僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

ハチジョウツグミをパチリ!

2017-02-28 07:42:55 | 野鳥
 ハチジョウツグミはシーズンに一回は見ておきたい鳥といった感じでしょうか。
以前は徒歩3分のところにも出てくれた鳥でしたが、どうも今年は見当たらないので出ているところまで行ってみました。



ハチジョウツグミはお腹の赤さの度合いで“やれ四畳半だ六畳だ”などと言われますが、こいつは平均的な個体といったところでしょうか。
もっとも赤々とした激しい個体は見たことはないのですけどね。





探鳥巡回していると毎年いくつかの鳥見場所が潰されていることに気が付きます。
アオジなんかは見かけることの多い小鳥でしたが、会える場所がどうも限られてきましたね。



帰り道に寄ったかつての鳥見場所も完全に木々が伐採されてしまって野鳥の姿はありません。
誰も住んでないようなところに多少の木が茂っていたっていいのにね...と残念に思います。

ところで、昼下がりになると囀りを聞かせながらエサを求めてやってくるのはイソヒヨドリ。
もうここへ来て囀ったら何かもらえるのが分かっているようやね。“早く何かくれ~”ってところか。





昨年の春、ウグイスの初鳴きを聞いたのは2月27日のことでした。
もう初鳴きがいつ聞こえてきてもおかしくない時期になってきています。いよいよ春ですね。


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今シーズンはカモを見に行ってなかったカモ?

2017-02-26 16:35:35 | 野鳥
 何となく行きそびれてしまって今シーズンはほとんどカモを見に行ってなかったように思います。
水辺に行ったら最低限のチェックはしていたとは思うのですが、見ているようで見ていなかった感じだったかもしれません。

まぁレアなカモに出くわすことはないとは思いつつ、好みのカモだけでもチェックということでカモ探鳥となりました。
カモ探鳥なのに最初がノスリになってしまいましたが、あっちこちに留まっているので電柱留まりでないやつをパチリ!です。



さて、カモさんの方は見たら何でも撮るぞ...ということでしたが、数が多すぎるやつはさすがにパスです。
まずはホオジロガモをパチリ!



続いてはハシビロガモをパチリ!



遠くに見えるはカワアイサ!



ミコアイサも遠かったけど何とかパチリ!



このミコアイサは魚を捕まえて何度も飲み込もうとしていましたが、さすがに獲物が大きすぎたようです。
結局諦めてリリースしてしまいましたが、もう少し小さいのを狙わないとね。



オナガガモは警戒心がないですね。
寄ってきたものだからついついパチリ!



いい加減なカモ探鳥でしたが、遠くを見回していた時にカワセミが登場。
おまけでパチリさせてもらいました。



琵琶湖のカモはカルガモ・マガモ・キンクロハジロ・コガモ・ヒドリガモなどが多いのですが、オオバンは数知れずといった感じ。
久しぶりに海のカモにも会いにいきたいですね。


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御朱印蒐集~彦根市 大洞山 大洞弁才天(長寿院)~

2017-02-22 18:35:35 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 彦根城の北東1.5㌔にある佐和山(標高232.5m)に連なる大洞山(標高211m)の中腹に大洞弁才天(長寿院)は建てられています。
この地は彦根城の鬼門にあたることから、彦根藩第4代城主 井伊直興が鬼門除けと領内の安泰を願い創立した寺院といわれています。

往時はこの山裾近くまで内湖だったことから、城主は下屋敷(琵琶湖の近く)や玄宮園(彦根城内)から舟で参拝したとされています。
現在の地形からすると考えられませんが、当時はこの一帯に内湖が存在し、彦根城の外濠から米原市の入江内湖に至る73.3ha(甲子園球場は3.85ha)の広大な内湖があったようです。(1940年代に干拓)



大洞弁才天は真言宗醍醐派の寺院ではありますが、境内の入り口に朱色の鳥居が建てられていたりして神社に参拝したのかと錯覚を起こしてしまいます。
額は「大宝王」と読むのでしょうか。御本尊の阿弥陀如来のことを指しているのかもしれません。



この石段は龍譚寺(井伊家の菩提寺)の前の参道から登っていくと、阿弥陀堂や弁財天堂に着いてしまいますので、一旦石段を下って正規の参拝道から入り直しました。
鳥居を抜けると江戸時代中期の総門が見えてきます。竹林を横目に石段を登っていると、山の寺院にやってきた感が高まって気持ちが晴れますね。



