京都の舞鶴に金剛院という寺院があるのは知っていましたが、実際に訪れるきっかけとなったのは西国三十三所札所の「成相寺」と「松尾寺」へ参拝した帰り道に寺院の案内板を見たことです。
舞鶴市とはいっても福井県との県境からさほど離れていない距離でしたので、小浜から一般道を使えば無理せず行ける場所だと分かったことが大きかった。
国道から金剛院への道を辿っていくと、お墓のようにも見える寺標に出会います。
“波切不動明王”と刻まれているのは金剛院の本尊が波切不動にようものですが、どう見ても墓標にしか見えませんね。
慈恩橋という赤い橋によって彼岸と此岸に仕切られ、橋の向こうは彼岸ということになります。
山門はこじんまりとした門ですが、中には自然に囲まれた緑豊かな境内が広がります。
入ってすぐに圧倒されるのは樹齢1000年といわれる伽耶の大木でしょうか。
樹高22m、幹囲5.4mの巨大な大木は黒々とした色合いもあって神々しいものに見えます。
鳥居はミニチュアではありませんので、その大きさは想像超えるものであり、伽耶のこのような大木を見るのは初めてのこととなりました。
金剛院は“丹後のもみじ寺”との愛称があるようにカエデに飲み込まれるかのような木々の多さです。
参道や境内を歩くと聞こえてくるのはオオルリを始めとする夏の小鳥たちの囀りのシャワー。
ただし木々が深すぎてその姿は確認出来ない。
手水舎では龍が吐水する清水を“水かけ地蔵様にかけて念じて下さい”と書かれていましたので清水をかけさせて頂きました。
まだ参拝者は誰も来られていない時間でもありましたので、乾いていた地蔵様が水を浴びて色が変わっていくさまが何とも味わい深かった。
金剛院は平安時代初期の829年に平城天皇の皇子・高岳親王によって創建されたと伝わる真言宗東寺派の寺院となります。
高岳親王は薬子の変(平城天皇と嵯峨天皇の対立に端を発するとされる)によって皇太子を廃されて仏門に入られたとされる方です。
仏門に入られた高岳親王は、法名を眞如として弘法大師の十大弟子として仏教の興隆に尽くされます。
その後、唐の長安に入り天竺に向かいますが、消息を絶ち再び日本へ戻ることはなかったようです。
三重塔は1083年に高岳親王の供養のため白川天皇によって建立されたとされ、現在の三重塔は室町時代の再建とされます。
三重塔にはカエデ等の広葉樹が覆いかぶさっていますので、秋の紅葉の折には彩り豊かな風景が見られることでしょう。
三重塔から寂しい山道を200mほど歩いて行くと「弘法の滝」へと到着します。
滝といいますからもう少し違うものを想像していましたが、か細い水量で滝と呼んでいいものか迷うものでした。
ただ岩場には地蔵菩薩の石仏が祀られていましたし、しめ縄を張られた聖域であることには違いはないようです。
本堂へは見上げるような長く急な石段が続きます。
ちょうど地元のボランティアの方々が石段の草むしりをされていて、挨拶しながら登っていきましたが、上段に行くに従い息が切れてきて“しんどいやろ”“もう少しや”など声をかけられながら登ります。
そこにおられた方に話を聞くと、この石段は104段か105段あるのだが、かつては煩悩の数と同じ108段あったといわれます。
“大水が発生した時に下部が埋まってしまい、現在は何段か減ったのです”と教えていただきました。
本堂へは入ることは出来ませんでしたが、堂内には本尊の波切不動が祀られているといいます。
建築年代は分らないものの、山の中の古寺のいい雰囲気です。
しかし、金剛院はもみじ寺と呼ばれるはずで、どこを撮ってもカエデがかぶってきますね。
驚いたのは向拝にある彫り物の見事さでしょうか。
龍の彫り物といい、天女の彫り物といい、象と獅子の木鼻といい見事な造作です。
本堂からつながるのは渡り廊下と舞台造りの雲山閣。
中に入ることは出来ませんので石段を降りて戻ることになります。
急勾配の石段は登る時はしんどいだけですが、降りる時はあまりにも急なため転げ落ちそうで怖く、手すりを持って降ります。
さて、納経所に戻って御朱印をお願いするとともに宝物館に入りたい旨を伝えると、鍵を持っていって快く開けていただくことが出来ました。
予約が必要との情報があったので入れないかと思っていましたので、拝観できたのはありがたいことでした。
宝物館に入ると正面中央には「阿弥陀如来坐像(藤原期・重文・像高約170cm)」を中心として、向かって右に「釈迦如来坐像」、「多聞天立像(藤原期・重文・像高約160cm)」と阿形の「金剛力士像(鎌倉期・重文・像高約180cm)」が並びます。
左には「増長天立像(藤原期・重文)」と吽形の「金剛力士像(鎌倉期・重文)」と重要文化財が勢揃いする様には圧倒されてしまいます。
館内には快慶作の「深沙大将立像(鎌倉期・重文)」と、同じく快慶作の「執金剛神立像(鎌倉期・重文)」が安置されておりましたが、何といっても深沙大将が興味深い。
深沙大将は、玄奘三蔵のインドへの旅を助けたとされる守護神で、小説「西遊記」に登場する沙悟浄は深沙大将をモデルにしたといわれています。
購入写真
この深沙大将立像には髑髏の胸飾りはなく、腹にベルト状に巻く人面の飾りがありません。
人面の飾り(ベルト)がかつてあったと思われる跡がありますので、おそらく失われてしまったのでしょう。
宝物館には重文の仏画(薬師三尊と十二神将軍・四天王)なども展示されており、予想以上の仏像・仏画が展示されてありました。
