僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

「文字模似言葉(もじもじことのは)」展~ボーダレス・ミュージアムNO-MA美術館~

2021-04-29 13:22:22 | アート・ライブ・読書
 ボーダレス・ミュージアムNO-MA美術館で開催されている「文字模似言葉(もじもじことのは)」展は、文字や言葉を、“視る読む聴く”をキーワードにした美術展となっています。
案内文には“人が生きるなかで不可分である文字やことばであるが、そこには単なる情報伝達の手段を超えて、言霊といわれるように、発し語り記す人間の思考や感情のみならず魂さえ宿すこともある。”とある。

NO-MAは一般的な解釈のアールブリュットの美術館と思われがちですが、名称にボーダレスと付いているように障がいのある方のみならず、活躍している芸術家の方の作品が混在しています。
いろいろな経歴を持つ作家たちが、一つのテーマを中心にして作品を展示する美術館という言い方がもっとも適しているのではないでしょうか。



昭和初期の町屋を活かした美術館の門を入るとまず最初に目に付くのは2階から吊るされた6mの布作品で、『わたしは歌う。』と染色されている。
作家は「木原真男」さんで、文字を扱った作品や絵画やオブジェなど空間を使ったインスタレーション作品が多いようです。
今回は《わたしは歌う。》と《思い出よ甦れ》の2作品が会期の前半と後半で入れ替わるということです。



フォントを自ら創り上げていくのは「鈴村恵太」さん。
高速道路の看板に書かれた地名のフォントに強い関心を持ち、パソコンになかったフォントを図形挿入機能を使って文字を製作しているといいます。
並べられた文字に意味はなさそうですが、独特のフォントが並べられた面白い作品です。《高速道路フォント》



「鈴村恵太」さんの高速道路のフォント好きは高じて、高速道路の看板を作成するに至っています。
一見普通の看板に見えますが、甲乙つけがたい恋に迷った先は失恋なのでしょうか。《迷甲乙の恋》



個性的な丸文字のひらがなで紙を埋め尽くしているのは「清水ちはる」さんの《心のままに》。
幼少期に母親を行っていた知育遊びがきっかけだといい、その行為は清水さんの気持が満たされるまで続けられ、このような作品が生まれていた時期は清水さんの気持が安定しないような頃だったという。



文字で埋め尽くすという行為は「八巻清治」さんの作品では、文様ともいってよい細かな文字として描かれます。
作品は密集して文字の書かれたメモを貼り合わせて創られるといい、それをセロハンテープでぐるぐる巻きにしており、文字で表現した作品(メモ)が新しい創造物へと昇華しているように思える。《無題》



今回の美術展で強烈な印象を受けた作家の一人が「元永定正」さんでした。
元永さんは、前衛美術家集団「具体美術協会」の中心メンバーとして活躍されていた方だといい、絵本作家としても活躍された方のようです。

文字は並べられているものの、それは言葉ではなく意味はない。
絵本としての《ちんちろきしし》を音声にした作品が会場に延々と流れていて、これが室内を独特の空間に変えています。

朗読?呻き?言霊?。
その時に身の回りにあった物を叩いたり鳴らしている音も混じる。
ノイズ・ミュージックかインプロヴィゼーションのような印象を受け、あるいは呪術的でもあり、会場には座りこんで目を閉じて音声作品を聞いている人がいたのも印象的でした。



もう一人(組)印象深かったのは「今井祝雄」さんと「林葵衣」さんのパフォーマンス《ことのはディスタンス2021》の記録映像でした。
透明ボードの向こうで1文字づつ読み上げてカードを貼っていく今井さん。こちら側では裏向きに貼られたボードにひたすらに口紅の痕跡を残す。
途中まで気が付きませんでしたが、貼られている文字は「日本国憲法 第9条 戦争の放棄」ではないかと思います。





林葵衣さんは「文字・言葉」の音を“唇拓”で表現して残すとされており、NO-MAの2階のガラス障子にも“唇拓”が残されていました。《ガラスに口紅》
紙粘土に残された“唇拓”の作品も展示。《声、朝、とり、ま》



パフォーマンス「ことのはディスタンス2021」を行われた今井祝雄さんは、今回の美術展のアート・ディレクターを務められており、パフォーマンス以外にも作品を出展されています。
《レターストーンズ/彩色されたW,O,R,D》では自然石を型どって加工した造形石にアルファベットを並べ、側面の凹部には数字が陰刻されている。



レターストーンズはアルファベットが鏡文字となっていて、作品は“版”としての機能がある。
今回の美術展は「文字 模似 言葉」とされており、文字には文字自体が持つ意味以上のものを見出そうとする作家たちの作品といった言い方も出来るのかと思います。



「牛島光太郎」さんの《意図的な偶然-24》と《意図的な偶然-30》は、日常生活で牛島が実際に拾ったモノやゆずりうけたモノと、文字を刺繍した布を組み合わせたシリーズと説明されている。
布に刺繍された物語は、ファンタジーか幻想小説のように書かれた奇妙な夢物語に感じられ、味わい深い言葉になっています。



NO-MA美術館で2019年に開催された「ときどき、日本とインドネシア」展でも展示されていた岩崎司さんの作品を2年ぶりに観ることが出来ました。
宗教的にも取れる詩歌と激しい感情が伝わる絵の組み合わせは、カタストロフィーの世界を描いたようにも感じます。(無題)

岩崎司さんは、魚屋を営み、39歳からは市議会議員として51歳まで議員の役職を務められたといいます。
その後、55歳で精神を病んで入院生活を送り、入院8年後の63歳からベットの上で絵を描き始めるようになり、78歳で他界するまで絵を描き続けたといいます。



NO-MAの美術展の魅力のひとつには、ボーダレスな企画の面白さという言い方が出来ると思います。
今回は、現代アートの作家の作品の方が印象に残りましたが、現代アートもアール・ブリュットもボーダレスにつながっていることが実感できる美術展でした。


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「入門!古代寺院-旧愛知郡編-」と廃寺遺跡と古墳~愛荘町立歴史文化博物館~

2021-04-24 06:16:16 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 6世紀の日本に公伝された仏教は、大和朝廷での物部氏と蘇我氏の崇仏論争を経て、飛鳥寺(法興寺)の造営に至り、その後日本の各地で仏教寺院が造営されるようになったといいます。
近江には大和・河内についで古代寺院が多く存在したといい、飛鳥時代には65ヶ所の寺院があったとされ、その中で旧愛知郡では9カ所の古代寺院が確認されているようです。

