僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

青岸寺 早川鉄平「補陀落山図」切絵障子と「上丹生生木彫展」

2022-10-30 10:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 米原駅の東側に「青岸寺」という曹洞宗の寺院があり、御本尊に「聖観音菩薩坐像(室町期)」や「十一面観音立像(鎌倉後期)」などをお祀りされています。
寺院には雨量によって「枯山水庭園」にも「池泉庭園」にも姿を変える「青岸寺庭園」という季節ごとに美しい姿を見せる名勝庭園があります。

青岸寺では10月から11月の2か月間、「orite Art 青岸寺」というイベントが開催され、各種のイベントやワークショップが開催されています。
イベント期間を通じてメインイベントとなるのは米原在住の切り絵作家の早川鉄平さんによる「補陀落山図」の襖絵の展示で、補陀落山を表現する庭園と襖絵との競演となります。



襖絵は10月の初旬に夜のライトアップをされていましたが、訪れることが出来できず、太陽光に映し出される「補陀落山図」を楽しみに参拝することになりました。
太尾山を背にした青岸寺へは山門から入山しますが、この寺院は紅葉の頃に参拝すると紅葉も楽しめそうな雰囲気があります。



境内にはイワヒバの前庭が広がっており、独特の景観となっていますが、近年は猪や鹿の出没によって被害が出始めているとか。
イワヒバはシダ科の植物で青岸寺は「イワヒバのお寺」と呼ばれることがあるといい、50年以上前から植えられている「長寿(イワヒバの花言葉)」の植物とされている。



玄関から入ると正面には上丹生木彫が並んでおり、ライトアップされています。
上丹生木彫は神社仏閣の建欄彫刻や仏壇の彫刻、美術工芸品まで造る技術集団ですが、モチーフはそれぞれ違った試みがされています。
伝統的な仏像から少女の木彫り・信楽のタヌキから白蛇まで試みは多岐に渡っている。



中でも中央に配置された「毘沙門天三尊」は、吉祥天と善膩師童子を脇侍とする三尊で、森彫刻所の森望さんの作品です。
「木彫りの里 上丹生」とも「仏壇作りの里」とも呼ばれる上丹生の技術の高さを考えさせてくれる仏像です。



「毘沙門天三尊」と同じ作家の方が作られたとは思えない作品は「縄文のビーナス」で、長野県茅野市米沢の棚畑遺跡で出土した土偶(国宝)を模したものと思われます。
妊婦を表し子孫繁栄や豊穰などの祈りを込めたとされる「縄文のビーナス」を木彫りで再現された目を引く作品でした。



「多聞天」と「聖観音」に挟まれて中央に座するは「元三大師」です。
彫られた方は森彫刻所に勤める徹雄さんで、彫りの深い衣文と生きているかのようなリアルな表情の元三大師です。





青岸寺庭園は、観音菩薩がお住まいになる補陀落山の世界を表現しているといわれ、後方に控える太尾山を借景として石組と苔が美しい庭園です。
季節によって枯山水庭園が池泉庭園に姿を変えるように造園されており、雨が多く降る季節には苔の庭園が池の庭園へと変貌する。



降り井戸形式の蹲は、元々は茶道の習わしで客人が這い蹲るようにして身を清めたのが蹲の始まりとなっており、雨量が多い時期になると水位が上がって庭園に水が流れます。
この仕掛けによって梅雨などの雨量の多い時は、白砂ならぬ苔の枯山水庭園が池泉庭園に姿を変える訳です。



降り井戸の横の間は改装されてすっかり綺麗になっており、そこにも上丹生木彫がライトアップされて展示してあり、ヒーリング・ミュージックが流れている。
この日は法要を営まれていましたので、ヒーリング・ミュージックと読経が混じり合って響く中で庭園を眺めておりました。



庭園の奥にある書院「六湛庵」に早川鉄平さんの「補陀落山図」の襖絵が展示されてあります。
渡り廊下から部屋に入ると切り絵の補陀落山の世界が広がり、幻想的な世界に導かれます。
早川さんの作品は大きなものから小さなものまでありますが、この青岸寺や長浜の大通寺での襖絵からは仏教世界と自然の中で生きとし生けるものが共存する世界観を感じます。



ライトアップの時も幻想的な世界が照らし出されていたと想像しますが、太陽光に透かし出された襖絵もため息が出るほど美しい。
襖の向こう側には補陀落山の庭園。部屋の中には補陀落山の襖絵。



正面には虎の姿と遊ぶ猿。空には鳥が飛び、木の上にはリスの姿。同じ構図の中に魚までもが泳いでいる。
虎はともかくとして、米原の山間部の風景が広がります。



片や大きな亀の甲羅の上には鷺の姿。飛ぶ鳥と泳ぐ魚。
咲き終えて実を付けたハスとこれから咲こうとする蕾。



鹿や鼠の上を鳳凰が舞い、巨大な大蛇が空を這います。
天にあるのは太陽か月か?御来光なのか闇に輝く月なのか、その時の感情で受け取り方が変わりそうです。



年々、米原や長浜の市街地で早川さんの作品を目にすることが多くなり、早川さんの人気の高まりが実感出来ます。
寺院や史跡とタイアップした展覧会も増えてきており、場所に融合した作品は、作品の新たな魅力を発掘するかのようです。

ところで、長浜市に店舗を構える「菓匠禄兵衛」さんへ手土産を買いに行った時に面白いお土産を見つけました。
「オトナレモンケーキ」という早川鉄平さんとのコラボレーション商品で、手土産の他に自分用のケーキを購入してしまいました。



早川さんの作品展は今年「盆梅展の慶雲館」「ヤンマーミュージアム」「草津エイスクエア」「真夏の慶雲館」「青岸寺」と5回訪れました。
季節の風物詩のように早川作品が定着してきていますね。


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八田山~太尾山城址(北城と南城)を周回!

2022-10-27 15:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 米原市のJR米原駅の近くにある「吸湖山 青岸寺」へ参拝に訪れたところ、拝観時間に少し早く着いてしまいました。
時間つぶしに周辺観光の案内板を見ていると、青岸寺の後方の太尾山に遊歩道があり、登れるようになっている。
太尾山には2つのピークがあってそれぞれ北城址と南城址があり、山全体が太尾山城址となっているようでしたので、さっそく登ってみる。

「太尾山城」は地元の土豪・米原氏によって築かれ、1471年には美濃守護代・斎藤妙椿の近江侵攻時に合戦があり、1538年には六角氏が布陣。
1552年には京極高広の攻撃を退けたものの、1561年には浅井長政により攻略されてしまいます。
1571年に織田信長の浅井氏攻めで佐和山城が開城した後は廃城になってしまったといいます。



見た目も標高も低い山なんですぐに登ってこれると踏んで山に入りましたが、遊歩道とは名が付くものの、ほぼ登山道のような道を登ることになりました。
麓に登山届のポストがあったのは、こういう意味だったのかとここで理解できたが、もう遅い。
最初の急登を登ると分岐があり、太尾山方向には進まず、まずは太尾山の隣にある「八田山」へと登っていきます。



開けた場所に着いたものの、道がどこか分からない。
登山道と思われる道を行くと、はっきりとした道に出られてやっとルート通りの道になる。



この先からは明確な道が続きますので迷うことはありませんが、結構キツイ道が続きます。
勾配のきついところには黒いプラスティックの段が付いている場所があって、登りやすい場所もあるが最後まで登り道だけが続きます。



驚いたのはこの「八田山」と峰続きの「太尾山」の山中には巨石がやたらと多い事です。
JRの駅に発着する電車の音が聞こえるような場所にある低山ながら、なんて面白い山なんだろうと驚いてしまう。



