僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~彦根市 北野神社~

2017-03-29 06:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 彦根北野神社は、彦根藩の第2代藩主の井伊直孝が上野国北野寺(群馬県)の天満宮から分霊を勧請したのが始まりとされています。
明治の時代の神仏分離令までの北野神社は、奈良時代に創建されたという北野寺を別当寺として、彦根藩主(井伊家)の祈願社とされていたようです。

創建時の時代を追ってみると、関ヶ原の合戦(1600年)の軍功により彦根藩初代の井伊直政が彦根佐和山城に入城。
1602年に直政は関ヶ原の合戦でおった傷により死去。
1606年に彦根城の天守閣が完成して2代目の井伊直継(後に直勝)が入城。
1620年に第2代藩主の井伊直孝が北野神社を創建。
...おやおやこれでは直継と直孝と2代目藩主が2人いることになってしまいます。



井伊直継は直政の正室(徳川家康養女)を母とする井伊家の後継者。
井伊直孝は直政の側室の子供(直継の異母弟)で、幼くして父と離れて上野安中(群馬県)にあった北野寺で養育されたといいます。

後継者であった長男の直継は病弱であったとか、家臣団を統制する能力がなく家督交替させられたなどとされていますが、400年以上前のことですので真偽の程はいかなるところなのでしょうか。
いずれにしても直継(直勝)は一旦は彦根藩の2代目藩主だった方ということになるのかもしれませんね。



「北野神社」は“天神さん”の社ですから、御祭神は学問の神様の「菅原道真公」。
これは直孝が群馬県安中の威徳山 北野寺で養育されていた頃に、境内に祀られていた天満宮を信仰していたという縁から勧請されたといわれています。

境内へ入るとすぐに神牛舎(俗称:撫で牛)があり、“なでてにっこり 心願成就”の看板が掛けられています。
天神信仰には“神様への願いを牛を撫でることにより叶えられるという信仰”があるとされていますので、この“撫で牛”をしっかり撫でて願いを伝えておきました。



金属製の神牛は、戦前にも先代の“撫で牛”が建立されていたそうですが、戦時中に国に供出されてしまったため、平成14年に再現して入魂されたそうです。
石の神牛の方は古くから安置されていたもののようで、古さを感じさせ味わいのある神牛です。お焚き上げの煙が境内に充満してきたため目が痛くなるなかでの参拝でした。



神門には今年の干支である酉の大絵馬が掛けられ、『必勝 合格』の文字が見えます。
毎年正月には合格祈願に訪れる家族が多いのではないかと思いますし、祈願の絵馬も合格祈願が圧倒的に多く見られます。



拝殿は間口4間・奥行4間でそれほど大きな建物ではなく小ぢんまりとした造りですが、後方では相の間と本殿につながって奥行があります。
社殿は江戸時代の1795年に焼失してしまった後に、彦根藩13代藩主の直中(井伊直弼の父)によって再建されたとされます。





本殿の横には過去に描かれた干支の大絵馬が置かれていて、これは毎年この神社の近くにある滋賀大学の美術部からの奉納によるものだそうです。
2009年から奉納が続いており、神社では将来は12枚(十二支)の大絵馬を飾りたいと考えられているようです。残りあと3枚ということで、いよいよ実現しそうになってきましたね。



北野神社の境内社は「白山神社・金毘羅神社・蛭子神社」の3社。
白山神社の右手には、神仏分離令まで神仏習合で北野神社と習合していた北野寺が隣接しています。



ところで、彦根藩2代藩主を異母弟の直孝と家督交替させられた直継には、「彦根城の人柱」という逸話があります。
“彦根城の天守の工事が難航していた時にお菊という娘を人柱を立てる話があったが、直継は人柱を立てたと見せかけて空の白木の箱を埋めて、工事を完了させた後に娘を親元に返した。”簡単書くとそんな話だそうです。

この話は、後年に作られたような話に思えてしまいますが、直継の人物像が伺われれる部分もあるのかもしれません。
「井伊の赤鬼」と称された父直政や「井伊の赤牛」と呼ばれた異母弟の直孝のような勇猛な武将(鬼を継いだ夜叉)とは性質の違った人物という印象を受けます。


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梅にメジロ!梅にシジュウカラ!

