僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

「繖山」北腰越登山口~繖山~近江風土記の丘を歩く!

2022-11-30 17:21:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「繖山」は西国三十三所の第三十二番札所・観音正寺や佐々木六角氏の居城だった「観音寺城址」がある山で、標高は432.5mの低山ながらJR駅では安土駅と能登川駅にまたがる横に長い山です。
近江八幡市から東近江市、竜王町の平野部には登りやすい低山が点在しており、神社仏閣や史跡が集中していることもあって、足を運ぶ機会が多く馴染みのある地となっています。

繖山へは過去に虫食い登山のように登ってきており、いつかは縦走してみたい山ですが、今回も安土町側から山頂と観音寺城址へのピストンで登ることにしました。
この日、繖山を選んだのは購入したばかりのミッドカットの登山靴の慣らし歩行を兼ねてということで、木段をひたすら登る繖山での歩き心地を確認です。



「滋賀県立安土城考古博物館」の駐車場に車を停めて、「近江風土記の丘」の石碑までのロード歩きが約15分少々。
「近江風土記の丘」は、安土城跡・大中の湖南遺跡・瓢箪山古墳・観音寺城跡・博物館からなる広大な歴史公園となっており、石碑からわずかな距離の所に北腰越登山口から山登り開始です。



繖山はどこから登っても木段の登りばかりの印象を持っていますが、このコースから山頂までも基本的には木段の登りが約1時間ほど続きます。
勾配の急な場所が多いので、木段がなければ登るのは困難な場所もありますので、きっちりと整備されているのはありがたいものの、中々にシンドイ山でもあります。



しばらく登ると「子授け地蔵尊」の鳥居があり、石の祠には2躰の地蔵石仏がそれぞれ祀られています。
子供を授かることを願う人々がここまで登ってきて願をかけられた場所なのでしょう。
幾重にも前掛けを重ねている姿からはお地蔵さんをお祀りする方々の信仰の姿が伺われます。



左のお地蔵さんが元々からの石仏で、右のお地蔵さんは新しそうに見えるため、後から奉納されたのかと思います。
お地蔵さんの後上部にも石の祠があるが、中には何もお祀りされておらず、なぜか「海上安全」と彫られた台座がある。
海上とは湖上のことだと思いますが、繖山の西側には干拓前までは琵琶湖まで続く内湖が広がっていたことを考えると琵琶湖や内湖での水運の安全を祈願していた歴史があったことは決して不思議なことではありません。



しばらく登っていくと西国三十三所札所の御本尊の石仏があり、気が付いたのは第30番札所の竹生島・宝厳寺の「千手千眼観世音菩薩」からでした。
西国観音霊場巡礼の石仏巡りが勧請されている所を時々見かけますが、繖山にも巡礼道があるようです。



一際目を引いたのは第29番札所・松尾寺の馬頭観世音菩薩の石仏でした。
石組の上に祀られており、見た中ではここが一番立派なものとなっており、観音巡礼は華厳寺から青岸渡寺へと向かっているようです。
結局、第26番札所の一乗寺までは確認出来たのですが、その後は見つけられなかったので分岐から別の道に石仏は続いていたのでしょう。



更に上を目指して登っていくと磐座のような巨石の横を通り抜けることになります。
ここから先は大きな岩を見ることが多くなりますが、繖山の北側の峰の猪子山の辺りは岩石信仰が盛んな山ですし、桑実寺へと続く道には“瑠璃石”があり、隣の赤神山には太郎坊宮がある巨石の多い一帯です。



視界の広がった場所からは手前に安土山と西の湖、その奥には西国三十三所第三十一番札所の長命寺のある長命寺山や奥津山。
琵琶湖を挟んで対岸に霞んで見えるは比良山系でしょうか。ややガスっていますが、心休まる湖東の風景です。



分岐から三角点までの急坂を登りきると繖山の山頂です。
さほど広い場所ではありませんが、山頂ということもあって風通しが良く、一汗かいた体が冷えそうでしたのでジャケットを羽織って体を暖める。



山頂は周辺に低木が茂っていて眺望はないが、岩場があるのでちょっと腰かけて休憩するにはいい場所です。
繖山は標高432.5mの低山ですが、西国三十三所札所の「観音正寺」や「桑実寺」、「石馬寺」「教林坊」などの有名寺院は始めとする神社仏閣が点在する霊山でもあります。





木段の横には繖山の二等三角点があります。
以前は三角点に関心を示しませんでしたが、最近はチェックするようにしています。山頂まで登った証でもありますしね。



繖山の山中には何ヶ所も下山道がありますが、車のある安土側に戻らなければなりませんので、「観音寺城址」まで行って折り返して下山することにします。
「観音寺城址」は近江国守護佐々木六角氏の居城跡で南北朝期に砦として始まったといい、応人の乱では3度の観音寺城の攻城戦があり、戦国時代には郭に石垣をめぐらすなどして城の守りを増強したといいます。

観音寺城は「日本五大山城」とも呼ばれた城でしたが、織田信長が足利義昭を擁して上洛の際に敵対し、形勢不利となると観音寺城を開城して逃亡したといいます。
この戦の後、六角氏は没落して歴史の舞台から消えることになり、観音寺城は廃城となって現在は史跡として残るのみとなる。



滋賀県には中近世にかけて1300を超える城郭が築かれたといいます。
都のあった京都に近く、東日本や日本海側からの通路であり琵琶湖の水運もあったことから俗にいう“近江を制する者は天下を制す”の時代に戦が絶えなかった影響かと思います。

上の写真は「伝平井丸の虎口」とされる場所で巨石が積まれた見応えのある石塁です。
「大石垣」の上の郭ところまで降りていくと、巨石がいくつも点在しています。
前回訪れた時に、道を間違えて巨石の横の崖をズルズルと滑りながら降りたのが記憶に残る。



巨石の中で名前が付いているのは「女郎岩」。
女郎の立ち姿に似ているので付いた名前なのかも知れないが、昔のお女郎さんはこんな立ち姿だったのかな。



「大石垣」は道沿いに下っていくと、その全貌を見ることが出来ます。
石垣の下は「近江八幡市 豊かな杜づくり隊」の方々が木々の伐採や整備をされておられ、かつては大石垣が麓からはっきり見えたのに、里山の荒廃で見えなくなり一時期は存在すら忘れられていたそうです。
今は大石垣の周囲を周回出来るようになり、観音寺城址の見所のひとつなっていて、戦国時代に敵の動きを察知できた頃の状態に戻ってきています。



