僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

『第33回 観音の里ふるさとまつり』⑤~己高山 松尾寺~

2017-10-30 07:07:07 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 琵琶湖には100余りの湖底遺跡があるといわれます。
また村や集落が琵琶湖に沈んだという伝承が多く伝わり、土器などが発見されているようです。

西野水道でつながる琵琶湖湖畔にもかつて「阿曽津千軒」と呼ばれる大きな集落がありましたが、琵琶湖に大津波(地震)が起こって湖中に沈んでしまったと伝わります。
阿曽津の村人たちは山を超えて「西野・松野(松尾)・熊野・東柳野・柳野中・西柳野・磯野」の七ヶ村に移り住んだとされ、これを「阿曽津伝説」というようです。

 

その七ヶ村の一つの松尾集落には美しい「十一面観音立像」を安置する松尾寺があります。
松尾寺は、行基(奈良仏教)・泰澄大師(白山信仰)が己高山 鶏足時を建立後、歳月とともに衰微しましたが、伝教大師・最澄が再興し、己高山七ヶ時を建立した中のひとつだとされています。



「己高山 覚念寺」は己高山松尾寺の後身の寺院でしたが、浄土真宗の寺院に改宗しており、境内に松尾寺観音堂を置く寺院です。
湖北には浄土真宗の寺院の横に観音堂があることが多々あり、浄土真宗信仰と観音信仰の並立が見られます。



最初の石段を登ったところには鐘楼と石碑があり、山号・寺号と共に「親鸞上人御遺跡」と彫られてあります。
滋賀の湖北地方は浄土真宗信仰が根強い地域といわれますが、何故そうなったのかはよく分かりません。

終日天気の悪い日で、この松尾寺まで来ると雨足が強くなってきました。
傘がなかったので諦めて引き返そうかとも思いましたが、石段が見たら急に気持ちが盛り上がり、石段を駆け登ってしまいました。



段数は少ないけど味わいのある石段を登ると観音堂があり、お世話の方が拝観者の対応に追われておられます。
肌寒い雨の日曜に終日お世話にあたられご苦労さまなことだと思います。



山を背にした観音堂にさっそく上がらせて頂くと、光を放つかのような「十一面観音立像」が目に入ります。
雨の中を傘もなくここまできた甲斐があったと思わず表情が柔らかくなったのが分かりました。



須弥壇の右には脇侍の「不動明王立像」が安置されています。
製作年代等は書かれていなかったため詳細は分からないものの、憤怒の表情に激しいものがあります。



須弥壇の左には「毘沙門天立像」が脇侍として安置され、天台宗系の三尊形式になっています。
毘沙門天も憤怒の表情は激しく、本尊の「十一面観音」を守護しています。



御本尊の「十一面観音立像」は宝冠をかぶられておりますので頭上の化仏は見ることが出来ませんでしたが、寺の縁起では高僧(最澄?)が余呉川の深い川底に住む龍の霊言を受け、霊木を彫って造ったのが観音の三尊像だとされます。
像高は約103cm、本尊の両隣りには伝教大師・最澄と慈覚大師・円仁の坐像が安置されています。



この十一面観は仏像に使われることの少ない杉材で製作されており、杉の木目が独特の模様を描き出しています。
参拝時には杉を使っていることは知りませんでしたが、ひと目で惹きつけられたのは杉の木目の美しさだったのかもしれません。





こうしてみると長浜市北部(高月町・木之本町)は観音信仰が非常に盛んな地域だということが分かります。
今回は高月町琵琶湖側の寺院を巡りましたが、まだ拝観したことのない観音様が多数安置されています。
次に御開帳される機会を心待ちしております。


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『第33回 観音の里ふるさとまつり』④~「西野薬師堂(大千山 充満寺)」「湖東山 正妙寺」~

2017-10-28 07:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 高月町西野地区は余呉川と山に挟まれた集落で、かつて大雨のたびに氾濫を起こし水害の被害に悩まされたといいます。
余呉川や赤川に近い高月の別の集落でも水害の被害の話を聞きましたが、1845年充満寺(西野薬師堂)の第11世・恵荘上人の土木事業によって西野水道が掘られて、水害から守られるようになりました。

西野水道は高さ2m、幅1.5m、長さ220mのトンネルで、ノミだけを使い6年の歳月をかけて掘り抜かれたとされます。
とてつもない労力で掘られたトンネルになりますが、その後に放水路が2本作られて現在は1980年に作られた放水路が使用されていいます。

2代目の放水路は1950年に作られたもので、以前は舗装されていなかった記憶(勘違いかも?)のあるこの水路を歩いて抜けたことがありますが、何かとても怖かった記憶があります。
初代の岩穴も保全されているので現在も通ることは出来ますが、狭くて薄暗い不気味な岩穴に見えてしまい、とてもじゃないけど入る勇気はありません。

 

寺院の歴史はかつて当地に泉明寺という寺院があり、782~785年に伝教大師・最澄が「薬師如来」「十一面観音」「十二神将」の像を刻み納めたとされます。
その後の戦乱で寺院は荒廃していき、1518年では浅井家の兵火によって堂宇は焼失してしまったとされます。



堂宇が焼失した時、里人によって救い出された仏像が現在も残され「薬師如来」「十一面観音」ともに国の重要文化財に指定されています。
西野薬師堂は、浄土真宗・充満寺の管理下に入り仏像は安置されているのですが、これは湖北で盛んな浄土真宗信仰と観音信仰が並立する湖北独特のスタイルともいえます。



