僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

「三上山」表参道から山頂と「姥の懐」「女山」を周回する!

2023-12-30 19:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 2023年も年末を前にして残り少なくなり、山登りもいよいよ終焉となってきましたので、慣れ親しんだ「三上山」に登ってきました。
山登りをされる方の中には雪山が好きという方が多いかもしれませんが、アイゼンなどの道具や雪山のスキルがない当方にとっては山に雪が積もるまでが山登りができる季節です。

三上山は近江富士とも呼ばれる富士山を思わせる三角形に裾野を広げた稜線の山で、標高の高い山のない湖東地方にあるため、滋賀県の各所から姿を見ることが出来ます。
俵藤太(藤原秀郷)が弓矢で大ムカデを退治したという伝説が残る山は、岩場や鎖場もあって山登りをするのに丁度程よい山ですので何度も訪れてしまいます。



まずは三上山を神体山として祀る「御上神社」に参拝してから、山頂に祀られる奥宮と磐座を目指して山登りを開始します。
表登山道の入口は民家の間にある不思議な場所にありますので、朝早くから熊鈴を鳴らさないようにして通り抜けます。



登り始めてすぐの場所に「魚釣岩」という巨石があり、かつて琵琶湖の水位がこのちかくまであった頃、神さまがこの岩の上で魚を釣ったと伝わる岩です。
琵琶湖の水位が極端に低下し、渇水状態となっているこの冬の琵琶湖からは想像の付かない地形だったのかと思います。



登山道は途中にある妙見堂跡から割岩の手前まで石段や小石の転がる道で歩きやすい道が続く。
この日は天気が良く気温も上がっていた登山日和でしたので登られる方が多かったため、人とすれ違うたびにYAMAPの「こんにちは通信」が鳴っていました。



三上山登山の前半最大の楽しみは「割岩」で、この岩塊の左上の鎖場を登り、極狭の岩の間を通り抜けます。
湖東では太郎坊宮の夫婦岩が有名ですが、狭さや難易度は比較にならない冒険エリアです。



岩の中間地点まで登ると割岩が見えてきます。
鎖を掴んでもう一段上まで登ると割岩の正面に到着します。



さぁでは割岩の中に入ってみます。
ここで何組かの人と会いましたが、岩の間(隙間)を見て迂回される方の方が多かった。
服やリュックが岩に摺れてしまうのが嫌だったようですが、当方も以前に買ったばかりのジャケットを着てきた時は擦れたり汚れたりするのが嫌で迂回したことがあります。



この割岩は“肥満度確認可能”と書かれていますが、最後の出口辺りでつっかえてしまい、体を左右に振って何とか脱出しました。
そもそもリュックを背負ったまま抜けようとしたのが間違いでしたね。



この割岩から山頂までは岩場が続き、“丁度ほど良い”登山のできるコースになります。
大きな岩の前で左右に道が分かれ、左「楽」右「急坂」と書かれた看板がありますが、実際はどちらから登っても急登なのは変わりありません。



道の横に積み重なった岩がありますが、しゃがみながらならこの間を通り抜けることが出来ます。
抜け岩は人の来ない場所になりますので、ちょっと休憩するにはいい場所かなと思います。



岩場続きで少ししんどくなってはきますが、なんとも楽しい道です。
子供でも登れる山と思ってやってきた人が面喰っていましたが、それは近江富士花緑公園ルートのことです。
三上山は低山とはいえ、表登山道は鼻歌交じりでスキップしながら登れるような山ではありませんのでご注意を!



当方は三上山は、表登山道から裏登山道の周回もしくは近江富士花緑公園ルートしか知らないので、表登山道を下りたことはありません。
表登山道の岩の道は滑る怖れがありますので、下りの方が怖いかもしれませんね。
趣向を変えて、逆コースで裏登山道から「姥が懐の」激坂を経由してで山頂に行き、表登山道で下りてくるコースも新鮮かも知れません。



息が上がってきたところで山頂手前の展望岩に到着しました。
大きな一枚岩の上は景観スポットとなっており、湖東の南西方向の景色が一望出来ます。



西には比叡山が望め、音羽山や岩間山など京都との県境の山も見えます。
南側に目をやれば堂山や龍王山、金勝山や阿星山や飯道山なども眺めることが出来ます。



展望台のすぐ上には三上山の磐座や奥宮、奥宮の鳥居があり、磐座には第7代天皇・孝霊天皇(伝承の時代)に天之御影命が降り立った場所とされます。
三上山は神奈備として祀られ、山麓の御上神社は718年に藤原不比等によって社殿が造営されたと伝わります。



磐座とその周囲一帯を覆うような巨大な岩は展望台の方まで続いており、三上山の山頂が巨大な岩で形成されているようです。
奥宮には天之御影命を祀った祠を中心にして左は神、右は仏と神仏習合の形を取っている。