愛荘町立歴史文化博物館で開催されている「入門!古代寺院」展では「飛鳥寺」「百済大寺(吉備池廃寺)」「山田寺跡(桜井市)」「川原寺跡(高市郡)」の出土遺物。
滋賀県の湖西地方の古代寺院「南志賀廃寺」「穴田廃寺」「崇福寺跡」からの出土遺物。および旧愛知郡の9カ寺の出土遺物が展示され、大和と滋賀の2地域での古代寺院の遺物が公開されています。



旧愛知郡は、現在の愛荘町を中心とした地域で、かつての郡域には彦根市の一部・東近江市の一部・豊郷町の一部を含んでいたとされます。
旧愛知郡9カ寺とは、「畑田廃寺」「目加田廃寺」「軽野塔ノ塚廃寺」「野々目廃寺」「妙園寺廃寺」「小八木廃寺」「屋中寺跡・下岡部廃寺」「善光寺跡」。
その9カ寺から出土した白鳳時代の木簡や軒丸瓦や平瓦、白磁器などが展示され、特に現在の東近江市に属する地域には、渡来系氏族の依知秦氏と関係深い寺院、または依知秦氏の痕跡がみられるとされています。



愛荘町立歴史文化博物館は来場者が少なく気兼ねなく見られるのと、地域独特の歴史文化の企画展を開催されますので何度か訪れています。
すぐ横には金剛輪寺の参道と総門があり、博物館の裏側には山を借景とした日本庭園があることから、居心地良く感じる博物館です。



展示されているなかで興味深いのは「塼仏」や「塑像片」など遺物や「風鐸」・「泥塔」など多岐に及ぶ。
変わったものでは「皇朝十二銭」という硬貨もあれば「獣面文鬼板」なんてものまである。
ただし変わったものは大和や湖西に多く、旧愛知郡9カ寺では瓦類や墨書土器・白磁器が多かったように思います。

近江の古代寺院は、百済再興のため百済との連合軍で唐・新羅連合軍と戦って敗れた「白村江の戦い(663年)」の後に建てられたものが多いとされます。
そこには天智天皇は戦いに敗れた百済の人に対して近江を生活の場として提供したとされることも影響しているのでしょう。
一方で、古墳時代からこの地域を治めていた渡来系氏族の依知秦氏に大陸の新しい技術をもたらしたとの説もあるようです。

愛荘町には今回の博物展で紹介されていた旧愛知郡の9カ寺のひとつ「畑田廃寺遺跡」が残っているといいますので古代寺院の痕跡を探してみることにします。
「畑田廃寺」は白鳳時代に創建し、平安時代まで繁栄していたとされる寺院で「依知秦氏」の氏寺とも考えられているようです。



畑田集落へ入ったものの、田園地帯を探せども探せども遺跡は見つからない。
地元の人に場所を教えてもらいましたが、聞いた時に不思議そうにされていたのもそのはず、廃寺跡には地蔵堂の横に石碑と礎石が置かれているのみでした。

畑田廃寺の発掘調査では、南北約十八mの金堂跡、東西約二十四m羽状の細殿、鋳造工房跡、寺域を示す大きな溝跡が発見されたそうですが、集落と広い田園地帯だけが広がっている。
ここに大きな古代寺院があったとは想像もつきませんが、そこが古代の遺構の面白いところでもあります。





さて、畑田廃寺のある畑田集落の隣村である勝堂集落には渡来系豪族「依智泰氏」一族の墓ではないかと考えられている「勝堂古墳群」があります。
「勝堂古墳群」は江戸時代の文献に48基の古墳があったと記されており、現在は6基の古墳が残されているようです。

古墳は仏教公伝とともに小型化していき、古代寺院の築造へと時代が変わっていったとされますが、古墳の数の多さから古墳時代の愛知郡には渡来系豪族などが権勢を誇っていたと考えられています。
「入門!古代寺院-旧愛知郡編-」では古代寺院の遺跡が紹介されていましたが、その前時代の古墳時代の遺跡を見ようということで、まずは「行者塚古墳」へと向かいました。



「行者塚古墳」は集落の家の間にあり、一辺23m、高さ5.3mの方形状となっていますが、後世に道路などで削られており、築造当初は30m以上の円墳だった可能性もあると案内板に書かれてあります。
墳頂部に行者堂が建造されたのは後世のことだとされ、そのため「行者塚古墳」と呼ばれるようになったともされています。



この古墳の珍しいところは、車の走行も出来そうにない細い道に民家が並び、その間のむしろ隙間と言っていいような場所にあることでしょう。
全景を撮ろうとすると民家の庭や玄関の中に入ってしまいそうになるような場所です。



古墳の前には“大峰山 行者堂”の石碑が立ち、墳頂部には行者堂の遺構が残ります。
せっかくなので石段を登って行者堂跡を見ることにしましたが、なぜここに大峰山ゆかりの行者堂があったのか不思議に感じてしまいます。



行者塚古墳のすぐ近くには「朝日塚(山上塚)古墳」がありましたが、こちらは昭和29年の道路工事の際に土取りされて、わずかに墳丘を残すのみとなっています。
土取りの際には15点の須恵器が出土したというこの古墳は、6世紀後半に築造された直径20m級の円墳だったと考えられているようです。



古墳の外周部には地蔵さんの祠があり、中央部近くには祠があり、清酒が奉じられています。
木製の灯籠も真新しく、地域で大事に守っておられるのが伝わってきます。



現在6基の古墳だけが残存している「勝堂古墳群」の全ては回れませんでしたが、次は勝堂集落内にある「弁天塚古墳」と「赤塚古墳」に立ち寄ります。
「弁天塚古墳」と「赤塚古墳」の2つの古墳は目と鼻の先に隣接しており、6世紀後半に築造されたという「弁天塚古墳」は直径約20m・高さ4.3mの円墳とされます。

古墳の上には祠が祀られているが、内部の構造は未調査のため不明だということです。
古墳を巡っていると、ほとんど原型をとどめていない古墳がある反面、未調査の古墳がかなりあるのも興味深く感じます。



「赤塚古墳」も6世紀後半の築造されたとされ、直径約32m・高さ5.2mの円墳だといいます。
両袖式横穴式石室の羨道の長さは 2.4m 以上、幅約0.9m。玄室の長さは約4mで幅約2m、高さ1.6m 以上あるとされています。