大石垣の上から眺める湖東平野の光景です。
ここから見えるのは箕作山、雪野山、鏡山とその奥には近江富士こと三上山。さらに奥は鈴鹿山系でしょうか。



下山道は途中から道を変更して「安土城考古博物館」方向から周回コースで下山してみます。
道中に見かけたのはコウヤボウキの花とアキノキリンソウの花。
紅葉の季節になっても秋の花は可憐に咲いています。



そして無事下山完了。
なんと「滋賀県立安土城考古博物館」のすぐ横に出てきました。
行きの登山口までのロード歩きは何だったんだろうと思いましたが、別の道を行くから見えるものあると思いますので周回するのは正解です。




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聖徳太子と出会う近江一万階段~瓦屋禅寺の石段~

2022-11-27 17:03:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 聖徳太子に由緒を持つ社寺は、滋賀県内で99を数えるといい、近畿の府や県では群を抜いた多さで半数以上は東近江・近江八幡・日野・竜王に集中しているそうです。
かつて滋賀県では天台宗の寺院が数多く建立され、聖徳太子の生まれ変わりとされる最澄に対する信仰が高かった影響とされていて、寺院の多くは山の中腹辺りにあることが多い。

道の駅でもらった「聖徳太子と出会う近江一万階段」では、聖徳太子にまつわる48の社寺の石段を登ろうという新しい観光ルートが企画されているとのこと。
石段の総数は1万6千227段になり、富士山の標高(3776m)とほぼ同じになるそうです。(読売新聞記事から抜粋)



1万段の石段にチャレンジするつもりはないのですが、以前に参拝して軟弱にも林道を使ってしまった「瓦屋禅寺」の石段994段を登ってみることにしました。
冊子では各社寺の石段の難易度を相撲のように“横綱・大関・関脇・幕内”と分け、「瓦屋禅寺」は横綱級のランク付けの石段です。

大門跡の近くにある獣除けのゲートから参道に入ると、見上げんばかりに続く石段が見えてきます。
この石段は史跡により迂回の必要な1カ所をのぞいて、上りの石段だけで平面を歩くことは全くありません。



「瓦屋禅寺」の参道には古墳時代後期の「瓦屋寺山古墳」が57基確認されているといい、この辺りは縄文時代から集落が営まれた地とされているという。
参道に「53号古墳」の案内板があったので、石段を離れて進んでみると石室が開いている円墳がありました。



石室の内部は巨大な岩で構成されたような古墳ではなく、同じくらいの大きさの石が積まれてできています。
山の麓にある「北山古墳」はこれより大きく、石室の内部がはっきりと確認できる古墳だが、53号古墳は北山古墳よりも小さい。



石段をさらに登ったところには「47号古墳」と「48号古墳」があったが、こちらはかなり崩れてしまい、確認しづらい状態になっていた。
2つの古墳は隣り合わせの位置にあるが、夫婦とか親子なのだろうか



「47号古墳」は看板がなければ気が付かない状態にまでなっており、石室も埋まってしまっている。



「48号古墳」は石室は確認できる状態ですが、こちらもかなり崩れつつあります。
2つとも円墳だと思いますが、山の斜面を利用して造られた古墳でした。



古墳の墳丘の辺りに巨石と巨石の上に生える木がありました。
この木の根はどこを通っているのかよく分からなかったのですが、怖ろしい生命力の木なんだと思わざるを得ません。



参道脇に「閻魔堂跡」の看板があり、かつて御堂があっただろうと推測できる礎石のようなものが残っています。
閻魔堂は麓にある松尾神社の境内にあった尊勝寺にあったいいますが、明治の廃仏毀釈により尊勝寺が廃寺になり、瓦屋禅寺の参道のこの場所へ移されたという。

しかし昭和の時代になって林道が開通して、石段を利用する人が減少したため、昭和50年に境内の一角へ移築されたそうです。
瓦屋禅寺の境内に祀られる閻魔大王は下の写真で、参道に閻魔堂があった時には“清き心の持ち主のみ、その聖域の先へ進むことが許されていた”とされます。





瓦屋禅寺と聖徳太子の縁は、太子が四天王寺建立の際に蘇我大臣に命じて、山麓の竃で10万6千枚の瓦を焼かせ、山上に「瓦屋寺(瓦寺)」を建立したと伝わります。
太子は「十一面千手観音」と「四天王像」を彫られたと伝承され、険しい山中を登る途中、太子はここで腰掛て休憩されたという。
その石が「聖徳太子の腰掛石」として残され、石碑は文政12年(1829年)の刻印がありました。



瓦屋禅寺が禅宗寺院になる前の華厳宗の時代には24宇、天台宗の時代には48坊があったとされますが、織田信長の兵火により堂宇は悉く消失してしまったといいます。
現在、僧坊はなく跡地だけが残されており、かつての僧坊跡には石垣だけが残されている。
石垣が残る山中の寺院が多いですが、かつての大寺では僧坊を砦として僧兵が戦を戦った時代があったのでしょう。



真っすぐに登って行く石段に一カ所だけ突き当たって迂回する道があります。
石段の中央にあるのは「白蛇伝説」の伝わる場所。
聖徳太子が寺を建立された時に白い鹿が現れた、またこの場所も古えは「三井」と呼ばれ、白蛇の塚があったとされる場所になります。



白蛇伝説の場所には5丁の石碑がありましたのでここで半分くらいかと思いながら石段に戻るが、さらに延々と石段が続いており、終わりが見えない。
高さのない段なので疲れはさほどでもないものの、足の置き場に注意したり、ガタついた石段でバランスを崩さないようにして登る。



参道を外れて少し下った場所には「弁慶の背比べ石」があります。
白蛇伝説の石と形が良く似ていますが、弁慶の背比べ石の方が遥かに大きく、弁慶の大男ぶりをあらわすような石です。

源義経が家来を連れて太郎坊宮に参拝し、瓦屋寺にも参詣したところ、寺のお坊さんが弁慶に「この石と背比べしないかと持ち掛けたという。
弁慶が背比べしたところ、石の方が高かったので弁慶は怒ってその石を蹴飛ばしたという。すると石の先端が割れて飛んでいき田んぼの中に落ちた。
以降この地を「田中」と呼ぶことになったとありました。