さらに石段を登っていくと見事な楼門が見えてきます。
この楼門は、1695年に建てられたもので県指定有形文化財に指定されています。



楼門は“二天門”の別称があり、門の正面には左右に「毘沙門天像と堅牢地神像」が安置されていました。
毘沙門天像は保存修理に出されていて不在でしたが、堅牢地神像は既に修理が終わった仏像だと思われます。堅牢地神は、大地をつかさどる神で万物を支えて堅牢である神とされています。

 

楼門は正面からだと全景が見えませんが、境内側から見ると全景を見ることが出来ます。
境内から楼門を見ると、真正面に彦根城の天守閣が入ってきますので額縁の中の彦根城になるのですが、そうそううまくは撮れませんね。





楼門の境内側の左右には白狐像が安置されていて、さながら彦根城と城下を守護しているかのようです。
上階へ登ることは出来ませんが、上階には甲冑を着た大黒天が臼の上に座し、両脇に4千躰の大黒天が彦根城に向かって祀られているそうです。

 

大洞弁財天には全体で15の堂宇があるとされていて、1695年に建立された校倉造りの宝蔵、1699年に建てられた経蔵(全国で8番目に古い)などの建築物が残されていました。





弁財天堂までは更に石段が続きます。
この日はまだ残雪が残っていましたので、雪のない部分を歩いていきます。



大洞弁財天の創建は1695年、彦根藩第4代城主 井伊直興が領民から一人一文の奉加金を募り、これに藩金を加えて創立したとされています。
この時の領民の寄進は、大洞弁財天祠堂金寄進帳に全員の名前が記載されて文書は重要文化財に指定されています。(寄進帳は彦根城博物館に収蔵)
大洞弁財天の本堂にあたる弁財天堂(重要文化財)は、権現造りの建築物で各所に彫刻が施され極彩色が施されており、“彦根日光”とも呼ばれている建築物です。



弁天堂(重文)は、外陣から見ると須弥壇は煤で黒々としてはいますが、その荘厳さや装飾の豪華さに圧倒されてしまいます。
しかし何といっても内陣から見る6尺(約182cm)の弁財天坐像には取り込まれてしまうような魅力があります。
人によって受け取り方は様々でしょうけど、両脇に15童子像・四天王像を従えた弁財天坐像は非常に柔和な表情に感じました。

またこの長寿院(大洞弁財天)には弁財天堂の弁財天とは別に、阿弥陀堂にも本尊が安置されています。
阿弥陀堂の本尊は阿弥陀如来像で、阿弥陀堂と弁財天堂は同じ1695年に建立された建築物とされています。



阿弥陀堂の内陣はガラス越しにしか見ることが出来ませんが、中には本尊の阿弥陀如来像と脇侍に大日如来像・釈迦如来像が祀られ、その下に不動明王像が安置されていました。
更に須弥壇の左側には宇賀神を頭上に載せた竹生島系の宇賀弁財天坐像、右側にはもう1躰の不動明王が安置されているのが見えます。

さてその宇賀神ですが、大洞弁財天の奥之院には宇賀神を祀った寺院がありました。
この宇賀神堂はどう見ても神社に見えてしまいますが、「**宮」「**神社」ではなく「宇賀神堂」と寺院の名前が付いているので不思議に感じます。



宇賀神とは人頭蛇身の姿をしていて、竹生島の弁財天信仰では弁財天の頭の上に乗り、鳥居が添えられている神です。
宇賀神は神に由来するという説もありますが、密教に取り入れられた神とされていますから、真言宗の大洞弁財天に祀られているのも当然なのかもしれません。



大洞弁財天(長寿院)の本来の入山口と思える場所は、JRの線路を渡った住宅地の中にありました。
古い写真を見ると、明治の中頃にはこの場所まで内湖が広がっていて、船着場から大鳥居をくぐって参拝した様子が残されています。
この大鳥居からJRの線路を渡って入ると、子安地蔵尊の祠・総門・楼門・本堂へと継る石段に通じるので、元々はここが正式な参拝ルートだったようです。



琵琶湖全体では戦中・戦後に干拓された内湖が総面積で2521haもあったといいます。
大洞弁財天の高台から見る100年前の彦根城の外堀に広がる広大な内湖とはどんな姿だったのか、見れるものなら見てみたかったなぁと思いを巡らします。


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トラツグミをパチリ!