「赤塚古墳」には石室の開口部があるので回り込んでみる。
この古墳には以前にも訪れたことがあり、開口部から羨道を覗き込んでみたが、羨道は土に埋もれており、内部の様子を見ることは出来なくなっています。



勝堂古墳群は6世紀後半とされる古墳が多く、古墳時代後期に古墳が小型化して円墳の古墳群が造られるようになった時代に築造された古墳が多いようです。
また、旧愛知郡は「依智泰氏」が勢力を誇った地とされていて、秦氏と関係の深い古墳が多いとされます。

滋賀県内には古墳が集中している地域が何ヶ所かあり、その地域ごとに有力な豪族の一族が存在していたことになります。
当時の土着人と渡来人との関係がどのようなものであったか、興味深いところです。


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特別展「神業ニッポン 明治のやきもの-幻の横浜焼・東京焼-」~滋賀県立陶芸の森 陶芸館~

2021-04-21 17:50:50 | アート・ライブ・読書
 1859年の横浜港が開港して、日本の近代化が始まると外国人や海外への輸出向けの陶芸関係の業者が集まり、「横浜焼・東京焼」と呼ばれる陶芸品が販売されるようになったようです。
「横浜焼・東京焼」は、絵付けや装飾を凝らした海外向けの華やかな陶磁器だといわれますが、輸出向けという性質上、日本に現存する作品が少ないとされます。

また、「横浜焼・東京焼」はブームが去ったことや時代の流れもあって姿を消してしまい、「幻の陶磁器」とも呼ばれています。
「神業ニッポン 明治のやきもの 幻の横浜焼・東京焼展」ではコレクター田邊哲人氏のコレクションや現存する作品を精選した特別展で、横浜・兵庫・茨城・岐阜・信楽(滋賀)を巡回しています。



「信楽陶芸の森」は陶芸専門の美術館「陶芸館」、信楽焼のショップ&ギャラリーの「信楽産業展示館」、製作スタジオ「創作研修館」や広大な公園を有する施設で、今回の美術展は「陶芸館」で開催されています。
山に囲まれた信楽という土地柄上、「陶芸館」までは急な石段を登っていくことになりますが、陶芸の森の各所に陶芸作品が屋外展示されているので、楽しみながら急坂を登るといった場所です。

陶芸の森の最上部に「陶芸館」はあり、建物が見えてくると同時に巨大な手の陶芸作品が目に入ってきます。
巨大な手は「天地(あめつち)のことば」という作品で、作者の吉村敏治さんは独創的な器も造られますが、オブジエ作品も数多く造られている方だそうです。



「陶芸館」の前にはアルゼンチンの女性陶芸家 ヴィルマ・ヴィラバーデさんの「JUMP」が展示されており、その個性的な作品の面白さにひかれます。
主に人物像の作品が多いようですが、便器を衣服のように着用した作品や手洗いと顔が合体していたり、乳房の部分だけが手洗いに浮いていたりと独創的な作品を造られる作家のようです。



入口には記念撮影コーナーが設けられており、中ではコロナ対策も行われていたものの、展示を見ていた間に来場者は当方も含めて2人だけ。
監視員の方と同数ですが、これだけの特別展にしては少なすぎると思いつつも、ゆっくりと見られる利点の方が大きかった。



特別展は下記の構成となっており、見たかったのは宮川香山の作品群になります。
以前に近江八幡市のボーダレス・アートミュジアムNO-MAで開催された「Co-LAB #1,2,3」で見た桝本佳子さんの「高浮彫」作品に衝撃を受けたこと。
その「高浮彫」のルーツともいえる宮川香山作品を見る機会が今回出来たことで楽しみにしていた特別展です。
特別展は「横浜焼・東京焼」の多岐に渡る作品が展示されていますが、2作品を除いて撮影禁止ですのでリーフレットの裏面がそのダイジェストです。

序章 ~横浜開港~「Made in Japan」世界へ発信 
第Ⅰ章 ~万国博覧会デビュー~ 東京錦窯の誕生
第Ⅱ章 ~宮川香山と井村彦次郎~ 横浜焼・横浜絵付のはじまり
第Ⅲ章 ~輸出陶磁器の隆盛~ 東京焼・東京絵付の精華
第Ⅳ章 ~驚異の横浜絵付~ 陶磁器商、陶磁画工の台頭  



「横浜焼・東京焼」を含めた日本の美術工芸品は、1867年のパリ万博や1873年のウィーン万博に出展されてジャポニズム・ブームを巻き起こし、西洋の芸術家に影響を与えたといいます。
1876年のフィラデルフィア万国博覧会に出展された宮川香山作品は銅牌を受章したといい、高浮彫の宮川香山(眞葛焼)は絶賛されたといいます。

西洋でジャポニズム・ブームが終焉を迎え、アール・ヌーボーの時代に開催された1900年のパリ万博でも宮川香山は金牌を受章したといいますので、ブームを越えて評価された作家ということになります。
高浮彫の宮川香山作品は、“実用性のない飾られるためだけに作られた器”といえますが、器に立体的な日本的な美を折り込んだ作品の美しさには惚れ惚れとしてしまいます。



「高浮彫桜鷺足付大花瓶」は撮影が可能な2つの作品のうちの一つです。
奇想の造形とまで呼ばれるこの花瓶の華やかな装飾の中心にはシラサギが貼り付けられています。



壺の側面には2羽の小鳥。
スズメのようでスズメでない。何の鳥なんでしょうね。



縦横に伸びているのは桜の枝。所々に咲いている花は綺麗なピンク色をしていますので河津桜かも?
裏側から見ると空間が増えて、また趣が違います。



壺の下部を見ると4本の鷺足が付いたにぎやかな装飾になっています。
瓢箪型の装飾には「眞葛香山」の銘が読み取れますね。



香山の高浮彫の作品には「高浮彫長命茸採取大花瓶」が興味深く、岸壁の上から縄で吊るされて茸を採取する人が数人貼り付けられており、横には瀑布というべき大きな滝が流れ落ちています。
ただ、高浮彫の作品の製作には完成まで何年もかかってしまうことから、香山は清朝の磁器を研究し、「釉下彩(ゆうかさい)」という技法を使った作品に移行していったようです。

さて、「横浜焼・東京焼」には花瓶の他にも茶器セットがありますが、これは西洋の客を意識したティーポットやカップのセットになります。
様式としては西洋スタイルのものとはいえ、描かれた絵柄は日本的なものが多いようです。