そろそろ空の上が抜けてきたと感じ始めた頃、「箕作山」の磐座とされる巨石が見えてきます。
東より太陽が昇り生活が始まり、西に沈む時にはその一日へ感謝を述べて磐座へお供え物を祀り、祈りを捧げたとされたそうです。





境内地に入ると「般若石」が祀られています。
太郎坊宮のある赤神山と箕作山にある瓦屋禅寺は山続きでつながっていますから、箕作山にも巨石が多い。



本堂は開いており、御本尊「十一面千手観世音菩薩立像(御前立)と「聖徳太子像」が祀られ、「四天王像」が守護しています。
御本尊の「十一面千手観世音菩薩立像」は秘仏ですが、2023年に三十三年に一度の御開帳をされるので、来年には拝観することが出来そうです。



展望台からは霊仙山と伊吹山が同じ視野の中で望めます。
鈴鹿の山々が連なる中で、2つの山だけが頭一つ上に突き出ているのが分かります。



このまま箕作山まで登ろうかと思ったが、登山口が分からず石段を下りましたが、ガタツキの多い部分のある石段ですのでスピードが上がらず結構時間がかかってしまいました。
車に戻って八日市市街を抜けた辺りまで来ると、何やら興味深いものを発見しました。



民家の前に「大塚古墳」という円墳があり、埴輪が5躰乗せられています。
古墳は「建部大塚古墳群」のひとつで、古墳時代後期(6~7世紀)の古墳とされているという。
古墳を回り込んでみると、石室が開いており、中が覗けるようになっています。



石室の周囲は草が多い茂っており、中には石造りの五輪塔が中央に置かれている。
かつては人の住まないところに古墳はあったのでしょうけど、今は古墳が民家のすぐ隣にあるのは時々見かける光景です。



大塚古墳群に属する別の古墳では鉄製武器・馬具・須恵器等が発掘されているようですが、人物埴輪はどうなんでしょう。
とはいえ、車の通行の多い道路沿いの古墳に人物埴輪が置かれていると、目を引きますしワクワク感がありますね。




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比叡山 坂本からの本坂ルートで山頂の大比叡へ登頂する!

2022-11-23 14:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 比叡山延暦寺への参拝ルートは、ドライブウェイ・ロープウェイ・ケーブル・シャトルバスと至れり尽くせりですが、徒歩で山頂の大比叡まで登ってみたいとかねがね思っていました。
ルートを調べてみると、日吉大社から「本坂ルート(表参道)」で東塔エリアまで登り、東塔の阿弥陀堂の裏から山頂「大比叡(標高848m)」まで登れるようです。

比叡山延暦寺の千日回峰行では、無動寺・東塔・西塔・横川・日吉大社を周回する約30キロを回峰しますので、「本坂ルート(表参道)」はかつては日吉大社から比叡山延暦寺へ参拝する人が歩いた道。
日吉大社の表鳥居と比叡山高校の間にある六角堂前の石段からスタートすることになりますが、石標に根本中堂まで二十五丁となっている。
東塔までの約2.7㌔の道のりと、東塔から「大比叡」までの登山で約2時間ちょっとくらいかと想定する。



最初は穴太積の石垣に挟まれた石段の参道を登っていきますが、横幅の広い石段のため特に周辺に注意を払うこともなく、神社仏閣参拝の感覚で登っていく。
石段は数分で登り終えることが出来る段数ですが、朝一で体がまだ目覚めておらず息が切れる。



石段を登りきると分岐に出て、正面にはまた次の石段が始まります。
段の部分の傾斜が下方に斜めになっていて登りにくいこの石段は、実はこの石段は「南善坊」への道で登山道は左の道だったようです。
石段を登りきると行き止まりになっていましたが、化学繊維のネットが張ってある向こう側に登山道が見えたので、ネットをくぐって登山道へ出る。



さぁいよいよこれからが山登りの道になります。
道はやや荒れている場所もあるとはいえ、基本1本道なので迷うことはなく、史跡がある場所への横道には案内板があるので立ち寄ることが可能です。



登山道の横には日吉大社の「猿の霊石」を小ぶりにしたような形の岩が祀られています。
日吉大社と比叡山の境界を示すために祀ってあるようにも思えます。



道中には朽ちそうになっている切り株があり、鮮度のある花と水の入ったペットボトルが置いてある。
何らかの曰くのある神木だったのかと思われますが、この後の道中でも石仏に供えられている花が新しく、誰かが日々登ってきて花を交換されているようです。



道は登るにつれて細くなり、表参道の名称とは随分と印象が異なる道になり、山登り感が高まってきます。
ただ「本坂ルート」は両側の森の間を進むルートですので、景色は全く見えずどのくらいの高さまで登ってきているのか実感できず、丁石もほとんど見当たらず目安になるものがない。



参拝道の横に「石仏公園広場」の書かれた場所への分岐がありましたので立ち寄ってみる。
石仏庭園というくらいですので道沿いにはたくさんの石仏が連なっています。
後方の横の丘には苗木が植林されていましたので、いずれは季節の花の咲く広場になるのかと思います。



登り始めて唯一発見した丁石は「十四丁」で、東塔まで二十五丁になるので約半分まで登ってきたことになります。
ただ道は増々歩きにくい道になってきて、場所によっては大雨の時には雨水が流れて川のようになるのではと思うような道もある。



比叡山には石仏や墓石が各所にありますが、本坂・表参道にも石仏が祀られている場所が何ヶ所かありました。
斜面に祀られた石仏にはたくさんの石が積まれ、石が落ちないように倒木を利用して囲いのようにしてあります。
この石仏にも花が供えられており、石仏にかける水と思われるペットボトルが置いてあります。



さらに登って行くと、参道脇に広場があり、石碑と石仏2躰が祀られてあります。
石仏は劣化が激しくなっていますが、下に2躰の仏が彫られているのが確認出来ます。
ここまで日吉大社の参道入口から約1時間くらいの位置ですが、花には鮮度がありますので誰かがここまで登ってきて花を供えられているのでしょう。



参道の横に段の幅が狭く足を踏み外しそうになる登りにくい石段があり、上に古びた御堂があったので登ってみます。
御堂の前には壊れてしまったのか火袋の部分がない石灯籠があり、御堂は「聖尊院堂」または「亀堂」と呼ばれ、かつて五智院(廃寺)があった場所だそうです。



御堂は解放されているので、中に祀られた石仏を拝観することができます。
この場所には「比叡山の七不思議」のひとつの「おとめの水垢離」という不思議な伝説が伝わるとされます。