山頂は眺望はないもののベンチが3つ置かれていて休憩場所となっています。
山頂標識は3種類ほど掛かっていましたが、一番オーソドックスな標識を撮って登頂証明にします。



下山は裏登山道からです。
山頂には表登山道からの鳥居と裏登山道からの鳥居があり、鳥居の中は聖域となっています。



裏登山道から下山すると「東龍王 (八大龍王社)」の鳥居と祠が祀られている場所を通過することになります。
三上山には「男山/雄山」「女山」「雌山」と呼ばれる3つのピークがあり、この「東龍王 (八大龍王社)」の辺りを「雌山」と呼ぶようです。

山頂の奥宮は「男山/雄山」となり標高は432m。
「雌山」は山頂から裏登山道を下ったところにある「苔が谷」から稜線を登り返した所にあり標高は420m。
奥宮を「西龍王」、雌山を「東龍王」と呼ぶともされていますが、もうひとつ「女山」のピークがあるので話はややこしい。



さて、このまま裏登山道を進んで下山するのも勿体ないので「姥の懐」へ登り返します。
「姥の懐」の周辺には巨石が多く、「姥の懐」はムカデの穴とも呼ばれる岩穴があり、天保一揆の際に幕府の地検役人が逃げ隠れた場所ともされます。



「姥の懐」への登り道は急登で小石が多くて歩きにくい道で、看板には急坂の横に“難路”と手書きで追加されている。
下ってきた人がいたので話を聞いてみると、山頂から下りてきたとのことで、どこで山頂への道とつながっているのか気になるところです。



「姥が懐」の岩穴までは足場の悪い道ではあるもののロープがあるのでそれほど苦も無く登れます。
不気味な暗闇の中に何かいたら嫌だなと思いつつも中を除いてみます。



岩穴の中はしゃがめばギリギリ3人くらいは隠れることが出来そうな感じです。
もし急に雨が降り出したら雨宿りできそうな場所ですが、岩穴に潜んでいるより雨に濡れても構わないので下山したいと思うような不気味な場所です。



「姥が懐」へは後ろから続いて登って来られた方々がおられ、その方たちは山頂を目指して登り、当方は裏登山道に合流するよう下山します。
裏登山道から打越の分岐まで下った後、「女山」へ向かって登り返します。



「女山」のピークは270mにありますが、4月に登った時にあった山頂標識がなくなってしまっている。
おかしいなと思って探し回るも結局見つからずでしたが、その時にあった標識は「雌山」となっていたのでこれまたややこしい。



ということで無事下山して、三上山を見返してみる。
別の場所から眺めたら円錐形に見える近江富士と呼ばれる山が左側の山で三上山の山頂がある。

稜線を下って登り返す右の低い山が「女山」。
御上神社から眺める三上山は富士山型ではなく、別の山に見えてしまうほど形が違います。



快晴の中の山行となり、今年最後になるかと思いながら登りましたが、同じように考える人も多いようで、山中はにぎわっておりました。
雪が降ってしまったら山行はしませんので、これが今年の最後の山行かな?


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高島トレイルで赤坂山から寒風を周回~雲海の広がる山頂と琵琶湖と日本海の分水嶺~

2023-12-22 07:46:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 赤坂山は「花の山」として人気がある山で「関西百名山」にも選ばれており、当方もこれまで花と登山を目的に2回ほど登ったことがあります。
雪山のシーズンになってしまうと、雪山を登るスキルや装備のない当方には山登りが出来なくなりますので、降雪の前に高島トレイルで赤坂山と寒風を周回しました。

赤坂山の山頂を中心とした登山ルートはいくつかありますが、マキノ高原を起点として赤坂山~寒風を周回するルートは人気のあるルートのようです。
当方も初回は赤坂山山頂へピストン、2回目は赤坂山から明王の禿まで行ってピストンで下山しましたが、今回は距離を伸ばして赤坂山~寒風ルートを周回しました。



上の写真は下山後にマキノ高原から見た赤坂山です。登山開始頃の赤坂山は、ひどく霧がかかっていて山容が全く見えない状態です。
こんな状態の山に登っても大丈夫かなと不安を募らせながらキャンプ場を登って行きますが、休日にも関わらず前泊のテントは少ない。



登山口まで行くと幸いにして何組かの登山者が前後を登られており、霧中とはいえ人の姿があることに心強さと安心感があります。
登り始めは霧の中ですが、天気は晴れ予報でしたから、登っている間に霧がはれて視界が良くなってくるだろうと楽観的に考える。



