僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~京都府 舞鶴市 鹿原山 金剛院~

2018-06-28 19:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都の舞鶴に金剛院という寺院があるのは知っていましたが、実際に訪れるきっかけとなったのは西国三十三所札所の「成相寺」と「松尾寺」へ参拝した帰り道に寺院の案内板を見たことです。
舞鶴市とはいっても福井県との県境からさほど離れていない距離でしたので、小浜から一般道を使えば無理せず行ける場所だと分かったことが大きかった。



国道から金剛院への道を辿っていくと、お墓のようにも見える寺標に出会います。
“波切不動明王”と刻まれているのは金剛院の本尊が波切不動にようものですが、どう見ても墓標にしか見えませんね。



慈恩橋という赤い橋によって彼岸と此岸に仕切られ、橋の向こうは彼岸ということになります。
山門はこじんまりとした門ですが、中には自然に囲まれた緑豊かな境内が広がります。



入ってすぐに圧倒されるのは樹齢1000年といわれる伽耶の大木でしょうか。
樹高22m、幹囲5.4mの巨大な大木は黒々とした色合いもあって神々しいものに見えます。
鳥居はミニチュアではありませんので、その大きさは想像超えるものであり、伽耶のこのような大木を見るのは初めてのこととなりました。



金剛院は“丹後のもみじ寺”との愛称があるようにカエデに飲み込まれるかのような木々の多さです。
参道や境内を歩くと聞こえてくるのはオオルリを始めとする夏の小鳥たちの囀りのシャワー。
ただし木々が深すぎてその姿は確認出来ない。



手水舎では龍が吐水する清水を“水かけ地蔵様にかけて念じて下さい”と書かれていましたので清水をかけさせて頂きました。
まだ参拝者は誰も来られていない時間でもありましたので、乾いていた地蔵様が水を浴びて色が変わっていくさまが何とも味わい深かった。



金剛院は平安時代初期の829年に平城天皇の皇子・高岳親王によって創建されたと伝わる真言宗東寺派の寺院となります。
高岳親王は薬子の変(平城天皇と嵯峨天皇の対立に端を発するとされる)によって皇太子を廃されて仏門に入られたとされる方です。

仏門に入られた高岳親王は、法名を眞如として弘法大師の十大弟子として仏教の興隆に尽くされます。
その後、唐の長安に入り天竺に向かいますが、消息を絶ち再び日本へ戻ることはなかったようです。



三重塔は1083年に高岳親王の供養のため白川天皇によって建立されたとされ、現在の三重塔は室町時代の再建とされます。
三重塔にはカエデ等の広葉樹が覆いかぶさっていますので、秋の紅葉の折には彩り豊かな風景が見られることでしょう。



三重塔から寂しい山道を200mほど歩いて行くと「弘法の滝」へと到着します。
滝といいますからもう少し違うものを想像していましたが、か細い水量で滝と呼んでいいものか迷うものでした。
ただ岩場には地蔵菩薩の石仏が祀られていましたし、しめ縄を張られた聖域であることには違いはないようです。



本堂へは見上げるような長く急な石段が続きます。
ちょうど地元のボランティアの方々が石段の草むしりをされていて、挨拶しながら登っていきましたが、上段に行くに従い息が切れてきて“しんどいやろ”“もう少しや”など声をかけられながら登ります。

そこにおられた方に話を聞くと、この石段は104段か105段あるのだが、かつては煩悩の数と同じ108段あったといわれます。
“大水が発生した時に下部が埋まってしまい、現在は何段か減ったのです”と教えていただきました。



本堂へは入ることは出来ませんでしたが、堂内には本尊の波切不動が祀られているといいます。
建築年代は分らないものの、山の中の古寺のいい雰囲気です。
しかし、金剛院はもみじ寺と呼ばれるはずで、どこを撮ってもカエデがかぶってきますね。



驚いたのは向拝にある彫り物の見事さでしょうか。
龍の彫り物といい、天女の彫り物といい、象と獅子の木鼻といい見事な造作です。



本堂からつながるのは渡り廊下と舞台造りの雲山閣。
中に入ることは出来ませんので石段を降りて戻ることになります。
急勾配の石段は登る時はしんどいだけですが、降りる時はあまりにも急なため転げ落ちそうで怖く、手すりを持って降ります。



さて、納経所に戻って御朱印をお願いするとともに宝物館に入りたい旨を伝えると、鍵を持っていって快く開けていただくことが出来ました。
予約が必要との情報があったので入れないかと思っていましたので、拝観できたのはありがたいことでした。

宝物館に入ると正面中央には「阿弥陀如来坐像(藤原期・重文・像高約170cm)」を中心として、向かって右に「釈迦如来坐像」、「多聞天立像(藤原期・重文・像高約160cm)」と阿形の「金剛力士像(鎌倉期・重文・像高約180cm)」が並びます。
左には「増長天立像(藤原期・重文)」と吽形の「金剛力士像(鎌倉期・重文)」と重要文化財が勢揃いする様には圧倒されてしまいます。

館内には快慶作の「深沙大将立像(鎌倉期・重文)」と、同じく快慶作の「執金剛神立像(鎌倉期・重文)」が安置されておりましたが、何といっても深沙大将が興味深い。
深沙大将は、玄奘三蔵のインドへの旅を助けたとされる守護神で、小説「西遊記」に登場する沙悟浄は深沙大将をモデルにしたといわれています。


