僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

大谷吉継出生地 小谷集落の「八幡神社」と「樹本神社の野神さん」「大水別神社」~長浜市余呉町小谷・池原~

2021-06-30 05:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀と福井の県境・栃ノ木峠から椿坂・柳ケ瀬と南下してきて、次に訪れた集落は大谷吉継の出生地とされる「小谷集落」でした。
北国街道はこの小谷集落辺りを境に、谷あいにある山村風景から平野の広がる農村風景へと景観が変わります。

大谷吉継は、1574年に羽柴秀吉が長浜城を築いた際に雇い入れたとされており、秀吉の馬廻衆の一人として活躍したといいます。
本能寺の変で信長の死後も秀吉に従軍して功績を立て、越前国敦賀5万7千石を拝領して敦賀城主となる。

秀吉の死後の「関ヶ原の戦い」では盟友・石田三成について善戦したものの、味方の武将の裏切りにあい、討ち果てた方です。
NHK大河ドラマ「真田丸」では治部少輔・石田三成役の山本耕史と、片岡愛之助が演じる刑部少輔・大谷吉継の信頼関係がうまく描かれていたのも記憶に残ります。



余呉町小谷(おおたに)を大谷吉継の出生地とする説はあるものの、史料などは残っておらず、出自は謎に包まれているといいます。
吉継の出自に関しては諸説あるとはいえ、幼い頃の吉継が山村のこの神社で遊んでいたかもと想像してみるのも楽しい。



石垣で一段高くなった境内には大きなケヤキの樹がある。
巨樹と呼べるほどではないが、少し高いところから集落を見守るように立っています。



質素な本殿は、拝殿のある場所からさらに上段に祀られ、山に包まれるように鎮座しています。
小谷八幡神社の御祭神は誉田別命。



小谷集落を南下して今市集落の辺りから余呉湖にかけては、田園地帯が多い余呉町の中心部となる。
さて、この先どっちへ行こうか。丹生谷方面か塩津方向の山麓か...。迷いましたが、「池原集落」方面へと車を進める。



集落の中を移動していると、山の麓の神社の鳥居が見えたので、路地へ入ると「樹本神社」の石標がありました。
樹本神社(キモト)の御祭神は「鴨玉依姫命」「 豊城入彦命」で、由緒に“千古の森林の中に神の宿り木を称える霊木あり、その木に小祠を建て神霊を祀りて樹本明神と称えて来た”とある。



樹本神社も境内の山側に石垣が組まれ一段高い位置に拝殿があります。
石段の下には大きな銀杏の樹があって、鬱蒼と葉を茂らせていました。



本殿は石垣が組まれたさらに一段上の場所。
湖北には集落ごとに神社が祀られていることが多いのですが、どの集落も世帯数に対して立派な神社があるのは驚きます。
集落の人と神社の神事や村の祭りなどが密接に結びついて、何百年もの信仰が守られてきたのでしょう。



さて、神社の境内を歩いていると、嬉しいことに野神さんの碑が見つかりました。
湖北の集落に多い野神さんは、農作の神・豊作の神あるいは水の神として祀られており、神事は主に夏に行われることが多いといい、冬のオコナイ神事と共に五穀豊穣を祈念する。

野神さんは巨樹を御神体として祀ったり、石を御神体として祀ったりしながら、集落によって神事のやり方は様々だといい、神事を縮小しながらも数百年続く伝統行事です。
今回はあてもなく北国街道を南下してきましたが、余呉町にも野神さんは数多くありますので、余呉町の野神さん巡りも面白いと思います。



同じ池原集落にはもう一つ「大水別神社」と「大浴神社」が合祀されていました。
一言で池原集落といっても「樹本神社」の近くにある集落と、「大水分神社」の近くにある集落があるため、元は別の村だったのが何らかの理由で一つの集落になったようにも思える。



「大水別神社」の御祭神は「天之水分神」で、名前から分かるように“農業用水を分配する水の神”ですので農業とは切っても切り離せない神さまということになります。
往古は、水源である行市山の東麓に鎮座して「井の明神」とも称されていたとされますが、賤ヶ岳の合戦時の兵乱により焼失し、1585年に現在地に再興したという。



本殿は広い境内の奥の石垣の上に祀られており、余呉ではこのような石垣のある神社が多い。
山の鬱蒼とした森の先にはかつて存在した「井の明神」が鎮座していたのでしょう。



「大浴神社」には“浴の森にあった釜ヶ淵に大蛇が住んで人々を苦しめていた。大浴の森に大己貴命を祀ったところ、大蛇は消えた。”という伝説があったといいます。
大蛇を氾濫する川と考えると、この地では氾濫する川と旱魃による水不足に悩まされながら、神を祀り安寧を願ってきたといえます。



滋賀県(余呉町)の最奥の集落「中河内」から「椿坂」「柳ケ瀬」「小谷」「池原」と南下してきました。
過去に余呉町を訪れた時は「仏像」「野神さん」「巨樹」「御朱印」「野鳥」が目的でしたが、今回はあてもなくフラリ訪れましたので逆に新鮮な発見もありました。
でも何回か通わないと回り切れないので、また再訪することにします。


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北国街道の分かれ道「柳ケ瀬集落」~長浜市余呉町柳ケ瀬~

2021-06-27 13:50:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 余呉町柳ケ瀬は、かつて北国街道と若狭街道の分岐点となる交通の要所であり、宿場と宿場の間にある旅人の休憩宿「間宿」として旅籠などが並んでいたそうです。
「今庄朝立ち、木之本泊まり、中河内で昼弁当」と歌われた「今庄」「木之本」「中河内」は宿場町で、中河内と木之本の間にあったのが「間宿」の柳ケ瀬ということなのでしょう。



分岐点を右へ行けば、栃ノ木峠を経て南越前・今庄へと続く北陸街道。
左へ行けば刀根越えで敦賀へと通じる若狭街道。
いすれにしてもトンネルや道路が開通する前は、交通の難所であったと思われ、また西日本有数の豪雪地帯でもあります。



分岐点にある石標には味わいのある文字で「右えちぜん かが のと道 左つるが 三国ふねのりば」と彫られており、北陸から峠を越えてきた人はホッと一息つき、これから北陸へ向かう人はここから厳しい峠へと向かう。
江戸時代にここを行き交った旅人や商人、何らかの事情で逃げるようにしてこの道を進んだ人もいたかもしれないでしょう。



現在の北陸街道は旧の街道も残るものの、国道365号線へ合流してしまう場所が多いのですが、道筋にはお地蔵さんを祀る祠が多く見られます。
街道筋に元々祀られていたものもあると思いますが、国道や高速道路の工事で見つかった、または移動させられた石仏もあるのではないかと想像する。