賢秀という僧が仏間に入ると、位牌のひとつが小刻みに動き始め水音が聞こえてきたという。
水音の正体を確かめようとして霊泉に行くと、美しい女が水浴びをしていて、賢秀は意識を失って倒れてしまい不思議な夢を見たという。
女は夢の中で“極楽に行けるよう比叡山に魂を預けて修行していた”と告げ、仏間にあった位牌が消えていたという不思議。



そろそろ東塔エリアが書かくなってきたかと思い始めた時に分岐があり、石段の下に「金勝院 法然堂」がありました。
「法然堂」は、法然上人が15歳の時に剃髪得度をされた場所だとされ、法然上人得度の霊蹟」「剃髪の故地」「浄土門発祥の地」とされている。
比叡山が現在も信仰される鎌倉仏教の開祖(道元・法然・親鸞・栄西・日蓮・一遍など)を輩出した日本仏教の母山であることが分かる比叡山ならではの寺院だと思います。



法然堂を過ぎると山道から舗装されたコンクリートの道になりますが、これがまた急坂で何とか登りきるといよいよ東塔エリアに入り、延暦寺会館の横に出ます。
目指すは大比叡の山頂ですし、東塔には何度も参拝していますので、そのまま根本中堂前を通り過ぎて阿弥陀堂へ向かいます。
根本中堂は改修工事中のままで、完成予定は改修に必要なサワラ材の確保のため2027年3月まで延長されたようです。



そのまま阿弥陀堂まで進むと、御堂の裏側に大比叡への登山口があり、そこから約30分の山登りが始まります。
東塔エリアには観光客の方が多く、山登りの方も少数おられ、山登りスタイルの方と観光を兼ねて参拝されている方の服装があまりにも違うのでおかしな違和感を感じてしまいます。



山頂への登山道は、表参道よりも登山の道らしい細い九十九折の道となっており、道中に見えてきたのは千日回峰道の途中にある「玉体杉」をややこぶりにしたようなスギ。
合体樹のように見えるこの杉は、雪の重みで枝は曲がっていて、曲がった所から力強く空に向かって垂直に伸びていて霊木感を感じます。



山頂への道は登り始めた時から上部の杉の上に空が広がっているのが分かり、登るにつれて山頂が近づいてきているのが実感出来ます。
山に登った時に山頂が近くなってきたのを感じると、ここまでシンドイ道もあったけど、あと少しの時間を出来るだけ楽しもうと思うようになります。



そして山頂「大比叡」へ到着。
山頂近くは工事をしている場所があったので迂回路を通って辿り着き、山頂は眺望は全くないもののやっと比叡山のピークに登れた満足感にひたります。



山頂で一緒になった方と少しお話をしてみると、かなり遠方から旅行で来られていて、旅行中は毎日近畿の山登りをされていたとのこと。
他にも平日にも関わらず登って来られる何人と方と会いましたが、京都の修学院方面から下山する人、無動寺道から下山する人などコースは様々なようです。
おそらく登ってきたコースもみなさん様々だったのかと思います。



比叡山の麓に祀られる日吉大社は、西本宮に「大比叡大明神(比叡山)」、東本宮には「小比叡大明神(八王子山)」を祀りますが、これで大比叡(比叡山)と小比叡(八王子山)の両方に登ることが出来ました。
山頂のエリアはそれほど広いスペースではありませんが、中央部に一等三角点があり、石がたくさん積まれてあります。



日吉大社から大比叡までの本坂ルートでは、眺望が望める場所はありませんでしたが、無動寺谷への分岐地点にある坂本ケーブル延暦寺駅まで来ると琵琶湖の眺望を眺められる場所がありました。
見おろす風景は手前に坂本の町並みと琵琶湖の南湖。北側には琵琶湖大橋と沖島や長命寺山、観音寺山や奥の方には鈴鹿山系も見えます。



比叡山本坂ルート(表参道)や大比叡への登山道は、登りにくい場所もありますが、危険個所はあまりなく猿や鹿(糞)は見かけるものの、熊や猪の出没はほとんどないようです。
登山ルートは複数のコースがあり、コースタイムに大きな違いはないようですので、次は別のコースから登ってみるのも面白いかと思います。


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小谷寺の「如意輪観音半跏思惟像」と仏像群~長浜市湖北町伊部~

2022-11-20 15:15:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 小谷山の山麓にある「小谷寺」は真言宗豊山派(本山は奈良の長谷寺)は、奈良時代に白山の泰澄が湖北の峰々に修験道場を開いた際に小谷山に建てられた坊舎とされています。
かつては「常勝寺」の寺名を持ち、小谷山の峰にあったと考えられていますが、浅井氏が小谷山に城を築いた時に小谷山の東側に移動し、浅井氏の祈願時として栄えたとされます。

しかし、織田信長と浅井長政の戦によって小谷城落城と同時に小谷寺も廃塵と化し、その後は豊臣秀吉によって現在地に再建、徳川の時代になっても寺領は保護されたといいます。
小谷寺には美しい「如意輪観音半跏像」が祀られていますが、通常は開帳されておらず今回3年ぶりの開帳となりましたので、当方としては2016年以来の参拝となりました。



小谷寺は以前聞いた話では檀家は10軒とのことで、本堂も老朽化してきており、再建の寄進を募っておられます。
これは湖北の観音堂の多くで言えることですが、支える人の数が減り檀家の老齢化に伴って寺院の補修や改修が困難になってきていることが大きな問題になっています。



前回参拝した時は本堂へ直接上がらせて頂きましたが、今回は隣の護摩堂に受付があり、そちらから入らせて頂くようになっていました。
驚いたのはご住職や若い僧侶(住職の息子さん?)や檀家の方が訪れた人に付いて丁寧に説明されて頂けたことでしょうか。
結局、護摩堂から本堂を見て回る間中、若い僧侶の方が横について説明して頂いたのは実に分かりやすくてありがたかったです。



護摩堂へ入ると正面には「十二天」の仏画と御前立の「如意輪観音像」が祀られています。
二臂で左手に未開敷蓮華を持ち、右手は頬に手の平を当てるように思惟する姿をされている。
御前立とはいえこの如意輪観音像は気持ちが魅かれる仏像です。



やや小ぶりながら入り組んだような衣の装飾が特徴的な「十一面観音立像」は大顔の尊顔の目鼻や眉が凛々しい仏像でした。
横に祀られているのは「聖徳太子象」でしょうか。
小谷寺は廃仏希釈で廃寺になった寺院の仏像が多く集められているといい、履歴のはっきりしない仏像が多いそうです。