購入写真

この深沙大将立像には髑髏の胸飾りはなく、腹にベルト状に巻く人面の飾りがありません。
人面の飾り(ベルト)がかつてあったと思われる跡がありますので、おそらく失われてしまったのでしょう。

宝物館には重文の仏画(薬師三尊と十二神将軍・四天王)なども展示されており、予想以上の仏像・仏画が展示されてありました。
運良く宝物を拝観出来た事に感謝するほかありませんね。


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京都国立近代美術館~横山大観展~

2018-06-26 18:33:33 | アート・ライブ・読書
 横山大観。近代日本画の大家・巨匠ということ以外は何も知らず、TV番組の「開運!なんでも鑑定団」に作品(贋作・本物)が登場しているのを見た画家という印象しかありません。
京都国立近代美術館では「生誕150年 横山大観展」が開催されており、偶然にして招待券をいただきましたので、これも一つの縁と思い近代美術館へと足を運びました。
美術展の構成は3部構成となっており、「昭和」「大正」「明治」と作品の変化と時代相との関わりを総数約90点の作品で横山大観を回顧する展示内容です。

また、近代美術館の第2回コレクション展(201点)も同時期に開催されており、そちらにも横山大観の絵と日本美術院の画家の作品。
パブロ・ピカソとアンリ・マティスのコレクション展、写真家ユージン・スミスの写真が特集展示されていたりと見所満載となっていました。



絵の見方というのは簡単なようで難しいものがありますが、大観の言葉を借りると“日本画は肉眼で見るというより、心で読むことを必要とする”とあります。
琳派などの絵師の流れと西洋の画風や時代相など、縦軸と横軸の知識が必要なのかと思いますが、結局は好きか嫌いかで見るしかありませんね。

大観の絵の特徴の一つは「朦朧体」という明瞭な輪郭をもたない没線描法だとされます。
確かにぼんやりと表現した風景の絵が多かったようにも思えますが、技巧というよりはむしろデザイン性の高い絵とも言えるかもしれません。
説明の中で大観は“細部より大掴み”という表現がありましたが、まさにその通りなのでしょう。



美術館の外側には六曲一双屏風の《紅葉》(1931年 各163.3×361.0cm)の一部がパネルになっていましたが、実際に現物を見ても圧倒されるような美しい作品です。
渓谷の淵に立つ紅く染まった紅葉の美しい色彩、群青を使った水の青さとプラチナで描いた水飛沫の日本的な風景が画面からはみ出しそうになって迫ってきます。

白く描かれた飛沫の間を飛ぶのはセグロセキレイ。黒いセグロセキレイの姿によって絵面が引き締まり、絵の大きさと色彩の美しさに圧倒されます。
オール大観の中では《夜桜》とともに少し傾向の違う作品でしたので、大観作品の画題の幅の広さにも驚きます。



ところで、「大観」という名は本名ではありませんが、「大観」の言葉には“広く全体を見渡すこと”、“雄大な景色”の意味がありますので、画家としての嗜好が名前になっているともいえそうです。
個人的にはぼんやりとした墨の濃淡で描いた背景に鮮やかな白がよく映えて、おかしな言い方ですが“白の彩度”が美しい絵が数点見られたことが印象的でした。

 
《彗星》(1912年頃) 《或る日の太平洋》(1952年)・・・ポストカード

第2回コレクション展の方で圧巻だったのはユ-ジン・スミスの写真展。
『ライフ』の戦争通信員として撮影した第二次世界大戦中のサイパン、沖縄、硫黄島などの写真。(「第二次世界大戦」)

片田舎の小さな町で一人で住民の健康を守っている「カントリー・ドクター」、「スペインの村」「慈悲の人シュヴァイツァー」「ピッツバーグ」などのテーマによるコレクションが並びますが、「水俣」は衝撃的な写真です。
「水俣」とは公害と公害病に苦しむ水俣を写し取った写真ですが、白と黒のモノクロームの世界には怖しいまでのリアリズムを感じます。
写真の持つ力にはやはり直線的に心に突き刺さるような鋭利さがありますね。

企業によって生活が成り立っている人々もいれば、企業が起こした被害に苦しむ人もいる。
公害病ではないとはいえ、原発でも同様のことが起こってしまったことを思えば、人の世には繰り返しの歴史があるといえてしまうのかもしれません。


ユージン・スミス写真集

ユージン・スミスは沖縄戦で日本軍の砲弾により2年間の療養生活を余儀なくされ、水俣病の取材では会社側が雇った暴力団の暴行により脊椎を折られ片目失明の重傷を負ったとされます。
この水俣での事件によってスミスは「患者さんたちの怒りや苦しみ、そして悔しさを自分のものとして感じられるようになった」と自らの苦しみを語った。(ウィキペディアより)


京都国立近代美術館4Fより見る平安神宮の大鳥居と京都市美術館


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映画「万引き家族」と「終わった人」の2つの家族

2018-06-24 17:50:50 | アート・ライブ・読書
 映画館へ行って映画を観るというのは一種のリラクゼーションになりますね。
空調が効いていて鑑賞者もまばらなにしか訪れない映画館で、座り心地のいい椅子に座り、ポップコーンを食べながら映画を観ていると別世界にでも来たような気分になります。

元々邦画を好んで見ることはなかったのですが、近年の邦画は楽しめる作品が多いようです。
昔の邦画では、自虐的で根暗な映画や芸術色の強い映画を好んで観ていましたが、当時ほかに公開されていた邦画といえば文芸大作・太平洋戦争物・ヤクザ映画と寅さんシリーズだったでしょうか。
小さなホールで難解でマニアックな自主制作映画などにも通いましたが、疲れに行くような映画はもう辛抱できないでしょうね。