分岐点の若桜街道側に祀られた祠を覗いてみると、お地蔵さんではなく不動明王の石仏でした。
新鮮な花が祀られているところを見ると、地元の方で丁寧にお祀りされておられるのでしょう。



集落の中へ入っていくとかつて関所があったと思われる場所に「柳ケ瀬関所跡」の石標がありました。
柳ケ瀬の関は、彦根藩の支配下にあり、五十石取りの武士2人と番役8人が管理し、夜間の通行は一切許さず、女改めが特に厳しかったといいます。
また、江戸時代に老中より出された掟が今も残っているといいますので、柳ケ瀬は交通の重要な要所であったことが分かります。



集落内を進むとやたらと立派な門のある建物があり、「明治天皇柳ヶ瀬行在所」の碑が立っています。
ここは1878年(明治11年)10月に明治天皇が北陸巡幸の際に昼食を召し上った場所ということでした。



近くにおられた方の話を聞くと、中の建物には玉座の間があるということでした。
長浜駅近くにある「慶雲館」といい、柳ケ瀬の行在所といい、天皇陛下が立ち寄られるとなると相応の建物が必要だったのでしょう。赤い丸ポストが印象的です。



「明治天皇柳ヶ瀬行在所」の横にはなんともレトロな雰囲気の洋館風の建物がありました。
近くにおられた方に聞くと、この建物は昔の郵便局で、その向かいの建物が次に古い郵便局。
今は余呉町を南に下った「東野集落」にある片岡郵便局へ移転したとのこと。



その2代目の旧柳ケ瀬郵便局は、地元出身の男性たちが「仲間が集まれる憩いの場」にしようと思い立ち、リフォームされたそうです。
立ち話をしていた男性も“大阪から来て、昨夜はここへ泊まったんですよ。”とおっしゃっておられ、“表札のプレートは私が作ったんですよ。”とおっしゃっていました。

この図柄は、“余呉の山々を描いており、下半分の水面は余呉湖なんですよ。”とおっしゃっておられましたが、名称の「Harry House」というのも面白い。
おそらく最後の局長で発起人だった方の名前を使っておられるのだと思いますが、仲間の手作りで集まれたり、くつろげたりできる憩いの場所を作られているのは楽しそうですね。



集落の南の出入口にも石仏の祠があります。
何躰もの石仏が祀られていますが、あちこちに埋もれていた石仏が一緒に祀られているのかと思います。



柳ケ瀬集落を訪れた日は小雨の天候でしたが、前回に中河内からの帰りに立ち寄った時の若狭街道と余呉川。
山と山の間の谷あいの長閑な集落ですね。




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椿坂集落の「木の又地蔵」と「カツラ」~余呉町椿坂~

2021-06-21 05:53:46 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 福井県と滋賀県の県境にある「栃ノ木峠(中河内)」から国道365線を滋賀県側へ南下すると「椿坂」集落へと入ります。
余呉町は「特別豪雪地帯」に指定されている地域ですから、旧道しかなかった頃は冬季積雪による通行止めになる事もあり、豪雪の年には孤立してしまうことがあったといいます。

交通の難所であった椿坂峠に「椿坂バイパス」が通ったのは2014年11月のことで、「椿坂」集落から最奥の「中河内」集落までの積雪時の通行が可能になったといいます。
バイパスが完成したのが2014年とつい近年のことなのには驚きます。



椿坂バイパスが出来たことで路線バスで最奥の中河内まで行けるようにはなったものの、時刻表を見ると日に3~5本の運行しかなく、乗り遅れたら4時間から6時間待ちとなる。
また、バイパスによって旧道は通行止めになっていて、がっちりした柵に施錠までされて通行止めの表示。
表示板には、“事故等が発生した場合は、通行者自らが追うものとし、滋賀県は一切の責任を負いません。”とある。



国道から離れて「椿坂」集落へ入ると、道路脇にあるヨノミの古木と木の窪みに納められた地蔵石仏の不思議な光景が目に入ってきます。
「木の又地蔵」というらしいのですが、この道は国道を外れた旧道になりますから、道行く人が道中の安全を祈願して通り過ぎて行ったのかもしれません。



樹の枝が数カ所伐られていて、切り口がそう古そうに見えない感じがしますが、道路ギリギリのところに生えていてバスなどの大型車両が通行するため、止む無く伐ったように思えます。
幹には日当たりが良いにも関わらず苔に覆われており、豪雪地帯で降雨量が多いというこの地の気候も影響しているのでしょう。





木の又には小さな石仏が納められています。
お地蔵さんは合掌している姿に見えますが、木の又に石の台座のようなものを造って、きれいに納まっています。



別の木の又には2躰の地蔵石仏が納められている。
どんな由来や祭事があるのか分かりませんが、心惹かれる信仰の姿です。



樹の横にお地蔵さんが数躰祀られていますが、赤い布が掛けられていて布をめくるのもどうかと思い、中は見ていない。
右の方には木の又に納められていたと思われる小さな石仏地蔵が何躰かあります。



余呉町は、越前の柴田勝家と羽柴秀吉が織田信長の後継者争いに端を発した「賤ヶ岳の戦い」の舞台となった場所。
一帯の高地には陣を張られていたといいますが、そんな歴史の流れもあってか、余呉の神社には石垣で囲った上に本殿があることが多いように思います。



椿坂に鎮座する「八幡神社」は、白雉元年(650年)に社殿が建設され、天照皇大神・八幡大神・大山咋の神霊を合祀したといいます。
江戸時代に村名を「椿坂」と改めたので、神社も八幡神社と称するようになったとされます。



スギの樹が数本立つ中に本殿はあり、鬱蒼とした山麓にひっそりと祀られている。
本殿の周囲のスギはそれほど太さは感じませんが、境内には大きな切り株が見られたので、元はもっと鬱蒼とした森の神社だったのかもしれません。



本殿の奥の裏山に道らしきものがあったので、様子を見に行きましたが、こんな道は気持ち悪くて入れない。
この道の先に何か特別な物があるのなら、かなり躊躇しながらでも進んだかもしれませんけど...。



ところで、椿坂集落には「椿坂のカツラ」と呼ばれる巨樹があります。
かつてこの場所には小谷城主浅井氏に仕え、ここに領地を置いた鈴木重国という人が建立した「桂照院」という寺院があり、その跡地にカツラの樹はある。



カツラの樹は幹周が7m・樹高25mで推定樹齢は不明ながら500年と書かれていることがある見事な巨樹です。
水を好むカツラの樹らしく横には山から流れ出た川が流れ、樹の周囲の地面もジメジメして蛇でも出そうなところとなっている。