花瓶も茶器も鳥を描かれたものが多く、他のものとしては忠臣蔵の場面を描いたシリーズの皿や江戸の町の様子を描いたものも数多くありました。
下は魚と蛸を描いたポットで、蛸は西洋で「悪魔の魚」として忌み嫌われていると聞きますが、どういう反応だったのでしょうか。



茶碗の中には沢蟹の姿。
一概に「横浜焼・東京焼」といっても作品は多岐に渡り、表現方法の違いや変化がよく分かる構成になっている特別展でした。
「横浜焼・東京焼」はほぼ消滅したとされる中で、今も高浮彫の手法に影響を受けた作家が作品を造り続けられているのはそれだけ魅力があったということなのでしょう。



最後に今回の美術展が開催された「陶芸館」から陶芸の森を見おろす。
駐車場まで随分と遠そうだ。




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「早川鉄平さんの切り絵障子」と「大通寺 馬酔木展」と「長浜曳山まつり」~長浜市大通寺~

2021-04-18 08:08:08 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 昨年はコロナ渦によって中止された「長浜曳山まつり」でしたが、今年は規模を縮小して無事開催されました。
「長浜曳山まつり」は、天下人へと出世した羽柴(豊臣)秀吉が男子誕生を祝い、出世の足掛かりとなった長浜の町民にふるまった砂金をもとに各町が曳山をつくり、八幡神社で引き回したのが起源とされます。

歌舞伎が演じられるようになったのは江戸中期からとされ、ユネスコ無形文化遺産に登録されている祭りですが、中止されたのは大戦中と戦後の混乱期以来71年ぶりだったといいます。
それだけ新型コロナウイルスの感染は、未曽有宇の疫病で危機的な状況の中に身を置いているということになります。
残念ながら今年の曳山を見ることは出来なかったのですが、ながはま御坊表参道の大通寺前で準備中の「諫皷山(かんこざん)」の姿だけは見ることが叶いました。



曳山の保護用に被せていたブルーシートを取り外し、子ども歌舞伎を始めるための準備中といったところでしょうか。
八幡神社の境内や御旅所で見る曳山とは随分と雰囲気が違って新鮮な感じがします。



曳山のこうほうにある大門は「大通寺」の門で、大通寺では「早川鉄兵さんの切り絵障子作品の展示」と「大通寺 馬酔木展」が開催されており、曳山まつりの終わった街へと出向きました。
早川鉄兵さんの切り絵障子は以前にも大通寺で公開されていましたが、本堂の障子18面に表現された切り絵は見事というほかなく、自然と仏を描いた美しい光景にうっとりとしてしまいます。



「本堂・阿弥陀堂」は江戸初期に伏見城の殿舎を移築したものだといい、重要文化財の指定を受けている建物で、
山門付近から見ても大きな本堂の本体部の正面の障子すべてが切り絵障子になっているのが分かります。
さっそく本堂にあがらせてもらい、まずは座って阿弥陀さまに手を合わせる。



次に振り返って、早川さんの切り絵障子を見る。
須弥壇の阿弥陀さまと切り絵の阿弥陀さまが向き合うようにして立ち、両方の阿弥陀さまに挟まれるようにして座ることになる。
作品を製作された早川さんは、大阪でカメラマンとして活躍した後、米原市の山間集落に移住し、自然や動物をテーマに制作活動を行っている方です。



蓮の花が咲く池の後方には須弥山。その後方に後光に照らされた阿弥陀如来。
狼や鶴も阿弥陀如来の方へ向かっている。



左側からは象や虎、雉や兎も須弥山へと歩いて行く。
象の体の部分にも鳥や小動物が描かれていますね。



右側からは鹿や猿や鷺。一番端から須弥山に向かっていくのは鳳凰でしょうか。
実際には存在しない生き物までが切り絵障子には登場します。



本堂を出て渡り廊下へ行くと、その先では「馬酔木展」が開催されており、「大広間(附玄関)」「含山軒」「蘭亭 」や庭園のあるエリアへと向かうことになる。
「大通寺広間」は伏見城にあったときには公式の対面所(謁見の間)として使用されていたとされ、大床の獅子の絵は、中央部分の空間は上段中央に然るべき人物が座ることを想定しているという。



帳台構えも豪奢なものとなっており、人物画が描かれている。
「大通寺広間」は国の重要文化財となっているが、絵画を描いた作者は不明であるという。



大通寺は江戸時代の中期から後期にかけて彦根藩井伊家との関係を深めていったとされ、「玄関」には井伊直弼の七女で大通寺住職に嫁いだ砂千代の所有の籠が置かれてありました。
砂千代は1857年に大通寺の養女となり、明治となった1872年に大通寺第10代住職と結婚したとされます。



大通寺には砂千代の調度品が61件現存するといい、蒔絵を施した調度品や文房具・遊戯具・雛道具・飲食具・衣装・武具なとがあるとされます。
面白いのは「犬張子」という紙製の蓋付き箱で、守り札や化粧道具を納めて安産や幼児の魔除けとして寝所や産室に置かれたものだとされます。



大通寺は真宗大谷派(本山は東本願寺)の寺院ですから親鸞聖人を宗祖としており、寺院には浄土真宗中興の祖である蓮如上人の「蓮如上人御影道中 輿」があります。
「蓮如上人御影道中」とは蓮如上人の没後、福井県の吉崎御坊で勤められている御忌法要に蓮如上人の御影を東本願寺と吉崎御坊を行き来する仏事で300年以上続いているとされます。

道中は「教導」「供奉人」「宰領」の方々が約240㌔の道程を歩くといい、吉崎御坊から東本願寺への御上洛の際には大通寺に立ち寄られるそうです。
この輿は、かつて蓮如上人の御影を乗せて道中を往来したものといわれています。



玄関、本堂・阿弥陀堂、大広間、蘭亭・含山軒のあるエリアは、内部はこんなに広かったのかと驚くほど部屋の数が多く、それぞれ床の間や襖絵のある間となっている。
また、見応えのある庭園がいくつか設えられており、国の名勝となっている「大通寺含山軒および蘭亭庭園」があります。
「含山軒」へいくまでにも小さな庭があり、コンパクトながらも雰囲気がいい。



「含山軒庭園」は江戸中期に作られたという枯山水の庭園で、伊吹山を借景に取り入れた庭とされますが、土砂降りの雨の中では伊吹山は拝めず。
しかも枯山水庭園のはずが、降り続く雨のため池泉回遊式庭園のようになっているのもちょっと面白い。