「万引き家族」には、社会の底辺であさましくて情けなくも笑いながら生きる家族の物語が描かれていました。
そこに描かれる家族とは、擬似家族の結束というより、他人同士が寄りかかるように集まっているコミニュティともいえます。

虐待・年金詐欺・窃盗・不就学・非正規雇用・万引き...。
日々報道される問題をそれぞれ背負いながらも、結びついていた擬似家族が得たものと失ったもの。
後半部については賛否両論あるようですが、この物語の終焉を見事に描ききっていたと思います。



映画のつなぎの時間が20分ほどでしたので、2本連続で映画を見てしまいました。
2本目は「終わった人」。
こちらは普通以上のエリート人生を歩みながらも、定年後の空白感に悩む男とその家族の物語で、奇しくも現代の日本の家族の姿を描いた映画を2本見ることになりました。

主人公・舘ひろしは“趣味なし、夢なし、仕事なし!そして、わが家に居場所なし・・・”(キャッチコピー)の状態に葛藤しながら生きていきます。
客層は定年後のご夫婦が多く、コミカルな場面ではクスクスという笑い声が聞こえていましたので、共感する部分も多かったのでしょう。

社会の片隅で生きていくために何でもやってしまう家族と、たとえ挫折感を感じることはあったとはいえども選ばれたエリートの定年後の家庭。
家族の形は様々ではありますが、対照的な家族のありようには考えさせられるものがありますね。


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御朱印蒐集~滋賀県 大津市 長等山 三井寺~「あお若葉の競演」~

2018-06-21 06:35:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 GW期間から5月中旬にかけて「石山寺」と「三井寺」のコラボで『あお若葉(もみじ)の競演』と題した特別展示が行われました。
三井寺では国宝「金堂内陣」が特別公開され、内陣の中には「大日如来坐像」「文殊菩薩坐像」「普賢菩薩坐像」の三尊で初公開でした。

また、三井寺境内にある西国三十三所第14番札所の「観音堂」でも内陣が特別公開され、「愛染明王坐像」が拝観出来るということもあって、三井寺への参拝に向かいました。
実は、観音堂にはもう一つ心残りがあって、それは外陣に祀られている「懸仏」の拝観です。
前回は懸仏への関心が薄く見落としていましたので、この機会に是非“三井寺の懸仏”見たいとの気持ちが強くあったことも大きな動機となりました。

 

三井寺(園城寺)は「北院(新羅明神」「中院(弥勒佛)」「南院(三尾明神)」の3院からなっており、今回の御朱印は、北院「新羅明神」の期間限定の記念御朱印となっています。
「北院」は大門(仁王門)や金堂のある区域より北の方角にある、あまり参拝者が訪れない場所を指すようです。

「中院」は大門から金堂を経て閼伽井屋・鐘楼・一切経蔵から三重塔につながる中心的なエリア。
「南院」は微妙寺より南にある観音堂・観月舞台・百体堂などのエリアになると思われます。
この分け方は比叡山延暦寺の東塔・西塔・横川と似ており、比叡山より派生した三井寺ですから影響があったのかもしれませんね。



今回は目的が金堂と観音堂だったため、ゆっくりと広い境内と各堂宇を参拝して歩くという参拝ではなく、目的の場所まで進むといった感じでの参拝でした。
大門(仁王門・重文)は、かつて湖南三山の常楽寺にあったものを徳川家康が三井寺へ寄進したものとされており、何度見ても見応えのある門だと思います。(建立時期は1451年と推定されている)





まず国宝「金堂」へお参りしましたが、やはり国宝の御堂で内陣にまで入れるのは緊張しつつも少し興奮致します。
白い幕が掛けられた内陣の前で待っていると、中から出てきた僧侶の方が内部へ招き入れて下さいました。



“ここは僧侶以外入れない場所ですから”と言われてお清めの儀式を行います。
まず塗香を左手に少量取って、教えられた通りの作法で、額や胸に指先で塗香を付け、両手で揉んだあとにもう一度体を清めます。

合掌した状態で「灑水(しゃすい)」を3度頭にかけてもらい、鈴(れい)を鳴らして念仏を唱えていただき儀式は完了しました。
この儀式は比叡山西塔の釈迦堂での内陣特別拝観以来、2度目の経験になります。


ポストカード

運良く、内陣の中では一人っきりでしたので周囲を気にせず、仏像・仏画をゆっくりと観ることが叶いました。
智拳印を結んだ「大日如来坐像」は、国宝「勧学院客殿」で知られる勧学院の御本尊になるそうです。
下から覗き見ると玉眼が煌めいて見え、洗練された美しさを感じる仏像です。

「文殊菩薩坐像」は北院の新羅明神の本地仏とされます。
新羅明神は、智証大師・円珍が唐からの帰途に“老翁が船中に現れて自ら新羅明神と名のり、教法加護を約した”と三井寺の由緒書きにあります。


ポストカード

「普賢菩薩坐像」は山号にもなっている長等山の地主神・三尾明神の本地仏とされており、この寺院には本地垂迹の仏像が複数残されているということになります。
当地よりさほど遠くはない場所にある日吉大社では廃仏毀釈が激しかったと伝わりますが、三井寺では廃仏毀釈の影響はそれほどではなかったのでしょうか。