山頂が岩場なんですが、こういう山頂の雰囲気はいいですね。
山への信仰のようなものを感じますし、ここより先の道中も含めて積み石が何ヶ所も見られました。



山頂表示は標高140m。
登ってきた感覚からすると、標高が低すぎて気が抜けそうな感じになります。



では、八田山を下って太尾山へ登り返すこととします。
「軍艦岩」と呼ばれる巨石が横たわっており、先端まで行ってみたが、怖いので下りてきて迂回道を進みます。



軍艦岩を前から眺めると確かに軍艦をイメージできるような形をしている。
さっきまで岩の上にいましたが、こう見るとやはり正面側へ降りるのは無理そうです。



途中からシダが茂った道となり、こういう道が大嫌いな当方は足と地面の接地面積を減らしたく、つま先走りで駆け抜けます。
シダの下から何か出てくるのでは?とつい想像してしまうのでこういう道は苦手です。



太尾山を目指して進んで行くと、またも大きな巨石が横たわっています。
細長い砦のようにも見えますが、上には広い平面があり、フレームには納まりきらない大きさです。





さらに登っていくと見晴らしが良く、眺望のいい岩場に出ます。
岩の前にいた時は気付きませんでしたが、これが「蛮人岩」の裏側になります。



曇り空ですっきりしないが、見晴らしは絶景です。
米原の市街地から石田三成の居城であった佐和山が見えます。彦根城はその裏だと思いますのでここからは見えない。
琵琶湖を挟んだ湖西側には比良山系の山が見え、高島の白髭神社もあの辺りにあるのかもと推測してみる。



「蛮人岩」の正面へ回り込む側道を進むと断層になった巨石があります。
こういう岩はありそうだけど余り見ることがないので、通り過ぎずもう少し見てけばよかったと後で後悔する。



「蛮人岩」には“その昔、盗人がこの岩陰に隠れ住んで村人を脅かしたと云う言い伝えがある。”とのことで、荒々しい巨石のイメージが蛮人につながったのではないでしょうか。
山のすぐ麓に「湯谷神社」という神社がありますので、神社の磐座だったようにも思えます。



“上古出雲国人が諸国を巡視してこの地に至り、里民に池を掘らせると、霊泉が涌き出せり、荒地を開墾したところ、五穀がよく成育したので、出雲の祖神大己貴命を山谷の岩上(磐座)に奉斎す。”
湯谷神社の社殿にはこのような由来があることから、祠など信仰の形跡はないが、この「蛮人岩」が磐座だったのではないかと思われます。



太尾山へは一旦下って登り返すと2つのピークの内の1つで、山頂となる「太尾山城址(北城)跡」に到着します。
途中に掘切りはありますが、城跡には何もなく少し広がったスペースがあるのみでしたが、調査では礎石建物や中国製の染付け磁器や白磁が出土しているようです。



北城跡から先へ進むと、南城跡への道と湯谷神社への下山道の分岐があり、南城跡まで歩を進める。
南城跡にも何も残ってはいませんが、礎石建物が検出されており、多くの土師器皿や擂鉢や白磁皿が出土していることから、恒常的な居住施設が設けられていたとされている。



「太尾山城址(南城)跡」まで行きましたので折り返して下山道に入り、湯谷神社へ向かいます。
崖の横にある九十九折の細い道を下っていくのですが、谷沿いの下り道で見る山の風景は超の付くような低い山とは思えない道でした。

山の中で唯一見かけた花は「コウヤボウキ」と思われる花。
かつて高野山ではこの木の幹や枝を束にして箒にして使ったという木だとのことです。



結局1時間強かけて周回し、湯谷神社に着いた後、無事の帰還のお礼がてら参拝致します。
湖北の集落で祀る神社は立派なものが多いですが、この湯谷神社も社殿は立派で末社の多い神社でした。



神社の横にある曳山の山蔵の扉が開いており、米原曳山祭の「松翁山」の姿があった。
滋賀県では「長浜曳山まつり」や「大津祭」が有名ですが、実は県のあちこちで曳山祭が行われています。
米原の曳山祭は、長浜の曳山祭に習い江戸時代後半に始まったとされ、3基の曳山の上で子供役者が狂言を演ずるそうです。




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「絵になる風景」~ボーダレス・アートミュージアムNO- MA美術館~

2022-10-25 06:17:17 | アート・ライブ・読書
 『「絵になる風景」-そこにある「風景」を、人はなぜ「絵」にするのか-』をテーマにした今回のNO- MA美術館の企画展では、7人のアーティストが独自の視線・手法で描き出されています。
NO- MA美術館の解説には“その人の出自や思い出の数だけ異なった形で、風景はそれぞれの心の内に現れます。”とあり、今回展示の作品の大半は風景画というカテゴリーには入りそうにない作品が並びます。
絵の題材は、生まれ育った地の風景や記憶の中の風景、光るものを描く作家もいれば“現実ではなく、内側を描いている”という作家もいる。また10mにもおよぶ絵巻物を描いた作家もいます。



美術館の入口付近に展示されているのは畑中亜未さんの“光るもの”を絵にした作品が並びます。
作品は、右から「35W以上 電気スタンド(2灯)」「ライトアップ(2灯)」「灰色の街頭(2灯)」「ガス灯(2灯)」「イナビカリ(太)」で、それぞれモチーフを説明する言葉が添えられている。
展示の片側には2灯づつの光るものが描いてあり、反対側には同じモチーフが1灯だけ描かれて、対になるような作品の展示となっている。


畑中亜未

福田絵里さんは美大で油絵を学ばれた方で、薄暗い部屋の中で輪郭すらはっきりしない形を描かれ、うっすらと差し込む光によって室内らしき場所にいるのが感じられる。
「作品は社会との共存で起こる、軋轢から出来上がる。」と作者は語り、作品は内側へと向かい、その内側は現実には存在しない世界であるという。


福田絵里《ボルゾイまたは野犬》

一般論として、自分を取り巻く社会環境を辛く感じることがありながらも、関わりながら生きていかなければならないことが多い。
そこを胡麻化したり、やり過ごしながらやっていけることが出来る人もいるが、現実には存在しない世界(価値感)の中で過ごすことに意義を見出すこともあります。
ぼんやり浮かび上がる影のようなものや、微かに入ってくる光は何を意味するのでしょう。


福田絵理《部屋とひとがた、その他のなにか》

福田さんの作品と同様に、薄黒く塗られているように見えるのは三橋精樹さんの「無題」という作品。
絵にはかつて見たことのある光景、幼い頃の思い出、旅行で訪れた場所、テレビ番組で流れたワンシーンなどが描き込まれているという。

三橋さんは勤めていた鉄工所を定年退職し、自宅に長く居るようになってから絵を描き始めたそうです。
絵の裏には絵の内容が詳細に記されているといい、館内では絵の上に設置されたスピーカーから文章を読み上げる声が聞こえてきます。


三橋精樹《無題》

上の絵はTVのワンシーンで、“フィリピンの病院の中、狂犬病の犬に右足を咬まれた若い女がベッドに横たわっている。女は全身に病気がまわってわめいている。犬は鉄の檻の中で...。”
絵を見ただけでは分からない情報が込められており、実際には描かれてはいない場面についても語られていて、絵以上の情報量が込められている。




三橋精樹《無題》(表側の絵と裏側の言葉)

2階の和室の会場では、机の上に古谷秀男さんのカラフルな絵が敷き詰められるように展示されている。
古谷さんは1957年、16歳の時にブラジルに移民して農業に従事し、ブラジル経済が深刻な不況となった1990年に帰郷して料理店で働く。
ところが脳梗塞を発症して右半身に麻痺が残りったため福祉施設で暮らしたといいます。