2017-02-19 18:57:57 | 野鳥
 例年なら愛想のいいトラツグミなのに、今シーズンは姿は見かけるものの、見つけた瞬間に逃げられるパターンにはまっていました。
季節もんですから何とか撮りたいなぁと思っているところへヒョッコリ現れてくれましたので、今頃になってやっとパチリです。

どうもこの場所には2羽いるようでしたが、こいつは歩いてきた当方に驚いて木に留まってくれたやつです。
枯れ草に保護色のトラツグミですから動いてくれないと見つけにくいんだけど、先に見つかってしまったのは当方だったってことかな。



ただ、こいつはすぐに逃げれるように同じ姿勢で留まっていましたから同じポーズだけです。
ジワジワと寄ってみたのが最初の写真で2枚目は発見した時なんですが、トラツグミの大きさだけしか違いがないんですよね。



ところでシロハラは相変わらず数が多いね。
でも見ているとなんとも忙しい食事風景が面白いので動画でパチリ!



出てくる野鳥は取り合えず撮っておくのですが、まずは逆光のジョウビタキをパチリ!



ヤマガラは2羽が入れ替わり立ち替わりエサ探しに来ていました。
オレンジのお腹つながりでパチリ!



無理やりですが、オレンジのお腹つながりでアトリとモズをパチリ!





平地では一部を残してすっかり雪が溶けてしまいましたが、もうフキノトウが出ていました。
家に蕗畑があるわけではないの見つけるのは困難だとはいえ、どこかにフキノトウが芽を出しているのを探してやろう!と思いながらも、気がついた時には毎年花が開いてしまっています。



フキノトウの他にもチラホラと梅の花が咲いているのを見かけますし、どんどん春の気配がしてきています。
冬の野鳥にとっては北帰の時期が近づいてきているともいえますが、そろそろ春の季節が待ち遠しくなってきましたね。


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御朱印蒐集 大津市坂本~生源寺~

2017-02-15 19:03:03 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 比叡山延暦寺を開山した伝教大師(最澄)は大津市の坂本で生まれたと伝わります。
坂本には、後漢の孝献帝の子孫で日本に帰化した三津首(みつのおひと)の一族が久しく栄えていたそうで、その首長であった百枝という方が子供に恵まれず、比叡山の麓に一週間の願をたて草庵に篭ること5日目に瑞夢を得られ、蓮の花がふるめでたいしるしが現れて男の子が生まれたとされます。
その男の子こそが幼名を広野といい後の伝教大師 最澄となったわけですが、お生まれになった場所が坂本にある生源寺付近であったと伝わっています。



伝説ですから真偽はともかくとしてになりますが、寺院の山門の前には「開山伝教大師御生誕地(かいざんでんぎょうたいしごせいたんち)」の石碑が建てられています。
生源寺は800年ごろ最澄により建立されたとされ、比叡山延暦寺の西塔の総里坊格の寺院で、近世には一山の寺務を総括した里坊だったと寺伝にあります。





山門をくぐって境内に入ると「傳教大師御産湯井」の石碑があり、古井戸が残されています。最澄はこの井戸の水を産湯に使ったと伝わる井戸です。
横には伝教大師 最澄の童形像の銅像が安置されていました。この像は“水かけ大師”と呼ばれ水をかけてお祈りするようですね。



かつて生源寺には「破鐘(われがね)」といわれる梵鐘があったそうです。
比叡山の焼き討ちの時に、信長の軍勢が押し寄せるのを発見した古老が急を告げるために梵鐘を力の限り乱打し異変を伝えたらしいのですが、如何せん不意打ちのため比叡山は灰塵となってしまったようです。
この時にあまりにも強く打ち鳴らしたために、梵鐘にひびが入り不思議な音色になったいわれ、その音色ゆえ梵鐘は非常用の鐘として日吉大社の例祭などの合図として使用されていたそうですが、現在は坂本駅前の「坂本石積みの郷公園」に保存されています。



本堂は1595年に比叡山の僧・詮舜によって再建され、1710年に改築されたものとされています。
信長の比叡山焼き討ちは信長の悪行の印象をどうしても受けてしまいますが、焼き討ちの被害を受けた坂本地区にありながらもお寺の方は“当時の比叡山の僧たちも僧兵を集めたり等その行動に問題があった”と焼き討ち事件を受け入れるように語られていましたのが印象的です。