2017-03-26 18:05:15 | 野鳥
 そろそろ天気予報などで桜の開花予想を取り上げる季節になってきましたが、湖北は桜より梅がまだ満開を迎えていない感じですね。
しかし、ヒメオドリコソウやオオイヌノフグリに混じってツクシの群生が随分と目立つようになってきています。

ウグイスの囀りもチラホラと聞こえてくるようになりましたし、キジのホロ打ちも場所によっては聞こえてきます。
これでツバメの姿を見たら春本番ということになりますが、今年はウメジロがまだでしたので梅の花を探してみました。



ここに来ていたメジロは2羽だけ。
以前は数羽単位で梅の花へやって来たメジロも数が減ってきて寂しい限り。もっといい梅園へメジロが移ってしまったのかもしれませんけどね。



せっかく来てくれたメジロでしたが、あっという間に姿が消えてしまいましたので、代わりに梅にシジュウカラをパチリ!です。



しばらくの間、梅の花を行き来してくれましたので楽しむ時間は充分です。
シジュウカラは季節に関係なく見られる小鳥ですが、綺麗な小鳥の部類に入りますね。
右向きと左向きでパチリ!





他のお客さんはヒヨドリってところですが、花に対してヒヨドリってちょっと体が大きすぎますね。
満開の梅にヒヨドリならいいんだけど、中々状態のいい梅の木は見つからない。





いよいよ梅ジロ・梅カラと春の雰囲気が楽しめるようになってきましたが、桜の季節にはまた違った春の雰囲気があると思います。
さて桜の咲く頃にはどんな出会いがあるか期待しておきたいところです。


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御朱印蒐集~彦根市 弘誓山天白院 宗安寺

2017-03-23 18:39:39 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 このところ涅槃図に興味があるのですが、彦根城下の宗安寺では約20年ぶりに涅槃図が公開されていると知り、参拝に訪れました。
宗安寺は彦根城のお堀につながる「夢京橋キャッスルロード」という観光商店街に建てられている浄土宗の寺院で、彦根藩 井伊家とは非常に関係の深い寺院です。

宗安寺の始まりは寺伝によると1338年からおよそ10年の間に足利尊氏・直義兄弟が全国平定を願って各国に一寺を選んで安国寺の称号を与えた中の上野(群馬県)の安国寺に由来するとされています。
その後の戦乱で寺院は荒廃したが、箕輪(群馬県)の城主となった井伊直政が再興。
1598年に直政が高崎城主になると高崎(群馬県)に移転。さらに関ヶ原の戦いの勲功で近江佐和山城(石田三成の居城)の城主になると佐和山麓に移り、1603年には彦根城下の京橋に移築されたとされます。

佐和山に移転後に当初の“安国寺”から“宗安寺”に名を改められたのは、関ヶ原の合戦で敵方西軍の毛利方・安国寺恵瓊の名を避けたためといわれています。
さすがに敵軍の将の名の付いた寺院には抵抗があったのでしょうけど、この宗安寺は井伊家の出世と共に移動を重ねた寺院ということになりますね。



寺院には「赤門」と呼ばれる朱色の門がありますが、この門は石田三成の佐和山城の表門を移築したものとされていて、馬に乗って駆け込めるように敷居がなく間口の高い造りになっていました。
井伊直政は関ヶ原の合戦後に佐和山城主になり、賊将・石田三成の居城を嫌って彦根城を建築しようとしたとも言われています。
しかし直政は、彦根城が建設されるまでに亡くなってしまいましたので、入城することは叶わなかったようであります。







宗安寺は1701年の彦根大火で全焼してしまったとされていますが、大火の中でこの赤門だけは焼けずに残ったようです。
翌1702年には長浜城付属御殿を拝領して本堂として再建し、その後も次々と堂宇が復興されていったと伝わります。
平成8年には道路拡幅のため390年ぶりに移動したとのことでしたが、現在も移動前の礎石が残されていて、赤門の朱色の跡が残っています。



宗安寺は江戸時代に李氏朝鮮からの使者が彦根に泊まった際に高官の宿泊所となっており、その時のご馳走搬入の勝手口に使われたのが黒門だったとされています。
“肉類などのご馳走を正門である赤門から搬入するのは仏教寺院としては出来なかったから”ということなのでしょうか。



本堂は長浜城の内藤豊前守信成公の御殿を移築したものとされています。
内藤信成は関ヶ原の合戦後の1606年に第6代の長浜城主になった人のようですが、地元の長浜の人でも初代城主は秀吉・2代目は柴田勝家・3代目は山内一豊くらいは聞いたことがあっても6代目城主の内藤信成の名は知られていないと思います。



本堂の脇には部屋が連なっており、各部屋に仏像や文書が配置されています。
入った部屋にはまず傳大師の坐像がありました。あまり馴染みがない僧ですが、傳大師は6世紀の中国の僧だということです。

次の間には石田三成が佐和山城下に建立した瑞岳寺に祀られていた地蔵菩薩(室町時代)が韋駄天像と共に祀られています。
地蔵菩薩立像は以前は彩色されていたようですが、洗たくによって三成を思わせる姿となったとされます。