絵は思春期から33年間過ごしたブラジルの記憶が描かれているようであり、鮮やかな色彩で描かれた絵はトロピカル感が漂います。
還暦を過ぎてから描き始めた絵は、記憶や郷愁や空想の世界ですが、ブラジルでの生活が反映されているように見えます。


古谷秀男《無題》


古谷秀男《無題》

懐かしさすら感じる風景は、衣真一郎さんの作品で、山並みや田圃や古墳など生まれ育った群馬県の風景を描かれています。
身近な田園地帯と古墳の絵は、鳥瞰したような視線で描かれ、地方へ行けば見られそうな風景でもあり、実際には見られない風景でもある。


衣真一郎《横たわる風景》


衣真一郎《横たわる風景》

モン族は、中国・ベトナム・ラオス・タイの山岳地帯に住む民族集団だという。
インドシナ戦争やベトナム戦争の時にフランスやアメリカに利用され、戦後は見捨てられて迫害や虐殺を受け、多くはタイの難民キャンプに逃れたという。
難民キャンプでは支援活動をしていたNGOと共に、キャンプ内でモン族が収入を得る手段として「ストリー・クロス」(刺繍)を製作し商品化したといいます。

難民キャンプで生まれたドゥ・セーソンも幼少の頃から針と糸を持ち、数々のストーリーを紡いでこられたそうです。
その刺繍作品「ストリー・クロス」では戦争からの逃避やモン族の民話や日常の風景が紡がれています。
モン族はもともと文字を持たなかった歴史があるといい、民族の歴史や文化の記録手段に刺繍を用い、その技術を母から娘へ代々伝えるという伝統があるとされています。


ドゥ・セーソン《メコン川を渡って~戦争からの逃避~》

ドゥ・セーソンは、ストリー・クロスでモン族に伝わる民話も綴られていて、先祖から伝えられてきた民話を民族の記録手段である刺繍で残しています。

左は「モンの民話~ヌーブライとジャー~」。妻をトラに連れ去られた夫が数日間妻を探し回り、洞窟の中でトラと一緒にいた妻を救い出す。
右は「モンの民話~二羽の鳥の夫婦~」。野焼きで巣が燃え妻と赤ん坊を失った雄鳥が自ら炎に身を投げ命を落とす。
雌鳥は王様の娘に、雄鳥は孤児に生まれ変わるが、最後は永遠の愛を誓い幸せに暮らす。


ドゥ・セーソン《モンの民話》

蔵での展示は古久保憲満さんの絵画。
《3 つのパノラマパーク 360度パノラマの世界「観覧車、リニアモーターカー、ビル群、昔現末、鉄道ブリッジ、郊外の街、先住民天然資源のある開発中の町」》
10mにもおよぶ長大な絵巻物には関心のある事が緻密に描き込まれた都市は、どこにも存在しないパラレルワールドのように想像が広がります。(撮影不可)




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第38回 観音の里ふるさとまつり3/3~高月町「浄光寺」「横山神社」「古墳の上の野神さん」~

2022-10-23 08:11:11 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 今年の「観音の里ふるさとまつり」もいよいよ大詰めとなり、最後は高月町でまだ拝観したことのない観音堂へ参拝することにします。
何年かかけて観音まつりで御開帳している観音堂を巡ってきましたが、今年でほぼ一回りすることができ、来年からは何度も拝観したい仏像のリピート拝観になりそうです。

湖北の観音さんを観音まつりや特別開帳などで拝観してきましたが、なぜこれほどの数の仏像が小さな集落ごとにお祀りされているのか不思議に思うことがあります。
湖北一円で毎年30寺ほどの観音堂が一斉開帳されるとはいえ開帳されない観音堂もあり、特に高月町内ではひとつの観音堂に参拝している時に近くの観音堂の赤いノボリが見える密集度も凄い。



また湖北の観音さんの中でも「十一面観音」をお祀りする観音堂は非常に多く、湖北の観音文化の基礎となった白山信仰の泰澄ゆかりの影響が色濃く感じられます。
高月町内へ戻って最初の観音堂は落川集落の「浄光寺」で、この観音堂でも「十一面観音立像」をお祀りしています。



「浄光寺」は伝教大師・最澄が己高山に留錫された時に建立されたとされ、当時は「厳長寺」という鶏足寺の末寺だったとされます。
1573年には浅井氏と織田信長軍が戦った「雨森の磧」での戦いの兵火によって焼失したとされますが、その後跡地に再建されて日吉神社と隣り合わせとなって祀られている。

日吉大社の本堂の横に磐座のように祀られている岩があり、この岩は落川集落の野神さんで、毎年8月に野神祭が斎行されているといいます。
かつては杉の木が野神さんだったそうですが、現在は石が野神さんの依り代となっています。



御堂の中では右端に「阿弥陀如来立像」が祀られ、厨子の中には御本尊の「十一面観音立像」、右に「薬師如来立像」、左に「阿弥陀如来立像」の3躰が並びます。
中央に菩薩さま、両脇に脇侍ではなく如来を配置しており、中央に如来・脇侍に菩薩という配置とは違い少し変わった並び順になっていますが、如来は後から厨子に祀ったものだと思います。



3躰の内「十一面観音立像」は彩色が残り、残りの2躰は木色となっています。この3躰の仏像は室町期の仏像とされ、地方仏的な共通点があるといいます。
世話方の説明では、この地方に存在した地方仏師か、その仏師を中心とする仏師集団の作ではないかと言われているということでした。



確かに迫力を感じるとか慈悲深い姿に感動を覚えるといった感じよりも、村の心優しい仏さんといった親しみやすい人間臭さを感じる仏像です。
湖北の仏像には、洗練された美しい仏さんや凛とした仏さん、親しみやすい仏さんなど個性豊かな仏さんがそれぞれの集落で祀られ、多様性に富んだ仏像が多いのも魅力のひとつです。





また湖北の観音さんを祀る観音堂は、戦国時代の兵火で焼失したという話があちこちの集落に残りますが、身の危険をかえりみず仏像を守り切ったという話が多い。
戦乱で家が焼かれることもあったでしょうし田畑は荒らされて、生き延びたもののこれから生きていくのも大変な時にも関わらず、村の仏さんを守るのは並大抵なことではなかったと思います。



「浄光寺」でゆっくりさせていただいた後、最後に「観音の里ふるさとまつり」で唯一拝観していない東物部の「光明寺」へと参拝します。
行基が彫ったという「十一面千手観世音菩薩」を祀るというこの御堂は未だ参拝したことのない観音堂で楽しみにしていましたが、観音堂にはひとけがない。
おかしいなと思って御堂の前まで行くと“新型コロナ感染拡大の影響により開帳を見送らせていただきます。”との張り紙があり、「光明寺」参拝は来年の楽しみということになりました。



せっかくなのでもう別の観音堂の仏さんを拝観しようと東物部の集落を移動していると「東物部の野神さん」が祀られている場所に出くわしました。
墓地の横に「野大神」とおられた石碑が建ち、紙垂が付けられた竹が立てられています。



玉垣の中にあるケヤキの木は、太さはあるものの巨樹と呼ばれる太さにはまだ少し足りないのかもしれませんが、樹勢が良いので今後も増々大きくなっていきそうです。
かつての東物部の野神さんにはヒノキの大木があったといい、集落の御神木であり野神さんの宿る木だったのが、今はこのケヤキに信仰が受け継がれています。





今年の観音まつりの最後は横山集落の「横山神社」に参拝して終了とします。
横山神社には平安末期から鎌倉初期の作とされる「馬頭観音立像」が祀られ、高月町では唯一の馬頭観音だとされている。(余呉町まで含めると全長寺に馬頭観音がある)