名勝に指定されているもう一つの庭園は「蘭亭庭園」で、枯池(雨で池になっていますが...)・築山・切石橋・枯滝石組の庭園となっています。
石組が豪快に組まれていますが、こうしてみると雨の庭園もなかなか見応えがあります。





今回の参拝は「馬酔木展」を見ることでしたが、展示期間終了前ということもあって花期を逃してしまいました。
わずかに花の付いた馬酔木がありましたので、まだ元気のありそうな花を撮ってみます。



大通寺には何度も参拝していますが、奥のエリアに入ったのは随分と久しぶりで、入った記憶はあるけれど中の様子の記憶はないといった感じです。
今回は「大通寺 馬酔木展」と「早川鉄平さんの切り絵障子」が目的でしたが、広大な間が続く建築物や多数の障壁画などの文化財・庭園を有する大寺院だったことには驚くほかありませんでした。
浄土真宗寺院の凄さを感じる寺院です。

 
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「井之口のスギ」「福田寺の蓮如松とイチョウ」~米原市の巨樹~

2021-04-16 04:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 井之口のスギ

米原市の井之口集落は姉川の南に位置する集落で大きな化学工場があるが、基本は田園が広がる農村地帯といえます。
工場を目の前にした姉川の岸の堤防下に「井之口のスギ」はあり、ひっそりと威風堂々とした姿を構えています。

集落の外れにある巨樹ですから、このスギがこの集落の野神さんかと思っていたのですが、実際はこの集落の野神さんは別の場所にあり、そこには祠が祀られているのだという。
スギの横は今は工場の建物が建っていますが、元は田圃だったのでしょうから、農作業の際の休憩場所だったのかもしれません。



スギは地上すぐに2本の幹に分岐しており、主幹が高く伸びている。
合体樹のような分かれ方で、幹周は6.7m・樹高20mで推定樹齢は300年以上だとされています。



裏側から眺めるスギは迫力がありますが、この場に巨樹がポツンとあるのには違和感もあります。
目の前には大きな工場と姉川、田園地帯の向こうには新興住宅地もある。



樹の下には折れた大きな枝が落ちている。
これが頭上から落ちてきたら大ケガをしてしまいますね。



ルッチプラザのお地蔵さん

米原市の長岡にコンサートホールや図書館・福祉センターの総合型施設「米原市民交流プラザ(ルッチプラザ)」があり、トイレ休憩に立ち寄りました。
おやっと思ったのは建物の横に祠と樹がある場所がありましたので、何やろと思い見に行きました。



長岡の野神さんはルッチプラザの裏山の中腹にあるといいますから、野神さんではありませんが、なかなかの存在感があります。
分かれ道にあってお地蔵さんを祀る祠がありますから、元は道祖神として祀られていたのかもしれません。





福田寺の蓮如松とイチョウ

米原市は平成の市町村合併により、坂田郡の山東町・伊吹町・米原町・近江町が合併して「米原市」が誕生しています。
米原市のウェブサイトには、山東町は「水に恵まれ鴨と蛍のまち」、伊吹町は「伊吹山の山麓に広がるまち」、米原町は「近畿・東海・北陸を結ぶ交通の要衝で宿場町として栄えた」とあります。

次に向かった近江町は「古代豪族息長氏の繁栄や山内一豊の妻千代など、数々の歴史が残る」とあり、長沢にある「布施山 福田寺」へと参拝しました。
福田寺は、天武天皇の勅願によって、近江の名族・息長宿祢王が645年に建立したのが起源とされます。



福田寺は法相宗の寺院として始まり、天台宗に宗旨を変えた後、鎌倉時代に浄土真宗に改められたといい、室町時代には真宗中興の祖である蓮如が3か年にわたって滞在されたと伝わります。
境内にある「蓮如松」は、蓮如が福田寺に滞在していた時にお手植えされたものと伝わり、現在は何代目かの松になるようですが、幅広く這うように枝を広げています。



織田信長と戦った元亀・天正の法難では、住職・覚芸が福田寺門徒四千五百余人と湖国十ヶ寺の総統領とし同士二万数千人を指揮して戦ったといいます。
この蓮如松の先祖はそんな戦いの様子を見てきたのかもしれません。



「蓮如松」の根元には先代か先々代か分かりませんが、かつての「蓮如松」の株が遺構のように残されています。
この福田寺は別称「長沢御坊」と呼ばれ、五本筋塀門といい御殿といい格式の高さを感じるのですが、それもそのはずで江戸時代の住職・本覚は大老・井伊直弼の従兄弟だそうです。
また本覚の後室は、摂政関白で最後の関白である二条斉敬の妹・かねこ(明治天皇の皇后の従姉妹)だといい、明治十一年には明治天皇行幸の折、福田寺に立ち寄られたとされます。



境内には「蓮如松」と共に幹周5mを越えるイチョウの巨樹もあります。
イチョウは落葉期で寂しい状態ですが、葉を茂らせる頃や紅葉の頃には見応えのある巨樹となるでしょう。



滋賀県には何でこんな所にと思うような場所に立派な神社や仏閣があり、驚かされることが多々あります。
日本海と都との交通の要所であったことや、古代から豪族が栄え、戦国時代には「近江を制するものは天下を制す」とまで言われた反面、非常に信仰の篤かった地ということになるのでしょう。


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「西山八幡神社の杉並木」と「西山の欅(にしやまのけやき)」~米原市の巨樹~

2021-04-13 17:51:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 西山八幡神社のスギ並木

巨樹を探して主に湖北地方を巡っている間に何本ものスギに出会いましたが、大きく分けるとスギによって個性的な姿をしている樹と太く真っすぐに伸びているスギがあるようです。
米原市西山にある八幡神社には「八幡神社の杉並木」と呼ばれるスギの巨樹が10本以上林立しているといいます。

西山集落はちょうど三島池の南東にある源氏山(標高221m)の麓にあり、山を背にして八幡神社が祀られています。
八幡神社の拝殿・本殿は急な石段の上にありますが、その石段の両脇にスギの巨樹が並び、「並木道」という柔らかな言葉では表しきれない荘厳な巨樹群となっていました。



集落内は農村部によくある曲がりくねった細い道が入り組み、慣れていないと通れない道が多く、少し離れた場所に車を停めて歩いていくことにしました。
境内に入るとまずは手水舎の横に立つケヤキ?の樹に迎えられます。