また善光寺式阿弥陀三尊像様式の阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊が祀られ、さらには阿弥陀如来坐像が祀られていました。
阿弥陀如来座像は三成の念持仏のあった称名院の本尊だったとされ、室町~鎌倉の作で見応えのある仏像でした。
三成の念持仏の千躰仏も祀られていましたが、これには三成の領民への想いが込められているという説があり、領民想いだったとされる三成の一面が伺われます。

最後の間には竹生島信仰の影響かと思われる宇賀弁財天、眷属の15童子像を従えた弁財天坐像などもありました。
宇賀神弁財天は明治の廃仏毀釈で廃寺になってしまった寺院の預かり物だと案内に書かれておりました。



庭は「彼岸白道の庭」と呼ばれ、2河(内向きにとらわれる心・外に攻撃的になる心)の煩悩の間を通って、浄土を目指す清浄心(白道)を表すとされ、此岸から渡り廊下を通って彼岸へ向かえるような造りになっています。
月夜には白砂利(アルゼンチンの石 アズールショロ)が月光に照らされて白玉の露のように見えることから「白露庭」とも呼ばれているそうです。



さてやっと本堂に向かうことになりますが、四天王が四隅に配置された内陣に祀られる御本尊の阿弥陀如来像は淀君の念持仏であったとされ、内藤氏が大阪夏の陣で持ち帰ったと伝わる阿弥陀如来像です。
胎内から阿弥陀経などの経巻や仏画などが納められており、経巻に1270年の奥書があることから鎌倉時代の作であると特定されています。

西国三十三観音像に囲まれた聖観音立像(1851年作)がありましたが、この仏像は興味深かったですね。
前屈みの姿勢で右足が前に出て、右膝も歩きだしそうに曲がっている。“今にも救いに行くぞ”といった姿勢に妙な説得力を感じます。

楽しみにしていた大涅槃図は本堂に痛みが進まないように寝かした状態で箱に入れられての公開でした。
大涅槃図は絹製で縦4.6㍍・横3.3㍍の1712年の作とされてり、50年前までは釈迦入滅の日の涅槃会に壁に掛けていたようですが、涅槃図自体の重さで破損してしまったため、その後は収蔵庫に保管されていたようです。
今回の公開は約20年ぶりということでしたが、この大涅槃図には入滅した釈迦の周囲に弟子や菩薩などと共に、力士・駱駝・百足・蜥蜴・蜻蛉・蛙などが描かれているのが特徴的です。



宗安寺は、井伊直政の正室であった唐梅院の両親(唐梅院は徳川家康の親戚である松平康親の娘で家康の養女として直政に嫁ぐ)の菩提を弔うために建立した寺院とされています。
その後も彦根井伊藩に手厚く保護され、井伊家と縁の深い寺院ですが、不思議に思うことがあります。

井伊家と継がりの深い宗安寺になぜ“豊臣家淀君の念持仏の阿弥陀如来像”や“石田三成の念持仏の地蔵菩薩像や千体仏”が祀られているのか。
また大阪冬の陣・夏の陣の敵方武将の木村重成の墓が祀られているのか。



木村重成は大阪夏の陣の八尾・若江の戦いで井伊家の家老であった庵原助右衛門に討ちとられてしまいます。
その首を井伊家家臣の安藤長三郎が“私には手柄がないのでその首を頂戴したい”と願い出て自らの功としたそうです。

首実験で徳川家康の前に供された重成の首からはよい香りがしたそうです。これは出陣に際して兜に香を焚き込めてあったからとされ、討死を覚悟して戦に臨んだ重成の決意と嗜みに家康は感嘆したといわれています。
安藤長三郎は重成の首を菩提寺である宗安寺の安藤家の墓地に埋葬して、今に至るまで供養されているそうです。


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御朱印蒐集~彦根市 真浄山 大師寺~

2017-03-19 15:36:18 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 今年の大河ドラマの『おんな城主 直虎』は、まだ人物設定や時代背景が分かった段階で、これからドラマはどう展開していくのか...といったところでしょうか。
滋賀県彦根市は江戸時代からの井伊家のお膝元になりますが、井伊直政が関ヶ原の合戦後に近江国佐和山城主となるのは直虎の死後のことですから大河ドラマの舞台になることはないかもしれませんね。

井伊家は今も家系が続いている名家だとはいえ、知ってる名前はというと戦国時代に「徳川四天王」に数えられた『直政』と、「桜田門外の変」の『直弼』ぐらいしか聞き覚えがないのが実際のところです。
しかも井伊家には直政を初代とする系譜と、それ以前の代(現時点の大河ドラマの登場人物等)をカウントする系譜があってややこしい。一般的には彦根藩「直政」からの系譜で語られることが多いようではあります。



井伊家のご当地彦根市では昨春より「井伊家ゆかりのふく福めぐり」と題して16社寺が参加するイベントが開催されています。
中には“井伊家ゆかり”の程度はよく分らない寺社もありますが、彦根藩の領地(または近隣)にあった寺社といえると思います。
16寺社には既に参拝を済ませているところもありますが、“寝弘法”を見たかったこともあって大師寺へ訪れることにしました。