社伝では593年、横山大明神が高時川上流にある木之本町杉野の「横山岳」「五銚子の滝」のほとりの杉の巨木に降臨し、その大木で神像を彫刻して奉安したのが杉野本宮「横山神社」の始まりとされている。
957年に時の神主であった横山将艦が高月町横山の地に勧請し、「本地馬頭観音像」を遷座したと伝えられているという。



木之本町杉野の「横山神社」は、横山岳の「五銚子の滝」上にある杉の巨樹に祭神天降りせられたりと伝えられており、後に「経の滝」の上に社殿を奉遷し、公文所、地頭職屋敷、名主屋敷、神宮寺等が有ったという。
現在の杉野「横山神社」は、1439年に本殿をはじめ其の他の社殿祭神を1社に合祀して里宮となっていますが、その遥か以前に「本地馬頭観音像」は高月町の横山に遷座されていたことになります。



「本地馬頭観音像」は像高99.6cm、ヒノキの一木造の三面八臂の像で、お顔は忿怒の相を示し、頭上には馬頭をいただいています。
全面にわたって補修が入っている仏像とされており、そういう目で見れば補修されたと思われる部分も多いとはいえ、全体のバランスの取れた仏像だと思います。



横山神社の参道横には「横山神社古墳」があり、方形の部分と思われる場所に横山神社が鎮座している。
横山神社古墳は全長約35mの前方後円墳とされ、古墳時代後期(6世紀頃)の古墳と推定されています。



後円部と思われる場所の墳丘には、玉垣を縄で囲い竹が立てられている場所があり、特別な空間が結界で囲まれている。
もしやと思って横山神社の世話方の方に聞くと、やはり横山集落の野神さんでした。



高月町には横山神社古墳の北東に兵主神社古墳、西方に古保利古墳群、北方に湧出山古墳、南方に姫塚古墳などが分布しており、有力な一族がこの地を治めていたことが推定できます。
古墳の上に祠などが祀られていることもよくあり、遠く古墳時代から綿々と祀り事が引き継がれている。



今年の「観音の里ふるさとまつり」は、野神さんや滝を挟みながら古墳に始まり古墳で終わるような奇妙な巡回になりましたが、拝観した観音堂や諸仏はそれぞれ魅力があった。
来年からは何度も見たい仏像のリピート巡りで観音堂を巡ることが出来そうです。


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第38回 観音の里ふるさとまつり2/3~山門「和蔵堂」「雨下がりの滝」「山門の野神さん」~

2022-10-21 14:50:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「観音の里ふるさとまつり」はコロナ渦にあって2年間御開帳を見送られ、3年ぶりの開催を待ちわびていた仏像ファンの方が大勢訪れてこられていました。
周遊バスツアーの方や遠方からの観光バス、他府県ナンバーも多い自家用車の方。電車で訪れられた方はレンタサイクルを借りられたり、徒歩で歩いて移動される方など様々。

御開帳される観音堂は1日では到底回り切れる数ではなく、参拝する観音堂を計画しておかないと巡りきれません。
当方も過去何年かの間、毎年何ヶ所づつかの観音堂を巡ってきてそろそろ回り切れるかといった状態で、一通りの観音堂の参拝を終えたら好きな観音さんをリピートして巡りたいと思っております。



もっともどうしても拝観したい観音堂があれば事前予約して拝観することは可能ではありますが、予約拝観はなかなか敷居が高いため、一斉開帳や特別開帳の時に参拝をしています。
ずっと訪れたかった観音堂に西浅井町山門の「和蔵寺」があり、今年は観音の里ふるさとまつりに参加しておられるので拝観に訪れました。



「和蔵寺」の観音堂は説明をされている住職の方とせいぜい3名くらいの参拝者が入ったら堂内に入れなくなるような小さな御堂です。
到着した時は先客の方が居られたので隣接する真宗の「善隆寺」の境内を散策してみます。
湖北地方は浄土真宗の信仰が盛んな土地で真宗寺院が多いのですが、真宗寺院の檀家でありながら観音堂をお守りし、集落の神さま(神社)もお祀りされていることが多々あります。



「善隆寺」はかつては天台宗寺院で現在は浄土真宗佛光寺派の寺院となっており、「和蔵堂」は和蔵講を持ってお守りされているとのことです。
湖北では石仏が集められている場所をよく見かけますが、善隆寺の石仏は田圃の耕地整備をした時に掘り出されたということでしたので、昔は田圃道の辻に石仏を祀られていたのでしょう。



「和蔵堂」に祀られているのは「十一面観音立像」と「仏頭」で共に平安時代末期の作とされ、国の重要文化財に指定されています。
600年前は隣村の庄という村の御堂に祀られていたが、寺の住職が堂守に仏さまのお守りをまかせて山門に移住してきたところ、住職と堂守に夢のお告げがあり山門に移したと伝わるそうです。



「十一面観音立像」は像高約1m、サクラ材の一本造の仏像で、寄木部はなく内刳もないという。
両手は長くやや太い腕となっており、表情は凛々しい感じを受けます。
観音さんの長い腕は少しでも遠くの人を助けたいという気持ちのあらわれとされています。



「和蔵堂」への参拝者は、井上靖の「星と祭」の復刊に伴って急増していたものの、コロナ渦によって参拝者は激減したとのこと。
コロナが完全に静まれば、これからまた参拝に訪れる人が多くなるのではないでしょうか。




観音堂は平地にあるものも多いですが、山麓に祀られている観音堂にはまた別の味わいがある。
湖北では数多くの仏像が静かな山村の小さな観音堂でひっそりと守られていることも多くの人の心を魅了するのかと思います。



「十一面観音立像」の隣には阿弥陀仏の「仏頭」が祀られてあり、仏頭は約60cmと大きなものです。
当初は躰があったのでしょうか?と聞いてみると、始めから仏頭のみだったという話もあるが実際のところは分からないとのことでした。



この大きさで立像だったらかなり大きな仏像だったのでしょうねと聞いてみると、躰があったとしてもおそらくは半丈六の座像だったのではということでした。
もしもこの仏頭が半丈六の座像のお顔で躰が残っていたら湖北には他に例のない仏像になっていたと思います。



お顔の表情は実に柔和でふくよかしくも優美な表情をされています。
切れ長の目も特徴的で、あらゆる行いを許容しつつも何もかもお見通しにされているような気持になります。



御堂の中に滝の写真がありましたので、これはどこの滝ですかと聞くと、この滝は「雨下りの滝(あめさがり)」の滝といって近くにある滝ですと教えて頂きました。
場所を教えて頂いて和蔵堂を出た後、さっそく滝へと向かいます。



滝は落差10mとそれほど大きな滝ではないものの水量が多く、水音を響かせながら落ちていました。
好天続きの頃でしたからこの水量の多さは不思議に感じるほどで、山に含まれている水の豊富さを感じさせてくれます。



山門の集落の外れには「野神さん」のような祠と木がありました。
墓地の横にお地蔵さんが祀ってあるだけかもしれませんが、場所といい雰囲気といい野神さんのように受け取ってしまいます。



木はケヤキでしょうか?太く盛り上がった根っこが横に伸びてきています。
幹も痛みが鳴く生き生きとしており樹勢が良く、将来は見事な巨樹に育ちそうな木です。





ここにも石仏が祀られていて、この石仏は屋根付きの囲いの中です。
石仏の前にはそれぞれ湯飲み茶わんが置いてあり、ペットボトルの水が用意してあります。



この祠と巨樹のすぐそばに面白いものを見つけました。
三角点なんですが、三角点って山の頂上付近にあるものだと思っていましたが、平地にも三角点があるのですね。



さて随分と大回りした「観音の里ふるさとまつり」でしたが、最後は高月町内でまだ参拝したことのない観音堂へ向かいます。
お腹が空いたので「道の駅塩津海道あぢかまの里」で名物の鴨そばを頂くことにします。