マキノ高原からの登山道は最初は木段が続き、体が温まってくるまではちょっとシンドイけど、登り始めで余力は充分ですのでさほど苦しまず登って行けます。
先を登られていた方はみるみる内に後ろ姿が見えなくなり、後方から登っておられたグループは段々と話し声が聞こえなくなってしまい、それぞれ登るペースは随分と違います。



木段を登りきるとなだらかな樹林帯の道に変わりますが、霧で視界が悪い。
出会い頭でクマに遭遇しても直前まで分からんやんかぁと不安が頭をよぎるが、何人もが山の中を歩いているのでクマは近寄らないだろうと思い直す。



赤坂山の山頂までのルートは、「武奈の木平」という東屋がほぼ中間地点の印象があり、登山口からは1時間あれば到着出来ます。
武奈の木平まで来ても霧が晴れていないのが気になるものの、ここで水分補給をして次の「粟柄越」分岐を目指して再び登り始めます。



登っているうちに気温が上がってきて汗ばんできましたのでジャケットを脱いだのですが、水温が聞こえるようになってきた頃から急に寒さを感じだします。
やはり清流の近くになると気温が下がるのかと感じつつ、砂防堰堤を越えていくものの、ここも霧で霞んおり、結局「栗柄越」の辺りでやっと霧がはれることになる。



清流を眺めても白いモヤの向こうに陽がボンヤリと射している状態で、ここは赤坂山登山道ではなく、どこか違う場所に紛れ込んでしまったように錯覚する。
「花の山」である赤坂山も晩秋の今の季節には花は全く見られず、標高の低い場所では紅葉は見られるものの霧に包まれている。



「栗柄越(あわがらごえ)」の近くまで来ると石の祠に地蔵石仏が祀られています。
かつて栗柄越は、マキノ町海津と福井県美浜町との物資の運送ルートだったとされ、標高760mのこの峠を物資を背負って荷運びしていたようです。



汽車が通るようになる前、県境の福井側の山麓には栗柄という集落があって、福井と滋賀を行き来する人の強力を生業とする人々が暮らしていたといいます。
北陸線の木之本~敦賀間が開通したのは1882年のことだといい、峠道は運送ルートではなくなってしまい、集落は廃村になったようです。



峠には2.5mほどの岩をくり抜いた中に「馬頭観音」とされる石仏が祀られているのは、峠を越えて共に荷物を運んだ馬の安全祈願の意味があったのではないでしょうか。
山登りしていてかつて運送ルートがあったという県境の峠を通ることがありますが、徒歩しかない時代に峠を越えて物資を運んだ人たちの健脚ぶりには恐れ入るばかりです。



「栗柄越」の近くまで来ると霧はすっかり消えて視界が良くなってきて、下界の景色が見えるようになってくる。
しかし、逆に気になり始めたのは樹林の間から見えていた雲海が、山頂に辿り着くまで残っているかでした。

少し前に比良山脈の蛇谷ヶ峰に登った時も登山途中に雲海が見えていたものの、視界の広がる山頂に到着した時には霧散して消えていたことがありました。
今回は視界の広がる山頂まで雲海が消えないでくれ~!と祈りながら稜線を駆け上がっていきました。



雲海の期待とは別に、栗柄越から山頂までの稜線の美しく心躍る道筋に、息を切らせながらもずっと登っていたいと思ってしまう。
山頂までの最後の稜線を登っていて感じるワクワクする楽しい気分は、山登りの大きな魅力ですね。



山頂は風に吹きっ晒しになり寒く感じますが、360°の眺望を望むことが出来ます。
ここでゆっくりとランチを作って楽しまれる方がおられれば、休憩を早々に切り上げて明王の禿や三国山の山頂や黒河峠へ進んで行かれるとおぼしき方もおられます。





ところで、晴れた山頂から果たして雲海は見られたでしょうか。
運が良かったのか、日頃の行いが良いのか、雲海は当方の打擲をまだ待っていてくれましたよ。



赤坂山は標高823mと低山の部類に入る山ですが、眼下に雲海が広がっていると、もっと標高の高い山に登ってきたような錯覚を起こします。
なかなかの絶景ですが、これは2時間かけて自分の足で登ってきた人にだけ見られるご褒美のような景色です。



写真左に見える山が削れて地表が剥き出しになっているのは明王の禿。
次にこの山に登る時は花の季節を狙って、赤坂山山頂~明王の禿経由で黒河峠から下山してみたいな。



では、栗柄越の分岐まで下って次の目的地である寒風を目指します。
赤坂山側から寒風方向へと続く稜線の美しさは思わず見惚れてしまうほどで、歩き出した頃はなんて気持ちの良い稜線なんだろうと心地良い。