生源寺の御本尊は十一面観音菩薩ですが、この仏像は秘仏になっていて厨子の前にはお前立仏が安置されていました。
本堂の内陣の横の間にも仏像が安置されており、阿弥陀如来坐像などの仏像と灌仏会(かんぶつえ)に使う釈迦誕生仏・最澄の童形像などが質素に造られた間に安置されていて、実に見応えのあるものと感じました。


十一面観音(リーフレット)


生源寺には隣接して大将軍神社がありますが、お寺の方の話では“比叡山の守護神社は日吉大社で、生源寺の守護神社は大将軍神社です”とおっしゃっておられました。
御祭神は大山祗神と岩長姫神の2柱で、最澄の産土神(うぶすながみ)として最澄生誕の地の鎮守の神様のようです。





驚いてしまったのは、境内にあるスダジイの木でしょうか。
幹周5m、樹高14m 樹齢は推定で300年以上とされており、とてつもない生命力を感じさせる巨木です。



比叡山の麓で独特の文化を持つ坂本の町ですが、ここは何度も訪れてみないと分らないような深みのある場所だと思います。


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御朱印蒐集~大津市坂本 滋賀院門跡~

2017-02-11 13:13:13 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 比叡山の麓、坂本の町にはいたるところに里坊がありますが、最盛期の坂本には90寺の里坊あったとされ、現在も54寺が残っているといわれます。
滋賀院は、江戸時代末まで天台座主の御座所だったことから門跡寺院とされ、地元では滋賀院御殿とも呼ばれていたそうです。

門跡寺院とは位階が高く寺格の高い寺院のことを言いますが、京都・奈良を中心に20少々の寺院にしか“門跡寺院”を名乗る許可が与えられていないようです。
皇族や貴族らの子弟が仏門に入った寺院が門跡寺院となることが多いようですが、滋賀院は比叡山延暦寺の座主の居所というところから門跡寺院となったとされています。



滋賀院の沿革は1615年に慈眼大師 天海が後陽成上皇より京都北白川の法勝寺を下賜され、この地に移築したのが始まりとされています。
その後の1655年には後水尾上皇より「滋賀院」の号と寺領一千石を賜ったとあります。



上は通用門ですのでかつては僧侶が出入りした門かもしれませんが、下の勅使門は天皇の使者が入る門ですからさすがに立派な造りになっています。
工事か何かで封鎖されてしまっていたのは残念でしたが、筋塀が五本筋塀になっているところにこの寺院の格式の高さが伺われます。





滋賀院は1878年に火災によって全焼してしまったのですが、2年後の1880年に比叡山山上の3塔(東塔・西塔・横川)それぞれから建物を移築して再建されたとされています。
建物は、本殿となる内仏殿・宸殿・二階書院・庫裡・台所があり、内部は回遊できます。他に6棟の土蔵があるそうですから非常に大きな寺院です。



内仏殿には御本尊の薬師如来像が祀られており、両脇には天台・伝教大師像を奉安。
伝教大師は最澄のことですが、天台大師は中国の僧侶で天台山で修行されたとされ、最澄が天台宗を開くにあたり影響を受けた僧だそうです。

宸殿には各間に「襖絵・輿・磬子・鎧兜など」が歴史博物館のように展示されていて、最初の部屋にはかつて延暦寺の根本中堂にあった『不滅の法灯』にも灯りが灯してありました。
胎蔵曼荼羅・金剛界曼荼羅や大不動明王軸が公開されていましたが、江戸時代に描かれた涅槃図に特に興味をそそられます。

涅槃図は、お釈迦様の入滅を表した絵で釈迦の弟子以外にもいろいろな動物が書き込まれていますが、江戸時代のことですから象や虎?は絵などで見ただけの想像の産物となっているあたりが面白い。
この涅槃図が珍しいのは“動物たちと一緒に鯉や鰻や蟹などの水棲の生き物を描かれているところ”で、滋賀院の方も“こういう涅槃図は、世の中でこの1枚しかないことはないが、他では見たことはない。”とおっしゃっていましたので珍しいものには違いはないようです。



さて建物を出て、境内の石段を登っていった先には天海大僧正の廟である慈眼堂がありました。
1643年に徳川家光の命により建立されたとされるお堂で、徳川家康(徳川三代)の側近だった天海僧正と徳川家の関係の深さが分かります。