またこのカツラの樹は、幹を隠すように葉がよく茂ってきているので何本の幹があるのかよく分からない。
カツラの樹は、今にも雨の降りだしそうな時や、雨上がりに見るのが雰囲気があって好きかなぁと思います。





近くから聞こえてくるのは側を流れる下谷川の水音。
この川は、土石流“危険”渓流となっていて、集落に流れ込むまでに複数の砂防が築かれていました。
砂防がないままに、水量が増えて高度の低い場所にある集落に流れ込んだら、災害につながる怖れがあるので複数の砂防で土石流を防止しているようでした。




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「栃ノ木峠のトチノキ跡」と「廣峯神社のケヤキ」~余呉町中河内~

2021-06-20 17:50:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 このところ滋賀県最奥の集落を訪ね歩くのが楽しいのですが、今回は余呉町最奥の「中河内」集落まで行って折り返して余呉町の北部を見て回りました。
余呉町の北部は、近畿地方以西では唯一の特別豪雪地帯に指定されているといい、「中河内」集落では公式には6.55mの積雪(1981年)を記録しており、7.2mの積雪(1936年)の記録もあるといいます。

木之本町の街中から余呉湖を経て進むと、両サイドを山に挟まれた谷あいの道となり、福井県との県境に「栃ノ木峠」はあります。
峠の先には、福井県南越前町の「今庄」集落や北国街道の入口の関所「板取宿」があるといいますが、ここで折り返しです。



「栃ノ木峠」は標高537mにあり、峠から南越前町方向の眺めはとても心地が良い。
奥の方に見える山は「ホノケ山」?(標高737m)。地図で見るとそう思えるが...。



この峠道は、1578年に柴田勝家が越前北ノ庄に封ぜられた時に、安土・京都方面への近道として道幅三軒(約5m)に改修したといいます。
たまにしか車の通らない山奥ではあるものの、すぐ手前にある「余呉高原リゾ-ト・ヤップ」から聞こえてくる音楽に何とも言えない違和感を感じます。
スキーシーズン・オフの今は、ドローンやバギー・ドッグランやBBQが出来るようですが、駐車場はがら空きみたいですね。



「栃ノ木峠」で見たかったのは、この峠にある「栃ノ木峠のトチノキ」で、幹周7m・樹高25m・樹齢500年といわれている大トチノキでした。
しかし、残念ながら大トチノキは令和元年に枯死してしまったといい、現在は切り株があるばかり。



急な斜面に立ち、峠越えする人たちの目印にもなっていた巨樹だったと思いますが、残念ながら寿命が来てしまったということになります。
峠の滋賀県側すぐのところには「峠の地蔵堂」があり、堂内には地蔵さまが祀られてあり、かつて峠を越えていく旅人が旅の安全をお祈りしていかれたのかと思われます。



峠を下って「中河内」集落まで戻ると、鳥居の前にケヤキの巨樹を抱いた「廣峯神社」が目に入ってきます。
「廣峯神社」は、慶長元年(1249年)に山の神・日吉大神を祀って創建されたと伝わり、山王宮を中心に信仰を深めていましたが、明治4年に「廣峯神社」と改称されたと伝わる。



鳥居の形式は「両部鳥居」となっていて、高島市の琵琶湖に浮かぶ白髭神社の両部鳥居を思い起こさせます。
山王宮信仰の影響から神仏習合の雰囲気が感じられる「廣峯神社」ですから、鳥居の形式も密教的な要素が入っているのかもしれません。



「廣峯神社」にはケヤキやトチノキの巨樹が多い神社で、環境省の巨樹・巨木林DBにも4本の巨樹が登録されていますが、なかでも最大のケヤキは鳥居の横のケヤキになります。
幹周は6.3m、樹高30mで推定樹齢は不明。この雪深い地で力強く生き抜いてきた樹です。



幹が苔で覆われているのは湿潤なこの地の気候ゆえかと思いますが、積雪のきせつには根っこや幹の途中まで雪の下となるのでしょう。
大きな痛みもなく、瘤もないことから健康な状態で育っているケヤキといえそうです。



本殿の横にあるケヤキが2番目に大きいケヤキです。
本殿は寺院の本堂と呼んでも違和感のない造りとなっており、この神社が神仏習合の寺社であったことが伺われます。



本殿横のケヤキは、幹周5.7m・樹高40mあり、他にも数本太い幹の樹木がみられ、境内にはトチノキ(幹周4.2m・樹高25m)もある。
トチノキの巨樹は山奥に生えているイメージがあるが、ここ中河内はそれだけ山奥の山村だという言い方も出来そうです。



さて、中河内の集落を抜けて国道を南下すると「小峠の冷水(己知の冷水)」という水場がある。
先客がペットボトルに水を入れ終わるのを待って水に手をひたすと、とにかく冷たい水でした。
いつからあるものかは分かりませんが、この道を通る人の喉を潤してきた名水なんだろうと思います。



栃ノ木峠へ来たのはこれが2度目ですが、前回は峠の向こうの積雪が除雪されておらず、通行止めとなっていて引き返したことがありました。
今回は県境までと予定していましたので折り返しましたが、帰ってから調べてみると福井県側にはなかなか興味深い場所があるようです。
機会を見つけて峠の向こう、福井県側へ行ってみようかと思います。




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東草野の山村「甲賀~吉槻」~与九郎滝と姉川ダム

2021-06-17 06:03:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 伊吹山系の最奥、姉川の源流部に「東草野」と呼ばれる「甲津原」「曲谷」「甲賀」「吉槻」の4つの集落があり、「東草野の山村景観」として日本遺産に指定されています。
有数の豪雪地帯でもある東草野の4集落は、農業・林業・炭焼きなどが主要産業かと思いきや、それぞれ独特の副業が発達しており、峠を通じて北陸や美濃との交流が盛んだったとされます。

集落ごとの産業としては、「甲津原の麻織」「曲谷の石臼」「甲賀の竹刀」などがあったといい、同じような谷あいの集落にありながらも、その地の特色を生かしたものが多かったようです。
最奥から順に「甲津原」集落と「曲谷」集落を巡ってきましたが、引き続き巡った「甲賀」「吉槻」についての云々です。



「甲賀」集落は、農業が中心だった一方で、養蚕・炭焼き・大工などの生業が営まれていたといい、かつては生産した炭を国友の鉄砲鍛冶へ納めていたとの伝承があるようです。
地域を支えた伝統産業の「竹刀製造」は、大正時代に池田九右ヱ門とその子の政太郎が京都深草で修行して技術を伝えたといいます。