西野薬師堂では観音堂の外から見えるだけでも仏像の良さが伺われます。
この小さなお堂の中の簡素な須弥壇に安置された仏像の素晴らしさに心が奪われてしまいます。



須弥壇での並びとパンフレットの写真の並びは左右が逆ですが、パンフレット写真の左におられるのが「木造伝薬師如来立像」で像高約160cm・欅の一本造り、重要文化財の仏像です。
「伝薬師如来」と「伝」が付いているのは薬師如来に欠かせない「薬壺」を持っていないことによるもので、別の説では「説法相の阿弥陀如来」という考え方があるようです。
仏像は平安時代の10世紀中頃から11世紀始めに製作されたものと推定されているようです。

写真右は「木造十一面観音立像」。平安初期に製作されたもので、像高約167cm・ヒノキ材で造られています。
堂々とした迫力のある仏像であり、2躰ともに平安仏の良さが感じられる仏像でした。
また、須弥壇の左右には「十二神将の巳と辰」が安置されており、かつては十二神将全てが並ぶ大きな寺院だったことが伺われます。



ところで、西野薬師堂の北の賤ヶ岳方面にある正妙寺には日本にこの1躰だけしか現存しないといわれる金色の「千手千足観音立像」が安置されているといいます。
しかし、何と仏像が西野薬師堂の旧堂に移転されているではないですか!



正妙寺は山の中腹にあるお堂ですので管理面から移動されたのかもしれませんが、隣り合わせの堂宇に「薬師如来」「十一面観音」と今年(2017年)2月から安置されるようになった「千手千足観音立像」の3躰を拝観出来るのは何とも言えない贅沢さを感じます。
異形の観音様を祀る観音堂は、中心に阿弥陀如来坐像(多分)を安置し、須弥壇の右の厨子に「千手千足観音立像」が安置されていました。
千手千足観音の両脇には邪鬼が2躰並び、後方には7躰の念持仏かと思われる像が後方を取り囲んでいます。



「千手千足観音立像」は像高約42cmとやや小ぶりな仏像で江戸時代の作ですが、憤怒の明王のような顔に千手の脇手、頭上に十一面観音の菩薩面・仏面があり、扇状に広がる脇脚はまるで甲殻類を思わせます。
千足観音に関する資料は残っているようですが、図像はないため、本来の千足観音の形相は明らかでないとされます。
しかし、日本に1躰しかない異形の観音様ということは確かなようです。



境内には「力石」という石があり、これは西野丹波の守谷澄が1518年に大溝城(高島郡)へ出陣の折、この力石を7回胸まで持ち上げ武運を氏仏さまに祈願したと伝わる石です。
重さ24貫50匁(92Kg)と書かれてありましたから、かなりの豪傑だったようですね。



西野周辺の集落は三方を山に囲まれ、琵琶湖とは山を挟んだ場所にある農村ですが、この周辺には観音堂が幾つかあり観音信仰の高いところのように感じます。
かつて水害の被害による飢饉などが多かった地であり、救いを求める気持ちから信仰が深まっていったのかもしれません。


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『第33回 観音の里ふるさとまつり』③~青陽山 赤分寺~

2017-10-26 07:23:23 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 赤分寺のある東高田集落は標高200mの湧出山の南にある農村で、湧出山の麓にある赤後寺と同様に「赤」が寺号に付く寺院です。
おそらくは周辺を流れていた赤川からきているのかと思いますが、明治初期の絵図では東高田の集落を分けるように赤川が蛇行するように流れていたことが分かります。

水害も多かったのではないかと考えられる集落の東側に赤分寺はあり、現在は地元老人会9名の方が交替で観音堂をお守りしておられます。
「観音の里ふるさとまつり」当日も集落から多くの方が参拝者のお世話に集まられており、ハレの日の熱気にあふれていました。

 

赤分寺は伝教大師・最澄によって開かれたとされて、現在はどの宗派にも属してはいませんが、歴史的には天台宗に強く影響を受けた寺院のようです。
開基にまつわる伝説は複数あって、“最澄が当地を訪れた時に川底から一条の光明が差していて、それが御本尊の十一面観音であった。”“御本尊は開基した最澄の作である。”などになります。



寺院には東西からたくさんの信者たちが参詣されるようになり六つの坊を境内に建立し、その話はやがて足利将軍の耳にも届くようになって信仰され始め、武運長久の祈願所となったとされます。
延文年間(1356~1361年)には足利将軍によって寺領の寄進を受けて繁盛したものの、延正年間(1504~1521年)に軍乱の兵火にかかり荒廃してしまったとされます。



御本尊はこの時期には焼失していたと考えられますが、“不思議にも戦禍を免れ威儀も堂々としていた”と伝えられています。
別の寺院で聞いた話では、高月~木之本は織田信長と浅井長政の戦で甚大な被害を受け、“観音様を川に沈めた”とか“土の中に埋めた”などして守られた観音もあるが、焼失してしまったものも多いんですとおっしゃってました。



観音堂の中は広くはありませんが、日本酒や菓子・果物が奉納されていて信仰の深さを感じます。
仏像は向かって右から「地蔵菩薩半跏像」「御本尊:十一面観音立像」「宇賀弁財天坐像」が安置されています。

「地蔵菩薩半跏像」は像高約48cmの江戸時代作の仏像ですが、地蔵様の半跏像なのが魅力的な仏像です。
衣が美しい有職文様になっていて、半跏座の美しい仏像です。



御本尊の「十一面観音立像」は像高約101cmの仏像で、室町~江戸時代の作と推定されています。
湖北は「十一面観音の里」と呼ばれるほど十一面観音が多い土地柄で、奈良仏教・平安密教・白山信仰が習合した「己高山仏教文化圏」特に天台宗の影響が感じられます。