天海大僧正は今で言う都市伝説のようなものまである謎の多い方のようですが、信長の比叡山焼き討ちで焼土と化した比叡山の復興に尽力された方だそうです。
慈眼堂には天海によって高島市から移された「鵜川四十八体石仏」の内の13体の阿弥陀如来座像境内があるはずでしたが、これを見落としてしまったのは残念でした。


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御朱印蒐集~大津市坂本 律院~

2017-02-07 20:50:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 坂本の律院は、日吉大社の表参堂の鳥居から穴太衆積みの石垣に囲まれた少し奥まった場所にありました。
律院はかつては松禅院という比叡山・横川の総里坊であったとされていて、山号は「比叡山」になっています。

歴代横川に住んで修行を重ねた高僧が六十歳に達した時に“里坊を賜って余生を過ごした寺(坊)”だったそうで、明治の廃仏毀釈までは大変権威のある里坊だったとされています。
寺の案内文によると、かつては権威のある里坊だった律院は、廃仏毀釈後の大正末期に民家人の手に渡ってしまい、戦後は引揚者の一家が借り上げ、庭園は掘り起こされて畑に、松の木にはヤギが継れていた時代もあったそうです。



1949年になると戦後初の千日回峰行者で初代律院住職の叡南祖賢師が大阪財界の援助を受けて、律院を比叡山に買い戻したということです。
里坊時代からの歴史は大変長いのですが、紆余曲折があって現在の律院になったようですね。



朱色の灯篭が並ぶ短い参道の先にはすぐに本堂があり、本尊の釈迦如来と大黒天が祀られています。
この本堂は豊臣秀吉の早世した息子の鶴松(秀吉と淀君の息子で幼名は「棄(すて)」、豊臣秀頼の兄)の菩提を弔って淀君が建てたという桃山時代の建造物を移築したとされています。





本堂の横にある銅像は1988年に建てられた叡南祖賢和尚の像で、この祖賢和尚が現在見られる寺容を整えられたようです。
祖賢像の横には祖師堂が建てられていましたが、祖賢和尚は比叡山延暦寺執行でもあり、堂宇の整備・修行の制度改正・人材育成に成果をあげられた方とのことです。
叡南祖賢和尚は、こうしてみると歴史上の人物のように思えてしまいますが、明治36年生まれで1971年に亡くなられた方ですので近代の天台僧侶ということになりますね。



境内には鐘楼があり年代は分かりませんが、最近に造られたものではなさそうな鐘楼と鐘がありました。



さて午前中の律院は大変にぎわっていました。
このにぎわいは不動堂で行われる護摩焚き祈願に参加される方々のようです。寺務所も大変混んでいて護摩木を買って祈願を書き込む方が続々とやってきます。
護摩堂は1993年に完成したもので、中には4体の不動明王と眷属の制多迦童子・矜羯羅童子が祀られていて、どうやらこのにぎわいは毎日午前11時に営まれる護摩行に参加される方々のようです。





護摩焚きに参加すると精進料理が振る舞われることになっているようで、護摩行の間に寺の方が履物の数を数えて食事の数を確認されている姿も見えました。
当方も護摩木を買って護摩焚きに参加することは可能でしたが、思うところあって参加は見送りです。


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御朱印蒐集~大津市坂本 西教寺~

2017-02-04 22:03:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 比叡山の東山麓にある大津市坂本の町は、日吉大社の門前町で比叡山延暦寺の里坊が建ち並んでいることもあって、独特の景観を持った町並みになっています。
「穴太衆積み」と呼ばれる石垣と白壁の土塀が続き、数多くの里坊や寺院が連なっていますので、比叡山延暦寺・日吉大社に連なる古くからの信仰の町だといえると思います。

坂本の地には、“平安京の表鬼門の魔除け、また延暦寺の護法神”である日吉大社がありますが、この日参拝した西教寺はその日吉大社から北へ1㌔弱にある寺院でした。
西教寺は紅葉の名所とされていますが、雪の残るこの季節は人気(ひとけ)はほとんどなく閑散とした雰囲気が漂っています。