竹刀の需要は昭和30年以降に激増して、昭和40年代に最盛期を迎えたものの、餡かな機械製や輸入品が出回り始め、職人技で作る竹刀は衰退していったとされます。
おそらく衰退期にあたる時代には交通機関が発達して、竹刀製造職人としてよりも勤め人になった方が収入が安定したこともあるように思います。

東草野で滝といえば曲谷の「五色の滝」ということになりますが、山歩きが必要になる。
甲賀にある「与九郎滝」は、駐車場から歩いて数分ということもあり、何年振りかで「与九郎滝」へと向かいました。



甲賀集落へは、江戸時代に彦根藩や小室藩(旧浅井軍、小堀遠州が藩祖)からお殿様が訪れることがあり、ご馳走をふるまったといいます。
村の与九郎さんという魚捕りの名人はイワナなどを捕まえてもてなしたとされており、その与九郎さんがよく魚を捕った場所だったことから「与九郎滝」と呼ばれるようになったとされています。



駐車場からパイプの橋を渡った後、滑りやすい急斜面の山道を降りていかないといけないのが難点ですが、ロープが張られているため大きな問題はない。
滝つぼは池につながっており、なんとも癒される場所とはいえ、滅多に訪れる人がいないような感じもします。

落差は10mくらいでしょうか。けっして大きな滝ではありませんが、見応えのする滝です。
幹がグニャリと曲がって上方に伸びているスギともマッチして、滝を垣間見る感も好きです。



「与九郎滝」は下まで降りると、滝の正面からも横からも眺めることは出来ますが、上段の滝は下からは見えません。
少し山道を登り返したところから上段の滝が何とか見え、上段の滝の滝つぼから下へと滝が続いているのが分かります。



さて、道草がてら次は姉川ダムへ立ち寄ります。
姉川ダムの提高80.5mは、滋賀県内のダムとしては既設の中で最も堤高が高いとされており、堤長225mとある。



この辺りには過去に何度か訪れたことがありましたが、この辺りにはクマの目撃例があるそうで、山中への立ち入りは危険です!の注意書きがあります。
ほとんど車も通りませんし、いかにもクマの居そうな山系ではありますが、さずがに山へ入ろうと思えるような山でもない。



せっかくなのでダムの上を歩いて下を見下ろしてみることに。
80mの高さって単純計算ではビルの24階前後かと思いますが、落ちることはないと分かっていても足がすくんで怖い。



さて、反対側を見てみるとダムに堰建てられて広がるのは「白龍湖」という貯水池。
白龍湖にまつわる民話では、一人の若者に恋した姉妹が、お互いの幸を願って山の池に身を投げたとする龍池の話が伝わるという。
水を龍に見立てて祀るのは、洪水の危険や渇水による飢餓を怖れから水神である龍に守って欲しいとの願いなのかもしれません。





姉川ダムからもとの県道に戻って姉川を下流に向かうと、東草野地区の最後の集落である「吉槻」集落に入ります。
吉槻集落は、東草野における近江と美濃を結ぶ交通の要衝であったとされ、七曲峠は長浜市の旧浅井町に通じているようです。
吉槻から七曲峠へ抜ける峠道が鍛治屋町へと続くということは、伊吹山へ続く姉川沿いの村と金糞岳に続く草野川沿いの村が通じているということ。これには少々驚きました。



吉槻集落への入口を示す看板があり、字はほとんど消えているものの「桂と石仏の里-ここは吉槻です-」と書かれている。
「石仏の里」と名が付くのは、石造物の多さからだといい、過去に東草野中学校の生徒が三百体まで確認したことがあったといいます。



集落内を歩くと確かに石仏があちこちに祀られていますが、これらは墓標として集落縁辺部の墓地にあったものが、移動されて集落全体に拡散したとされます。
この石造物の多さは、中世末から近世にかけて吉槻が交通の要衝として栄えていたことを示すものともされます。





石仏は祠に納められているものもありますが、野に置かれているものもある。
東草野の県道沿いに祠が祀られているのを数カ所目にしますが、集落のあちこちに石仏があるというのもある意味不思議な光景です。



「桂と石仏の里」と呼ばれる吉槻のもう一つの魅力は「吉槻のカツラ」と呼ばれる樹齢1000年とされるカツラの巨樹でしょうか。
姉川に通じる急坂の斜面に踏みとどまるように立っています。



幹周8.1m、樹高16mのカツラは何本もの株立ちで若葉の緑も美しい。
今年の3月にも吉槻のカツラを見にきましたが、やはりまだ寒い時期のカツラと暖かくなってからのカツラとでは随分と異なった印象を受けます。



最後に吉槻集落の風景です。
畑仕事をされる方の姿も見える長閑な山村です。
道路によって秘境の地ではなくなった東草野地域ですが、まだかつての山里の風景や遺産が多く残されていることが分かります。




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東草野の山村「甲津原~曲谷」~奥伊吹最奥の集落~

2021-06-13 12:17:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県は周囲を山々に囲まれていますので、大きな道でつながっていない限りは、峠越えの道を行くことになり、滋賀県最奥の集落が点在します。
奥伊吹の東草野地区も同様で、最奥の甲津原集落の先にはグランスノー奥伊吹(奥伊吹スキー場)があるだけで、そこがこの方面での滋賀県の最奥の集落になります。

この奥伊吹に続く姉川上流の道のへは野鳥(クマタカやヤマセミ)に出会えるスポットもあって何度も通った道ですが、近年は巨樹や石仏のある神社へも訪れた場所でもあります。
「東草野」と呼ばれる地域は、「甲津原」「曲谷」「甲賀」「吉槻」の4つの集落のことをいい、「東草野の山村景観」として国の重要文化的景観に指定されています。
最奥の「甲津原」集落だけはスキー場に行った時に通過したことはあったものの、いまだに歩いたことのない集落でした。



伊吹山の標高520mほどの山間にある甲津原は、今でこそ道路が通って往来が出来るようになっていますが、かつては峠道で福井や美濃との往来が中心だったとされます。
縄文時代から先住民が住んでいたとされており、現代人が住み着くようになったのには諸説あって、峠を越えて住み着いた・木地師が移り住んだ・平家の落人が住み着いたなどあるようです。
甲津原集落の最北には菅原道真を御祭神として祀る「天満神社」があり、スギに囲まれた境内は独特の静けさに包まれた境内にある「面堂」には、室町時代のものとされる能面10個と鼓の胴2個が残されているといいます。



天満神社に所蔵されている能面は、雨乞いの神様として祀られ、能面に触れると必ず雨が降ると信じられているという。
集落を流れる「洗面川」では、雨乞いが必要な時にこの川の石の上に能面を置き、笹の葉で水をかけると2羽の白鷺が舞い立って雨をもたらしたとの伝承があるようです。