「弁財天坐像」は像高約47cmの江戸時代の仏像ですが、竹生島信仰の宇賀弁財天との深い関わりがありそうな仏像です。
竹生島の弁財天信仰では「蓮華会」の頭人(湖北の豪族や大名・庄屋・名主)などが毎年新しい弁天像を造像して奉納していた行事がありましたので、もしかするとその中の一躰だった可能性があります。



境内には「花の木(ハナノキ・ハナカエデ)」という樹齢100年とされる木があり、岐阜・長野・愛知・滋賀県にまれにみられる程度の数少ない植物として国の天然記念物に指定されています。
先日参拝した近江八幡市の長光寺にもハナノキの巨木がありましたが、“濃紅色の小花が多数集まって美しく咲く”という美しい花が咲いた頃のハナノキをいまだに見る機会には恵まれていません。



高月ではさほど離れていない集落ごとに観音堂をお守りされているような印象を受けます。
土地の方が何世代にも渡って信仰し、守り続けてきた観音様に会えるのは幸せなことです。


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『第33回 観音の里ふるさとまつり』②~赤見山 磯野寺~

2017-10-24 06:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 湖北は独特の仏教文化が栄えた地で数多くの観音様が残されています。
特に高月町から木之本町の辺りは「己高山仏教文化圏」といわれ、霊山 己高山の山岳信仰・白山信仰・奈良仏教が習合し、平安時代の比叡山天台宗の影響を受けながら独特の仏教文化が築かれた地とされます。

現在は無住となってしまった寺院が多いのですが、浄土真宗寺院の境内に観音堂があったり、村人によって守られてきた観音堂があったりして、観音様は守り続けられてきました。
「観音の里ふるさとまつり」では多くの観音様が拝観出来ますが、どの寺院にも村人たちが集まって拝観者のお世話・お茶のサービスなど忙しい一日を迎えられておられました。

 

磯野寺は神仏習合が色濃く残り、まず赤見神社の鳥居から境内に入ることになります。
山号も赤見山ですから、神仏習合時代は赤見神社の神宮寺だったと考えられ、同じ境内にお宮さんと観音堂が隣接していました。



寺院の縁起は、推古天皇8年(600年)赤見の境内に霊水湧き出し、それを知った厩戸皇子(聖徳太子)が訪れて池の側にあった桂の木で観音像を彫刻し、一宇を建立して「赤見山磯野寺」と号したとされています。
しかし、土地の土豪・磯野氏と小谷城の浅井家との戦で堂宇は焼失してしまい、現在のお堂は1833年の再建だそうです。



観音堂に祀られている「十一面観音立像」は像高約63cm、室町時代から江戸時代に製作されたものと推定されています。
上半身は金泥(金を粉末状にして膠水で溶かした絵具)で仕上げられていて柔らかい肌の印象を受けます。
世話方の話によると“初代は戦で燃えてしまったので、この仏像は秀吉や家康の時代に作り直したものです。時代的に新しいので文化財指定は受けられないのですよ。”と少し残念そうに説明されます。



厨子は中々立派なものでしたが、堂内は撮影禁止ですので外から撮った写真のみです。
金箔の貼られた厨子の中に金色の十一面観音が見えます。



にぎやかな装飾をまとった姿に表情は温和な十一面観音です。
頭上の左三面の瞋面(しんめん)は憤怒の表情ですが、見方によっては笑っているようにも見えますね。



“境内に「三光の松」がありますよ。”と紹介されて見に行きましたが、この松は面白いですね。
いわゆる「三鈷の松」は3本の葉っぱを持つ松で、有名な松でもたまに三葉の葉がある感じなのですが、この松は落ちている葉は見た限りでは全て三葉でした。
小雨が降る中で地面に落ちた葉っぱ探しをしているのは少し大人気なかったかもしれませんね。





かつて磯野の村を貫いて余呉川が流れ、川の氾濫による水害の多い湿地のような場所だったとされます。
余呉川周辺の集落では氾濫による被害が多かった土地だったようですが、1845年に僧・西野恵荘が琵琶湖への水路(220mの手掘りのトンネル)を掘削し、水害はおさまったとされます。

この水路を西野水道と言い、“100年に一度しか水が浸かないようになった。”と世話方の説明がありました。
地域で代々語り継がれてきた話には、地域全体を救ってくれた西野上人への感謝の念が現在に至るまでの伝えられてきていることがひしひしと感じられます。


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『第33回 観音の里ふるさとまつり』①~横山神社~

2017-10-22 15:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 長浜市の旧伊香郡にあたる高月町や木之本町は「観音の里」呼ばれるほど観音様が多く、観音信仰が高い土地柄です。
現在はほとんどの寺院が無住となっているため、通常は事前予約して村の世話方に観音堂を開けてもらわないと拝観することが出来ませんが、『観音の里ふるさとまつり』の日だけは31の寺院(神社)で開帳されます。

当日は門前市での模擬店などのイベントが開催され、周遊バスツアーや巡回バスの運行があり、高月・木之本の町が一気に活気づきます。
残念だったのは終日小雨交じりの天候だったことですが、各寺院には巡回バスが到着するたびに大勢の方が拝観に訪れられていて、湖北の観音様をひと目見たいとの熱気が感じられました。

 