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第38回 観音の里ふるさとまつり1/3~余呉町「弘善館」・黒田「観音寺」「大澤寺」「安念寺」~

2022-10-19 12:55:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の湖北地方は、古代より霊山として崇められてきた「己高山」を中心にして、北陸の白山信仰の影響を受けて、仏教文化圏を形成してきたといいます。
平安時代になると比叡山天台宗信仰の浸透により観音信仰がより一層高まってきますが、戦国時代の浅井長政と織田信長の戦いや賤ケ岳の合戦などで動乱の時代を向かえることになります。

戦乱の焼き討ちの中で村人たちは、川に沈めたり土中に埋めたりして難を逃れたといい、天台寺院が衰退していくなかで、村の観音堂で観音さまを祀り、観音文化を守り継いできたといいます。
「観音の里ふるさとまつり」は第38回を迎えますが、過去2年間はコロナ渦により開催がされず、3年ぶりの観音堂一斉開帳に多くの方が訪れられていました。



当方も過去何回かに渡って観音堂巡りをしてきましたが、まだ拝観したことのない仏像を求めて湖北大移動で観音堂を巡りました。
最初に訪れたのは余呉町坂口にある「弘善館」で、以前に“みうらじゅん”と“いとうせいこう”が「見仏記」で訪れた番組が記憶に残っています。



余呉町坂口の山中にある「菅山寺」は、奈良時代に開山された「龍頭山 大箕寺」と呼ばれる興福寺門法相宗の寺院だったと伝わるという。
平安時代になると菅原道真が6歳の時に入門して11歳まで勉学した寺院とされます。
京に上った道真が45歳の時に宇多天皇の勅命により大箕寺に参拝し、その後3院49坊からなる寺院に復興されたという。

山中には山門前に“道真公お手植えのケヤキ”がありましたが、2017に1本が残念ながら倒れてしまいもうかつての姿を見ることは出来ない。
「菅山寺」にあった宝物は、里宮の「弘善館」へ降ろして展示保存されており、館内には多数の仏像が保管されている。



車を停める場所がなかったので「弘善館」の方に聞くと、道を上へ上がった辺りに停めておいてとのことでしたので、狭い道ながらやや広くなっている場所に車を駐車。
すると、何と目の前に古墳がある。想像もしていなかったのでこれには驚き、「弘善館」の方に聞いてみたがよく分からないとのこと。
どうやら「大門古墳」という円墳で、かつてこの地域を治めていた権力者の墓と想像します。



石室が覗けるようになっており、内部を見るとかなり土砂に埋まっているものの、石室の様子が伺い見えます。
仏像巡りに来て、いきなり古墳スタートかと思わず笑ってしまいましたが、その土地の歴史や民俗も含めた上での仏像ですから、面白いスタートとなりました。



館内は撮影禁止でしたが、撮影してもいいけどネットはNGということで写真を撮らせて頂きました。
仏像は「照壇上人像」「専暁上人像」「地蔵菩薩立像」「弘法大師像」「菅原道真11才ノ像」「狛犬一対」「不動明王座像と立像」。
「降三世明王」「軍茶利明王」「不動妙座像」および傷んだ古仏の部分等などが展示されています。

平安期の「十一面観音立像」は体のひねり方など圧巻の仏像で、小さめのお顔で目が特徴的な尊顔の表情が印象に残ります。
また館内には1277年に鋳造された「梵鐘」が展示されており、銘文には菅原道真公が寺院を建立し不動明王を安置したと刻まれているといい、国の重要文化財となっている。

次に参拝したのは木之本町黒田にある3つの観音堂です。
黒田地区には「観音寺」「大澤寺」「安念寺」の観音堂があり、まずは「観音寺」へ参拝。



「観音寺」は行基が巡教してこの地に来た時、「千手観世音菩薩」をお刻みになり、「三縁山 観音寺」として建立した寺院とされます。
その後、火災や戦乱により寺院は荒れていたようですが、臨済宗の僧が浄財を集めて「霊応山 観音寺」として再興したという。



木之本町黒田地区は、黒田官兵衛に代表される黒田家の発祥の地とされており、黒田氏は6代にわたり黒田の地に居を構えていたとされます。
黒田家屋敷跡と伝えられる場所には黒田家御廟所が設けられており、境内に祀られる2基の宝篋印塔は後の黒田家の祖先の墓だとも伝えられているようです。



本尊「千手観世音菩薩(平安初期」は像高1.99mの一木彫りの大きな仏像で見る者を圧倒します。
左右18本の御手には宝剣や宝塔などを持ち、厳しい表情をされているものの慈愛に満ちたその姿は「准胝観音」ではないかと言われています。



集落内を少し歩いて急な石段を登って行くと「大澤寺(だいたくじ)」があり、大澤寺にも奈良時代の724年に行基が刻んだという「十一面観世音菩薩」が祀られています。
戦乱の時代には賤ケ岳の合戦や姉川の合戦で堂宇は焼失したものの、本尊は村人により助け出され、余呉町坂口の「菅山寺」に合祀されていたといいます。



九十三段の石段を登りきった所にある鐘楼の梵鐘には1412年の銘があるといい、湖北では先述の余呉町「弘善館の梵鐘(1277年)」、高月町井口「円満寺(1231年)」の梵鐘と並んで歴史ある梵鐘とされている。
またこの梵鐘は賤ケ岳の合戦の時に、柴田勝家の家臣・佐久間玄蕃盛政が羽柴秀吉の軍兵が着陣したことを知らせるため鐘を乱打したと伝わります。
梵鐘は総高1.1m、龍頭高17センチ、最大径63cmの鐘で、歴史ある梵鐘にも関わらず上記3つの梵鐘の内、「円満寺(日吉神社)の梵鐘」と「大澤寺の梵鐘」は撞かせてもらうことが出来ます。



大澤寺は江戸時代の1619年に菅山寺の法師により再興されますが、明治の廃仏毀釈により近隣にある観音寺に合祀され、1883年に現在の場所に再興されたという。
観音寺も大澤寺も集落の世帯数は十数件だと思いますが、何百年にわたって観音堂守り続けてきた尽力におそれいります。
湖北ではいわゆる檀家寺と観音堂の2つの寺院と村の神社をお守りしているケースが多く、将来的には行政や民間の支援が必要になってくることも考えられます。



厨子の中に祀られた「十一面観世音菩薩」は像高50センチほどの仏像で、ふくやかなお顔に紅をさした紅い唇が印象に残ります。
観音寺の「千手観世音菩薩(准胝観音)」と比べると、大澤寺の「十一面観世音菩薩」は同じ千手観音でも大きさが1/4くらいになりますが、それぞれ個性が際立つ仏像だったと思います。



黒田地区の「観音寺」「大澤寺」に参拝した後、黒田にあるもう一つの観音堂である「安念寺」に参拝します。
安念寺は聖武天皇の時代726年の開基で「天王山 安念寺」と称し、開基の詳厳法師は藤原不比等の庶腹の子供とされ、無実の汚名を受け世をはかなみ当地に草庵を建てて仏像を祀ったと伝わる。



「安念寺」は10件の世帯でお守りされている観音堂ですが、老朽化してきた観音堂の修理の費用が負担できなくなり、2021年にクラウドファンディングで修理・整備を行われています。
湖北の観音さんをお守りし続けていくには、今後時代に沿った新しい工夫が必要になってくると思います。



安念寺は平安時代に天台宗山門派の寺院でしたが、1571年の織田信長の比叡山焼き討ちの際に堂宇を焼かれてしまったといいます。
湖北に存在した他の天台寺院でも同じ話を聞くことがあり、信長の比叡山焼き討ちは延暦寺や湖東だけに留まらず、遥か湖北の天台寺院にも及んでいたようです。