寒風は稜線を登っていった先にあるのかと思い込んでいましたが、実際には何度もピークに登り、下ってまた登るの繰り返しでした。
ススキの茂った稜線と枯れたススキが道のクッションのようになったフワフワした道や途中にあるブナ林を歩きながらも結構距離があるなと感じ始めます。



下界がガスっているのが残念ですが、下には琵琶湖やマキノの町や色づいたメタセコイヤ並木が見えます。
もしすっきりとしてクリアーな空の下で眺めることが出来たら、感動的な景色になるんだろうなと思います。



歩いてきた道を振り返ると、なんて遠くまで歩いて来たんだろうと驚きを感じてしまいます。
一番奥に見えるのが三国山で、三国山の前にかぶさるように見える山が赤坂山です。遠い。

高島トレイルでは中央分水嶺の古い山道を活かして各地の登山道をつなぎ、12の山と12の峠で全長80㌔のトレイルコースがあるそうです。
12分割されたコースを歩くも良し、テント伯で全コースを歩くも良しとのことですが、この日歩いたコースはかなり歩いたつもりでも分割コースの1コースにも満たない。



寒風の手前の辺りでは右に日本海(若狭湾)、左に琵琶湖が眺められるまさしく分水嶺の稜線です。
山上から琵琶湖を眺めることは多々あることながら、山上からの日本海は初めての事かと思い、感慨はひとしおです。



寒風へは栗柄越から1時間くらいで到着し、寒風の標高は853.8mということで実は赤坂山よりも高い。
目の前には琵琶湖が広がっていてランチの方もおられましたが、視界がイマイチでしたので早々に下山を開始します。



寒風からは細く窪んだ道の間か窪み沿いの道になっていて、落ち葉でフカフカのブナ林は気持ちよく歩けたものの、マキノ高原まで1時間半もかかってしまったトボトボ下山でした。
景色も見えない下り道を歩いて、やっとマキノスキー場の坂が見えた時はヤレヤレ帰ってこれたとホッとする瞬間でもありました。



キャンプ場エリアではテントの設営中の方が増えてきて、既にテントを設営済の人はチェアに座ってゆっくりとした時間を過ごされています。
もうお昼時はとっくに過ぎていましたので、当方はどこで食事をするか悩みながらキャンプ場を後にしました。




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「賤ケ岳の合戦」の戦場を賤ケ岳の山頂から見下ろす!

2023-12-17 17:20:20 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「賤ヶ岳の戦い」は本能寺の変の後に織田家の後継者争いを巡る羽柴秀吉と柴田勝家の戦いで、秀吉側の賤ヶ岳七本槍の活躍が伝えられています。
賤ヶ岳の戦いと名は付いていても実際には賤ヶ岳を舞台に戦いがあった訳ではなく、東の木之本や余呉や西の西浅井の辺りを含めた広域が戦場になっていたようです。

戦いは激戦を極めたようですが、柴田勝家の与力だった前田利家が突如戦線離脱したことで、戦局は秀吉側に傾き、勝家は越前・北ノ庄城に退却。
北ノ庄城で追い詰められた勝家は信長の妹のお市と共に自害しますが、浅井三姉妹と呼ばれた3人の娘の茶々・初・江はお市の方が庇護を懇願したことにより城から脱出します。
その後、戦国時代から江戸時代にかけて3人の娘たちは歴史に名を刻んでいくことになります。



この日は朝のウォーキングをした時に夜間に降った雨で地面が濡れており、雲がかかっていましたので山は諦めて家で遅めの朝食を食べていました。
ふと外を見ると雲ひとつない快晴となっており、この天気を逃すのはもったいないと遅まきながらサクッと登れる賤ケ岳へやってきた次第です。



賤ケ岳は標高421mの低山とはいえ、晴れた日に山頂から見る景色は絶景ですし、道は登りやすくリフトを利用することができます。
山本山からの縦走コースや余呉湖を取り巻く山の周回コースなど幾つかのルートがありますが、大音から登るルートは整備された緩い勾配の道を登ることになります。



麓から山頂手前まではリフトが通っており道と交差しているため、歩いて登っていくとリフトの下を2度横断することになります。
登山道の途中には特に見所や寄り道するような所はありませんので、下山は気晴らしにリフトで下りようかと軟弱な誘惑に誘われる。



九十九折の道を小走りで走りながら登っていき、上を見ると稜線が見えます。
麓から1.55㌔の山ですが、道が緩やかでとても登りやすい山です。



稜線に出ると賤ケ岳リフトの山頂駅があり、そこから先は山頂へと続く坂を登って行くことになります。
この山は低山でリフトでも登れる山なんですが、山頂まで続くこの道はとても好きな道です。