西教寺は全国に450以上の末寺をもつ天台真盛宗の総本山で寺院としての歴史は古く、一説によれば推古天皇の時代に聖徳太子が恩師である高麗の僧(慧慈、慧聡)のために創建したとの説があります。
その後の荒廃を経て、平安時代に慈恵大師良源上人が復興し、念仏の道場としたと寺伝に伝わります。この慈恵大師良源とは、おみくじの原型と作った人・「元三大師(がんざんだいし)」「角大師」のことですね。
元三大師の後には『往生要集』を書かれた恵心僧都・源信も入寺されたということですから、坂本から比叡山に入山すると延暦寺の最初の仏塔となる横川エリアとの関わりの深さが伺えます。





総門をくぐると石畳が続く参道の両脇には宿坊が並んでいました。看板を見ると「伊勢国・近江国・伊香国・福井教区・直轄教区(北海道、東京都、横浜市、名古屋市...)」などお国の名前が書かれた宿坊が続きます。
全国各地からの信仰者や寄進者・末寺の僧などが出身国の宿坊に泊まられるのだろうか?などと考えながら本堂へ向かって歩いていきます。



参道の左側にまず見えてきたのは短い石段の兎えにある“宗祖大師殿”でした。
このお堂に祀られているのは西教寺の中興の祖とされる真盛という室町時代の僧で、この方は比叡山に入り20年間以上も比叡山から下りずに修行され、西教寺の復興に尽力された僧だと伝えられています。
真盛は西教寺へは1486年に入寺され、西教寺を戒称二門不断念仏(戒律と念仏の両方を大切にすること)の根本道場として、全国への布教活動によって民衆からの支持を得ていったそうです。





この宗祖大師殿を始めとして西教寺には屋根の上に猿の像が数多く見受けられます。
近くにある日吉大社では猿を「神猿(まさる)」と呼んで魔除けの象徴としていますが、西教寺では「護猿(まもりざる・ござる)」と呼んであがめられていました。
これは西教寺に法難がおしよせてきた時に、猿が上人の身代わりに念仏を唱えて寺院を護ったという逸話からきているようです。





さて境内を進むと急な石段が見えてきます。
石段があると無性に登りたくなる当方ですから、さっそく登っていくことにしました。



石段の上には西教寺中興の祖である宗祖真盛上人の御廟がありました。
真盛上人は鎌倉時代の1495年に遷化されたとされていますが、、御廟は江戸時代の1843年に建てられたという和唐折衷の建築物です。



西教寺は比叡山延暦寺のお膝元にある天台宗と関係の深い寺院ですから、例に漏れず織田信長の焼き討ち(1571年)にあって本堂も本尊も焼失しています。
焼き討ち後に当地の坂本城の城主となった明智光秀は、西教寺の再興に大きく力を注ぎ、尽力のかいあって本堂は焼失の3年後に復興されたそうです。
現在の本堂は江戸時代の1739年に檀徒の浄財により再建した建物で、国の重要文化財となっています。



光秀による西教寺の復興の名残を示すものとして、坂本城城主だった光秀夫妻の墓と明智一族の墓が本堂の横にあります。
1582年の本能寺の変の後、山崎の戦いに敗れて坂本城を目指して落ち延びようとして光秀が自害したのは1582年のことで享年54歳。

明智一族の墓の隣には「聖衆来迎阿弥陀如来二十五菩薩像」という石仏がありました。
この石像は平成16年に開眼されたもので新しいものですが、1584年に造立された本来の二十五菩薩石像は本堂と客殿の渡り廊下に安置されており、400年以上の風雪にさらされ傷みつつも味わい深い姿でした。



本殿に入って驚嘆したのは御本尊の丈六の阿弥陀如来坐像でした。
平安時代藤原期の作で重要文化財に指定されていますが、やはり丈六の坐像の迫力には圧倒されるものがあります。
仏像を見終えた頃に檀家の方の法要が始まりましたので、読教の声を背に本殿を立ち去ります。



西教寺には見ることは出来ませんでしたが、藤原期の聖観音菩薩立像(重要文化財)や鎌倉時代の秘仏 薬師如来坐像(重要文化財)が安置されているそうです。
木造聖観音立像は高さ1.7mの一木造りの像で本堂の後陣に安置されているということで、特別開帳の時には拝観出来るようです。


聖観音立像(重要文化財)...ポストカード


西教寺の本堂から客殿は中を回遊出来るようになっていて、小堀遠州作などの趣の違った4つの庭園(庫裏南側・客殿西側・書院南側・書院北側)がありました。
庭園の魅力は分らないのですが、客殿の1室の展示室に安置されていた仏像は興味深いものでした。