運良く宝物を拝観出来た事に感謝するほかありませんね。
舞鶴市とはいっても福井県との県境からさほど離れていない距離でしたので、小浜から一般道を使えば無理せず行ける場所だと分かったことが大きかった。
国道から金剛院への道を辿っていくと、お墓のようにも見える寺標に出会います。
“波切不動明王”と刻まれているのは金剛院の本尊が波切不動にようものですが、どう見ても墓標にしか見えませんね。
慈恩橋という赤い橋によって彼岸と此岸に仕切られ、橋の向こうは彼岸ということになります。
山門はこじんまりとした門ですが、中には自然に囲まれた緑豊かな境内が広がります。
入ってすぐに圧倒されるのは樹齢1000年といわれる伽耶の大木でしょうか。
樹高22m、幹囲5.4mの巨大な大木は黒々とした色合いもあって神々しいものに見えます。
鳥居はミニチュアではありませんので、その大きさは想像超えるものであり、伽耶のこのような大木を見るのは初めてのこととなりました。
金剛院は“丹後のもみじ寺”との愛称があるようにカエデに飲み込まれるかのような木々の多さです。
参道や境内を歩くと聞こえてくるのはオオルリを始めとする夏の小鳥たちの囀りのシャワー。
ただし木々が深すぎてその姿は確認出来ない。
手水舎では龍が吐水する清水を“水かけ地蔵様にかけて念じて下さい”と書かれていましたので清水をかけさせて頂きました。
まだ参拝者は誰も来られていない時間でもありましたので、乾いていた地蔵様が水を浴びて色が変わっていくさまが何とも味わい深かった。
金剛院は平安時代初期の829年に平城天皇の皇子・高岳親王によって創建されたと伝わる真言宗東寺派の寺院となります。
高岳親王は薬子の変(平城天皇と嵯峨天皇の対立に端を発するとされる)によって皇太子を廃されて仏門に入られたとされる方です。
仏門に入られた高岳親王は、法名を眞如として弘法大師の十大弟子として仏教の興隆に尽くされます。
その後、唐の長安に入り天竺に向かいますが、消息を絶ち再び日本へ戻ることはなかったようです。
三重塔は1083年に高岳親王の供養のため白川天皇によって建立されたとされ、現在の三重塔は室町時代の再建とされます。
三重塔にはカエデ等の広葉樹が覆いかぶさっていますので、秋の紅葉の折には彩り豊かな風景が見られることでしょう。
三重塔から寂しい山道を200mほど歩いて行くと「弘法の滝」へと到着します。
滝といいますからもう少し違うものを想像していましたが、か細い水量で滝と呼んでいいものか迷うものでした。
ただ岩場には地蔵菩薩の石仏が祀られていましたし、しめ縄を張られた聖域であることには違いはないようです。
本堂へは見上げるような長く急な石段が続きます。
ちょうど地元のボランティアの方々が石段の草むしりをされていて、挨拶しながら登っていきましたが、上段に行くに従い息が切れてきて“しんどいやろ”“もう少しや”など声をかけられながら登ります。
そこにおられた方に話を聞くと、この石段は104段か105段あるのだが、かつては煩悩の数と同じ108段あったといわれます。
“大水が発生した時に下部が埋まってしまい、現在は何段か減ったのです”と教えていただきました。
本堂へは入ることは出来ませんでしたが、堂内には本尊の波切不動が祀られているといいます。
建築年代は分らないものの、山の中の古寺のいい雰囲気です。
しかし、金剛院はもみじ寺と呼ばれるはずで、どこを撮ってもカエデがかぶってきますね。
驚いたのは向拝にある彫り物の見事さでしょうか。
龍の彫り物といい、天女の彫り物といい、象と獅子の木鼻といい見事な造作です。
本堂からつながるのは渡り廊下と舞台造りの雲山閣。
中に入ることは出来ませんので石段を降りて戻ることになります。
急勾配の石段は登る時はしんどいだけですが、降りる時はあまりにも急なため転げ落ちそうで怖く、手すりを持って降ります。
さて、納経所に戻って御朱印をお願いするとともに宝物館に入りたい旨を伝えると、鍵を持っていって快く開けていただくことが出来ました。
予約が必要との情報があったので入れないかと思っていましたので、拝観できたのはありがたいことでした。
宝物館に入ると正面中央には「阿弥陀如来坐像(藤原期・重文・像高約170cm)」を中心として、向かって右に「釈迦如来坐像」、「多聞天立像(藤原期・重文・像高約160cm)」と阿形の「金剛力士像(鎌倉期・重文・像高約180cm)」が並びます。
左には「増長天立像(藤原期・重文)」と吽形の「金剛力士像(鎌倉期・重文)」と重要文化財が勢揃いする様には圧倒されてしまいます。
館内には快慶作の「深沙大将立像(鎌倉期・重文)」と、同じく快慶作の「執金剛神立像(鎌倉期・重文)」が安置されておりましたが、何といっても深沙大将が興味深い。
深沙大将は、玄奘三蔵のインドへの旅を助けたとされる守護神で、小説「西遊記」に登場する沙悟浄は深沙大将をモデルにしたといわれています。
購入写真
この深沙大将立像には髑髏の胸飾りはなく、腹にベルト状に巻く人面の飾りがありません。
人面の飾り(ベルト)がかつてあったと思われる跡がありますので、おそらく失われてしまったのでしょう。
宝物館には重文の仏画(薬師三尊と十二神将軍・四天王)なども展示されており、予想以上の仏像・仏画が展示されてありました。
運良く宝物を拝観出来た事に感謝するほかありませんね。