お祀りしていた仏像は信長の兵火の際、村人が田圃の中に埋めて焼失を免れまれたものの、本来の美しい姿はなくなったといいます。
さらには1583年の賤ケ岳の合戦の際にも再び堂宇は焼失し、戦乱が治まった後に掘り出して安置したといいますが、御堂の雨漏り等で更に痛みが激しいものになったという。



仏像は須弥壇に6躰。聖観音を本尊としているとされますが、朽ちつつあるにも関わらずその姿は人の心を捉えます。
平安後期とされる諸仏は、田の中から掘り出して川で洗ったことから「いも観音」と呼ばれたり、昔は夏になると村の子供たちが川での水遊びに使っていたなどの話があります。
地域にとけ込んだ観音さんのありようが微笑ましい話です。



黒田地区の3つの観音堂へ参拝した後は、黒田地域の野神さんの「黒田のアカガシ」へと向かいます。
初めて「黒田のアカガシ」へ訪れた時は草ぼうぼうの道を登るのが気持ち悪くて断念し、草の枯れた冬場に再訪しています。
今回は心配した草はなく、ゲートを開けて山登りでもするような道を登ります。



湖北地方では「観音文化」や「オコナイ」「野神信仰」など地域独特の信仰や民俗行事があり、「黒田のアカガシ」も村の野神さんとして毎年8月17日に野神祭が行われているという。
野神さんには農耕の神としての側面があり、多くは村の外れにある巨樹を信仰対象としていて、山の神の信仰と混じり合っている集落もあります。



「黒田のアカガシ」は幹周6.9m、樹高15mで推定樹齢は300~400年とされていて、アカガシとしては県内最大級の巨樹とされている。
地表に広がる根と3本に分かれた幹の荒々しさを眺めていると、まさに神が宿る木という印象を受け、神々しい姿をしています。



「観音の里ふるさとまつり」はまずは余呉町の坂口集落へ行き、木之本町の黒田集落を巡りました。
次は賤ケ岳の麓から奥琵琶湖を経由して西浅井町山門まで向かいます。


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「辻町の山之神」と「宮山二号墳」~弥生の森歴史公園~

2022-10-15 17:22:22 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 野洲市の「弥生の森歴史公園」へ訪れたのは、大岩山古墳群を構成する古墳のひとつ「宮山二号墳」を見学するためでした。
「宮山二号墳」周辺からは、1962年に東海道新幹線の建設に使う土砂を採集中に銅鐸が発見発見された場所で、同じ敷地内には「銅鐸博物館」や「弥生の森歴史公園」が併設されている。

銅鐸は弥生時代に五穀豊穣を祈願する祭祀の道具だったとされ、最初は吊り下げて音を鳴らす道具だったのが、時代とともに大型になり「見せる」目的へと変化していったとされています。
その後、銅鐸は埋納されるようになったのには諸説あるとされており、松本清張は“平時は埋納し、祭儀等の必要な時に掘り出して使用していたが、祭儀方式や信仰の変化により埋納されたまま忘れ去られた”としている。



公園内を散策していると銅鐸を模った板の上に「辻町の山の神」と書かれた案内板があった。
すぐ奥には「山之神」の文字が書かれた鳥居がある。



道の奥に進んでみると一角に「山之神」の大きな石碑と縄を編み込んだ勧請縄のような注連縄が吊るされていて、これには驚いた。
所在地は野洲市辻町ですので、辻町では現在も山之神の祭祀が行われているのかと思います。石碑の台の上には子孫繁栄を祈願する男女を模した複数の人形(ひとがた)が祀られてもいました。



石碑の横にあった石板には“三上神社 山の神 子孫繁栄 五穀豊穣 山の神のベンベラコロ”と彫られています。
“ベンベラコロ”とは何ぞや?となりますが、この意味は分かりませんでした。



しかしこの注連縄は編み込みに手が込んでおり、縄の上には小幣のように木の棒が差し込まれ、小縄には木の葉や紙が付けられています。
周辺はかなり開発が進んでいるとはいえ、辻町には三上神社があり、集落のもっとも山側にこの山之神はある。



山之神の石碑の台の部分には男女それぞれを模した人形(ひとがた)が祀られています。
プリミティブな印象を受けますが、国道や東海道新幹線が通る騒音がうるさいような場所に山之神が祀られているのは不思議な感覚にもなります。





さて、当初の目的であった「宮山二号墳」ですが、古墳はなんとアスファルトで舗装された広場の中央にありました。
墳丘は直径15m・高さ3.5mと大岩山古墳群の「円山古墳」「天王山古墳」「甲山古墳」と比べると小型の古墳で、大岩山古墳群の中で最後に築造された古墳と考えられています。



「宮山二号墳」は銅鐸が発見された1962年に発見されたようですが、天井や奥壁の一部が無くなり、木の根等によって側壁も崩れそうな状態だったといいます。
その後に石材の補充、石室や墳丘の積み直し等によって古墳は修復されたようです。



玄室へは羨道を通って入っていけるが、入口が低いため少し屈みながら入ることになる。
横穴式石室は南南西に開き、玄室には花崗岩を組み合わせた棺が安置されている。



「宮山二号墳」は6世紀末から7世紀初め頃に築造されたとされているが、その時期は既に古墳時代が終わりを告げており、飛鳥時代の頃。
「阿蘇溶結凝灰岩」や「二上山凝灰岩」を使った円山古墳や甲山古墳の家形石棺とは全く印象の異なる「花崗岩の組合式石棺」となっている。
尚、この「花崗岩の組合式石棺」は滋賀県では最古のものであるという。





古墳のある場所から駐車場を横切ると「弥生の森歴史公園」があり、竪穴住居や高床式倉庫が復元されて弥生時代の雰囲気が味わえる。
「弥生の森歴史公園」は、古代のハス「大賀ハス」が有名ですが、ハスはすでに花期を終えており、古代米(赤米)がそろそろ実ろうかという時期でした。



竪穴住居の中に入ってみると、なかなか快適な空間となっており、ここで暮らした弥生人の生活ぶりが垣間見える。
住居内では火を使って料理などもしたはずですので、茅葺の屋根の虫よけにもなっていたのでしょう。



敷地内にはスイレン池があり、スイレンやヒツジグサが咲いていました。
訪れたのは9月の中旬頃でしたが、この日は移動中に今年初めての彼岸花を見ましたので、この池のスイレンは花期が少し遅いのかもしれません。
また、池の反対側にシダが群生しており、リフレクションが見られる時間帯に来れば、きっと美しい光景が見られることでしょう。






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史跡「大岩山古墳群」~「円山古墳」「天王山古墳」「甲山古墳」~

2022-10-12 05:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県野洲市小篠原には「大岩山古墳群」と呼ばれる3世紀後半から6世紀にかけて築かれた古墳があり、現存する8基の総称となっています。
その内の冨波古墳・古冨波山古墳・大塚山古墳・亀塚古墳・天王山古墳・円山古墳・甲山古墳・宮山2号墳の8古墳は国の史跡に指定されており、「桜生史跡公園」には3つの古墳が遊歩道で結ばれている。

野洲市の辺りは野洲川がもたらした肥沃な農耕地にあって繁栄したといい、有力な首長が時代の流れにのって前方後円墳や円墳を築いたようで、もとは20基以上の古墳があったと考えられているという。
また野洲市では数多くの銅鐸が発見されていることから、弥生時代から栄えた地であり、銅鐸を使った祭祀が行われていた地とも言えます。



「桜生史跡公園」には円山古墳・天王山古墳・甲山古墳が周遊できる遊歩道がある史跡公園となっており、歩きながら古墳が見学出来るコースとなっている。
最初にある「円山古墳」は6世紀前半に築造された直径28m・高さ8mの円墳です。