秀吉は小谷寺に対して四十四石の朱印を与えたといい、その朱印が3枚残されており、これが護摩堂の最後の展示物となる。
そのまま本堂へと入ると実に煌びやかな内陣となっており、多宝塔が置かれた登高座の前から見る雰囲気は本堂の建物の素朴さとはまるで別世界のようになっています。



須弥壇の横には大きな破損仏が祀られており、元は座像だったと推定されるが痛みは激しく痛々しい。
湖北では戦乱の際に仏像を土中や川に沈めて守ったという話をよく聞きますが、この仏も土中に埋めている間に劣化してしまったようです。



この破損仏は角度を変えて眺めると元々あった顔の表情が浮き上がってくるように確認出来ます。
また、首には3本の線も確認でき、これは「三道」で“見・修・無学”や“惑・業・苦”を意味するといわれているが、これには諸説あるという。



さていよいよ御本尊の「如意輪観音半跏思惟像」に再会です。
観音像は5~6世紀の百済で鋳造された金銅仏と推定されており、通常は秘仏となっており毎年この時期にだけ御開帳される。

曳山のような豪奢な印象を受ける厨子は、広目天と多聞天が守護し、扉絵には不動明王と毘沙門天が描かれている。
観音さまは岩窟を模した造作の中に苔の花が咲く華台に祀られており、1躰しか祀られていないが脇侍は前のめりになって今にも救済へ向かうが如く。



観音さまはスリムな体形に手が長く、思惟する右手は人差し指と中指の2本がやや反りながら頬につけている。
目は物思いに耽るかのように伏し目ふがちで表情は実に穏やか。
像高22cmと小さな仏像ですが、遠方から訪れる人が多いのも納得できる美しい仏像です。



御本尊の厨子の右側には空海の座像が祀られる。
五鈷杵を握る空海の右手は実際に同じ形を真似てみると、かなり辛く不自然な形をなる。
これは空海が苦しい姿勢をしながらも必死で人の話を聞こうとしている姿なのだと説明がありました。



湖北では竹生島宝厳寺の御本尊であり、浅井氏も信仰した「辯才天」が神仏習合して「宇賀辯才天」として祀られることが多いのですが、小谷寺にも2躰の「辯才天」が残されています。
最初の1躰は典型的な「宇賀辯才天」で、八臂の手に武具を握り、頭の上には鳥居がある。
辯才天は水の神様ですから華台は水を模したものとなっており、何やら白い花が咲いている。



もう1躰の「辯才天」も八臂の手に武具を握っており、頭の上には白蛇の姿が見える。
厨子の紋様の美しさにも驚きますが、この小さな辯才天の彩色の細かさにも驚くことになります。
見事な装飾の辯才天は波高き水の中から突然現れた水の神のようで、琵琶を持つ天女の姿の辯才天とは随分印象が異なります。



「愛染明王」は織田信長の妹であるお市の方が浅井長政に輿入れする際に念じ仏として持っていった仏像だとされています。
長政が自害して小谷城が落城した後、長政の冥福を祈るために小谷寺に奉納したという。



「不動明王像」はこれまで何十躰も見てきましたが、頭に蓮華を載せているのにはこれまで気付いていませんでした。
下から見上げることの多い不動明王ですから見えにくかったこともありますが、この不動さんはうつむき加減でしたので蓮華がはっきり分かります。
憤怒の表情をしながら衆生の傍に現れ、悟りの世界に導いて下さるという現れなのでしょう。



あまり聞き慣れない珍しい「馬鳴菩薩」という仏像が小谷寺には祀られています。
馬鳴菩薩は養蚕の神とされており、かつての湖北では養蚕が盛んに行われ、伊部の辺りでも近年まで養蚕が行われていたといいます。



馬鳴菩薩は六臂の座像で白馬に跨り、手には竿秤や糸巻きを持っているかなり変わった菩薩さまです。
かつて長浜は繊維の町とされるほど繊維業が盛んな町で養蚕業を営む農家が多かったといいますが、今では浜ちりめんと木之本の楽器糸くらいになってしまったようです。



かなりゆっくりと堂内を見て回りましたが、僧侶の方はずっと付き添って説明をして頂き、大変感謝しています。
おまけに世話方の方から洒落た手作りのブローチまで頂いてしまいました。
ヒマワリの種とキュウリの種と大豆でしょうか。安全ピンで留めるようになっており、道の駅などで売ったら結構売れそうな逸品です。



今回参拝することが出来たのは、少し前に小谷寺さんから如意輪観音さまを描いたハガキを頂いたからでした。
“人々の憂い、悲しみ、苦しみをやさしく見つめ あなたの心に添ってお救いくださいます。”
言葉の通りのやさしくも美しい観音さまでした。




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百済寺「秘仏御本尊 十一面観音菩薩」特別参拝~聖徳太子千四百年御聖忌~

2022-11-16 17:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の湖東・湖南地方には聖徳太子が開基したと伝わる寺院や伝承のある寺院・摩崖仏・巨樹が多く残されています。
なぜそこまで「聖徳太子信仰」が高くなったのか?奈良県や大阪府を凌ぐ数の聖徳太子に関する文化遺跡がなぜ滋賀県には多いのか不思議に思います。

東近江市観光協会は、中国天台宗を確立した「智顗」という僧の師匠が「慧思」という僧になり、「慧思」の生まれ変わりとされるのが聖徳太子になるとしています。
すると、中国天台宗の「智顗」は、「慧思」=聖徳太子となることから、聖徳太子の弟子ということになり、「智顗」に学んだ最澄は、「聖徳太子の弟子」となるという。
天台王国だった近江の天台宗寺院は「聖徳太子は最澄に生まれ変わって仏法を広めた」として聖徳太子との関係を語り始めたとしています。



今年は「聖徳太子千四百年御聖忌」に当たることから、聖徳太子ゆかりの寺院で特別開帳がされており、「釈迦山 百済寺」では「秘仏御本尊 十一面観音菩薩 特別参拝」が開催されています。
「植木観音」と呼ばれる秘仏御本尊は、本来住職一代につき一度しか開帳されない秘仏となっていて拝見できない仏像ですので是非この機会にということで参拝しました。
(御開帳は2006年・2014年以来になる。)