 

甲津原は雪深い集落ですので、民家には積雪時にも使用可能な作業場となる広い軒下空間の「カイダレ」を備えた急勾配の屋根を持つ家が多いのですが、今は茅葺の家はなくトタン屋根の家に変わっています。
唯一の茅葺屋根の民家は、江戸初期から残る「奥伊吹ふるさと伝承館」で、現在は甲津原の暮らしを伝える展示館になっています。(当日は会館していなかった)



東草野の山村4集落の内、甲津原だけが初めて訪れた集落だったのですが、実はイメージとして辺境の集落という印象を勝手に抱いていました。
しかし、実際は2車線の道路に面したごく普通の山村なのには少し驚きました。

調べてみると、甲津原まで車で行けるようになったのは1970年、奥伊吹スキー場(グランスノー奥伊吹)が開業した頃だったといい、トンネルが通じて舗装された2車線の道になったのは2000年とのこと。
おそらく道路開通とともに集落の生活が大きく変わったことだろうと思いますが、逆に道路がなく峠道だけだったらもっと過疎化していたかもしれません。



集落にポツンと残っているのは穀物を精米するための「唐臼小屋」。
流れ出る水を利用して、栗の木をくり抜いた箕に水が溜まると水の重みで箕が傾き、水を流し落とす反動で小屋の中の杵が米を搗く仕組みになっているという。



昭和20年代までは集落周辺の渓流沿いに20基の唐臼小屋があり、5升ないしは1斗の米を1昼夜で精米していたといいます。
水車で米を精米している地方もありますが、この唐臼も自然の力をうまく利用した精米機ですね。



東草野の山村4集落の最奥の甲津原集落から姉川沿いに下ってくると、次の集落は「曲谷」集落になります。
甲津原は麻の産地で麻布づくりが盛んで「麻の里」とされるのに対して、曲谷は石臼作りが盛んな「石工の里」として知られています。



集落の入口には大きな石臼のモニュメントがあり、集落のあちこちの家でかつて加工に失敗した石臼が階段や仕切りに使われています。
曲谷に伝わる伝承では、保元の頃(1156~1158年)平清盛の追討を逃れた僧・信救得業がこの地に逃れ、故郷木曽の石工を招いて石臼の業をこの地に広めたとあります。
隣村の甲津原には平家の落人説、曲谷の信救得業説。各地にいろいろな伝承が残ります。



曲谷集落には伊弉冉尊を御祭神として祀る「白山神社」があり、この神社には2度目の参拝となります。
白山神社は、社殿によると731年に行基が白山大権現を勧請し、社殿を造営したとされます。



2層の立派な石垣の上に本殿があり、石臼の里として栄えた曲谷の繁栄ぶりが伺える神社です。
この神社の興味深いところは、鎌倉期の「石造板碑」、大きな乳房状の突起を持つ「乳銀杏」、石室に納められた「秀吉の母の石仏」、南北朝期の石仏群などです。



イチョウの巨樹によくある幹の太さというのは感じず、幹自体はそれほど太くはないものの、垂れ下がる乳房状突起はまるで鍾乳石の如くです。
突起のある方の枝が重いのか、幹自体が枝の方に傾いてしまっており、冬の豪雪が心配です。





石造板碑は鎌倉末期の作とされ、一般的には鎌倉期から室町前期に集中しているといわれており、鎌倉武士の信仰に関係するとされています。
信救得業の伝承に関係あるのかどうかは分かりませんが、滋賀県では頻繁に見かけるものではないと思います。



ところで、甲津原には「甲津原交流センター」があり、という漬物加工部と売店喫茶「麻心ーmagokoroー」の土日祝日のみ営業されている店舗があります。
「麻心ーmagokoroー」には「甲津原育ち」とラベルの付いた漬物加工部の商品と、甲津原にゆかりのあるアーティストの作品が展示されています。

名産のみょうがの漬物に魅かれつつ、「大豆あん入りトチ餅」「大豆あん入りとよもぎ餅」を購入。
素朴であっさりとした味ですが、トチやよもぎの香り良く、大豆あん(白あん)もほどよい甘さで美味しくいただきました。



「麻心ーmagokoroー」には切り絵作家・早川鉄平さんのグッズが置いてあると聞き、楽しみにしていたのですが、購入したのはモンベルとのコラボTシャツでした。
売り切れたサイズが多い中、サイズの合うのがあったので運よく入手出来ました。
ちなみに2021年春夏モデルです。



さて、東草野の山村を最奥の甲津原と曲谷を見てきましたが、話が長くなり過ぎましたので、残りの甲賀・吉槻集落は機会を改めてということにします。
余談ですが、甲津原では過疎化が進んでいたようですが、積極的な移住者受け入れによって、10年前は10歳以下の子供がゼロだったのが12人へと増えたそうです。
山奥の過疎の村の人口増加というのは面白い現象ですね。


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大君ヶ畑の「白山神社」と「惟喬親王伝説」~多賀町大君ヶ畑~

2021-06-09 12:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 大君ヶ畑の白山神社

東近江市の小椋谷の最奥に「君ヶ畑」という集落がありますが、鈴鹿山脈の最高峰・御池山(標高1247m)の反対側にある多賀町には「大君ヶ畑」という集落があるといいます。
共に山を越えれば三重県いなべ市に通じる滋賀県最奥の集落であり、「惟喬親王伝説」由来の地とされています。
「惟喬親王」は、第五十五代文徳天皇の第一皇子として誕生されますが、右大臣・藤原良房の権勢により天皇にはなれず、都を逃れて小椋谷に隠棲して木地の技術を教えた方と伝わります。

その伝説により、小椋谷の蛭谷や君ヶ畑は木地師の里として全国の木地師の末裔から祀られているといいます。
惟喬親王の隠棲ルートは、滋賀報知新聞によると2ルートあり、一つは愛知川流域に沿って“近江八幡市→愛荘町→小椋谷→蛭谷・君ヶ畑”。
もう一つは、鈴鹿山麓沿いに“甲賀市土山→日野町→小椋谷”だとされますが、山の反対側の多賀町大君ヶ畑にも「惟喬親王伝説」の伝説が残っているという。



同じ字が町名となっていますが、東近江市は君ヶ畑(きみがはた)と読み、多賀町の大君ヶ畑(おじがはた)と読みます。
かつて北畑を呼ばれた大君ヶ畑は「惟喬親王伝説」により「皇子が畑」となったともいわれる。
大君ヶ畑には「惟喬親王」を祀るという「白山神社」があり、親王ゆかりの君ヶ畑と大君ヶ畑の両方を見てみたいと思い、大君ヶ畑集落を訪れました。