等身大の聖観音立像の横には地蔵菩薩。その横には小ぶりな厨子に収められた仏像の数々があります。
かつてはどこかの寺院の御本尊だったのかもしれませんが、廃寺になったなどの事情があって、ここに安置されている仏像なのかと思ってしばらく眺めていました。
仏像としての呼称はありますが、ひっそりした和室に置かれた数奇な運命を辿ったのかもしれない“名も無き仏像たち”に心が揺り動かされます。


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御朱印蒐集~滋賀県蒲生郡竜王町 苗村神社~

2017-02-01 18:19:19 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県蒲生郡竜王町の田園地帯にある苗村神社は、かつては「長寸(なむら)神社」と呼ばれた神社で、神社の由緒によると“上古に属し、平安時代の延喜式神名帳(えんぎしきしんみょうちょう)に列座された”神社とされています。
「上古」とは、“大化の改新まで、あるいは大和時代(古墳時代・飛鳥時代)”の事とされますから、縁起は非常に古い神社のようです。

延喜式神名帳に列座とは、平安時代の927年にまとめられた『延喜式』の神名帳 (じんみょうちょう) に記載されている神社ということですので、格式の高い式内社ということになります。
また、苗村神社は“近郷三十三村にわたって氏子を有する神社”とされており、三十三村の規模は分らないものの近郷一帯の氏神様ということになりそうです。



苗村神社は道路を挟んで西本殿と東本殿があり、西本殿の御祭神は国狭槌命(くにのさづちのみこと)、東本殿の御祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)・素盞嗚尊(すさのおのみこと)とされています。
10世紀の中頃までは東本殿が主殿となっていたようですが、現在は西本殿が主殿になって祭事が行われているようです。



西本殿の鳥居の先に見えてくるのは、室町時代の1522年に建立されたとされる楼門です。
重要文化財に指定されており、この見事な楼門を見るだけでもここまで来た価値があったと思えてきます。





境内は、拝殿の後方に本殿・境内社八幡社本殿(室町時代、重要文化財)・十禅師社(室町時代、重要文化財)が並びます。
八幡社は応神天皇を祀るものと思われ、十禅師社は近江日吉大社から勧請したものと考えられています。



西本殿は平安時代の969年に造営されたのが縁起で、1217年に修造された後、その旧本殿に替わって、鎌倉時代の1308年に再建された建物と由緒に書かれています。
西本殿は国宝に指定されていますが、建物は塀の中にあり、詳しく見ることが出来ないのは神社の本殿にはよくある事で、拝所から参拝することになります。





拝所の屋根の下の柱には2体の猿が祀られていました。
「子守り猿」と「厄除け猿」と書かれてありましたが、これには比叡山延暦寺(天台宗)と大津の日吉大社からの影響があるのかもしれません。

 



西本殿の境内には神仏習合時代の名残りの不動堂があります。
特定の日しか仏像を見ることは出来ませんが、中には鎌倉時代の作で重要文化財に指定されている「木造不動明王立像」が祀られています。
不動明王像は、明治の廃仏毀釈の前までは、苗村神社に苗村宮庵室と呼ばれていた僧坊があり、その庵室の護摩堂本尊であったとされています。



道路を挟んだ東本殿は社伝によれば、垂仁天皇(第11代天皇、紀元前29年~西暦70年)の時代に当地方を開拓された御祖をお祀りしたのが創祀とされています。
東本殿の主神に祀られている「那牟羅彦神(なむらひこのかみ)」は、蒲生野に工芸技術・産業を伝え広められた地元の祖神とされることから、当初は「なむら」の名から「長寸(なむら)神社」と呼ばれていたそうです。
現在の「苗村(なむら)神社」になったのは1017年に御一条天皇から苗村の称号を頂いた頃からといわれています。



東本殿は、室町時代の建築とされ重要文化財に指定されている建物です。
西本堂と比べるとひっそりした感じがありますが、丹塗の朱色の残る森の中の神社でした。



苗村神社の東本殿がある森の中には、「東苗村古墳群」と呼ばれる6世紀後半(古墳時代後期、飛鳥時代の直前頃)の古墳群の散策ルートがありました。
竜王町には古墳や須恵器が数多く発見されており、渡来系の帰化人の存在もあったということで、独特の文化を築いていた地といえるようです。


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