「円山古墳」の石室の中からは1万点にもおよぶガラス玉・多量の鉄製の武器類・冠の装身具・銀製の飾金具や馬具類が出土しており、大きな権力を持った人物が被葬されていると考えられているという。
過去に盗掘にあっている古墳とされていますが、それにも関わらず多数の埋葬品が出土しているのは、それだけ大きな力を持った方が被葬されていたのでしょう。



円墳の階段を登りきると、上は小高い丘の頂上の広場のようになっていて、野洲の市街地が望めます。
ここから別方向へ下っていく道がありますので下りていって横穴式石室の入口まで回り込めます。



石室の入口は閉鎖されているものの、石室内の様子は鉄格子の間から見ることが出来ます。
中に埋葬された石棺は、熊本県宇土半島産の阿蘇溶結凝灰岩製の石棺だといい、野洲川流域では阿蘇溶結凝灰岩を最初に使用した古墳だとされます。
遥々熊本から石棺のような重量物を運べたのは海上・湖上・川上輸送なのだと思いますが、その輸送能力には当時の進んだ技術力の高さが伺われます。



「円山古墳」の石室には、初葬棺と追葬棺の2基の石棺があるといい、それぞれ「阿蘇溶結凝灰岩」と「二上山凝灰岩」が使われているという。
石棺が時代もしくは権力者の位の違いによるものか、石材が違うのは何とも興味深い不思議です。





「桜生史跡公園」を歩いていると看板などはない代わりに小さな石棺が道しるべとなって案内をしてくれます。
この石棺の案内に従って次は「天王山古墳」方向へ歩いて行きます。



古墳を越えながら歩いていきますので登って下りてということになりますが、これはちょっとした山登りみたいな感覚になります。
「天王山古墳」は6世紀初頭の古墳とされ、「桜生史跡公園」の3つの古墳の中では一番古い。
そのため前方後円墳なんだと思いますが、全長50m(後円部径26m・前方部長24m)で高さが8mあります。



この古墳は石室が閉じられていますので石棺などの様子は分かりませんが、現地で見ると前方後円墳の形がはっきりと分かる古墳です。
写真では分かりにくいですが、後円部とその先にある前方部の様子です。
草の枯れた季節に訪れれば古墳の形状がより分かりやすくなるのではないかと思います。



最後の「甲山古墳」は直径約30m・高さ8mの6世紀中ごろに築造された円墳で、この古墳も石室を見学することが出来る。
この古墳も盗掘を受けているが、装身具・玉類・武器類・馬具類・工具類などの豪華な副葬品が出土していることから被葬者が大きな力を持っていたことが分かるという。



「桜生史跡公園」は山の丘陵の先端部にあるため、一旦古墳の上まで登って、下りながら周回していくルートとなっている。
この山系は北側に「大岩山古墳群」、南へ進めば「福林寺跡摩崖仏」「妙光寺山摩崖仏」があり、最南部には「御上神社」が神体山として祀る三上山へと連なる。



「甲山古墳」の前まで来たが草が生え茂っており、墳頂部が周囲の水田より20mほど高いため、小山のように見える古墳です。
「甲(かぶと)」を伏せたような形と言われていますが、真近に眺めると大きな壁のようです。



円墳を西側へ回り込んでいくと石室の入口があり、扉が開いているため羨道の中に入れる。
「甲山古墳」の横穴古墳の石室は14.2mあり、滋賀県では最大規模のものだとされ、鉄格子で閉じられた玄室の前まで入ることが出来る。



この石棺の石材も「阿蘇溶結凝灰岩」で、遥々熊本県から運ばれてきたものになり、被葬者が有力な人物だったことが分かります。
この刳抜式家形石棺は、滋賀県内で最大規模とされており、中は水銀朱とベンガラで真っ赤に着色されていたのだという。



石棺の蓋には縄掛突起があり、この突出部に縄を掛けて運搬したともされますが、これだけの巨石ですから何人も忍足を集めないと移動出来そうにありません。
石棺の周囲には玉石が敷かれており、調査時には玉石の上に朱や雲母が散乱していたそうです。



見応えのある古墳群だったなぁと堪能しつつ、外の世界へと戻ります。
格子て見ると、玄室は下へ向かって段階的に低くなっていることが分かります。



この「桜生史跡公園」の周辺には他にも古墳が分布していますので、案内所の方に別の古墳に立ち寄りたいと聞いてみる。
おられた方は、あまり詳しくないということでしたので「弥生の森歴史公園」にある古墳に立ち寄ってみることにします。
滋賀県は縄文・弥生時代から古墳時代、奈良・平安期からの仏教文化、戦国時代の動乱などの歴史を伝える史跡が数多く残り、巡り出すと時間が経つのを忘れてしまいそうです。




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「水木しげるの妖怪 百鬼夜行展~お化けたちはこうして生まれた~」~佐川美術館~

2022-10-08 06:30:30 | アート・ライブ・読書
 水木しげるの生誕100周年を記念して、佐川美術館では「水木しげるの妖怪 百鬼夜行展~お化けたちはこうして生まれた~」展が開催されています。
展示作品は、立体物・妖怪画・妖怪に関する資料など総数は148点に及び、まさに“お化けたちはこうして生まれた”を伝える水木しげるの魅力が詰まった美術展でした。

佐川美術館の入館はWEB予約のみとなっていますが、予約しようとした時には午前中は既に予約が取れず、昼に来館したものの駐車場は第二駐車場へと誘導されるほど来場者が多い。
驚いたのは帰りに立ち寄ったミュージアムショップも入場制限されているので列を作って待たねばならない状態で、オールドファンと子供連れの家族が入り混じった水木人気の高さを実感します。



エントランスホールには大きな『ぬりかべ(塗壁)』の立体物があり、会場に入場する前から水木ワールドに引き込まれます。
『ぬりかべ(塗壁』は九州北部に伝えられる妖怪で、相手の前に立ちはだかって通行の邪魔をするといいます。
水木しげるさんは第二次世界大戦でラバウルに従軍中、敵に追われ深い森をひとりで逃げ惑っている時に遭遇したという。



もし、夜道や森の中を独りで歩いている時に『ぬりかべ(塗壁』に出会ったしまったら、落ちている棒を拾って地面を掃うと消えるといいます。
(NHK Eテレ てれび絵本ー「水木しげるの妖怪えほん」)
面白かったのはこの『ぬりかべ』、ただの立体物であるだけでなく、よく見ていると瞬きをするのです。
動画で撮りましたが、全7秒の動画の5秒の辺りで瞬きします。





会場の情報コーナーには『油赤子』の立体物が展示されている。
『油赤子』は、近江国 大津の八町に出没した妖怪で、お地蔵さんから油を盗み売り歩いていた者が、死んだ後に地蔵の罰で成仏出来ず迷い火になり、『油赤子』として再生したものだという。(鳥山石燕)



ところで、会場入口までのスペースには多くの人が集まって、皆さん何やらスマホを構えておられます。
今回の美術展では入口に設置されたXR(クロスリアリティ)のアプリをインストールすると、美術館の中に潜んでいる妖怪を見つけて写真に納めることが出来る。

これはなかなか面白く、皆さんスマホを持ってうろうろと歩きまわっていて、XRに興味のない方には不思議な光景だったのではなかったのでしょうか。
『一反木綿』の絵にスマホをかざすと、絵からニョロニョロと姿を現し、また絵の中に消えていきます。





このコーナーでは5体の妖怪が出没し、コンプリートすると水木しげるさんと目玉親父の絵に妖怪が浮かんできて、記念撮影出来るという優れもの。
2体目の妖怪は『輪入道』で、車の毅に大きな入道の顔がついていて、もしこれを見た者はたちまちのうちに魂を抜かれてしまうという妖怪です。