大師寺は通称「彦根駅前の弘法さん」と呼ばれるだけあって、JR彦根駅から駅前の大通りを歩いてすぐの住宅地にありました。
地元では「駅前の弘法さん」と親しまれている寺院ですから弘法大師空海の真言宗の寺院で、山号は「真浄山」となっています。



寺院は開山の新しい寺院で、昭和9年に「真浄法尼」という尼僧が開山されたとされています。
真浄法尼は92歳で入寂するまで宗祖を務められたそうで、山号には宗祖の真浄法尼の名を冠っているようです。

現在の住職さんの話では真浄法尼は非常にスピリチャルな方だったそうで、横たわり仮死状態になって弘法大師様のご託宣をお聞きになったという逸話が伝わります。
真浄法尼の入寂後に、ご託宣を聞く姿を像として現そうとしたのですが、女性が横たわっている像というのはどうかということもあって「寝弘法さん」の像が造られたようです。

またこの寝弘法さんの頭の部分には京都の東寺から分けられた仏舎利が奉納されているとのことですから、東寺とのつながりが深いようです。
なぜ歴史の浅い寺院でそのようなことが可能だったかは、真浄法尼のご託宣を聞いている姿に立ち会った東寺の僧侶が本物だと認めたことによるとされています。


「寝大師}・・・観光パンフレット

釈迦が入滅する様子を現した涅槃仏の像は写真では見たことはありますが、お坊さんが横たわっている像というのは聞いたことがありませんでしたし、他にはほぼないとのことでしたので珍しい像ということになります。
大師寺の御本尊は「弘法大師坐像」で脇仏には「不動明王像」が祀られていて、弘法大師像は開山時に作られた仏像のようですが、不動明王像は江戸中期の作ではないかということです。
元々祀っていた寺院が廃寺になってしまい、大師寺にやってきたとのことです。

右手には開祖「真浄法尼坐像」が祀られていて、この仏像は“最後の仏師”とも呼ばれた西村公朝の作だそうです。
東寺から分けられた仏舎利といい、西村公朝作の仏像といい、小さくて新しい寺院ではありますが、見所の多い寺院だと思います。

さらに驚いたのは内陣にかけられた涅槃図です。
ご住職さんに聞いてみると昭和の作ではあるが、描いた人は専門家ではなく別の寺院のお坊さんだとのことです。

とはいえ、素人に描けるレベルではない涅槃図ですので興味を持って眺めていましたが、端の方には巻貝・二枚貝などの貝類やカワウソの姿が描き込まれています。
虎や象などかつて海外にしかいなかった動物は、昭和の作でありながらも古い涅槃図のデフォルメされた姿で描かれていますので、涅槃図の様式を用いています。
“涅槃図に細かなルールは決まっておりませんので描く人の想いによって描かれるものは変わります。”とはご住職さんの言葉。



狭い境内には「四国八十八ヶ所のお砂踏み」があって、金剛峯寺から始まって八十八番まで歩いて行くと、最後は奥の院になります。
簡易的なお遍路の満願成就ということでしたが、いつか空海の足跡を辿ってみたいですね。



また大師寺には一箇所七福神があり、手水舎にも七福神が祀られています。
七福神は境内からは斜めにしか見えませんが、本堂から見ると一列に並ぶ姿が見えてなかなか壮観な光景でした。





七福神の間には何とアサヒ・スーパードライの石像が供えられています。
これは冗談なのかどうかは分かりませんが、珍風景ではありますね。



ところで大師寺には何ヶ所かに「紋」がありましたのでこれは何の紋なんだろうと調べてみたのですが、どうやらこの紋は東寺の紋(東寺雲)に近いものと思われます。
東寺の仏舎利を頂いた縁があって寺紋が東寺雲になっているのかと考えると納得がいきます。

 

大師寺のご住職は大変気さくな方で、当方の脈絡のない質問の数々に丁寧に答えて頂き感謝しております。
本堂で話ている間にも地元の方らしき方が参拝に入ってこられてましたので、地元で親しまれているお寺なんだろうなと感じる寺院でした。


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春だ!獅子舞の季節~名残惜しい冬鳥たち~

2017-03-17 18:28:28 | 野鳥
 獅子舞がやって来る季節は地域によって随分と違うようですが、湖北に獅子舞が来るのは梅の花の咲いた頃。
伊勢の方からやって来て、獅子舞によって湖北に春の訪れを知らせてくれる恒例行事といえます。

獅子舞は、伊勢大神楽という伝統芸能ともいわれ、同じ時期に同じ場所へ1年をかけて巡られるそうです。
梅が咲きだしてから桜が散る頃まで獅子舞を見かけますから、湖北は毎年3月中旬~4月中旬がその時期なのでしょう。