無計画なまま高月に入り、最初に拝観したのは「横山神社の馬頭観音立像」でした。
田圃に囲まれた森の中にある神社で、“観音の里ふるさとまつり”の赤いのぼり旗がなければ気づけない神社です。



神社は社伝によると、推古天皇元年593年横山大明神が白馬に乗じて横山岳五銚子の杉の巨樹に光輪し、霊夢神告に従いその杉樹で神像を彫刻して奉祀したのが横山神社(本宮)の始りとされています。
957年になると、当時の神職が現在の場所に馬頭観音を移して奉安したとされます。



小雨が降っていたこともあって、少し薄暗く怖い感じすらする参道を歩き一之鳥居を抜けると、6世紀頃に築造されたと考えられている「横山神社古墳」が祀られていました。
高月周辺にはこの横山神社古墳の他にも“兵主神社古墳・古保利古墳群・湧出山古墳・姫塚古墳”などが分布し、古墳時代に大きな勢力を持った豪族が存在したと考えられています。



横山神社古墳は全長36mの前方後円墳で神社の境内にあることから、かつては祭祀などが行われていた場所と考えることが出来そうです。
高月の田園地帯を車で走行すると幾つかの古墳を見ることが出来ますが、人から聞いた話で“ある古墳では調査に入ると必ず事故が起こる”といった話がまことしやかに伝えられているということです。
まるでツタンカーメンの呪いのような伝説ですね。



「馬頭観音」は社務所に安置されていて、横山神社に観音様が帰ってくるのは『観音の里ふるさとまつり』の当日だけだそうです。
通常は「高月観音の里 歴史民俗資料館」へ寄託されていて、まつりに合わせて当日帰ってきましたので、社務所内には観音様を包んでいた養生を開封したばかりといった状態でした。



馬頭観音立像は像高約100cm、檜の一本造で平安時代後期の作といわれていますが、両肩より先・脇手・持物・両足先は全て後世の修理によるものだそうです。
観音様と名は付くものの明王のような憤怒の表情をした三面八臂の像で、高月町では唯一の馬頭観音だそうです。



この神社では廃仏毀釈の影響は受けなかったのですか?と聞いてみると、湖北地方でも廃仏毀釈はあったが他の地域と比べるとやや緩く、横山大明神の本地仏として仏像は残ったとのことでした。
頭上の馬頭も後世の補修されてはいますが、やはり仏像は本来安置されていた場所で見るとありがたさが増します。



ところで、なぜこの仏像が歴史民俗資料館に寄託されているか聞いてみると、“この寺院は田圃の中の森の中にあるため、セキュリティが悪く、何度も盗難に入られているので仏像の保護のため資料館に寄託している。”とのことでした。
昭和60年頃に盗難に入られた時には「薬師如来像」が盗まれたといい、現在は写真だけが寂しく厨子の中に祀られていました。



湖北の某観音堂へ盗人が入った時に、気がついた村人が人を集めて取り押さえたという話を聞いたことがあります。
観念した盗人が居直り、着ていたシャツを脱いで上半身裸になって地面に座り込んだそうですが、その背中には...。
いずれにしても長年に渡って村人たちが信仰し続けてきた仏ですから、盗難するとは罰当たりな話です。


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御朱印蒐集~京都 太秦 蜂岡山 広隆寺~

2017-10-20 06:31:31 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 仏像を拝観することに魅力を感じ始めると、どうしても実物をこの目で見たいと思うようになる仏像がいくつか出てきます。
京都・太秦の広隆寺に安置されている「弥勒菩薩半跏像」もそんな仏像の1躰だったのですが、やっと念願の拝観をすることが叶いました。

弥勒菩薩は、釈迦(しゃか)入滅から56億7000万年後の未来の世に仏となって下界に降って、衆生を救済するといわれる菩薩とされています。
数ある弥勒菩薩像の中でも有名なのが京都・広隆寺の「弥勒菩薩半跏像」で、写真などで慈悲に満ちた表情と半跏の姿勢で思索にふける美しい姿を見て、是非一度はこの目で拝んでみたいと思い続けていました。



広隆寺は、飛鳥時代に渡来人の秦河勝が聖徳太子から仏像(弥勒菩薩半跏像)を賜り、その仏像を祀るために建立したのが蜂岡寺(現在の広隆寺)だったとされています。
秦河勝は、大陸(中国)・半島(朝鮮)の進んだ文化や産業を日本に伝え、また聖徳太子の側近だったとされる人物で、いろいろな伝説や逸話が残されている方です。
いずれにしても“仏像があって、仏像を祀るために寺院を建立した”という話には根拠があるようですね。



広隆寺は「聖徳太子建立の日本七大寺の」一つといわれていて、他の6寺は下記になります。
法隆寺(奈良・斑鳩)・法起寺(奈良・斑鳩)・中宮寺(奈良・斑鳩)・橘寺(奈良・明日香)・葛木寺(廃寺、奈良方面?)・四天王寺(天王寺)。
こうしてみると都のあった奈良に寺院は集中し、大阪南部の四天王寺を除けば広隆寺だけが離れた地域にあります。

 



ただし、広隆寺(蜂岡寺)が建立当初からこの地にあったかどうかは不明でよく分らないとされていて、平安京遷都の頃に現在の太秦に移転してきたのではという説があります。
広隆寺(蜂岡寺)は飛鳥時代の603年に建立されたとされますので、平安京は元より平城京以前から存在した寺院といえます。
そういった歴史があって広隆寺は古都・京都でも最古の寺院と呼ばれています。