気持ちのいい稜線を登りきると賤ケ岳山頂の広いスペースに到着します。
登山道では人に会うことがほとんどなかったのに、山頂には10名以上の方がおられましたので、リフトで上がって来られた方が大半なのでしょう。



三等三角点「賤ケ岳」もあり、やや風は強かったものの晴天に恵まれて景色はとても綺麗です。
地面の草は綺麗に刈られていてベンチも多く、小さな子供連れの家族が多かったように思います。
中には子供連れで余呉湖の方へ下山していかれる家族もおられ、今日1日を自然の中で楽しまれるのかと思います。



「七本槍古戦場賤ケ岳」の石柱が建つ後方には葛籠尾崎が延びていて竹生島がポツンと琵琶湖に浮かぶ。
賤ケ岳七本槍の若武者たちは豊臣の世で大名に出世したものの、徳川の世になって改易された家や幕末まで続いた家など様々なようです。



山頂広場から南方向へは山本山まで尾根が続く縦走路があり、尾根筋には古墳時代前期から終末期の古保利古墳群が132基あります。
琵琶湖の湖水運に恵まれ、農耕地となる平野にも面していたため、古代より有力者が権勢を誇っていたと思われます。



平野部の向こうに聳えるのは伊吹山で、平野の真ん中にあるのは赤後寺のある湧出山。
伊吹山の手間の山は小谷山でしょうか。琵琶湖と山に挟まれるかのように平野が広がっています。



北には余呉湖と湖を取り巻く山々が望めます。
余呉湖は周囲約6.4㌔・水深13mの湖で、水面が穏やかなことから「鏡湖」とも呼ばれており、白鳥に姿を変えた天女の羽衣伝説が残ります。

余呉湖は琵琶湖より50m高い位置にある自然湖ですが、琵琶湖からの揚水トンネルで水を注水しているとのことです。
それにより余呉川沿いの洪水被害の軽減と湖北地方一帯のかんがい用水の補給のために貯水ダムの役割を果たしています。
溜められた水は、余呉湖から田園地帯に供給されて田畑を潤しているといい、自然を利用しながら水利事業を実現した事例のようです。



よく観光で滋賀に来られた方が“琵琶湖はまるで海のよう”と言われますが、賤ケ岳の山頂から見る琵琶湖はまさに海のようです。
賤ケ岳の山頂から見る冬の景色は琵琶湖の雄大さと変化に富んだ景観を選定した「琵琶湖八景」に【「新雪」賤ケ岳の大観】として選ばれています。



展望台には小さな神棚のある場所にたくさんの絵馬が願いを込めて掛けられています。
この絵馬には願いを込めるという意味もありますが、絵馬から得られるお金を賤ケ岳の保全に役立てるという意味合いが強いそうです。



さて、ゆっくりとした時間を山頂で過ごした後は、軟弱にもリフトで下山することにします。
でも考えてみればリフトに乗るなんて一体いつ以来なのか?
もう10年は乗っていないかもしれませんので、少し楽しかったりする。



春の季節に賤ケ岳に登るとマムシグサが多いのに驚きます。
あれだけあったマムシグサも真っ赤な実を付けているのはこの1本だけでした。



マムシグサは茎の模様がマムシに似ていることから名前が付いたようですが、実は触って汁が手に付くと炎症を起こし、実は有毒なので食べられません。
そんな毒性も名前の由来になっているのかもしれませんね。


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「orite Art青岸寺」は光のアート~早川鉄兵「切絵原画展」~

2023-12-13 06:15:15 | アート・ライブ・読書
 米原駅のすぐ近くにある青岸寺は、庭園の美しさと何時間でも過ごしていられそうな落ち着いた空間の寺院で、参拝するととても心安らかな気持ちになれる寺院です。
また、抹茶やほうじ茶を使ったスイーツの美味しい喫茶去(kissa-ko)で注文したケーキや飲み物を楽しみながら庭を眺められるのも魅力のひとつとなっています。

青岸寺はかつて近江守護職の佐々木京極道誉によって建てられた光泉寺があったとされますが、戦乱の兵火によって焼失してしまったという。
その時に本尊の聖観音像のみが難を逃れて、江戸時代まで小堂に祀られていたのを遊行していた僧が見て心を痛め、1650年に入山して再建したとされます。



復興した青岸寺は曹洞宗に改宗されて禅刹となって今日に至ります。
ご住職は檀家が十数軒だけで他の仕事と兼業せざるを得ない状況だったのを、お寺に住職はいるべきと考えて拝観者を増やす努力をされてきたそうです。

国指定の名勝庭園の知名度の向上や坐禅会の開催、寺カフェである喫茶去のオープンやライトアップなどのイベントの開催など。
その結果、安らぎを求めてやって来る拝観者は増加し、年間の拝観者数は1万人を超えるようになったようです。