驚くのは石段の横に林立するスギの見事さでしょうか。
1本1本もそれぞれサイズがあるのですが、これだけの本数が並ぶと圧倒されてしまいます。



案内板には2種類の書き方がされており、滋賀県の指定自然記念物には“幹周3m以上の大木が全部で10本、樹齢300年以上”とある。
旧山東町(今の米原市)の指定天然記念物には“17本(指定)の杉並木、樹齢400年以上”とあります。



またこの杉並木には別称として「豊公薩摩大杉」の名があり、秀吉が長浜城主の頃から武神であるこの神社を崇敬していて、後に大阪城主になってから安産祈願をしたところ秀頼が生まれたといいます。
秀吉はそのお礼として薩摩国よりスギの苗木を取り寄せて植えたと伝えられているそうです。



石段の下にあるスギには注連縄が巻かれており、この樹がこの杉並木を代表する御神木なのかと思われます。
幹周は5m弱といった感じですが、もっとも手前にあり神社の顔ともいうべき巨樹です。



スギの中でもっとも大きいのは二又のスギで幹周は6m近くありそうです。
スギの巨木が林立する神社は他にもあるとはいえ、これだけのサイズのスギが並木道のように並ぶのは見た事がありません。



八幡神社の御祭神は應神天皇で、配祀神は玉依姫命と神功皇后を祀り、創祀は延暦元年(782年)で一書には嘉禎2年(1236年)ともされている。
本殿から下り道を降りたところには「西山観音堂」があり、平安時代後期の作と伝わる「十一面観音立像(当初は聖観音といわれている)」が祀られているという。
残念ながら厨子は閉まっていたのでその姿を伺うことは出来ませんでしたが、写真で見ると穏やかな表情をされた美しい観音さまです。



石段の上から下を眺めるとまさに巨樹が林立する杉並木に圧倒される。
スギに気を取られて降りていると、急な石段に足を滑らしそうになりますね。



八幡神社には一之鳥居と二之鳥居があって、集落に面した一之鳥居から参道を歩いて行くのですが、一之鳥居の前には「天然記念物 八幡神社杉並木」の石碑がありました。
石碑には昭和13年3月と彫られてありましたが、今は米原市指定天然記念物となっているようです。

西山の欅(ケヤキ)

同じ西山集落には「西山の欅(ケヤキ)」という古木があるといいますので、集落の中を移動して向かいます。
ケヤキのある場所には祠が祀られており、一角には古墳「王街道塚古墳」の石碑が立ちます。
米原市も古墳の多い地域ですが、この王街道塚古墳については情報を得ることが出来ませんでした。



古木感の漂う西山のケヤキには、幹の中央部大きな空洞があり、痛みもありますが、落葉はしているものの上部には小枝が生えている。
幹周は7.6mで樹高11m、推定樹齢は400年といいますからかなりの古木です。



このケヤキも八幡神社の杉並木と同様に米原市指定天然記念物にしていされているといいますから、西山集落は巨樹の多い村といえます。
見る角度によって見え方は全く違い、周辺をグルグルと回って樹を眺めてみる。





巨樹の中には事情があって伐採されてしまったり、枝を伐ってしまったりされているものもありますが、残せる樹は残していって欲しいと思います。
今、新しい樹を植えても、巨樹に育つのは25世紀とかの遥か未來に可能性を残すということになりますから。



米原市には「清滝のイブキ」といい、この「西山のケヤキ」といい異形の形をした巨樹が残されています。
まだ見ぬ巨樹も多いようであり、再び米原を巡ってみたいと思います。


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「蓮花寺の一向杉」と「中山道番場宿」「久禮の一里塚跡」~米原市番場~

2021-04-10 12:53:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 米原市番場にある「八葉山 蓮花寺」には樹齢700年の「一向杉」という巨樹があると聞き、中山道・番場宿へと向かいました。
「蓮花寺」は、飛鳥時代に聖徳太子により寺号を「法隆寺」と称して建立されたといい、釈迦如来と来迎の阿弥陀如来の二尊を御本尊として祀るとされます。

「法隆寺」は1276年に落雷によって焼失したとされますが、1284年に一向上人に帰依する鎌刃城主土肥元頼によって堂宇を再建。
再興の際には「法隆寺」から「八葉山 蓮華寺」と号して、時宗一向派大本山の念仏道場として隆盛を極めたとされます。(1947年以降は浄土宗に改宗)



「蓮華寺」は歴代天皇の帰依が厚く、花園天皇より勅願寺院としての勅許を賜り、寺門として菊の紋を下賜されたといいます。
そのため寺院には勅使門(御中雀門)には「十六葉八重表菊紋」と「五七桐」となっており、皇室とのつながりが見て取れる。





鐘楼に吊るされた梵鐘(銅鐘)は弘安7年(1284年)の銘があるといい、畜能・畜生の2僧の勧請によって完成したとされます。
畜能・畜生とは凄い名前の僧がいたものだと驚きますが、梵鐘(銅鐘)は国の重要文化財の指定を受けています。



本堂を前にした境内には「聖徳太子 叡願の紅梅」や桜・百日紅などの古木が多く、花の季節にはさぞや華やかな境内になるのかと思います。
寺院に人は不在でしたので本堂内には入れませんでしたが、堂内には鎌倉期の「釈迦如来立像」と「阿弥陀如来立像」が京都の二尊院のように並んで祀られているようです。



本堂には、後水尾天皇御宸筆(元禄11年(1698年)の寺号額が掛けられ、その下には勅使門と同様に「十六菊紋」と「五七桐」が掛けられています。
皇室ゆかりの勅願寺としての趣きが感じられますが、「蓮華寺」には血に塗られた歴史もあるようです。



時は元弘3年(1333年)鎌倉時代最末期の事。
京都六波羅探題を攻め落とされた六波羅探題北方の北条仲時は、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたが、南朝軍の重囲に陥って蓮華寺で自刃したといいます。

自刃したのは北条仲時以下従士432名で、本堂前庭でのことだったといいます。
前庭からは432名の鮮血が滴り流れて川の如しとされ、「血の川」となったと伝えられているようです。



寺院には北条仲時と従士たちの五輪塔が祀られているといい、過去帳は「紙本墨書陸波羅南北過去帳」として重要文化財にしていされて宝物館に収蔵されているといいます。
本堂の横には蓮華寺の再建を果たした鎌刃城主 土肥元頼の墓とされる石造宝篋印塔があります。
ただし、銘文等は確認できず、時代ももう少し新しいものかも知れないということで、「伝」の域は出ないとの説もあるようです。