広隆寺は、平安時代初期のの818年と平安後期の1150年に炎上してしまい、1165年に再興を果たしたとされます。
仁王門は1702年の建立で、境内には講堂(1165年再建の重要文化財)・薬師堂・地蔵道が並び、奥には広隆寺の本堂にあたる「上宮王院大師殿」(1730年再建)が重厚な佇まいで建てられていました。
しかしながらどの堂も閉じられていて、内部の様子は外からではよく見えません。





広隆寺の境内を歩いていて感じてしまったのは、この寺院は信仰の方が訪れるお寺というよりも弥勒菩薩半跏像などの仏像拝観の寺院というイメージでした。
内部拝観できなかったこともあって寺院建築物にはさほど感銘を受けないまま、仏像が収蔵される新霊宝殿へと進みました。



新霊宝殿でいよいよ念願の「弥勒菩薩半跏像」とご対面ということだったのですが、新宝物館に入って驚いたの何の...。
室内4面に仏像がズラリと並んでいます。予備知識がなかったのでこれには恐れ入りましたよ。

入って時計回りの最初の面には、まず重文の「増長天立像(藤原期)」・続いて国宝の「十二神将立像(藤原期)」が6躰、秘仏でこれまた重文の「薬師如来立像(平安初期)」を挟んで「月光・日光菩薩立像(藤原期・重文)。
さらに残りの十二神将立像の6躰(藤原期・国宝)と広目天立像(重文)と平安時代の素晴らしい仏像群が並びます。

2面目には、「阿弥陀如来立像(藤原期・重文)、「如意輪観音半跏像(藤原期・重文)、弘法大師作ともいわれる「不動明王坐像(平安初期・重文)」、「聖徳太子孝養像(鎌倉期・重文)」、「大日如来坐像(藤原期・重文)」
と並びます。この大日如来坐像は法界定印を結んでいましたので胎蔵界の大日如来でした。

この面の中央には「弥勒菩薩坐像(天平・重文)」の隣に見たかった「弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒・国宝)」が「弥勒菩薩半跏像(泣き弥勒・国宝)と共に安置されており、その神々しいまでの美しさに圧倒されてしまいます。


ポストカード

仏像はやはり自分の目で見ないとその素晴らしさが分かりませんね。
この弥勒菩薩半跏像は国宝第1号となっていて、渡来仏ともいわれていますが、想像していたよりも遥かに大きかったのは意外でした。
像高:約123cmのこの仏像の慈愛と上品なお顔を見ながらしばらく座り込んで見惚れてしまうことになりました。


ポストカード

弥勒菩薩半跏像は、まさしくため息が出るほど美しい仏像でしたが、ふと振り返った4面目に祀られた仏像にさらに驚くことになります。
3躰の仏像の一番右の「不空羂索観音立像(天平期・国宝)」は像高約314cmと巨大な八臂の立像でした。

真ん中には「千手観音坐像(藤原期・重文)」。こちらも像高260cmの大きな坐像ですが、手や膝・鼻などに痛みが見られて痛々しい感じのする千手観音です。
一番左の「千手観音立像(平安初期・国宝)」は像高約266cmも見応え充分の仏像で、この大きな3躰の仏像が並ぶ様には圧倒されるしかありませんでした。
最後の3面目にも仏像が並んでいましたが、もうそこに並ぶ仏像まではとても記憶しきれずで、吉祥天立像が数躰並んでいたことだけを覚えています。

何とも素晴らしい仏像群に興奮してしまいましたが、建築物で見たかった「桂宮院本堂(鎌倉前期・国宝)」は拝観不可ということでしたので残念ながら断念することになりました。
桂宮院本堂は八角堂、いわゆる夢殿でしたのでミステリアルな聖徳太子のファンとしては是非見てみたかったのですけど、これはまたの機会ということになります。



五本筋塀の桂宮院の門の後方には、凄まじいまでの勢いのある木が見えます。千手観音の手のように見えると言うと少し言い過ぎかもしれませんけどね。
京都では東寺・三十三間堂など素晴らしい仏像の数々が祀られた寺院がいくつかありますが、この広隆寺も「弥勒菩薩半跏像」を始めとして素晴らしい仏像群が収蔵されている寺院だと思います。


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御朱印蒐集~近江八幡市 補陀洛山 長光寺~

2017-10-15 20:15:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 近江八幡市にある「長光寺」では50年に一度の御開帳として、御本尊の秘仏『千手子安観世音菩薩』が御開帳されました。
長光寺は真言宗高野山派の寺院で、592年~628年頃に聖徳太子の御建立四十九院の一つだと寺院の案内にありますので非常に古い歴史のある寺院です。

その時代の長光寺は壮広たる七堂伽藍の寺院だったと伝わりますが、残念なことに1475年に焼尽してしまい、室町時代に足利義満の計らいで再建するも再び兵火によって焼失しまったとされます。
その後の1625年から松平定綱(徳川家康の甥)の命により復興に着手し、1753年に玄廣 木食上人により再興されて寺域を今の一小区域に定め現在に至るとされます。

 

長光寺は「八幡十二神社」の鳥居を抜けて参道を進んだ途中にある寺院で、大きな森の中に寺院と神社があることを考えると元は神仏習合の寺社だったのではないかと思えるような位置関係にありました。
周辺にはいくつかの工場や太陽光発電のパネルがありましたが、かつてその地域一帯が大きな森で且つ寺領でもあったのかもしれません。