通りがかった時にちょうど獅子舞の一行に出会いましたので、しばらく舞いを見ていました。
獅子舞は3チームで各戸を回られていて、その一帯では3頭の獅子が代わる代わる舞っているというハレの空間です。



ところで、移動の始まっている冬鳥も身近な小鳥はまだまだ姿を見ることが出来ます。
ジョウビタキも民家や公園で可愛らしい姿があり、今月終わり近くまでは出会えそうですね。





♂のジョウビタキは色合いの綺麗さが魅力ですが、♀のジョウビタキも地味ながらも愛くるしい。



ツグミやシロハラはまだ数が残っていますが、気づかないうちに姿を消してしまうのでしょうね。
冬のシーズンを過ごして環境に慣れてきたのか、警戒心もシーズンの始まった頃より薄れてきているようです。



梅にメジロといきたいところだが、なにせ3月なってからも大雪警報が発令されるような雪国ですから、梅の花はまだいまいち開かない。
代わりとばかりに蕾ばかりの梅の木にエナガがやってきたところをパチリ!



4月も中旬になれば田圃や公園や山に渡りの野鳥や夏鳥がやって来る。
最初に見つけられる野鳥は何になるでしょうね。ちょっと気が早いけど...。


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シノリガモをパチリ!~ルーティンな鳥見~

2017-03-13 19:02:22 | 野鳥
 当方の鳥見は季節によってコースを変えながらも、同じような場所を巡回するスタイルになっています。
そんな感じなので鳥見で他府県へ遠征をすることはほとんどないのですが、毎年この季節に一度だけ訪れる場所があります。

年間の鳥見ルーティンみたいになってきていますが、今年は少しシーズン遅れの鳥見です。
特に珍しい鳥には会えず、例年通りの顔ぶれになりますが、恒例のシノリガモをパチリ!です。



天気は良かったけどベタ凪ぎでシノリガモは寝てばかり。
もう少し波があったら近くまできてくれるのに、気候を見誤ったかと思いつつも顔を上げてくれたところをパチリ!
なぜかヒドリガモの♀2羽と一緒でした。



羽繕いを始めたので羽ばたきするのを待っていたら、案の定羽ばたきしてくれましたよ。
でもピントは合ってないのよね。



動きがないので退屈になってきたところで、ウミウが大げさな水浴びをしてくれてやっと水面へ。
...とすぐに飛び立つ。







この日に会えたシノリガモは♂2羽と♀1羽だけでした。行ったのが少し遅かったかな?
定番なのはウミアイサ。こっちは♀2羽だけでちょっと寂しい。



カモメの仲間ならなんぼでもおるけど、数が多すぎて識別しながら珍しいのを探す気力はないので、目の前にいたオオセグロカモメをパチリ!



これもルーティン化してきているヒメウとウミウ!
イソヒも海では定番なんだけど、近所で見られるやつがいるのでパスです。



潮の匂いに包まれながら、波をかぶらないように海浜を歩きつつの海の鳥見もたまには楽しいもんですね。


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御朱印蒐集~京都 東寺(教王護国寺)五重塔初層内部 拝観~

2017-03-10 07:48:28 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 東寺では昨年も参拝して御朱印を頂いたのですが、今回は五重塔の初層内部が特別拝観出来るということで再度参拝に訪れました。
以前に湖東三山の一つの西明寺の三重塔の内部拝観した時に非常に深い感銘を受けたことがあったのですが、東寺の五重塔の初層内部も大変素晴らしいものでした。

五重塔は826年に空海により建立に着手しましたが、費用・人手の不足から朝廷に勧進を願い出るなど奔走した結果、空海の入定後に完成したとされています。
その後、落雷などにより4回焼失してしまいましたが、その都度多くの僧が奔走して再建を果たしてきたようです。
現在の塔は1644年に徳川家光によって再建されたもので国宝に指定されています。



五重塔は高さが55mとそびえ立つ様な高塔で、京都駅の反対側に建つ京都タワーとあわせて京都のランドマークタワーとなっています。
これは京都の景観ガイドラインによって高さ規制をされていることが大きいと思いますが、平安時代と昭和が共存している不思議な景色でもあります。
余談ですが、京都タワーは1964年の東京オリンピックの年に竣工した建物ですので“京都に行った時には既に建っていた”という方も多いかもしれませんね。



東寺の周囲を取り囲む壁には5本筋壁が見え、南大門の外からも五重塔の姿を拝めます。
元来、塔には釈迦の仏舎利を納め、遠くからでも仏を拝むことが出来るという目的がありますから、平安時代の昔から京の人々の心の拠り所になってきたと言えるのかもしれません。
五重塔はその高さゆえ、近くまでくると遥か見上げることになりますが、初層内部にはこの裏側から入ることになります。