ポストカード

内陣では他にも仏画「三井曼荼羅」「新羅明王」「三尾明神」の掛け軸も展示されていました。
一人で仏像・仏画を観ながら、ついにあの世に来てしまったような気持ちになりそうです。

さて、参拝コースにある「閼伽井屋」へ立ち寄ると、相変わらずボコッボコッと水音がしています。
よく見ると一角に水が湧き上がっている場所がありました。
確かに「三井の霊泉」と呼ばれるだけある聖域ですね。



閼伽井屋には左甚五郎作と言われる龍の彫刻が掛けられています。
“この龍が夜な夜な琵琶湖に出て暴れるため、甚五郎自ら目玉に釘を打ち込み静めたと”の伝承が伝わるそうです。



「弁慶鐘」「一切経蔵」「三重塔」を通って観音堂への道を進むと、これぞ「あお若葉(もみじ)」と呼べるような参道を歩くことになります。
参道に覆いかぶさるように垂れ下がったカエデが新緑の美しい姿を見せてくれます。



西国三十三札所「観音堂」へ通じる石段にも「あお若葉(もみじ)」が石段に覆いかぶさります。
秋の紅葉、冬化粧の寺院にも魅かれますが、新緑の季節の寺院巡りは本当に気持ちのよいものです。





観音堂は過去には拝所から参拝しただけでしたが、今回の特別展示では観音堂も金堂と同じく内陣での参拝が許されていました。



まず最初に今回の目的の一つである「懸仏」を探します。
拝所の正面に懸けられた懸仏は、いつの時代のものかなど詳しいことは分かりませんが、大変に手の込んだ工芸となっています。
懸仏の中心におられるのは、観音堂の御本尊「如意輪観音」なのでしょう。



案内されて内陣へと入らせていただきましたが、なんとここでも一人だけでの参拝です。
しかも、内陣の厨子の前に座って拝観していると、外陣で読教が始まります。
僧侶が後ろでお経を唱えられているのに“こんな所に座っていていいのか?”と思いながらも、立ち歩くわけにもいかず、読教を背に受けながら頭を垂れておりました。


お前立ち(パンフレット)

厨子の前に秘仏・御本尊の「如意輪観音坐像」の写真がありましたのでお前立ちと比べてみると、“秘仏の方がよりふくよかなお顔で、唇の厚みがあり、丸顔になっている”ところが大きく違う点でした。
須弥壇には左脇陣に「毘沙門天立像(鎌倉期)」「不動明王立像」「智証大師像」が祀られてあり、右の脇陣には「愛染明王坐像(平安期・重文)」が祀られてありました。


パンフレット

最後に観音堂から石段を登った先にある展望台から見た琵琶湖の眺望です。
琵琶湖大橋より南の琵琶湖は対岸までの距離が北湖と比べて狭いのですが、それでも琵琶湖が海のように広く見えてしまいますね。




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成相寺・知恩寺(文殊堂)~番外編「天橋立観光」~

2018-06-19 18:39:39 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滅多に行けないような地域にある神社・仏閣を訪れた際のもう一つの楽しみは、ご当地観光やランチということになります。
奥丹後地方の成相寺や松尾寺へ参拝の合間に、せっかくの機会だとばかりに、日本三景・天橋立へと立ち寄りました。

天橋立へは過去にも何度かは来ていますが、どちらかというと山陰への旅の途中に立ち寄った感のある観光地でした。
しかし、今回は寺院巡りが主目的だったこともあって、これまでとは少し違った感覚で観光できたようにも思います。



西国三十三所札所の成相寺には本堂がある場所から上部になる山の上(標高470m)には「パノラマ展望所」が設けられており、飛龍を反対側から観ることが出来ます。
龍の尾側から見るのは始めてですが、こちらはいわゆる“斜め一文字の龍”を見る天橋立の景観になり、有名な傘松公園のさらに上部からの景観になります。





展望所には“かわらけ投げ”がありましたので、さっそく挑戦。
ほんの数mのところに輪がありましたので、これは楽勝だと思っていたら、3投とも大暴投になってしまいガックリ...。





ここから見る天橋立は“股のぞき”側の景観で昇龍になりますが、次は知恩寺(文殊堂)のある龍の頭部側へと移動します。
天橋立へは廻旋橋を渡っていきますが、この橋は船が通るときに橋が回転して船の航路となる面白い橋です。
残念ながら、今回は廻旋する機会には恵まれませんでしたが、廻旋を待っている時間はなくそのまま渡ります。



天橋立は過去に縦断していますので、今回は入口付近をウロウロとしたのみ。
しかし、天橋立の中の道は上から見るのとは違って広いですね。途中にビーチまでありますよ。





天橋立の途中には茶屋がありましたのでランチと致します。
注文は「あさり丼」と「あさり雑炊」。鰯を使った「黒ちくわ」と七輪焼きの「ハタハタの干物」となりました。
あさりは炊き込んではありませんので、あっさりした味で、癖のない観光茶屋さんの味という感じでした。







今回は天橋立ビューランドへは立ち寄っていませんので、おまけで前回立ち寄った時の天橋立を貼っておきます。



天橋立縦断は歩いて50分といわれていますので歩ける距離ですがレンタサイクルの方も多いようでした。
前回は歩いて縦断しましたが、冬の季節でしたので水鳥が多く、海鴨を探して“右の海、左の海”とジグザグに歩いてカモ探しをしたため、大変疲れた記憶があります。
今回?...海鴨の姿は見なかったですね。


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セイタカシギをパチリ!~この4羽はまだ繁殖期じゃないの?~