大君ヶ畑集落の真ん中には三重県いなべ市に通じる国道306号線が通っているため、山奥の山村という雰囲気はあまりなく、国道沿いにある山村といった印象の方が強い。
とはいえ、集落に入る道では猿の集団に遭遇しましたし、道路標識には“シカの飛び出し注意”なんてのもありました。
一之鳥居を抜けて、あまり水量のない犬上川に架けられた橋を渡ると、本殿へとつながる二之鳥居が見える。



山に挟まれた集落ということもあってツツドリの声が聞こえてくるが、当然ながら姿は見えない。
二之鳥居から石段を登っていくと、山を背にして鬱蒼と木々が茂る境内へと入る。



白山神社は「伊弉諾神」・白山権現などを祀っているとされ、一段高くなっている本殿のエリアの前にはスギの巨樹が2本、結界を張るようにして立っている。
やや右の方が太いとはいえ、同じような樹齢のスギが並ぶ姿は壮観です。



本殿の左側にある「御池堂」の前に並ぶ4本のスギも見事なものです。
「御池堂」には惟喬親王をお祀りしているとされますが、むしろ御池山を御神体として祀っている印象も受けます。



そして御池堂への石段の前には「惟喬親王行在伝承之地」と彫られた石碑が建ちます。
惟喬親王が隠棲していた地は、山城国の「小野」とされる説がありますが、鈴鹿山地にこれだけの伝承が残っていることを考えると、作られた伝承とも思えない。



祠の左側にあるスギは、巨石を抱いて合体樹となっています。
祠の右側、本殿の敷地にあるスギは2本が並んでおり、特に前方のスギはもっとも幹周がある巨樹です。





神社の前の橋から眺めた集落の風景。
山奥の静かな山村ですが、三重側から滋賀側から通り過ぎる車やツーリングのバイクの音が絶えません。
ただ、道路のおかげで林業や炭焼きで生計を立てていた集落が工業団地や市街地で働いて暮らしていけるようになったのですから、それはやむを得ないことなのかもしれません。



佐目の十二相神社と明智光秀伝説

大君ヶ畑から多賀へ戻る途中の「佐目」という集落には「十二相神社」があり、4本の巨樹スギと明智光秀出生地伝説がある集落です。
光秀出生地伝説とは、光秀の2~3代前の先祖が主君の土岐成頼に背いて美濃を離れ、多賀町佐目に移住し、この地で光秀が生まれたという伝説ですがはて真相は如何に。



「十二相神社」は、国之常立神(素戔嗚尊)を筆頭に天神七代・地神五代の12の神を祀るとされ、本殿の前には推定樹齢500年といわれる巨樹スギが林立します。
この神社は以前にも参拝したことがありますが、幹周5.1~6.3mの巨樹スギの迫力に圧倒された記憶があります。
石段の横にある4本のスギも見事ですが、本堂の裏山を見ても巨樹スギがあり、環境省のDBでは合計9本の巨樹が登録されています。



境内にあるスギでもっとも太いのは石段の右前方にあるスギでしょう。
このスギが幹周6.3m・樹高35m・推定樹齢300年とも500年ともいわれるスギですから、500年前に光秀がもし佐目にいたら、見たかもしれないスギですね。



佐目の集落では神社でも村内でも人の姿を見ることはありませんでしたが、境内には何かの神事の準備でしょうか、巨大な大太鼓が倉庫から出されてありました。
まさに巨樹を輪切りにしたようなそのサイズに驚きつつ、なんで外にだしてあったのか不思議です。
この大太鼓を叩いたらどんな音がするのでしょうね。おそらく佐目の集落内に響き渡るような大きな音がするのでしょう。



「明智光秀出生地伝説」は、集落に住む見津一族の口伝と江戸前期に書かれた「淡海温故録」という文献が元になっているといい、謎に包まれた光秀の前半生が伝承されているようです。
見津の姓は光秀の“ミツ”が由来となっているといい、“ミツ”と名乗るのはおこがましいから“ケンツ”と名乗っているのだといい、十兵衛を守った見津五人衆がいたとされます。



「明智十兵衛口伝の地 十兵衛屋敷跡」や展示小屋のある場所には、前回訪れた時になかったアニメっぽいキャラクターが置かれていました。
左から明智十兵衛光秀、見津五人衆(音七・貞次郎・新七・菊次郎・新六)多賀坊人/修験者、本願寺番方 佐目道場僧兵。



十二相神社前の屋敷跡から集落の中を歩いていくと「神さん池」と呼ばれる光秀が掘ったと伝承される井戸があります。
この池の水は、佐目では神事に用いられてきたといいますので、真偽がどうというのは関係ないと思います。



東近江市の奥永源寺の小椋谷に「君ヶ畑」集落があり、多賀の最奥の地に「大君ヶ畑」集落がある。
「大君ヶ畑」から多賀大社方向へ少し移動したところに「佐目」集落がありますが、奥永源寺にも「佐目」集落があったというのには驚きました。

かつては険しい山道を越えていかなければつながらないはずの2つの地域に何か深い関係があったのでしょうか。
尚、東近江市永源寺の「佐目」集落は、「萱尾」「九居瀬」集落とともに、永源寺ダムの水底に水没してしまったようです。


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奥永源寺の小椋谷を再訪する~政所・蛭谷・君ヶ畑集落~

2021-06-06 06:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 一般財団法「日本森林学会」では、林業の発展の歴史を示す景観や施設、跡地等、土地に結びついたものを中心に「林業遺産」として認定しているといいます。
2019年までに41の林業遺産を認定しているといい、滋賀県では唯一「木地師文化発祥の地 東近江市小椋谷」が認定を受けています。
小椋谷とは、君ヶ畑・蛭谷・箕川・政所・黄和田・九居瀬の6町のことをいい、木地師の文化の中心地とされてきており、君ヶ畑・蛭谷では全国の木地師社会の保護を担ったとされています。

実は先日も箕川・君ヶ畑・蛭谷に訪れたのですが、もう一度よく見てみたいということで、短期間での再訪となりました。
前回は多賀大社前から犬山ダムを通って箕川へ辿り着くという遠回りをしてしまいましたので、今回は入りやすい永源寺や永源寺ダムからのルートで小椋谷へ向かいました。



まず永源寺ダムまで行き、ここで休憩がてらダムの上を歩いてみます。
永源寺ダムは1952年に農業用水の安定的供給を目的として計画されたものの、水没世帯数が213世帯あるということから反対運動が起こり、完成したのは1972年のことだったといいます。