入る前にガイドの方から説明を受けて内部でもまた詳しく説明してくださるのですが、初層の内部には東西南北の位置に4尊の如来像・八尊の菩薩像が心柱を囲むように並んでいます。
東に阿しゅく如来(弥勒・金剛蔵の両菩薩)、南に宝生如来(除蓋障・虚空蔵の両菩薩)、西に阿弥陀如来(文殊・観音の両菩薩)、北に不空成就如来(普賢・地蔵の両菩薩)で、心柱を真言密教の中心仏である大日如来に見立てています。

五重塔の構造は心柱によって地震がきても倒れない耐震設計が施されているとされ、心柱の立つ心礎の部分を見ることも出来ます。しかし塔の大黒柱は大日如来というセンスは凄いですね。
初層内部に極彩色に描かれた絵は既に色あせた部分もありますが、充分にその姿をとどめていて見ごたえがあり、想像していたより広い空間になっていました。
また、壁に描かれた真言八祖像には中国における空海の師である恵果の姿を見ることができるあたりは興味津々です。


(看板より)


(パンフレット)

塔の初層の屋根で塔を支えているのは4鬼の邪鬼でした。
鳩よけのネットが邪魔ではありましたが、その姿を確認することが出来ました。4鬼それぞれの支え方や表情が違いますね。









五重塔から金堂への道では金剛茶の振る舞いがあって楽しみにしていますが、今回は“本日最後の一杯です”ということもあって金剛茶を購入して帰りました。
“茶”と名前が付いていますが、お茶の葉ではなく焼き梅の梅茶で金箔まで入っていますので高級感があります。



この後、金堂・講堂・御影堂(工事中のため仮設のお堂)と参拝しましたが、何度見ても金堂・講堂には凄すぎるくらい凄い仏像が並んでいます。
国宝・重文の仏像が並ぶ姿に圧倒されてしまう感が強いのですが、昨年初めて見た時よりは冷静に見ることができたと思います。
しかしこれだけのものが残っているというのは奇跡のような話ですね。

ところで東寺にはいろいろな鬼瓦があるので瓦見してみました。
金堂の屋根には、鬼の顔の瓦の他に龍の鬼瓦があり、堂の守護をしているようです。



夜叉神堂の屋根には魔除けの鬼瓦がのせられています。
桃は鬼や悪霊が怖れるとされていて、イザナギノミコトの神話にも登場したり、童話の桃太郎にも主題となっていたりしますから「桃=魔除け」の信仰は古代からあったようですね。



夜叉神堂に祀られている“夜叉神像”は空海の作とされていて、かつては南大門に祀られていたそうですが、現在は夜叉神堂に安置されています。
雄夜叉(文殊菩薩)・雌夜叉(虚空像菩薩)は別々の祠に祀られていましたが、南大門に祀られていた時は阿吽の仁王像のような祀られ方だったのでしょうか。

 

屋根の軒丸瓦は新旧あるようでしたけど、夜叉神と彫られている軒丸瓦の方が古いもののように見えました。
菊の花(花びら16枚)のような鬼瓦もありましたが、これは皇室との関係があるのかもしれません。







御朱印蒐集だけを目的にすると、一度参拝した神社・仏閣には行かないかもしれませんが、何度か同じ寺院(神社)に参拝することで以前とは違った感想を持つことがあります。
その時の自分の感情的なことや取り巻く状況的なことからの影響もあって、受け取り方が変わるのでしょう。
特に仏像を前にした時に感じる想いは、毎回違うように思えてなりません。


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御朱印蒐集~京都 慧日山 東福寺②・同聚院~

2017-03-04 17:43:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 東福寺は過去に4度の大火に見舞われ、その大部分を焼失してきた歴史があります。
最初の3回は鎌倉時代後期から室町時代の初期の事とされていますが、その時代に再建された東福寺は足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ明治の時代まで京都五山の寺院として栄華を誇ったそうです。

1881年(明治14年)に仏殿・法堂・方丈・庫裡が焼失してしまう前までは、仏殿に高さ5丈(15m)の釈迦仏像と7.5mの観音菩薩・弥勒の両菩薩像が安置されていましたが、火災により幻の大仏となり、現在は火災から救い出された約2mの左手が残るのみとなってしまいました。



再建された本堂に祀られる御本尊の釈迦如来立像と脇侍の摩訶迦葉尊者・阿南尊者立像は東福寺の塔頭である万寿寺(京都五山 第5位)から移された像で鎌倉時代の作だとされています。
内陣の様子は外側から格子越しにしか見ることが出来ませんでしたが、脇侍の両隣りには4天王の姿もかすかに見ることが出来ます。