2018-06-17 17:31:17 | 野鳥
 そろそろ水鳥たちのヒナが見られる頃かと朝の鳥見巡回をしてみると、4羽のセイタカシギに出逢いました。
ホント野鳥との出会いは、この道を曲がるか次の道を曲がるかなんて些細なことで左右されるものだなぁと今更ながら納得してしまいます。

セイタカシギは♂2羽に♀2羽だと思いますが、まだ繁殖期に入っていないのでしょうか?
この近くで繁殖するとは思えないので、繁殖地への移動中なのかもしれませんね。



最初は田圃の一番奥の遠いところに居て、ケリか?いやセイタカや!といった感じでうまく見つけられました。
何となくこの道曲がってみようかなというのは、うまい具合に鳥勘が働いたからなのでしょう。



シギ・チドリの仲間は最初は遠くても、食事中は待っていれば近づいてくることがありますので、しばらく待機してみる。





湖北では毎年どこかで見られている鳥ですが、やはり水辺の貴婦人の名が付く通りにセイタカシギには気品のようなものを感じます。
時々ディスプレイのようなこともしていましたよ。





少しづつ近くなってきましたので、さぁこれからと思った時間になると、そろそろ農作業の方が作業に来られる時間となりここまでとなりました。
最後に♂♀写真を撮ってお別れです。





セイタカシギは春や秋の渡りの季節に見かける野鳥ですが、過去の同時期にもセイタカシギの番を見かけたことがあります。
この時期に移動する連中はいったいどこで繁殖しているのでしょうね。


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御朱印蒐集~京都府 舞鶴市 青葉山 松尾寺~

2018-06-14 07:43:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 お寺へ参拝した時に蛇に出会うことがあります。
蛇は神の使いと言いますので、神社・仏閣で“蛇の出迎えられる”のは吉兆だと思うようにしていますが、実際はただの偶然なのかもしれません。

京都舞鶴にある西国三十三所札所の松尾寺へ参拝した時にも蛇の出迎えを受けて、しかも参道を先導し常香炉まで導いてもらうという、これは吉兆に違いない!と信じたくなるような出会いがありました。
松尾寺のある青葉山は標高690m超の2峰からなる山で、その正三角形から「若狭富士」と呼ばれています。



松尾寺は708年、中国・唐の僧 威光上人が中国の霊山・馬耳山という山に似ていることから入山してみると、山中の松の大樹の下に馬頭観音を感得し、草庵を結ばれたのが始まりとされます。
その後1300年以上の年月を経て、寺院は続き、平安時代後期には、六十五寺坊を有する大寺院であったと伝わります。



石段の先に見えるのは仁王門。
石段登りが好きな当方にとっては、この雰囲気はたまらない光景です。



仁王門は江戸中期に建てられたとされますが、屋根の葺き替えはされているものの、建築自体は古色で古刹感があります。
扁額には「青葉山」の山号が書かれており、ここが霊山へ入山する結界となっています。



仁王門の中に本来おられるはずの仁王像は、宝物殿に保管されていますので、ここでは写真の仁王様が置かれています。
仁王様の前には牡丹でしょうか。大輪の花が満開の時を待っています。



松尾寺の手水舎は大きな岩をくり抜いたものになっており、苔むしてとても味わいのある手水となっていました。
水量が多いので気持ちよく身を清めることができます。



松尾寺は度重なる火災で焼失しているようですが、その都度、細川幽斉や京極家によって再興されたとされます。
現在の本堂は1730年に牧野英成(江戸中期の大名・京都所司代)によって修築されたものだそうです。



石段を登って本堂へと続く石畳を歩くと、1mを優に超える蛇が石畳を本堂へ向かって進んでいく姿に出会いました。
“蛇も参拝に来たのかな?”と軽口を叩いていると、蛇はなおも本堂へ向かっていきます。



この蛇はこちらが向かおうとする常香炉まで一直線に進んでいきます。
まさしく蛇に先導されての参拝です。



本堂は2層の宝形造になっており、横には神馬が祀られていることもあって、寺院としては少し変わった感じのする建築物でした。
神馬は、松尾寺の御本尊が馬頭観音であることから奉納されているのかもしれませんね。



本堂には多数の奉納額、千社札がいたるところに貼り付けられていて、西国三十三所の札所らしい雰囲気が漂う。



松尾寺の御本尊は馬頭観音は77年に一度の御開帳(前回は2008~2009年)となっており、もう観る可能性はない仏像です。
青葉山の福井県側にある中山寺や馬居寺にも馬頭観音が祀られているそうですので、この地域には馬頭観音信仰が根付いているのかと思います。


パンフレットより

やや小ぶりな鐘楼の横には春にも関わらず紅葉した樹木が見えます。
何という木なのかは知りませんが、新緑の季節に紅葉することってあるんですね。



松尾寺には宝物殿があり、訪れた時期は「第20回春季展観」が開催されていました。
本堂で宝物殿を見たい旨を伝えると、ご住職が宝物館を開けてくださいました。

運が良かったのは展示されている仏像・仏具・仏画についてご住職から丁寧な説明を頂けたことでしょう。
40~50分くらいの説明は、講義をうけているかのようで、まさにプライベート美術館のようでした。

まず最初は仁王門に写真が飾られていた金剛力士像。
運慶作ではないかと言われている金剛力士像は鎌倉期という説と、様式論で平安期という説があるようです。
木の分析をすると、14世紀初頭との結果だったそうですが、過去に3回の修理が行われていることから分析が難しいとのことで、結論はまだ出ていないそうです。