さて、前段が長くなってしまいましたが、「蓮花寺の一向杉」へと向かいます。
本堂の裏へ回り込むとすぐにその姿が見えてきますが、何とも荒々しい姿をしたスギです。



見方によっては両手を広げて行く手を阻んでいるようにも、迎え入れようとしている姿にも見えます。
幹周は約5.5m、樹高は30.7mで樹齢はなんと推定700年。
1287年に亡くなられた一向俊聖上人を荼毘に付した地にスギを植樹したものだと伝えられているといいます。



枝は何本か伸びていますが、そのうちの1本は分岐した後、上方へと伸びこの樹の個性となっています。
まさに右腕を突き上げているかのような力強さです。



樹の日当たりの悪い方へ回り込むと、幹に苔が生えてまた一味違った印象を受けることになります。
巨樹の面白い所は、各角度でいろいろな表情を見せてくれますので、いつも周囲を可能な限りグルグルと回ることになる。





一向杉の横には聞きなれぬ「貝多羅樹(バイタラジュ)」の樹がありました。
貝多羅樹は印度の香木で春に花が咲き、秋には紅色の実が鈴なりに付くとされています。





「蓮花寺の一向杉」と「貝多羅樹」の向かい側には「忠太郎地蔵尊」が祀られていて、番場忠太郎ゆかりの地蔵尊となっていました。
番場忠太郎は名前は聞くもののよく分からない人でしたが、戯曲『瞼の母』の登場人物だったようで、江州の番場宿生まれ、やくざ渡世の忠太郎が5歳で分かれた母を探して旅をして云々ということらしい。

話は変わりますが、最近は旧街道沿いの宿場町を通ると取り合えず周囲を探してみたりします。
道中には「番場宿碑」がありますが、名神高速道路の雑音以外は静かな街並みでかつての宿場町の面影はあまりありません。




歌川広重「木曽海道六拾九次之内 畨場」

「番場宿碑」から国道に向かって移動すると、「久禮(くれ)の一里塚跡」があります。
中山道の117番目の一里塚は、江戸日本橋から117里、京都三条まで19里。
今ならここから京都三条までは車で一時間ほどですが、当時の旅人はこの一里塚で一息入れて体を休めたのでしょう。



「蓮花寺」は一向杉の他にも見所が多く、あれもこれもと見て回ることになりました。
次回の参拝は本堂が開いていて花盛りの頃。随分と印象が変わることでしょう。


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巨樹を巡る!「清滝のイブキ(柏槇)」~米原市清滝と柏原宿~

2021-04-07 05:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 米原市の清滝という集落に「清滝のイブキ」と呼ばれる柏槇(ビャクシン)の古木があるといいます。
清滝には京極家の菩提寺である「清瀧寺徳源院」があり、池泉回遊式庭園が紅葉の名所となっていると聞きます。

京極家は、鎌倉時代に近江を治めていた近江源氏こと佐々木氏の家系で、信綱の時代には4人の息子(六角氏・京極氏・高島氏・大原氏 )に近江の国を分けて治めさせたといいます。
六角・高島・大原の3氏はその後滅びたものの、京極氏は戦国時代~江戸時代を生き抜き、明治維新後は華族に列せられていたといいます。



「清瀧寺徳源院」は新型コロナウィルス感染防止のため拝観停止となっていますが、駐車場をお借りして清滝の集落を歩き「清滝のイブキ」を探します。
「清滝のイブキ」には京極氏にまつわる伝承があり、“京極氏が伊吹山から一株の苗木を投げ、その飛んだところを墳墓にしようとしたのが当地に飛んできて根付き、以後ここを氏の本拠とした”とある。



清滝の集落は、独立峰の清滝山(標高439m)の麓にあり、平野を挟んで伊吹山がかなり近くに望める位置にあります。
「清滝のイブキ」のある場所は、かつての勝願寺跡地ということであったが、路地にある民家と庭続きのような場所にあり「清滝のイブキ」の根の場所には小さな祠が祀られている。



「清滝のイブキ」は樹高が10mほどと高さはさほどではないものの、幹周4.9mの幹は空洞になって白骨化した部分も見られ、くねるように枝が何本も伸びている姿に魅了される。
幹の痛みとは裏腹に、分岐した横枝からは広がる樹冠はこんもりと大きく形成され、樹勢の良さはいまだ健在といえると思います。





このイブキには樹齢700年とされる老樹ゆえの枯れの美しさと樹冠の見事さが両立しており、イブキ(柏槇)としては県内最大級の巨樹とされています。
また、その荒々しい姿からは名前が示す通り「伊吹の神」を思わせるものであり、ヤマトタケルを返り討ちにしたという神話の世界すら連想させてくれます。





降りしきる雨の中、清滝までやってきた甲斐があったと納得するだけの価値のある巨樹だったと思います。
逆に言えば、雨の中で余計に神秘性が増して見えたとも言え、やっと対面できた事に感謝します。



最近は出先に宿場町があると取り合えず街道を通ってみることにしていますが、清滝の集落から国道へ戻る途中には中山道六十九次の宿場町「柏原宿」があり、立ち寄ります。
「柏原宿」は中山道67宿の一つで江戸から数えて60番目の宿場となり、宿場には344軒の家や本陣・脇本陣と旅籠屋22軒がある規模の大きな宿場宿だったといいます。



街道には「柏原一里塚」が復元されており、江戸時代の面影をわずかに残しています。
一里塚は1里(3.9㌔)おきに設けられた塚で、かつての「柏原一里塚」は北塚と南塚が街道を挟んで造られていたといいます。



一里塚は旅人の目印となるものであり、駕籠・馬の乗り賃銭の目安や旅人の休憩場所として造られていたものだとされます。
塚に植えられた榎の木は、旅人が木陰で休めることや根を張ることで塚の崩壊を防ぐ役割があったといいます。
榎はまだか細いため、日よけにはならないかもしれませんが、年月が経って大きく育ってくれば、一里塚らしい雰囲気が増してくると思います。



また柏原は岐阜県関ケ原町と隣接する宿場にあたり、県境には「寝物語」という風情のある話が残されています。
国境となる小さな溝を挟んで美濃側と近江側に建つ旅籠に泊まった旅人同士が、寝ながら他国の人と話合えたという何とも優雅な話が伝わります。