次の『すねこすり』は岡山県に伝わる妖怪で、夜道で通行人の足元をこすりながら通り抜けるだけの罪のない妖怪だという。
伝承では犬のような姿とされていますが、水木さんのデザインした姿はどう見ても猫に見え、当方などは“すねこすり=猫の妖怪”と刷り込まれてしまっています。





2019年(日本の最初の感染者は2020年)から世界的に流行が始まった新型コロナウイルス感染症に対する「疫病退散」の祈願のための護符として『アマビエ』が有名になったのは周知の通り。
水木しげるさんは1984年に『アマビエ』を描いておられ、島根県隠岐郡では「アマビエの銅像」が設置されているそうです。



『アマビエ』の絵に妖怪カメラを向けると水面からブクブクと泡が出てきて、アマビエが姿を現します。
アマビエが最初に姿を現したのは、江戸時代で肥後国の海に出現したとされ、豊作や疫病などに関する予言をしたと伝えられているといい、いつの時代からか「疫病退散」の護符になっていったという。



さて、XRの最期は日本妖怪の総大将『ぬらりひょん』ですが、この妖怪は人がせわしくしている時に勝手に家に上がり込んでお茶やタバコなどを飲んでいる飄々とした妖怪。
掛けられた絵から何やら黒い影が出てきて...。





商人風の姿を現したかと思うと...。



紫の煙に包まれて消えてしまう。
やはり『ぬらりひょん』は得体の知れないやつです。



ということで、5体の妖怪を発見すると、水木しげるさんと目玉親父がくつろいでいる絵に妖怪たちが浮き上がってきます。
記念撮影をして、これでやっと会場に入ることになります。



美術展の構成の第1章は「水木しげるの妖怪人生」で、子供の頃の境港時代に祈祷師の妻「のんのんばあ」から教えてもらった妖怪の話、戦争で南方最前線に送られていた時に遭遇した不思議な現象。
戦地で左手を失って職業を転々とした後、紙芝居作家・貸本作家から雑誌で鬼太郎シリーズを連載するようになる貧乏多忙時代を展示します。

第2章「古書店妖怪探訪」では神田の古書店街で見つけた江戸時代の浮世絵に描かれた妖怪や、民俗学者・風俗学者の本から得た後の作品につながる資料が展示されています。
水木さんが古書店街で古い書籍を探し歩いておられる姿が目に浮かびます。

第3章「水木しげるの妖怪工房」では、「絵師から継承した妖怪画」「書籍の文字から創作した妖怪」「伝説や民芸品を参考にした妖怪」が基となる浮世絵や文章と一緒に比較できるように展示されている。
古代より人間には見えないものへの信仰や畏怖はあったと思いますが、江戸の浮世絵師や明治の学者は、それを絵や文章で表現し、さらに体系化して見えるようにしたのが水木しげるさんともいえます。

第4章「水木しげるの百鬼夜行」では、妖怪画を「山」「水」「里」「家」とそれぞれの妖怪が棲む場所に分けて展示されており、馴染みのある妖怪を含めて70数作の妖怪が展示されている。
会場内の各所には妖怪の立体物が展示されていて、その妖怪は「大かむろ」「ぬっぺほふ」「呼子」「鶴瓶落とし」「笠ばけ」「かわうそ」と見ているだけで心躍る。


図録『水木しげるの妖怪 百鬼夜行展』

ミュージアムショップには10分ほど並んでいたら入ることができ、図録と車に貼る“車間距離注意”のシールをまずは購入。
ついつい買ってしまったのは、河童の三平バージョンの『ケロリン桶』です。
昔の銭湯には必ずといっていいほど置いてあった懐かしい桶で、映画「テルマエ・ロマエ」でもルシウスこと阿部寛がケロリン桶を持った写真をポスターに使っていましたね。



水木しげるさんの絵は、登場する妖怪は漫画として描き、背景は緻密で如何にも霊的なものが宿るような場所のように描かれます。
当方は、見えないものや霊的なものが棲むような場所へ好んで行きますが、気が付かないだけで妖怪とすれ違っていたりするのかもしれません。
妖怪は悪戯や多少の悪さはしますが、実際は憎めない存在のやつが多く、見えはしないけど、この世の同居人と考えれば怖くはないですね。

ところで、水木しげるさんがモデルにしたという江戸時代の画家で浮世絵師の鳥山石燕の「画図百鬼夜行全画集」を入手しました。
水木しげるさんの「妖怪画談」と比較しながら眺めると、妖怪は古典の世界から江戸・昭和と描き続けられてきたのだと実感出来ます。

 
左:鳥山石燕「画図百鬼夜行全画集」、右:水木しげるさん「妖怪画談」


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湖のスコーレ「中川ももこ展」~やまなみ工房~

2022-10-05 16:50:05 | アート・ライブ・読書
 長浜駅から黒壁スクエアに向かって歩いていき、曳山博物館まで行くとその向かいに「湖のスコーレ」という商業施設があります。
醸造室やチーズ製造室などがあり、他にもストアや喫茶・新刊と古書が並ぶ書籍コーナーがあって、観光客や若い世代の長浜在住の方が訪れそうなお店です。

「湖のスコーレ」の2階にはギャラリーがあって、周期的に甲賀市にある福祉施設「やまなみ工房」の作家の作品が展示・販売されます。
「やまなみ工房」は約90名の知的・精神・身体に障がいを持つ方が、清掃や喫茶の作業をしながら絵画や粘土や刺繍・縫製での作品作りをされている施設です。



今回の出品作家は中川ももこさんで、作品はカラーマーカーやペンで描いた絵や、墨やコーヒーで描いた絵の上にゴム印で数字を押していくような作品を作られています。
「やまなみ工房」の作家は、“正規の美術教育を受けていない人による芸術”という意味でアール・ブリュットの作家となり、いわゆる近代美術の作品より見ていて面白い作品が多いと思います。



「やまなみ工房」のスタンスは、記事などによると『あなたはあなたのままでいい』とありのままの自分を表現し、楽しく過ごすことが重要ということです。
日常の社会生活の中では、自分が自分らしくあり続けることは難しい事が多々ありますが、少なくとも自分らしく過ごせる時間を見つけていくことも大事なことだと思います。

ロビーに展示されている作品はコーヒーで描いた丸の中に墨汁を付けた数字のハンコを押していった作品。
「やまなみ工房」のHPでも作品を見ることが出来ますが、作品の傾向はベースは同じでも少し傾向の違う作品に分類されそうです。



中川ももこさんの作品のひとつのベースになっているのは“まる(CIRCLE)”があるように見えます。
下の作品はその“まる(CIRCLE)”を墨で濃淡をつけて描いた上に、数字を赤いハンコで押しています。
数字は縦に同じ数字が押されていますが、横は1.2.3の順番が変えられている部分があります。





“まる”を描いた作品には水彩絵の具を使った作品が幾つかあります。
素材や色調が違っても、同じ形のまるが描かれるのは不思議ですね。



中川ももこさんの作品にはマーカーペンを使って、密に塗られた部分と線の重なりが少ない作風の絵もあります。
ほとんどの作品が「タイトル不明」でしたが、下の絵だけは「ももこ」という題が付いています。



長浜ではBIWAKO PICNIC BASEというサテライトオフィスでも5日間。「ぴかっtoアート展」第6回湖北巡回展が開催されていました。
昨年は北国街道 安藤家で開催された巡回展は、滋賀県の障がいのある人による公募作品展で、作品展としての開催は12回目、うち湖北巡回展は6回目となるそうです。
施設のバスで来場されている方の姿もあり、アールブリュットの作品として見るにとどまらず、感性の豊かさと表現力の凄さを感じます。




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