 
ポストカードより

仏像は他にも快慶作の「阿弥陀如来坐像(重文・鎌倉期)、地蔵菩薩坐像(鎌倉期)、十一面観音立像(鎌倉期)、十一面観音坐像(鎌倉期)と並びます。

松尾寺には仏画「普賢延命菩薩像」が2枚あり、1枚は原本を忠実に再現したもの。
もう1枚は平安時代に描かれた国宝の仏画です。
国宝に指定されているような絵ですから、美術館に保管されているのかと思いきや、まさか目の間でみられるとは...。


ポストカードより

仏画についても絵の各部分を拡大した写真を見せていただきながら、裸眼では見えないような部分を示しながら、詳細な解説が聞けました。
“部分が分かれば全体としての仏画の見方が変わるでしょう。”とおっしゃっていましたが、まさにその通り。

仏画は他にも「法華曼荼羅(重文・鎌倉期)」、「愛染明王(鎌倉中期以降)」があります。
金剛界・胎蔵界の曼荼羅はよく見ますが、法華曼荼羅を意識して見たのはこれが始めてです。


ポストカードより

中央の多宝塔には多宝如来と釈迦如来が並んで座られており、その周りに8尊と4人の声明。
周囲を取り囲んでいるのは菩薩・天・明王でしょうか。4隅には四天王が配置されています。
宝物殿には2300年前の物とされる「千歳の松」や、丈六だったではないかとされる馬頭観音の馬頭部分など宝物は多岐にわたっています。

また、松尾寺には「仏舞」という毎年、花祭りの時に行われる仏事があるそうです。
仏面をかぶって舞を奉納する儀式だそうで、過去に舞に使っていた仏面の展示もされていました。
奈良時代に唐から伝えられたものとされていますが、確かにまず最初に連想したのは平城京の奈良のイメージでした。


パンフレットより

蛇に導かれて参拝することになった松尾寺には見事な仏像・仏画が保管されており、プライベート美術館のように貸切状態で詳細な説明をしてくださったこともあって、実に有意義な時間を過ごせました。
尚、松尾寺に保管されている書跡「西国巡礼縁起」(1536年・室町時代)には徳道上人の西国巡礼を更に遡った時代の西国巡礼、聖徳太子巡礼の縁起が書かれています。


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御朱印蒐集~京都府 宮津市 天橋山 知恩寺(文殊堂)~

2018-06-11 06:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 天橋立のすぐ横にある文殊堂には、これまで何度が訪れたことがあったのですが、文殊堂という寺名だとずっと勘違いしておりました。
文殊堂とは「知恩寺」の中にある堂宇のことをそう呼ぶということを知らなかったということです。

「三人寄れば文殊の知恵 」で有名な文殊観音は“日本三文殊”というカウントの仕方では三大文殊のひとつとされ、残りの2つは奈良の「安倍文殊」と山形の「亀岡文殊」だといいます。
知恩寺は天橋立という有名な観光スポットと隣り合わせていることもあって、観光客が多く、しかも外国人比率が非常に高い寺院でもありました。



知恩寺の創建は808年に平城天皇の勅願寺として創建されたと伝わります。
宗派は臨済宗妙心寺派とされますが、過去には真言宗の寺院だった時代もあるそうです。



山門は1767年に上棟されたとされる門で、丹後地方では最大の山門とされています。
門の上層には釈迦如来・十六羅漢が安置されているといいますが、登ることは出来ません。
内部公開されることはあるのでしょうか。



山門の二層にかかる扁額には「黄金閣」と書かれており、下層の扁額には「海上禅叢」の文字があります。
「黄金閣」はこの山門の別称となっていますが、これは1767年の再建時に後桜町天皇から黄金を下賜されたことが由来となっているようです。



赤い提灯の吊るされた寺院には活気のようなものが感じられるので好きな光景です。
中央にある大提灯は風でゆらゆらと揺れながらも、古色感のある山門で一際目立つ色彩を放っています。



門を抜けてすぐに目に入るのは多宝塔(重要文化財)になります。
1501年に落慶した多宝塔の内部には大日如来が安置されているといい、解体修理によって大日如来も多宝塔と同じ1501年に制作されたことを示す銘文が発見されているそうです。



山門から直線状に配置されているのが、知恩寺の本堂にあたる文殊堂となります。
文殊堂は1657年に改修されて現在の姿となったとされていて、かつての姿には諸説があるようです。



線香とロウソクを買ってお供えしたのですが、火鉢に薪を次々投入されるので火勢が強く火傷しそうになりながら線香に火を点けます。
線香を灯した後、常香炉に線香をあげようとすると、参拝客の多さもあって線香をあげる場所がない。
隙間を狙ってみるが、こちらも火の点いた線香に触れて火傷しそうになるという顛末。



外陣で参拝して、内陣を格子越しに覗いてみたけど、須弥壇と神鏡しか見えませんでした。
周囲で入れ替わり立ち替わり参拝している方は、ほぼ外国語で話されているため、違和感を感じつつ手を合わせます。





外陣にはいくつかの板絵が掛けられており、特に興味深かったのは地獄絵の描かれた板絵でした。
絵の右半分しか撮っていないのですが、閻魔大王の裁きや浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)に悪行を映し出される亡者の姿。

阿弥陀聖衆が来迎する姿、閻魔大王の化身とされる地蔵菩薩が賽の河原へ亡者を救いに現れるような救いの光景も描かれています。
正塚婆(しょうづかのばば)が三途川の渡し賃を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る姿も描かれていますね。