天井には「蒼龍図」という150畳にもおよぶ巨大な龍の姿が描かれていて関心をそそります。龍神は水を司るとされていて、禅寺の天井に龍が描かれるのは火災除けなどの意味があるそうです。
この蒼龍図は堂本印象という日本画家の方が17日で書き上げたといわれるド迫力の絵でした。



本堂は高さ25.5m・間口41.4mの巨大な建築物で、昭和期の木造建築としては最大級のものとされています。
巨大な三門を抜けるとすぐにこの本堂がありますから、巨大な建築物が立ち並ぶ光景に圧倒されてしまう思いがします。





重要文化財に指定されている開山堂は、東福寺を開山した聖一国師 円爾像が祀られています。円爾は禅僧で初めて諡号を賜った僧とされている学徳の高い僧だったようです。
この開山堂は少し変わった楼閣に見えます。この開山堂の上層は「伝衣閣」と呼ばれて、「京の五閣」(他に金閣・銀閣・飛雲閣・呑湖閣)の一つとされていて、上層からは前方に広がる庭園が眺められるような造りになっています。
開山堂の庭園にも枯山水がありますが、ここは縦・横・無地が組み合わされた少し変わった格子模様になっていますね。





境内には愛染明王を祀る愛染堂という朱色の鮮やかな八角堂がありました。
朱塗りに柿葺きの建物で1934年に万寿寺から移築されたそうですが、南北朝時代の建築物で重要文化財の指定を受けています。



東福寺の境内で何とも珍奇な光景に思えてしまうのが、現存する日本最古(室町時代前期)の禅僧の便所(雪隠)であった東司でした。
トイレとはいってもここは禅宗の寺院ですから、“用を足すのも修行の内”のような作法があったようです。





“大の用”が終わった後は「ちょうぎ」という木ベラで拭いて、木ベラは水洗いしてまた再使用。
手は水で3度洗い、灰で3度洗い、土団子で3度洗い、サイカチ(マメ科の木、豆は石鹸の代用となる)で一度洗って、最後に水か湯でもう一度洗う。

建物は匂いが溜まらないように風通しの良い造りとなっていて、排泄物は堆肥肥料として京野菜などを育てるのに役に立っていたそうです。
食べるのも排泄するにも厳格な作法のある禅僧の生活は全てが修行だったということでしょうね。





ところで、ここ東福寺にはどうしても見たかった仏像がありました。
東福寺には25の塔頭がありますが、そのうちの一つである同聚院に祀られる不動明王像です。

同聚院は1006年に藤原道長が丈六の五大明王(降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉...不動以外はすべて焼失)を安置する五大堂を法性寺の境内に建立したが、鎌倉時代に衰退してしまい、その跡地に東福寺が建立されたと伝わります。
かつて五大明王を祭っていた五大堂があった場所が現在の同聚院の付近だったとされ、室町時代の1444年に東福寺の塔頭として創立した寺院とのことです。





同聚院に祀られる不動明王坐像(重文)は1006年のもの(一部後補)とされ、本堂の奥に見える丈六の不動明王の姿には期待していた以上の迫力を感じます。
内部では仏像の目の前で拝観させていただきましたが、最初は薄暗さからよく見えなかったものの、目が慣れてくるに従って細部まで見えてくる。

本来不動明王は憤怒の表情の密教的な仏ですが、この不動明王には貴族趣味的な気品のようなものが漂っていて、これまで見てきた不動明王像とは異質なものを感じてしまいます。
この違いは同じ平安時代でも「貞観仏」と「藤原仏」の違いということになるのかもしれません。
同聚院には数えなかったけどいくつかの不動明王像が祀られています。中でもこの丈六の不動明王座像は十万の眷属を従えているとされていることから「十万不動さん」と呼ばれています。



東福寺の境内やその付近には20寺ほどの塔頭があるようでしたが、塔頭にまで訪れる人は少なそうな雰囲気があります。
そのためか同聚院にいた時に、滋賀県の山の麓の古寺にでもいるような錯覚を起こしてしまいそうでした。密かに素晴らしい仏像が祀られているという意味でですけどね。


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御朱印蒐集~京都 慧日山 東福寺①~

2017-03-02 08:06:28 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 東福寺は京都駅からJRで1駅の位置の京都の西からの玄関口とも言える場所にある臨済宗東福寺派の大本山の寺院です。
臨済宗には15派の本山があるとされており、東福寺は京都五山の第4位に格付けされた寺院とされています。

京都五山や鎌倉五山と呼ばれる五山制度は、北条氏によって中国に宋の国が栄えた時代に寺格を定める制度を鎌倉時代に取り入れたとされ、室町幕府将軍・足利義満によって「鎌倉五山」「京都五山」として改革が行われたとされています。
京都五山は上位から天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺(東福寺の塔頭)で、鎌倉五山を含めた最上位に別格として南禅寺が格付けられています。
東福寺の塔頭である万寿寺を除けば、全て臨済宗各派の総本山となる寺院が選ばれています。