柏原の街道には「柏原宿歴史館」があり、「福助さん大集合!」と題された常設展が開催されていたため、引き込まれるように入館しました。
「柏原宿歴史館」は1917年に建てられたという三層の屋根の重厚な建物であり、中には和室が連なり庭園もある。



「福助さん大集合!」に展示されている福助さんは、本宅と展示室になんと205点もの福助さんが展示されている。
柏原宿は「もぐさ」が特産品で、最盛期には10軒以上のもぐさ屋があったといいますが、有名なのは伊吹艾(もぐさ)本舗「亀屋左京」に現存する天井まで届きそうな大きな福助人形です。

当方が「亀屋左京」の福助さんを知ったのは、荒俣 宏さんの「福助さん(1993年刊行)」という本でしたが、読後に柏原の亀屋左京さんまで行って見せて頂いた記憶があります。
今回、歴史館で知ったのは「亀屋左京」の福助さんが歌川広重の「木曽海道六十九次」の柏原宿の絵に福助さんが描かれていたことでした。



福助さんは、「亀屋左京」の忠実で勤勉な番頭さんを模しているといい、柏原は福助発祥の地とされています。
別の説では、摂津国の佐太郎という大頭の身体障がい者がモデルともいわれ、江戸両国の見世物小屋に出ていたところを旗本が譲り受け、その後旗本の家は幸運つづきであったという。
「亀屋左京」の福助さんは今よくある丸っぽい福助さんとは姿が違い、 大顔・福耳ながら体形は人間に近く、最初に見た時はかなりの違和感を感じました。



歌川広重の「木曽海道六十九次」は1800年代の前半に描かれたものとされていますから、「亀屋左京」の福助さんはその頃から存在したのだと考えられます。
「福助学」なんていうジャンルがあるのかどうかはともかく、江戸期に庶民のなかで流行した人形や絵には知れば知るほど興味が湧いてきます。


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「田部の野神エノキ」と「宇根春日神社のスギ」~湖北の野神さんと巨樹~

2021-04-04 07:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の湖北地方には野神信仰が色濃く残り、現在の長浜市北部の高月町・木之本町・余呉町や、市の南部の空白地域を挟んで米原町に多く見られます。
野神さんが祀られる場所は集落の外れや集落の境界にあることが多く、樹や石を神の依り代として崇めたり、石碑だけが残されていたり、その祀り方は集落により独特の形があります。

一般的に野神さんは農耕の神とされ、あるいは集落に悪いものを入れない結界のような役割があるとされます。
しかし、その根本には人間の自然の神に対して畏怖する心と安寧への願いがあるのかもしれません。

田部の野神エノキ

木之本町の田部集落に野神さんのエノキがあると知り訪れましたが、なかなか見つけることが出来ず、集落の中をぐるぐると回って、何度もJR木ノ本駅まで戻るはめになりました。
集落の中を歩いている人に「田部のエノキ」を御存じでしょうか?と聞くも、知らんなぁとのことで、大きな木ならこの道の先にあるけど...。
教えてもらった道を行くと見えてきたのは間違いなく「田部のエノキ」。村はずれにある木より集落の中にある木を探す方が難しい。



横に伸びた枝が途中で伐られている部分が多く、広がりに欠けるが、これは民家が並ぶ集落の中ですのでやむを得ないのかと思います。
しかし、正面と思われる場所には竹に付けられた御幣が祀られていて、今も野神さんとして信仰されていることが分かります。





エノキの樹は何本かに分岐していて、見る角度によっていろいろな姿を見せてくれます。
エノキのサイズは樹高が12~13m、幹周が7~8mで樹齢が不明。長浜市の保存樹・第6期(平成22年度)指定木となっています。





根っこの部分は何本にも伸びて根となっており、大地にしっかり根を張っている。
この位置から見ると、このエノキは二股に分かれているのがよく分かり、2本の幹の間には何かの常緑樹が育っています。



木之本町の中心部には北国街道が通り、宿場町として栄えていたといい、街道筋には今もその名残が残ります。
しかし、街道筋を少し離れると何本かの巨樹や御神木があり、宿場町の風情とな全く異なる農村部の信仰の姿があります。

宇根春日神社のスギ

高月町宇根は高月町の南東部に位置し、湖北町と隣接している集落で、高月観音まつりで公開される冷水寺の「鞘仏(さやぼとけ)」の胎内に納められた十一面観音菩薩像がある集落です。
宇根集落にある「宇根春日神社」には見事なスギの御神木があるといい、宇根へと向かいました。



冷水寺には賎ヶ岳の合戦で焼き討ちに遭った観音堂を新たに建てた時、その傍から泉が湧き出ていた事が由来となっているといい、宇根は豊富な地下水が湧き出る地域だったとされます。
今は宇根春日神社の地下水は枯れていますが、境内にある「御手洗池」からはかつて豊富な水量の水が湧き、水田を潤していたといいます。



参道の正面には「出雲神社」の祠があり、祭神として大国主命が祀られている。
宇根春日神社は石畳を左に進んだところにあり、御祭神に武甕槌神を祀っていることから、日本神話の「出雲の国譲り」がこの祀り方の由来になっているのかもしれない。



境内には注連縄を巻かれた御神木が3本ありましたが、この御神木は群を抜いた太さの御神木で、一際目立ちます。
伐採された枝も多いが、石柵で囲まれた中に立つその姿は堂々としており、樹齢は分からないものの見事な巨樹です。
他の2本の御神木はまだ巨樹と呼べる太さはないため、次世代の御神木ということになるのかもしれません。



春日神社のスギは幹周5.9m、樹高が23mで推定樹齢は不明とのこと。
幹は真っすぐに天に向かって伸びており、老木にして大きな欠損はなさそうです。





株立ちでない単立のスギで幹周が約6mもあると幹の太さの迫力が凄い。
注連縄には“本殿東 神木8m”のメモがありましたが、この長さの注連縄を綯うのにもかなりの労力が必要なのかと思います。





春日神社からすぐの場所には「冷水寺」と「冷水寺胎内仏資料館」があります。
冷水寺は賤ヶ岳の合戦の折、焼損して痛ましい姿となってしまった「十一面観音座像」に鞘仏(江戸期)をかぶせ胎内仏として納めてお祀りされています。
「胎内仏資料館」は、年中昼夜無休・無料の小さな資料館で自称「世界で一番小さい」資料館と呼んでいるとか...。




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