まず車で本坊・喜見院近くの駐車場まで上がるのですが、そうすると「赤門」からの石の参道が歩けない。
赤門付近には駐車場がありませんので、一旦石段を下って赤門まで下り、赤門から入り直して再び石段を登る...という順序での参拝となりました。
赤門は1650年の建立の総門で、2018年に改修されていることもあって、朱色が鮮やかでかなり新しさを感じます。



参道は緩やかな段差となっていて、暑からず寒からずで朝の空気が気持ちよい。
石段を登ると「阿弥陀堂」があるが堂内に阿弥陀仏が祀られているかは未確認です。



朱の「極楽橋」まで来ると、手前は「此岸」、橋の向こうは「彼岸」となります。
極楽橋の向こう側に見えるのは「矢杉」。



「矢杉」は、織田信長軍が攻めてきた時、大杉の幹が二つに割けて大蛇の姿に変わり、杉の葉が無数の矢になって信長軍に向かって行ったという。
しかし、宣教師のルイス・フロイスが「地上の楽園」と書いた百済寺は全山灰燼と化し、信長は石垣や石仏を安土城建立のため運び出したとされます。



民話では、信長軍矢が矢を射てくると、どこからともなく無数のネズミが現れ、矢を受け止めて僧兵のもとへ運んだと伝わるという。
焼き討ちに抗ったねずみを祀る祠が「ねずみ地蔵」で、参道の横で今はひっそりと祀られています。



参道の横のあちこちに石仏や石塔が祀られています。
これも焼き討ちで亡くなった方の菩提を弔うものなのでしょうか。



百済寺の赤門から表門までの続く石段の表参道は、参道に覆いかぶさるようなカエデが美しく、紅葉の時期はさぞや壮観なのだと思います。
もっとも紅葉の時期の湖東三山は、参拝者が多いので落ち着いて散策するという気分にはなれないかもしれませんが...。



表門横の受付まで行くと、拝観開始が始まったばかりにも関わらず参拝者の姿が何組かおられ、やはり秘仏「植木観音」の御開帳を楽しみに訪れる方が多いんだなぁと感じます。
本坊喜見院の横の書院に面して池泉回遊・鑑賞式庭園の「喜見院庭園」がありますので、喜見院の縁側に腰かけてしばらく庭を楽しみます。

庭園から少し上の小高い場所からは西方が遠望できる場所があり、ここからは比叡山や比良山系まで見えるはずですが、この日は太郎坊山や観音寺山までしか裸眼では見えませんでした。
西方880㌔先には往時の「百済国」があり、百済からの渡来人がここから母国を偲んだといい、湖東地方や聖徳太子と百済国とのつながりに思いを馳せます。



遠望台から表参道へと戻る道筋には大きな岩が幾つかある場所がありました。
石垣が多く残る百済寺ですが、この一角にある巨石も含めての「喜見院庭園」なのか、なぜここに岩が集められているのか。



百済寺は秘仏「植木観音」以外にももう1躰の秘仏があり、飛鳥・白鳳期の作とされる「金銅弥勒半跏思惟像」があります。
像は高さ27cmの小金銅仏とされますが、秘仏のため境内に「弥勒菩薩半跏思惟像」(座高1.75m・全高3.3m)の石像が祀られています。

この石像の周辺には和紙の原料にもなるミツマタの植生群があるといい、4月頃に参拝すれば花と花の香りが楽しめそうです。
また初春から春には参道脇に「千本椿」の開花時期にもなりますので、黄色と赤の花の饗宴になるのかと思ってもみます。



石段を登りきると3mもある大きな草鞋が吊り下げられた「仁王門」へ到着します。
「仁王門」には阿吽の金剛力士像が祀られており、草鞋は仁王さまの履物とされていますが、参拝客が健脚・長寿の願を掛けるようになり大型になっていったといいます。
おやっと思ったのは、前回参拝した2016年には仁王像は木色の像だったのに、いつの間にやら修復されて赤々と彩色された像になっていたこと。全く違う仏像のようになっています。



石垣の上にある「本堂」へ続く石段の横には、樹齢430年・幹周6.8m・(主幹幹周4m)・高さ35mの「観音杉」があります。
また、石段の両側の森には巨樹スギが多く見られ、将来に残る大きな遺産となっています。



「本堂」の左には「千年菩提樹」という巨樹があり、説明板によると直径1.6m・幹周5mある推定樹齢約千年という古木とされている。
旧本堂の前庭になるこの地に植えられていたが、信長の焼き討ちに遭い、幹まで焼損し、中央部には空洞部が残るそうである。
幸いにも熱が根にまで及ばなかったため、再び蘇って現在に至るという。



本堂の右手前には鎌倉期のものとされる「宝篋印塔」が残されている。
木立に囲まれ、苔むした石の上にひっそりと祀られており、塔身に陽刻された仏がくっきりと浮き上がっています。



本堂は1650年の再建で、内陣には一番右の厨子に「元三大師」を祀り、その横には「聖徳大師像」、須弥壇には中央に御本尊の「十一面観音菩薩(植木観音)」を祀って横にはお前立を祀る。
御本尊の前方左右には「聖観音坐像(室町期)」と「如意輪観音半跏思惟像(室町期)」。さらに横には「不動明王」と「毘沙門天」が守護し、左の厨子には「護法童子」、さらに右には「阿弥陀如来座像(鎌倉期)」。

御本尊の「十一面観音菩薩(植木観音)」は奈良時代の作で、像高2.49mの巨大な仏像は奈良時代の木造仏としては2番目の大きさだといい、滋賀県では最古の木造仏となるようである。(朝日新聞デジタル)
像には金箔が残っており、背が高いが、なぜか顔が小さく感じる。中央に背の高い御本尊が立ち周囲を諸仏に並んでいる須弥壇をしばらく眺めていたら、お役の方が案内デープを流して下さり、聞きながら仏の前に座る。



内陣に元三大師が祀られて護符も売っておられたので、元三大師と百済寺の関係を聞いてみたものの、縁起は天台宗寺院なので元三大師を祀っているということなのか。
境内図には山の上の方に「本堂跡・五重塔跡」とあったので聞くと礎石が残っているということ。
道はもう獣道のようになっていて、先ほども聞いて登りかけた人がいたけど諦めて戻ってきたとのことで行くのを諦める。


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銅鐸を見に博物館を巡る!~「安土城考古嶽博物館」「銅鐸博物館(野洲歴史民俗博物館)」~