玄関を入ってすぐの間にはmoss-connectさんの「苔テラリウム」が3つ展示されています。
3つの作品はそれぞれ青岸寺の風景の一部を再現しているのだそうです。

ガラスの器の中に敷き詰められた苔の上に庭園の景石や石灯籠をあしらい、庭の木も再現されています。
上からライトを当てていて、ガラスの容器の中に広がる世界は庭園の一部を再現した以上の世界観を感じます。



「陶あかり」の大橋丈夫さんの作品は、ひとつひとつの陶器から発せられる光もさることながら、襖や壁に映し出される光と影が美しい。
計算されてデザインされているのだと思いますが、襖絵に浮かび上がる光の模様が混じり合った不思議な光景です。



別の場所での展示では光の漏れ出る陶器の美しさと壁に映し出される光と影、置いてある台にはリフレクションが写り込んでいる。
本堂に展示の「組子行燈」や西川礼華さんの翠色という絵画を含めて、展示されている作品は全て光を使ったアートとなっています。



早川鉄平さんの作品は「本堂エリア」では天井に吊るされた行燈が各所にあり、「喫茶去」のスペースでは原画が並べて展示されています。
早川さんの作品は光を利用した切り絵とボードにした作品がありますが、やはり真骨頂は光で照らし出す作品ではないでしょうか。



早川鉄平さんの作品は年々街のあちこちで見かけるようになり、寺院や商業施設でのイベントも多くなって、すっかり売れっ子の作家さんです。
当方も機会があるたびに見に行っていますが、毎回新たな発見のある作家さんだと思います。



国の名勝指定の「青岸寺庭園」は、後方に控える太尾山を借景としており、枯山水庭園にも池泉庭園にも姿を変える仕掛けが施してあります。
普段の庭園は枯山水ですが、庭の横にある降り式井戸に雨などで一定量の水が溜まると庭園に水が流れて池泉庭園に変わります。
以前に梅雨の時期に雨で水が溜まった頃に訪れましたが、同じ庭園でありながら全く違う印象の庭園になっていたことに大変驚いた記憶があります。



雨の少ない今の時期は庭の池にあたる部分が苔に覆われており、雨続きだとこの苔の池に水が満たされる。
この庭園は三代目の住職・興欣和尚が『楽々園』の作庭に関わった井伊家家臣・香取某氏に依頼して1678年に作庭されものだそうです。



庭の横の渡り廊下を歩いて行った先にあるのは明治37年に建立された書院の「六湛庵」で、今回はこの書院で早川鉄平さんの切絵障子「補陀落山図」が展示されています。
9月終わりから10月いっぱいの土日祭日にはライトアップイベント「光明の灯り」が開催されていたそうです。
(「orite Art青岸寺」は11月30日で終了しています。)



昨年の「光明の灯り」にも昼に訪れたので一度は見た作品ですが、何度見ても息を潜めたくなるようなインパクトを感じます。
六湛庵にいた時間はやや陽が射してきていたので切絵障子の絵が明るく照らされていました。



障子は12枚になるのでしょうか。
鳳凰と虎は生息していませんが、他は全て滋賀県に生息している動物や鳥や魚たちです。



庭園前の喫茶去(kissa-ko)のある部屋まで戻ってくると、“どこでもドア”のような立派な造りのドアが部屋の中にある。
ノブを持って開いてみるとドアが開いて、向こう側には庭園が見えます。



ドアの向こうの世界は「補陀落山」でしょうか?
「補陀落山」は、観音菩薩の降臨する霊場で南インドにあると伝説では伝えられています。
“どこでもドア”で補陀落山へ行けるのか!←行けません。



縁側の向こうには青岸寺庭園が広がっているが、手前にはドアがある。
「悟りのドア」と呼ばれているそうですが、禅問答で語りかけられているようでもあります。



では、喫茶去(kissa-ko)でスイーツを楽しみます。
注文した品は、“抹茶テリーヌとコーヒーのセット”と“抹茶プリンと抹茶のセット”です。
禅語の「喫茶去」は“どんな理由があってもご縁があり出会った方に自分ができるおもてなしをする心”だといい、禅や茶道では有名な言葉だそうです。

  

余談ですが、昨年の「光明の灯り」にやってきた時は時間が早すぎたので、青岸山の裏の太尾山に登って太尾山城址を巡りました。
「八田山」と「太尾山」の山頂、「軍艦岩」と「蛮人岩」の奇石を越えて「湯谷神社」へ下山しましたが、低山ながらなかなかの急登続きの山でした。


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紅葉に包まれた池はモネの『睡蓮』を思わせる美しさだった!