知恩寺の境内の松の木にはあちこちに小さな扇子が逆さ向きに吊るされています。
これは「すえひろ扇子おみくじ」というおみくじで、逆さ向きに吊るすのは末広がりを願ってということのようです。
おみくじを引いてみたら当方は“中吉”でしたが、吊るして帰ってしまのも惜しいので家に持ち帰って末広がりにして吊るしております。



境内には少し見慣れない形の石塔がありました。
「石造宝篋印塔」という鎌倉時代に造られた塔で、見慣れない感じがするのは笠石四隅の突起部からきているのでしょう。



最後に境内の外れにある「知恵の輪」へと立ち寄りました。
この輪灯籠を知恵の輪と呼ぶ由来は諸説あるようですが、文殊様の慈悲の光を海上に放つと考えて「知恵の輪灯籠」と呼ぶようになったともいわれます。
「知恵の輪灯籠」の輪をくぐり抜けた者には文殊様の知恵を授かるご利益があるとされますが、一般的には“3回まわると御利益がある”と解釈されているみたいですね。



知恩寺は観光客で繁盛している茶屋が並ぶ門前町が続き、大勢の観光客が訪れられていることもあって、大変にぎやかな町です。
すっかり観光気分になってしまい、お昼を食べる茶屋選びを始めてしまいましたよ。


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御朱印蒐集~京都府 宮津市 成相山 成相寺~

2018-06-07 20:02:02 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 西国三十三所巡礼寺院を少しづつ巡っているのですが、遠方の札所への巡礼はなかなか行く機会がありません。
特に第6番~8番札所(奈良県)、第2番~5番札所(和歌山県北西部・大阪府南西部部)、第25~27番(兵庫県)は距離があるため、出来れば旅行を兼ねて一泊したいような場所にあります。

現在まで33所の寺院の内、まだ半分近くしか参拝出来ていないのですけど、こればかりは縁があった時に少しづつ巡るしかないようです。
西国28番札所の「成相山 成相寺」は西国札所最北端に位置する寺院で、日本海にせり出した奥丹後半島(与謝半島)の高台にありました。



晴天の下、眼下に日本三景・天橋立を望み、訪れた時にはシャクナゲの花が満開を迎えようとしている頃でもあり、穏やかで気持ちの良い参拝でした。
入山した時には白衣(おいずる)に身を固めた大勢の巡礼者のグループにも会い、巡礼寺院に来た実感が湧いてきます。



駅を利用された方はケーブルカーかリフトで笠松公園まで上がり、登山バスを使って停留場まで登って来られますので、成相寺は難所にある寺院と言えます。
車でも山道を10分ほど登って行くことになりますが、急な坂が多いためギアをローに落として緊張しながら坂道を運転することになります。
駐車場は本堂近くにありますので、一旦石段を降りて、下にある山門から入り直しすことにします。



山門には阿吽の金剛力士像が寺院を守護しており、火灯窓越しに睨みを効かせています。
仁王様は2m80cmの堂々たる風格の像ですが、製作年代はよく分かりません。

仁王像は昭和59年に解体修理された際に体内より修理銘文が発見されたようで、修理銘文には文政11年(1829年)・貞享5年(1688年)とあるようです。
眼には玉眼がはめられていますから、鎌倉以降の仁王像になるのでしょうけど、詳細は不明です。





山門を抜けて“奇妙な話の底なし沼”と名付けられた不気味な池を通り抜けた場所に五重塔が建てられていました。
五重塔は鎌倉時代の形式をそのままに復元したとされる塔ですが、復元されたのは1988年と真新し感はいとめません。





ところで、成相寺の鐘楼には悲しい歴史が伝わります。
この楼門に納められた梵鐘は「撞かずの鐘」と呼ばれていて、撞かれることのない鐘だそうです。

1609年、鋳造のため近郷近在から寄付を集めたところ、1軒だけ金を出さない家があったそうです。
その家の女房は「子供はたくさんおるがお寺へ寄付する金はない」とつれなく断ったそうですが、鐘鋳造の際に誤って銅湯の中へ乳呑み子を落としてしまったとされます。
出来上がった鐘を撞くと美しい音色の中に“子供の泣き声”“母親を呼ぶ声”が聞こえ、あまりの哀れさに子供の成仏を願って鐘を撞くことをやめたと伝わります。



本堂へ上がる石段の横には「一願一言地蔵」と「西国巡礼堂」が並びます。

「一願一言地蔵」は、この地蔵石仏に唯一願を一言でお願いすれば必ず叶えて下さるという御利益があるそうです。
約620年前に創られた石仏と書かれてありましたから、おおよそ1400年頃になり、室町時代の石仏のようです。



地蔵さんの後方には「西国巡礼堂」が建てられており、中には西国三十三霊場の御本尊(レプリカ)が安置されていました。
このお堂へ参拝すると三十三ヶ所霊場巡礼と同様の功徳・御利益があるとされますが、やはり実際の霊場巡礼を優先したいところです。
新しく金々した仏像の中心に安置されているのは、成相寺の御本尊の聖観音菩薩に見立てた仏像なのでしょう。





さて、いよいよ本堂の前まで来られましたので、まずは手水舎で身を清めます。
勢いよく吐水する龍の水を貯めているのは「鉄湯船」と呼ばれる湯船です。

鎌倉時代の1290年に鋳造され、かつては成相寺の湯船(かかり湯)として使用されていたもので、重要文化財に指定されているものです。
この湯船は、薬湯を沸かして怪我や病気の人の治療にあてたと伝えられているそうですが、現在も手水舎に置かれて現役なのは見上げたものです。
重要文化財を手水に使う贅沢さにも恐れ入りますね。