東福寺の創建は、鎌倉時代の1255年。時の関白・藤原(九條)道家が東大寺の「東」と興福寺の「福」の2文字をとって九條家の菩提寺として造営したとされています。
その後1319年・1334年・1336年と相次ぐ火災に見舞われ焼失してしまいましたが、最初の焼失の4ヶ月後には復興に着手し、1347年には前関白・一條経通により仏殿の上棟(棟上げ)が行われて再建されたそうです。

往時の仏殿には15mの高さを誇る本尊の釈迦仏像、左右には7.5mの観音菩薩像・弥勒菩薩像が祀られ、新大仏寺」と呼ばれていたそうですので、寺号をもらった奈良の東大寺に匹敵するような大寺院だったのだろうと考えられます。
しかしその仏殿は1881年に焼失してしまったとのことですから、非常に惜しまれる事故であったといえます。



東福寺の巨大な三門は、室町時代初期に再建され、現存最古最大とされる三門で国宝に指定されています。
前方にある思遠池には蓮がありましたから、蓮の花の咲く季節の三門はさぞや趣のある風景になるのだろうと想像が出来ますね。
東福寺の三門は、「日本三大門」とか「京都三大門」など呼び分けたりする際の数え方によって「京都三大門」に入っていたり入ってなかったりですが、同じ臨済宗の南禅寺の三門(日本三大門)と比べてもけっして引けを取るものではないと思います。



三門にかかる扁額の「妙雲閣」の字は室町幕府第4第将軍・足利義持(義光の息子)の筆によるものと伝わります。
三門の楼上(非公開)には諸仏と極彩画が描かれているそうですが、公開時の写真を見るとかなり見応えがありそうな内部になっていました。

さて、京都の禅寺というとどうしても庭園ということになります。
東福寺には「本坊庭園」と「通天橋」の2つの庭園と名勝がありましたので、両方共に拝観することとしました。



「本坊庭園(八相の庭)」には庫裡から入り、方丈(僧侶の住居または応接の間)の東西南北にある4つの庭園を眺めながらぐるりと一周することが出来ました。
この「八相」とは寺院の案内では“北斗七星、蓬莱、瀛洲、壺梁、方丈、京都五山、須弥山、市松の八つの意匠を盛り込み、これが釈迦の入滅を表す「釈迦八相成道」にもあたることから「八相の庭」と名付けられた”とあり、“全体のストーリーが継るような構成となっている”といわれますが、これを理解するのはかなり難しいですね。



上の南庭には四つの神仙島、京都五山、須弥山間に枯山水が幾重にも描かれています。
西庭と北庭には苔の緑色の間に市松模様のように敷石が置かれていましたので、枯山水の南庭とは随分と意趣の異なる庭です。
正確な市松模様が徐々に並びが崩れていくのには何らかの意味があるのかもしれませんね。



方丈の庭の隅に何体かの石仏が置かれているのですが、由来などは分からないものの中々味わいのある石仏でした。



さて、「名勝」と呼ばれているのは紅葉シーズンには大勢の紅葉狩り人で溢れるという通天橋です。昨秋はあまりにも撮影者が多すぎて危険な状態になってきたため、橋上では撮影禁止となったとのニュースもありました。
通天橋は高さ8mの位置に架かり、橋の長さは27mといいますから、奥の方に居る人は遠すぎて霞んでしまうような長い橋です。



カエデの木はもう枝だけになっていて、紅葉の絶景を望むことは出来ませんが、訪れる方はそれなりにおられるようでした。
外国人(西洋系・アジア系)に一般観光客、修学旅行生のグループなどバラエティ豊富な感じを受けるのは京都の観光名所ならではということですね。



通天橋には峡谷に張り出した舞台があるのですが、ここから眼下に見下ろす紅葉は絶景でしょうね。
フォトフレームとして良い感じになりそうでしたが、紅葉シーズンは人混みで凄いことになっているようですし、そもそもその季節は撮影禁止ですからここから紅葉の風景を撮れるのは観光関係のカメラマンだけですね。



東福寺には通天橋の他に偃月橋・臥雲橋という3つの橋が架けられています。臥雲橋から通天橋の舞台が見えますが、その下には紅葉樹が雲海のように広がっています。
紅葉のシーズンには、ここに広がるカエデやモミジが真っ赤に染まるのですから、「名勝 通天橋」といわれるのも分かりますね。



東福寺ではまず「本坊庭園」と「通天橋」を見て回ったのですが、東福寺には禅寺として興味深い場所がいくつかありました。
書き出すと話が長くなってしまいますので、別の機会に改めて...続く。


コメント (2)
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