2023-12-08 06:16:16 | 風景・イベント・グルメ
 今年の秋は何度か紅葉の名所と呼ばれる場所に訪れたのですが、紅葉の進み具合・色彩・時間・光などベストな状態の紅葉に出会うのに苦心しました。
紅葉の出来栄えは、夏の暑さ・晴れ日と雨の日のバランスがいいと綺麗な紅葉になるといいますが、自然のものゆえに人間の力ではコントロールできない領域になります。

紅葉のシーズンもそろそろ終わりかと思って向かった寺院では、最後に今年最高の紅葉を楽しむことが出来て大いに満足致しました。
寺院は山麓にひっそりと佇んでおり、近くの山々はスギなどの植林が少ないこともあり、落葉広葉樹が色づいて山々もとても綺麗でした。



総門から入ると参道には黄~橙~赤の紅葉が見られ、竹林との対比も美しい参道でした。
緩い石段や道の脇の石組の苔も実に風情があっていい雰囲気の寺院です。



御堂のある境内までの道は逆光になってしまいますが、竹林の間から光が差し込んできて、青空が広がってくれている。
この日は朝のうち曇っていたので心配したものの、到着する前に晴れ間が出てきて助かりました。



石段を登って境内地に入ると、鐘楼の周りには黄色や橙色や赤の紅葉の競演です。
まさに見頃の紅葉狩りとなり、カメラで撮影中の人が2~3名いるだけの紅葉の隠れスポットです。



落葉した葉もありましたが、境内は掃き清められて何ヶ所かに落葉がまとめられていて整備の良さを感じます。
集めた落葉は燃やされるのかどうかは分かりませんが、落ち葉で焚き火をして焼き芋を焼いてみるなんてのは風情がありますね。



境内にいくつも点在する紅葉はこの辺りが一番見頃となっており、紅いカエデも美しかったと思いますが、黄色い銀杏も綺麗に色づいていて美しい。
紅葉の名所とされる場所では、どうしても人が写り込んでしまいますが、ここではほぼ人がいないので気遣い不要でゆっくり出来ます。



大きな銀杏の木はフレームに納まりきらない大きさでしたが、見事に色づいています。
このサイズの大きな樹だと銀杏の実もたくさん収穫できるのでしょう。



あっと驚いたのと、ここへ来れたことの運の良さを感じたのは、銀杏の木が放生池にリフレクションで写り込んでいたこと。
合わせて睡蓮の葉の上に散らしたかのように紅いカエデの葉が落葉していたことです。



池の周囲は落葉した紅いカエデが絨毯のように色取り、水面には銀杏の木や睡蓮の葉や落葉したカエデの葉が浮かぶ奇跡のような光景が広がります。
また青空と空に漂うような雲も写り込んでおり、実際にある睡蓮や落葉と写り込んだ銀杏や青空がうまく融け込んでくれました。



これはクロード・モネの「睡蓮」の紅葉版だなとつぶやきたくなるような光景。
何年の何月/何日の何時/何分にしか見ることの出来ないベストなタイミングに恵まれて来訪できたことに大いに感謝します。



睡蓮の葉の上に散らしたように紅葉した落ち葉が浮かび、水面には青空と雲が写っています。
意図的に作った光景ではなく、自然にこういう光景となったと考えると、自然の面白さに感動を憶えます。



広角レンズを付けた一眼レフかミラーレスのカメラで撮ったらもっと綺麗な画像になったのでしょうね。
今年の紅葉を堪能できたひと時でした。



最後に石段横に会ったグラディエーションの綺麗なカエデを眺めて終わりとします。
晩秋の景色が終わると雪の季節。



昨冬は降雪量が少なかったと記憶していますが、今年の雪はどうなるのでしょうか。
降らないのも困りますし、降り過ぎるのも困る。ほどほどにお願いしたいところです。


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栗東歴史民俗悪物館「栗東の神・仏」と金勝寺~良弁僧正1250年御遠忌記念~

2023-12-02 05:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の南部の旧栗太郡一帯は良弁が開いたという「金勝寺」を中心に金勝寺宗教圏が栄え、仏教文化が花開いた地とされます。
良弁は華厳宗の僧として東大寺を開山したとされる僧で、金勝寺は733年聖武天皇の勅願により平城京の鬼門を守る祈願寺として良弁が開基したと伝わります。

金勝寺を中心とした文化圏は、栗東市だけでなく大津市・湖南市・甲賀市におよび、石山寺や湖南三山の常楽寺や長寿寺なども良弁の開基と広い範囲に及んでいます。
また、聖武天皇は紫香楽京の造営を進めて大仏(奈良の大仏より前の盧舎那仏)を造立しようとしたといい、朝廷と縁の深い地域となっています。