本堂は1774年に建てられたもので、屋根は葺き替えられていますが、建物本体は年月を感じさせる古寺感に溢れています。
もともとは現在地よりさらに山の上に建てられていたもので、林道を進むと確かに本堂跡地の看板があり、修験の道場であったことが伺い知れます。





成相寺では嬉しいことに外陣だけでなく内陣まで入ることが出来ます。
しかも内陣では御本尊こそ33年に一度の御開帳の秘仏ですが、お前立ちは須弥壇のすぐ前まで入って拝むことができました。



内陣に祀られた仏像は大変素晴らしく、左の脇陣には「天燈鬼の赤鬼」、重要文化財の「地蔵菩薩坐像(平安期)」が並びます。
本陣には南に「増長」、東に「持國」、西に「広目」、北に「多聞」の四天王が守護する中央に厨子があり、お前立ちの「聖観音立像」が安置されています。

右の脇陣には「十一面千手観音立像(十一面四十二臂)」と「天燈鬼の青鬼」。
特に「十一面千手観音」は製作期などは分らないものの、実に見事な仏像で感激の出会いとなりました。

他にも「阿弥陀如来立像」と「文殊観音菩薩像」が祀られており、仏像の多い寺院でした。
仏像は、最初から成相寺に祀られていたというより、廃寺になった寺院にあったものかもしれませんね。



本堂内は撮影禁止ですが、左甚五郎作と伝わる「真向きの龍」だけは撮影可能でした。
左甚五郎は伝説的で逸話の多い職人とされており、謎の多い方のようですが、正面を向いた珍しい龍のバランスの良さは見事なものだと思います。

寺院の境内には成相寺に現存する最古の建築物の「熊野権現社」があります。
成相寺の鎮守堂は1676年に上棟された建築物だとされ神仏習合の名残りとなっています。



「十王堂」は新しい建築物のようですが、中には「閻魔大王」と「孔雀明王」が安置されていました。
「賓頭盧尊者」も祀られておりましたので、かつてどこに祀られていた仏像なのか気になるところです。





成相山(569m)は、山岳宗教の修験場として信仰を集めていた聖地で、寺院の創建としては704年に文武天皇の勅願寺として開基されたのが始まりとされます。
高野山真言宗の寺院として続いていたようですが、現在は橋立真言宗として単立宗派となっているようです。
境内には最近のものらしいものも含めて石仏や石塔があり、独特の空間がありましたが、時代とともに更に増えてくるのかもしれませんね。



成相寺の林道は成相寺のある場所からさらに上へ続いていて、標高470mの地点にある「成相山パノラマ展望台」から天気が良ければ天橋立が一望出来きます。
また空気が澄んでいれば能登半島や白山まで見渡すことが出来るらしく、季節によっては雲海を見下ろすことも出来る展望台だそうです。


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アオバト・カッコウ・アサギマダラ・コウノトリをパチリ!

2018-06-05 18:39:39 | 野鳥
 山方面へ鳥見に行く時期は、まだ早いのか?もう遅いのか?
鳥見回数が減ってきてしまっているので、ベストシーズンが分らない。

とりあえず行ってみると、最初に出たのはアオバト!
裸眼でアオバトだとは分かったけど、カメラを覗いたらキジバトやった...なんてことにならなくてよかったよ。



野鳥を探しながら山をウロウロしているとウグイスの声に混じって、ホトトギス・カッコウ・ツツドリの声がする。
ホトトギスは飛び去る姿が見えたのみ、ツツドリは声のみながら、カッコウは姿を見せてくれた。
しかし、遠い...。



カッコウはすぐに飛んだのですけど、運良くやや近くを飛んでくれました。
何とかカメラで追いかけたけど、まぁ証拠写真かな。





よく見かけたのはホオジロでした。冬は低地に、夏は高地に、年中見られる鳥です。
番で姿を見せてはくれるものの、すぐにブッシュに入ってしまいます。
古枝に留まって、しばらく姿を見せてくれたところをパチリ!



今の時期は、平地からある程度の高度まで移動してきているアサギマダラがよく舞っています。
まだ旅の途中なのでしょうけど、いま見ないと次は秋の渡りの時期になってしまいますよね。





山ではまだタニウツギの花が見られますが、もう見頃は終わり近くかもしれません。
代わりに花ではないけど、花が咲くように枝にぶら下がっているモリアオガエルの卵をパチリ!



さて、山を出てからまだ時間があったので、湖北の田園地帯を走行していると、見えてきたのは2羽のコウノトリでした。
コウノトリが頻繁に湖北を始めとする滋賀県に飛来しているのは、もうお馴染みの光景になっていますが、偶然の遭遇は嬉しいものです。



コウノトリは足環で個体識別が出来ますので、足環のアップを貼っておきます。





野生のコウノトリは1971年に消滅してしまいましたので、現在見られるコウノトリは飼育下での保護増殖されて始まったものが全国の空に飛ぶようになったものです。
以前は滋賀県でもコウノトリが飛来すると、ちょっとした騒ぎになったのですが、今ではすっかり湖北の風景に馴染んできましたね。





野生のコウノトリが消滅する前の風景は知る由もありませんが、日本の原風景ともいえる姿が再び見られるようになったのは素晴らしいことです。
やはり、開発よりも共存ですよね。


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