされていて活気が感じられ、横には賓頭盧尊者も祀られています。
本堂は裏側にも通路があり、観音様を裏からも拝めるようになっていますが、こちらも幕がかけられていて内部の様子を伺うことは出来ませんでした。





本堂の左側の石段を登っていくと、まず鐘楼がありますので突かせていただきました。
石段登りの時に聞こえてきた鐘の音はこの鐘楼の音だったようです。今、息を切れせながら石段登りをされている方に聞こえているかな?などと思いながら突きました。



鐘楼の横の石段をまた登っていくと、奥之院が見えてきます。
奥之院では立木山をお護りしている道了権現大菩薩が祀られていて、厄除けの加護が受けられるとされています。
「道了」は室町時代前期の修験道の僧とされていて、衆生救済を誓って天狗となったとまで伝えられている方だそうです。



奥之院から別の道を下ってくると、ややアーチ型の渡り廊下の下から出てくることになりました。
この渡り廊下は奥之院への入口のためこのような形になったのかと思われますが、なかなか面白い形をした廊下です。





さて、立木観音では「空海の鹿跳(ししとび)」の伝説に従って、牡鹿に乗る空海の像が境内に祀られていました。
鐘楼にも鹿が描かれるなど空海伝説を今も残している様子が分かります。こういう文様の鐘楼ってこの寺院だけかもしれませんね。





ところで、瀬田川の南郷の辺りの地質はゴツゴツとした堅い岩の岩盤になっているようです。
同じ瀬田川でも少し上流の石山寺の近くではリバークルーズなどで優雅にクルーズが楽しめますが、南郷では急流下りのような川になっています。





辛い石段登りをして寺院(神社)へ参拝するのは、ある意味でのセラピーになるのかと思います。
苦しんでシンドい思いをして登った後に参拝すると、なんか元気を取り戻したような気持ちになって、石段の下りの頃にはすっかり笑顔になれるように思います。やはり山寺っていいものですね。


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