収蔵品展に展示されている仏像・神像は20躰以上あり、大半を平安時代作で栗東市の神社仏閣所蔵の像が占めています。
当然ながら撮影禁止ですので写真はありませんが、重要文化財4躰と県指定・市指定文化財が10躰展示されており、平安期の密教系の像が多かったように思います。

エントランスの窓の外には金勝山の廃寺跡にある「狛坂摩崖仏」のレプリカが展示。
何年か前までは金勝山の本物を見たことがなく、このレプリカを眺めながら山中の狛坂摩崖仏に思いを馳せておりました。



良くできたレプリカだとは思いますが、やはり金勝山の山中の独特の雰囲気の中で見る摩崖仏とは受けるインパクトが違います。
また、実物にはそれなりの距離の山道を歩いていかなければ出会えないため、お会いできた時の感慨はひとしおになります。



さて、ここまで来ましたので今回の展覧会の大本である金勝寺にも足を延ばします。
金勝アルプスには何度も登りにきているものの、金勝寺への参拝は久しぶりとなり、最後に参拝したのは数年前になります。



今回の「栗東の神・仏」は、良弁僧正1250年御遠忌記念として開催されており、良弁は「金勝寺」を開山した人物でもあります。
一説によると良弁は近江に生まれた百済の帰化人の子孫だったという説があり、近江と渡来人の関係の深さを感じます。
「金勝山」のように「金」の名の付く山や地名は鉱脈に関係することがあるとされ、この地にも鉱脈を探し求めて移入してきた帰化人集団がいたのではないでしょうか。

帰化人の技術集団がいたことで紫香楽宮に盧舎那仏を造立する基盤があったのかもしれませんし、その集団が奈良東大寺の盧舎那仏造立に貢献したのかもしれません。
また、平城京の建築に必要な木材はこの地域から伐り出されて山は禿山と化してしまったといいますから、技術・労働力・原料の供給地となってという説もあります。



参道から仁王門へと続く石段は何とも言えない風情があり、山の中腹にある金勝寺の深淵な雰囲気が伝わってきます。
実際に「道の駅こんぜの里りっとう」から道幅の狭い林道を登っていくと、奥深く静かな場所にある山岳仏教道場の印象を強く感じます。



志納所から先はたまに参拝者に出会うだけのひとけのない境内ですが、どの御堂も解放された状態で内部には仏像が平然と祀られています。
平安期の重文の仏像が何躰も祀られているにも関わらず、各御堂が全て無人で開け放たれているのは他の寺院と比べるとかなり違和感があります。





金勝寺は1549年に全山廃塵に帰し、江戸時代初期に幕府に再建を請願するも叶わず、現在の本堂と二月堂は今から約400年間に建立された仮堂のままだという。
本堂内には「釈迦牟尼如来坐像(平安期・重文)」「良弁僧正坐像(安土桃山期)」「願安法師坐像(安土桃山期)」「不動明王立像(鎌倉期)などを安置。



二月堂には像高3.6mという大きくて迫力のある「軍荼利明王立像(平安期・重文)」が安置。
御堂の中に姿が一部だけ見えていますが、御堂の中まで入ると見上げるような巨大な姿と憤怒の表情に圧倒されてしまいます。



本堂の横から山の上の方へと進むと「御香水堂」があり、明治3年までは毎年正月15日に九重の小豆粥の水を当山の清水で加持し京都御所に持参していたという。
朝廷の勅願寺ゆえの伝統のある行事ですが、檀家を持たない勅願寺だったため、維持していくための苦労は計り知れなかったといいます。



御香水堂からは山側の道を少し登っていって大講堂跡へと向かいます。
金勝寺は8世紀中頃までは近江の25別院を総括する寺院だったとされ、鎌倉期の絵図では金勝山一帯に伽藍や坊舎、狛坂寺や狛坂神社が多数点在しています。





経路の最後は虚空蔵菩薩堂になり、この御堂には見ることの少ない「虚空蔵堂半跏像」「地蔵菩薩坐像」「毘沙門天立像」(全て平安期・重文)が安置。
見応えのある仏像ばかりですので仏像ファンとしては嬉しい限りで、御堂に近づくとセンサーが反応して照明が付く工夫も、仏像の保護・拝観のしやすさがあっていいですね。



金勝寺には「良弁 お手植 大杉」という巨樹があり、幹周5.2m・樹高39mあるという。
さすがに良弁が手植えした樹とは思えませんが、良弁には東大寺二月堂の「良弁杉」の伝説があり、金勝寺に良弁お手植えの大杉があるのも理解できます。



大杉は、傾斜地の下から生えていて背の高い樹ですので写真では分かりにくいので動画で撮影しました。
この大杉へ行く道の途中には折れた樹が道を邪魔したりしていて歩きにくい道でしたが、雰囲気は伝わると思います。






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