50年ぶりの秘仏御開帳ということで参拝者が多くなることは予想していたものの、まだ法要中にも関わらず開帳を待つ人が山門から溢れそうになっています。
御開帳の法要が50年ごとに行われてきたとすると、前回は1967年、前々回は1917年(大正6年)、さらにその前になると、1867年で徳川幕府が大政奉還を行って王政復古の大号令を発した年ですから西郷隆盛や勝海舟の時代となってしまいます。
そう考えると、人生に2度拝観できる方は限られてしまいますから、参拝者が多くなるのも頷ける話です。



山門の中の境内にも溢れんばかりの人がおられましたので、秘仏御開帳が始まるまでに御朱印を頂くことにしました。
とはいっても、御朱印場にも長い列が出来ていましたけどね。



今回、長光寺へ訪れる時に興味があったのは山号が「補陀洛山」であることでした。
補陀落とは“観音菩薩の降臨する伝説上の山”だとされて、華厳経ではインドの南端にあるといわれ、日本では遥か南洋の彼方に「観音浄土(補陀落)」が存在すると信じられていた観音浄土の地です。

補陀洛山を山号に持つ寺院は真言宗や天台宗の寺院に複数あり、小舟に乗って補陀落を目指す「補陀落渡海」が盛んに行われれていたとされ、和歌山県那智勝浦には現在も補陀落山寺という補陀落渡海の痕跡を残す寺院があります。
また、扁額の銘には“高野山 前官 大僧都”と彫られてあり、高野山との深いつながりが伺えます。



山門から境内に入り本堂を前にしてみると、御開帳を待つ人の多さに改めて驚くことになります。
途中から小雨がパラつきだし、ひたすらじっとして境内にまで響く読教を聞きます。



この長光寺は観光寺ではありませんので、御開帳の記念行事に多くの檀家の方が集まって運営にあたられておられました。
檀家の方にとっても一生に1度あるか2度あるかのお役目を勤められている様子には大変な熱意が感じとれます。
信仰深い人々によって長年守り続けられてきた寺院なんだろうということが分かります。



御堂にはまず本堂の右にある大師堂から入り、本堂・不動堂と拝観することになります。
大師堂には「弘法大師坐像」が祀られており、このお大師様の像は寺の案内文によると“昭和の初め大師堂が大雨で流された時、弘法大師像のみが山門の所にお座りになっていた”というエピソードのある仏像だそうです。

本堂の右の脇陣には「聖徳太子立像」「地蔵菩薩立像」と「聖徳太子の御霊石」が祀られていました。
聖徳太子が「老蘇の森」に仮宮されていた時、妃が産気づかれ御難産になり、太子に諭された妃が一心に祈ったところ、西南の方より一人の童子が現れて「汝が願いは、正しく観世音が救い給う」と言って飛び去った後に妃は無事に安産されたとされます。

太子が童子の行方を探させたところ五色の霊石が光を放っており、太子が霊石に手を合わせられると、たちまち光明の中より千手観音の尊像が現れたという謂われがあるようです。
須弥壇の厨子の中にはその謂われのある御本尊「千手子安観音菩薩」と「御前立千手子安観音菩薩」が祀られていて、お姿を拝観することが出来ました。


「御前立千手子安観音菩薩」・・・観光HPより

左の脇陣には「阿弥陀如来坐像(平安時代作・1625年補修)」「役行者(江戸期)」「木喰応其上人像(長光寺再建の中興の僧)」が祀られ、猿楽に使う南北朝期の「獅子頭」が寺院焼失以前の歴史を伝えています。
本堂の左にある不動堂の「不動明王立像」を拝観して終わりとなりますが、秘仏開帳拝観の証として寺院よりお札と散華が頂けました。散華に種類があるようですが、何種類かの散華があるようです。



御開帳の記念行事として「柴灯護摩」が行われ、かつて見たことのない儀式に驚くことになりました。
護摩壇の前でお坊さんが護摩を焚く護摩供養は見たことはありますが、柴灯護摩は山伏が法螺貝を吹きながらの儀式で大変迫力のあるものです。

修験道独自の護摩儀礼といわれる柴灯護摩では幾つかの儀が続けて行われ、中でも山伏の方が複雑な印を次々と結ばれる時の速さには感動するものがあります。
山伏が四方に矢を放たれるのですが、この矢は縁起物のようで拾った方は大事そうに持ち帰られていました。



また結界の4角と護摩壇に向かって小刀で邪気を払うような儀も行われ、ちょうど結界の角にいた当方たちの目の前へ刀を向けて何か唱えられた時はビクッとしてしまいましたよ。
修験道(山岳信仰)と密教(真言宗)が習合した儀式だと思いますが、滅多に見ることのない貴重な儀式を見ることが出来たのは幸運でした。



護摩壇を取り囲むように杉の枝が掛けられており、杉の枝のカバーの内部で燃えている護摩壇から吹き上がるように煙が登るさまは、まるで火山が噴火した時の映像を見るような激しい勢いを感じます。
風向きが何度も変わりましたので、風向きによっては煙に包まれて灰かぶり状態になることがありましたが、目が離せない。



儀式の間、僧侶の読教が続く中、般若心経が始まると参拝者の方が一緒に教を唱えられ始め、広がる読教とともに真言宗の信仰の深さにも驚くことになりました。
こういった儀式を見ていると、日本の信仰にはアニミズム・山岳信仰・修験道・密教(仏教)・神道が互いに影響を受け合って独特の信仰を生んできたことが再確認できます。





山伏の中で儀式を取り仕切られていた方の山伏衣装は、とても年季の入った物のように見えました。
日常も修験者として修行されているのか?もしそうだとすれば、修行の場所は高野山や大峰山などの山岳での修行になるのでしょうか。
初めて見ましたが、柴灯護摩とは何とも興味深い儀式です。