ダムの長さは392m(新幹線ひかりの16両分)、高さは73.5m(奈良の大仏の5倍)、水量は25mプール5万4000杯分で全量を琵琶湖に流すと琵琶湖の水位が3センチ上がるという。
また貯水池の広さが甲子園球場の25倍というこのダムは、全国で65箇所のダム湖が選定されている「ダム湖百選」に選ばれているそうです。



冬の雪解け水なのでしょうか、たっぷりと水を溜めたダム湖を眺めながら湖畔を進みます。
今の季節、水鳥はもういませんが、この辺りから小椋谷までの山の方からは小鳥の囀りがよく聞こえてきました。



永源寺ダム湖の端までくると「大瀧神社」の鳥居が見えてきます。
多賀町にも同じ社名の「大瀧神社」がありますが、そちらは犬上川沿いにあり、「大蛇ヶ淵」に面する。

こちらの大瀧神社は愛知川の近くにあり、“竒岩重畳せる岩上より数十尺下深渕の大瀧に飛び込む”という「瀧飛の神事」が行われていたといいます。
“飛び込み青年の体躯は勇壮で躍動する龍神の如し井水信仰の本源となすものなり”と水の神・龍にちなんだ神事があったといいます。



しかし、「大瀧神社」は永源寺ダム建設の折、先述の213世帯とともにダムの湖底に水没してしまったといいます。
現在の「大瀧神社」は1971年以降にこの地に再建されたものと思われますが、集落は湖底に水没しても鎮守の神さまは守り続けておられるということになります。



ダム湖を越えて愛知川沿いに進んで行くと「幻の銘茶」として有名な政所集落へと入ります。
政所茶は、室町時代に永源寺五世管長の越渓秀格禅師がこの地に茶の植栽を始めたと伝えられており、「宇治は茶所、茶は政所」と茶摘み唄に歌われたとか。



違和感があったのは、お茶の産地の信楽~宇治田原にかけては山の斜面に大きな茶畑があり、茶所というとあの界隈の景色を思い起こすのですが、政所にはそのような大きな茶畑が見当たらない。
政所茶は明治の頃に最盛期を迎えたものの、戦時中の転作や生産者の高齢化によって生産量は減少し続けてきたといいます。
茅葺屋根の家はもう人が住んでいなさそうですし、前にある茶畑の周囲も雑草が生えてしまい、少し荒れた感があります。



川へ向かって降りていく傾斜の場所には手の加えられている茶畑が見えます。
集落の中にあった寺院には“5月は茶摘みのため講話はありません。”との注意書きがされており、お茶の生産に追われる地元の方々の忙しさも伺われました。



ところで、政所集落へ入る前に「足原谷の滝」という落差15mほどの滝を見つけました。
水量豊富な滝という訳ではありませんが、3段くらいの段差で落ちてくる細長い感じの滝です。



滝とは呼べないような小さな滝も何ヶ所かあります。
残念なことをしたのは、先の「大瀧神社」の近くに「萱尾不動滝」という滝があったのに気付けなかったことでした。
「萱尾不動滝」は次に訪れた時の楽しみということですね。



政所がこの辺りにしては大きな集落だったことに驚きつつ、やや細めの林道を進んで行くと蛭谷集落へと入ります。
集落の入口には「筒井神社」と併設された「木地師資料館(予約要)があり、「筒井神社」は848年に惟喬親王が創建された神社と伝わります。



「筒井神社」は元は筒井峠にあったといい、木地氏の村として栄えて「筒井千軒」とまで呼ばれるほど人口が多かったといいます。
また筒井峠には「筒井公文所」があり、全国の木地師の総知拝所として宗旨人別帳に記載されていないことの多かった木地師の人別帳を製作したといいます。



さて、蛭谷から今度は最奥のかくれ里・君ヶ畑集落へと向かいます。
前回は「君ヶ畑のカツラ」と「大皇器地祖神社のスギ」が目的でしたが、今回はゆっくり集落内を歩いてみたいと思ったことが目的になっています。



集落の真ん中辺りにある「「木地師発祥地 君ヶ畑ミニ展示館」に車を停めさせていただき、集落の一角にある「大皇器地祖神社」「惟喬親王御陵」「金龍寺(高松御所)」が並ぶエリアへと向かいます。
「金龍寺(高松御所)」は、惟喬親王が皇位継承の第一候補であったにも関わらず、時の権力者・藤原良房の圧力により天皇になれず、失意のまま小椋谷に隠棲して住んだ場所とされています。



君ヶ畑はかつて「小松畑」と呼ばれていたとされ、惟喬親王はこの地で木地の技術を教えたことから「君ヶ畑」と呼ぶようになったともいいます。
木地師は全国を移動しながら木地を製造していた集団ということもあり、惟喬親王にまつわる伝説は各地にあるようですが、何らかの形で惟喬親王がこの地に関わったのは確かなようです。



惟喬親王を御祭神として祀る「大皇器地祖神社」と、惟喬親王が隠棲したとされる「金龍寺(高松御所)」の間には「惟喬親王御陵」があります。
「惟喬親王御陵」は小椋谷だけでも複数あるとされていますので、それだけこの地の人々には想いのあった方ということになります。



君ヶ畑集落を歩いていて目に付くのは水場の多さでしょうか。
この水場は君ヶ畑が過去に大火の被害を受けた時に設置されたものだといい、集落内には全部で8つの防火水道があるといいます。
蛇口が開いたままで水が流れ出しているものもあり、鈴鹿山系の豊かな水を知る、君ヶ畑ならではの風景かと思います。



蛭谷から君ヶ畑にかけての道中、道の崖下に垣間見える御池川の渓谷が美しく、降りるところを探してみます。
しかしながら、降りられるところはどうしても見つからず、全景を見ることは叶いませんでした。
残念ながら渓谷は諦めて、蓼畑集落辺りの穏やかな流れになった愛知川の様子を見る。



帰りに「道の駅 奥永源寺渓流の里」に立ち寄り、「政所平番茶」のペットボトルを買ってみました。
「政所平番茶」は、ススキや落ち葉を肥料として自然農法で育てられた茶葉を、木桶で蒸した後に乾燥させて半年熟成した番茶だと書かれてあります。
飲み口はスッキリしていますが、飲んだ後に苦みのような後味が特徴的ですが、これが番茶本来の味なのでしょう。


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淳仁天皇と「菅浦の湖岸集落」~長浜市西浅井町菅浦~

2021-06-02 09:09:09 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 奈良時代、第47代天皇・淳仁天皇は「淡路廃帝」とも称され、重用した藤原仲麻呂(恵美押勝)の道鏡排斥が失敗に終わり廃位されて淡路に流されたとされる方です。
「淳仁」の諡号が贈られたのは明治3年(1870年)のことだといいますから、長らく天皇として認められなかった不遇の天皇といえます。