2022-11-13 13:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 弥生時代に製作されて使われたという『銅鐸』は、当初は吊り下げられて鐘のように鳴らして使われたとされており、滋賀県では湖南地方に多く出土している。
銅鐸はシャーマン(司祭者)が豊穣を祈る祀りの祭礼に銅鐸を用いたと考えられており、銅鐸時代後期になるとムラの共有物から有力者の権威を表す意味へと変わっていったという。

滋賀県の限られた地域で出土しているのは、規模の大きなムラが存在して金属加工する技術や原料があったということになり、青銅器を作れる素地があったと思われます。
「安土城考古博物館」では「里帰り!日本最大の銅鐸―太古の響きを安土の地で―」と題して、日本最大の銅鐸(東京国立博物館所蔵)を中心とした博物展が開催されています。

「里帰り!日本最大の銅鐸―太古の響きを安土の地で―」<安土城考古博物館>


銅鐸が24点も出土した「大岩山銅鐸」の近くには「銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)」があるにも関わらず安土で公開されており、野洲の「銅鐸博物館」では別の企画展が開催中。
また銅鐸はムラや古墳からは発見されておらず、村を外れた丘陵の麓などに埋められていることが多いとされ、その埋納については諸説が入り混じり謎が多く残るという。



この日の当初の予定は野洲市の「銅鐸博物館(野洲歴史民俗博物館)」で仏像展、「安土城考古学博物館」で銅鐸と考えていましたが、急遽安土城を散策してから博物館巡りとなりました。
予定変更が幸いして、安土城では曇り空でしたが雨は降らず、最終目的地の野洲まで行った頃に雨が降り出し、天候に味方されました。



博物館に入るとエントランスに日本最大高さ134cmの「大岩山銅鐸」の復元品があり、その大きさを実感できます。
銅鐸は製作した時は金属色をしていますが、埋納されたりしているうちに錆で青銅色に変わるといいます。



横の壁には弥生時代の服や臼の再現品が展示されており、壁には絵が描かれています。
まだ漢字が日本に入らず普及もしていない時代ですから、絵で記録を残していたのかと思います。



展示物は常設会場では、縄文時代から弥生時代の出土物-弥生時代の石器-銅鐸の時代-古墳時代-銅鐸から神鏡の時代など時代順に展示してあります。
もう一つの常設会場では中世から戦国時代の近江の出土遺物を展示。格安の常設展示の図録がありましたので購入。


(常設展図録)

「大岩山銅鐸」は1881年に山の中へ遊びに行った子供が3個の銅鐸を発見。話を聞いた村の若者が翌日11個を掘り出したという。
1962年には東海道新幹線の土取り工事で9個の銅鐸が発見され、別の場所でも1個の銅鐸が発見されたという。

なぜ銅鐸が埋納されたのかについてにはっきりした答えはないようですが、豊穣を祈るための埋葬・変事にあたり神に埋葬・平時は埋めておき祭事等の時に掘り出したが信仰の変化により忘れ去られた・古墳時代になり不要になった...等。
面白いなと思ったのは、湖西・湖東・湖北・湖南の銅鐸を集合させて弥生時代最後の銅鐸祭祀を行ったという説。
これなら滋賀県で一部の地域にだけ銅鐸が発見されることになります。


(特別展図録)

展示された銅鐸は先述の134.7cmの銅鐸の他に日本最小の3.4cmの銅鐸や水鳥が描かれている銅鐸などが一堂に会し、部屋の展示物はほぼ銅鐸だけです。
充分に銅鐸に堪能し、次は「銅鐸博物館(野洲歴史民俗博物館)」まで足を延ばします。
今回の当初の目的は「近江湖南に華開く宗教文化 -野洲・守山の神と仏-」で仏像を観ることでしたが、すっかり銅鐸に順序が入れ替わってしまっています。

「近江湖南に華開く宗教文化 -野洲・守山の神と仏-」<銅鐸博物館(野洲歴史民俗博物館)>


「近江湖南に華開く宗教文化 -野洲・守山の神と仏-」では「益須寺(やすじ)遺跡」「福林寺遺跡」の出土物、仏像8躰、仏画や鰐口、三上神社や兵主神社の神像や棟札や出土物などが展示。
展示されているのは守山市と野洲市の寺院や教育委員会の所蔵品で、仏像は奈良・平安時代を中心に重要文化財も含まれています。

鎌倉期の阿弥陀如来立像は、快慶1派の作品とされていたが、頭部と胸が金色に塗られている。(上のチラシの仏像)
こういう復元にはあまり馴染めないのですが、造像当時はこんな色彩だったのでしょう。
また御上神社の「相撲人形」は相撲神事の雛形として作られたと考えられ、行司と力士を一組として神前に奉納されたものとされ興味深い。



「銅鐸博物館(野洲歴史民俗博物館)」の敷地内には「弥生の森歴史公園」が併設されており、竪穴住居・高床倉庫・古代米の水田などや「宮山二号墳」という石室に入れる円墳も残されている。
先日、大岩山の近隣にある「桜生史跡公園」に訪れた際に甲山・円山・天王山の3つの古墳を巡った帰りに弥生の森を訪れましたが、今回は古墳ではなく、仏像と銅鐸なのでなかなか忙しい。



「銅鐸博物館」の中は、「安土城考古嶽博物館」の特別展示室以上とも思えるくらい銅鐸が並んでいます。
日本最大の大岩山銅鐸の復元品もありましたが、復元+汚しがしてあると素人ゆえに本物の見分けが付きません。

銅鐸の製造方法について動く模型で説明する場所がありましたが、銅鐸の制作工程がよく分かるコーナーでした。
帰りに大岩山銅鐸の出土地に立ち寄ってみます。石碑しかありませんが、よくこんなところで子供が発見したなと関心してしまいます。



銅鐸の時代ごとの変遷を守山弥生遺跡研究会の資料で見ると、弥生時代の中期前半は「出雲」や「摂津」の“聞く銅鐸”が多く、中期後半になると近畿四国の東部へ中心が移動している。
弥生時代の後期になると近畿・東海へ移動していくが、“聞く銅鐸”と“見る銅鐸”が継続しているのは「紀伊」や「近江」となります。
銅鐸の出土数で「近江」は4位となるので、近江は銅鐸文化が盛んだったクニと言えます。


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リアルとバーチャルで安土城を巡る!~織田信長の「安土城跡」~