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ボーダレス・アートミュージアム NO-MA 企画展~『惑星ノマ――PLANET NO-MA』~

2017-10-13 21:21:21 | アート・ライブ・読書
 幼い子供の頃、21世紀は遠い未来だけど“きっと夢のような世界になっているのだろう”と漠然と思っていました。
NO-MA美術館の展覧会の案内文には“空飛ぶ車にロボット、宇宙旅行・・・かつて人々が空想した遥か先の未来は、そう遠くない現実世界として私たちを迎えようとしています。”と書かれてあります。(一部略)

近年よく「AI・ロボット・IOT」などのキーワードが日常的に飛び交っていますが、子供の頃に想像した「未来世界への憧憬」とは少し違うようにも思います。
これもNO-MA美術館の言葉を借りると“閃きを生み出してきたのは、宇宙冒険譚や平行世界、時空間移動など、サイエンス・フィクションの世界で繰り広げられてきた、夢に満ちた「空想科学」ではないでしょうか。”となります。
感じてしまう違和感は、「夢」と「産業」の言葉のニュアンスの違いからきているのかもしれませんね。

『夢に満ちた「空想科学」』という言葉にとても魅力的に感じてしまいます。
「空想の惑星ノマ」へと向かう6名のアーティストの冒険譚ともいえる作品が展示されているのが今回の『惑星ノマ――PLANET NO-MA』という展覧会といえると思います。



◇土屋正彦

1946年生まれの土屋さんは、「アンドロメダ星雲にある星の大総裁として正義のために戦い続ける自分の亡き父が彼の中で全能の男性像として神のように存在し続けている」と長期にわたる精神科病院での生活の中で現実として見ていた世界を描いたもの。
絵はさながら宇宙にいる誰かとの交信によって描かれているのでは?と思えてしまうような絵で、スタートレックのナレーションの「『宇宙..それは最後の開拓地である。そこには人類の想像を絶する新しい文明、新しい生命が待ち受けているに違いない。」を思い起こさずにいられません。


土屋正彦「エイリアン」


土屋正彦「夜ふけのオレ」

「はるかなる思い出」はどこかにある惑星に暮らす恋人達がいて、衛星では出産のイメージの絵が描き込まれています。
これは父母の思い出とも受け取れますが、どこかに存在しているけど、どこにも存在しない惑星での一幕なのでしょう。


土屋正彦「はるかなる思い出」

◇河原田 謙

河原田さんの作品は写真でしか展示されていなかったのですが、茨城県で「ケネディ電気」という家電修理業を営んでいる方だそうです。
写真で見ると、工事現場にあるようなプレハブ数棟の中にはガラクタなのかスクラップなのか分らない物がぎっしりと詰め込まれてあります

空地にはロケット(ドラム缶製?)が並び、架空のロケット基地の様相を呈しているのでインパクトがあります。
家電リサイクルが本業のようですが、「唯一無二の超科学的開発研究所、ケネディー電気」のコピーは言い得て妙です。


河原田謙「ケネディ電気」


河原田謙「ケネディ電気」


河原田謙「ケネディ電気」


◇具志堅 誉

具志堅さんは、1998年生まれですので10代のアーティストです。
煙を吐き上げる工業群の前に巨大なキノコ(?)がそびえ立っていますが、よく見ると車やタイヤの写真をコラージュした作品になっています。

  
具志堅誉「朝」「昼」「夜」

「病室から見える我が家」の動機は、「病院は宇宙にいるようだ。近くに見えるのに絶対に行けないから」と病室のお母さんが窓から見える自宅を見て話したこと。(東京新聞より)
お母さんが、早く治ってほしい。宇宙から家に帰ってきてほしい。大好きな自動車のエネルギーで完治してほしい。(東京新聞より) と願う具志堅さんの想いのこもった作品なんだろうと思います。



具志堅誉「病室から見える我が家」

◇設楽陸

設楽さんは“シェアスタジオ「タネリスタジオビルヂング」運営代表”の肩書きを持つ画家さんです。
小学生の頃から『架空の歴史ノート』という架空の国家・人物・想像上の歴史などを精密に描かれていたそうで、そのノートは出版物として発表されている方です。
またゲーム世界のビジュアルの影響も受けて、独自の世界を築いてこられた画家だそうです。


設楽陸「羽ばたこうとする」


設楽陸「マーメイドステージをゆく」

◇川埜隆三

NO-MA美術館は、民家を改造した美術館で、中庭を挟んで倉が建てられています。
この古い蔵の中でも毎回展示が行われますが、今回は川埜さんの作品が倉の中に展示されていました。

蔵に入った瞬間に驚いてしまうのですが、作品は何と埴輪です。
川埜さんは私たちが存在する「さいたまA」と並行世界である「さいたまB」のパラレル・ワールドを表現されていて、並行世界で発掘・出土された埴輪が並べられています。
パラレルですから何が現実なのか分からなくなってしまいます。


川埜隆三「UFO型埴輪」


川埜隆三「烏帽子型埴輪」

川埜さんは、埴輪世界の造形作家をしての一面と、現代美術の造形作家としての両面を持つ方です。
NO-MAに置かれていた川埜隆三パンフレットを見ると、埴輪世界とは全く違う造形作品が掲載されていて驚きましたが、とても奥の深い作家さんだと思います。