長浜市西浅井町菅浦には「淳仁天皇の隠棲伝説」があり、淳仁天皇を御祭神として祀る「須賀神社」や菩提寺とされる「長福寺跡」、淳仁天皇の墓と伝えられる「船形御陵」があるとされます。
伝説では“淳仁天皇の配流地は淡路島とされるが、淡海の菅浦に流された。”とされている。



「菅浦の湖岸集落景観」は、日本遺産「琵琶湖とその水辺景観 - 祈りと暮らしの水遺産」の構成要素になっており、暮らし・祈り・食をテーマにした「水の文化」のひとつとなっています。
菅浦集落は、奥琵琶湖の急峻な山の縁にある集落で、道路が出来るまでは陸の孤島と呼べるような場所だったようですが、湖上交通の重要な港として栄えた集落だとされます。

菅浦集落は中世の共同組織「惣村」として栄えたといい、今も“跡取り以外は村には住まない”“村の決めごとは「長老衆」による”などのしきたりが守られているとされています。
そこには長い間、陸上交通が発達していなかったことがありそうですが、しっかりとした道路が開通したのは1960年代といいますから、通学や通勤は山越えだったのでしょう。



集落へ入ると見えてくるのは大きな銀杏の樹。
この銀杏の樹は長浜市の保存樹指定樹木となっており、幹周は3.3m・樹高は30mあると書かれています。

山に面した細長い集落の東と西の端には「四足門」と呼ばれる門があり、集落の領域と外界を明確に区切っています。
「四足門」は、別称「四方門」とも呼ばれ、かつては集落の四方に建てられて村に入ってくる外来者の監視をしていたとされます。



集落に祀られる「須賀神社」は、かつて「保良神社」と呼ばれ、淳仁天皇が隠棲したとされる「保良宮」造営された地と伝わります。
「保良宮」があった場所は、滋賀県内の複数の場所が上げられていますが、大津市の瀬田川右岸が有力とされているようです。
ただし、菅浦に淳仁天皇が隠棲したという伝説は、琵琶湖の湖上交通を考えれば充分にありうることで、船形御陵が残されていることも琵琶湖を渡ってきたという意味で理解が出来そうです。



須賀神社の鳥居を抜けて、長く緩やかな参道にはケヤキの巨樹が神社の結界のように立ちます。
このケヤキは環境省の「巨樹・巨木林データベース」によると、幹周が4.76m・樹高25m・推定樹齢300年以上とあるが、若々しい印象を受ける巨樹です。





参道を登り、二之鳥居から下を見渡すと奥琵琶湖らしい穏やかな水面が見えます。
石山にあったとされる「保良宮」にいた淳仁天皇が、舟で菅浦の離宮にやってきて滞在するには最適な場所だったのかもしれません。



参道を登り切ると本殿へと続く石段があり、
ここから先は神聖な場所ゆえに土足厳禁。ホラ貝の手水で身を清めてから石段を登ります。
本来裸足で参拝すべきですが、容易されていたスリッパをお借りして参拝致しました。





拝殿・本殿は簡素な造りとなっており、淳仁天皇・大山咋神・大山祇神を御祭神として祀ります。
境内社には「神明社」に天照大神・豊受大神・白山大神・愛宕大神、「天満宮社」に天満大神・八幡大神・大国大神・蛭子大神を祀る。



本殿の後方に石積があり、土の盛り上がっており、船形御陵かと思いましたが、スリッパでは身動きできず、ましてや聖域で不作法なことはできませんので、船形がどうなっているかはよく分からなかった。
参拝して石段を降りていくと、厳粛な神社の雰囲気から集落の生活感のあふれる里へ戻ることになります。



「須賀神社」は西の外れにありますので、湖岸側の道を歩きながら東の端まで歩いてみます。
驚くのは「かくれ里」のような集落なのにも関わらず、地元の方の生活感の溢れていることでしょうか。
家の前の小さな畑の世話をされている方や走り回る子供の姿があったのには意外な感じさえしました。



集落には路地のような細い道の脇に石垣が数多く残されており、これは琵琶湖の大波から家屋を守るための防波堤と、傾斜地の多いこの地にあって平坦地を造るために石垣があるのだといいます。
日当たりの良い道を歩いていると、何とも穏やかな気持ちになるような集落です。



東西に延びる集落もあっという間に東の端にある「東の四足門」まで到着してしまいます。
その先に行けそうな道がありましたので少し歩いてみたものの、湖岸が続くばかり。

湖岸の遥か先には琵琶湖に突き出したような葛籠尾崎になり、竹生島にもっとも近い場所になります。
淳仁天皇の伝説では、菅浦の人々が天皇の亡骸を「葛籠」に入れ、舟で保良宮に運んだとされ、辿り着いた場所を「葛籠尾崎」と呼んだといいます。



東からの帰り道は集落側の道を通りましたが、この世帯数にして複数の寺院・社があったのは意外に思いました。
「金毘羅社」は民家の間から石段を登ることになる。



「浅井長政由緒寺」の石碑が建つ安相寺は、1573年の小谷城落城時に長政の次男「万菊丸」が菅浦に逃れたという伝説があるようです。
「万菊丸」は信長の死後、出家して福田寺(米原市)の住職となったと伝えられています。



1353年に草創されたという「阿弥陀寺」は中世からの時宗寺院だとされ、本堂は菅浦の惣寺としての役割があったといいます。
本尊には行快作の「阿弥陀如来立像」。「木造聖観音坐像」と「阿弥陀如来坐像二軆」はもとは長福寺の仏だったとされます。



その「長福寺」は、淳仁天皇の菩提寺だったとされ、今は「淳仁天皇菩提寺菅浦山長福寺跡」の石碑と石塔が残るばかり。
ここまで淳仁天皇を手厚く祀るには、やはり菅浦と淳仁天皇(もしくはゆかりの人々)との関係はかなり深かったと考えるのが当然なのかと思います。



奥琵琶湖の穏やかで澄み切った湖面。
湖面に浮かんでいる板は、「ウマ」と呼ばれる共同の洗い場だそうです。



菅浦の集落で他に目に付いたのは何軒もあるヤンマーの作業場でしょうか。
ヤンマーの創業者の山岡孫吉は、長浜市高月町東阿辻に生まれ、湖北の農村に工業による振興をもたらした方です。
交通の便に閉ざされていた菅浦に作業場を作り、通勤することなく仕事が出来るのは、今のテレワークにおけるサテライトオフィスのようなものと言えそうですね。


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