オーソドックスなSF小説的な空想世界・空想科学による冒険譚には今でも心躍らされるものがあります。
その冒険譚は“楽観的であり希望に満ちたストーリー”でもありますが、反面で“アイロニカルな絶望の中で見る夢のよう”とも言えるのかと思います。


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アート イン ナガハマ 2017~小倉宗さんの“ゆみん”~

2017-10-08 18:39:39 | アート・ライブ・読書
 芸術版楽市楽座アート イン ナガハマが開催され、“もうそんな季節になったのか”と時の流れの速さを感じます。
今年で31回を迎えたAINですが、出店作家さんの傾向にも随分と変化が見られます。

今年はインターネットのミンネ(minne-ハンドメイドマーケット)に出品されているような作家が多くなってきたように感じました。
とはいっても、AINはアーティストの祭宴ですから興味を引かれるブースも数多くありましたけどね。

アクリル画の小倉宗さんはその存在を知ってから10年以上の作家さんですが、熱心なファンが多く、毎年開店早々に売れてしまうので今年は開店直後に訪れました。
しかし、既に2枚の絵が売れてしまっている盛況ぶりでしたが、ブースに気に入った作品があったため、まず作品をキープさせていただいてから他の作品をじっくりと鑑賞させていただきました。

  

ほぼ同時にブースに来られた方と話してみると、この方もかなり熱心な小倉フリークの方のようで、絵や造形を見ながらの意見交換となりました。
小倉さんが『ガイアの神様』というシリーズのオブジェ作品を箱から出してくださり、さながら秘仏御開帳のようにワクワクと見ておりますと、話をしていた方は“このシリーズが好きなんですよ。”とおっしゃられます。
小倉さんの凄い作品を所蔵されているようでしたが、ブースの前で急遽ファン・ミーティングのような形になってしまい、まるで小倉フリークの集いのような状態になってしまいました。

さてアーケードを歩いていくと、「背中に都市がある空飛ぶクジラ」の大きな絵が展示されているブースがあります。
“屋久島アートのアトリエ 縄文じいさん”という方の作品ですが、いくつかの惑星が見える空を飛ぶクジラとその脇を飛ぶ二葉の飛行機の大きな絵で、何となくノスタルジーを感じてしまいました。



縄文じいさんの作家の方は屋久島へ移住して絵を描かれていて、現在は活動の場を広げながら創作活動をされているようです。
下の絵は「雲を突き抜けた空の上にある“天国喫茶店”と螺旋階段の塔が描かれています。空に浮かぶ惑星群が幻想的な絵ですね。



大山幸路さんは写真家であるとともに写真を耳付の美濃和紙にプリントされて、味わい深い作品を作られる「写真作家」の方です。
美濃和紙のロットの違いによって同じ写真でも発色に違いが出ているのが分かりますし、和紙の手触りに優しさや温かみを感じさせてもらえる作品です。





“写真撮影はフィルム派です”とおっしゃられ、ライカのフィルムカメラを見せていただきましたが、デジタルにはないフィルムカメラの画像の柔らかさと美濃和紙の温かみのマッチを狙われているようです。



滋賀で撮ったとすぐに分かる写真も多く、親しみが湧きカンバッチを購入しました。
ツートーンの猫は近江八幡産で、三毛猫は彦根産。長浜の豊公園産の猫のもありましたよ。



他のブースでは身近な小鳥の綺麗な写真がフレームに入れられて展示されていて、凄い写真だなぁと見ていると...
“野鳥写真は趣味で撮ったもので、フレームの方を見てくださいよ。”と言われてもう一度見たら手作りフレームがメインでした。(失礼しました。)



アートインナガハマでは小倉宗さんのように毎年楽しみにしているアーティストの方、その年だけ出店されて知ることが出来るアーテストの方などに出会える面白いイベントです。
昔、当方が陶芸を習っていた先生もかなりのご高齢にも関わらず作品を造り続けられて出品されていました。やはり“創作は生きる力なり”ということが言えると思いますね。


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ノビタキの♂♀をパチリ!

2017-10-05 19:19:19 | 野鳥
 バーダーやカメラマンに出会うことの少なかった夏でしたが、秋のシーズンが始まって少しづつ人が増えてきたように思います。
冬の野鳥の頃に人で溢れるのは少し苦手なのですけど、最近のように探鳥している方を見かけるようになると、いよいよ野鳥シーズンがきたかと感じられて期待感が高まります。

身近なフィールドではモズの姿を見かけることが増えましたし、ヒヨドリの群れが飛ぶ姿も見受けられます。
アオゲラかアカゲラか分かりませんが、声を聞く機会もあります。



ノビタキは数が微増しているのでしょう。いくつかの場所に姿がありました。
前回は♀しか見つけられなかったので今回は♂をパチリ!です。



ノビタキは多い年には同じ場所で数十羽を見れた年がありましたが、飛来数が減ってきているのか以前ほどの集団に遭遇出来なくなっています。
渡りの鳥は繁殖地や越冬地などの環境変化もあるでしょうから、移動の中継地では実態は分かりませんね。



♀の方も見やすいところにいましたので、パチリ!です。



ところで、今年まだムナグロに遭遇していないのですけどどうしたのでしょうか。
春のムナグロほどの数は飛来しないにせよ、秋にも普通に見られたはずなんですが、会えません。
アオアシシギを見ただけでこの日は終了しましたが、この場所にいるアオアシシギは渡りのシーズン以外の時期にも見かけますので、もしかすると定着しているのかも?



7日からの3連休は、初日が雨ながらも2日は晴れそうです。
何か初秋らしいのが出てくれるといいですね。


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