2022-11-09 19:46:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 安土城は“天下布武”を目指した織田信長が1576年、丹羽長秀を総普請奉行に据えて築城を開始し、3年後の1579年には日本初の天守閣が完成して信長は移り住んだという。
しかし天正10年(1582年)明智光秀の謀反により信長は本能寺で自刃、本丸は焼失したがその経緯には諸説あるという。

二の丸が残っていた安土城はその後も機能したものの、豊臣秀次の八幡山城築城により廃城となって荒れてしまいます。
昭和から平成以降は特別史跡として調査・整備がされて復元された結果、整備された城跡となって大勢の人が訪れる観光地になっています。
安土城では現地VR(バーチャル・リアリティ)での安土城が再現されており、リアルとバーチャルの両方で見る安土城が体験できます。



アプリ「ストリートミュージアム」では、設定されたポイントに行くと在りし日の史跡の姿がスマホ画面に360°の視野で映し出され、解説まで語られるという優れもの。
安土山の下からは「大手門」が映し出され、右の山上に「天守閣」、左の山上に「三重塔」が見える。



大手門跡から入ると広い「厩跡」があり、その先には「大手道」の石段が続いていき、石段の途中には左に「伝 前田利家邸跡」右には上下2段の郭の「伝 羽柴秀吉邸跡」の遺構がある。
少し登った所の左側には「摠見寺」の仮本堂があり、ここは元は「伝 徳川家康邸跡」とされており、このメンバーに対する信長の信頼の厚さが伺われます。



この場所をVRで見ると全く違ったイメージに変わります。
こんなに真っすぐで広い大手道が防御に役立つのかと思いますが、信長は防御のための城というよりも規格外の城郭を築城して権力の象徴とする意味合いがあったともいいます。



「伝 徳川家康邸跡」に建てられたという「摠見寺仮本堂」は、1854年に火災によって焼失した「摠見寺」の仮本堂となっています。
「遠景山 摠見寺」は安土城築城に伴って城郭内に建立された臨済宗妙心寺派の寺院で、この地には昭和7年に再建されたものだという。
現在も三重塔の近くに「摠見寺跡」は残るが、今は石碑と敷石が残るのみとなっている。



信長は「比叡山延暦寺の焼き討ち」「石山本願寺との戦い」などで宗教勢力と敵対していたとされますが、当時は宗教勢力といっても好戦的な戦力だったという理由があります。
信長は安土城内に自分の菩提寺である「摠見寺」を建立していますので無宗教ではなかったと言えますが、大手道の石段に石仏を「転用石」として多数使用しているあたりをどう解釈するか。



石段の上から「大手門跡」を振り返ると、広大な田園地帯が見えます。
安土城が築城された頃は、西側に琵琶湖の内湖が広がっていて、湖上交通の拠点としての利点があったといいますが、戦前・戦中の干拓で広大な内湖は西の湖を残して農地となる。



安土城から京都までは舟で半日程度とされており、坂本城に明智光秀・佐和山城に丹羽長秀・長浜城に羽柴秀吉などの重臣を配置し、城下は楽市楽座で栄える。
陸路も東海道や中山道、北陸道が交わり、まさに「近江を制するものは天下を制す」の時代があったといえます。



「摠見寺」の本堂には御本尊「十一面觀世音菩薩立像(室町期)」と開山「円鑑禅師座像」と「織田信長座像」が祀られています。
堂内を一回り参拝をした後、茶室で“和菓子と抹茶”を頂くことにします。



襖絵を見ながら寺院内を進んで行った時、目に留まったのは「湖南妖怪絵」という水墨画です。
作者は山本燈舟という1928年生まれの方で、摠見寺の執事も勤められておられたようですが、数年前に亡くなられたとのこと。
本格的な水墨画の襖絵や戦国武将を漫画チックに描いた絵もありましたが、数点あった妖怪絵は興味深く感じる絵でした。



安土城の中枢部への入り口にあたる場所には「黒金門跡」があり、ここから先は信長が側近たちと過ごす日常生活の場となります。
「黒金門跡」の手前には「織田信澄邸(信長の甥で妻は光秀の娘)」や「森蘭丸邸(信長の近習)」跡などがあり、側近が守りを固めていたようです。



角を曲がれば黒金門を経て、天守閣のある本丸や二の丸・三の丸等の郭のある領域です。
招かれた人は黒門を抜けて聳える天守閣を目の前にした時、かつて感じた事のないような驚きを隠し切れなかったことでしょう。



その本丸は今は樹が生え放題の石垣が残るのみで、かつての面影は見えない。
信長は時の正親町天皇に経済的支援をする見返りに、信長の敵対勢力に対して講和の勅命を出すなどウィンウィンの関係だったとされ、天皇の行幸を待ち望んでいたという。
しかし、二度にわたって計画した安土城への天皇行幸は叶わず、本能寺の変をむかえてしまいます。



本丸では天守閣は見上げるように目の前に聳えるが、VRとはいえこの角度がリアルなのが面白いですね。
また天守閣は周囲の建物と渡り廊下でつながっていたようでもあります。



「本丸跡」まで登ると、残っているのは礎石のみ。
この上に信長は夢を実現したのかと想像を膨らませてみます。



VRの世界では天守閣は存在し、豪奢な装飾で飾り立てられた「御光の御間」からは目前に迫る内湖の様子が伺えます。
リアルな世界とバーチャルな世界を行き来しながらの見学になりましたが、現地ではスマホを見ながらグルグル回っている不思議な人だったかもしれません。



角度を西側に変えると「三重塔」や「摠見寺」のある山が見え、麓には楽市楽座で栄える安土の町並が見える。
もう無くなってしまった外堀もあり、豊かな田園地帯の広がるこの地の豊かさが分かります。



「二の丸跡」から眺めたリアル世界の風景です。
麓に見えるのは西の湖でしょうか。奥には琵琶湖を挟んで湖西の山々まで見えます。



「摠見寺跡」の下方には重要文化財の「三重塔」があり、室町期に建造というこの塔は湖南市の長寿寺から信長が移建したものだという。
リアル世界の三重塔は木色の塔であるが、バーチャル世界の三重塔は朱色の鮮やかな塔であり、移建された1575年当時はこんな塔だったのだろうとなる。





「二王門(楼門)」も元は1571年に甲賀地方で建立されたものとされ、天正年間に信長が移したものとされている。
門内には「金剛力士像(1467年の銘)」が祀られており、楼門・金剛力士像ともに重要文化財に指定を受けています。



大手道への帰り道にスギの皮が剥がされて、幹が赤くなっている植林群を見かけました。
杉皮葺きの材料にされるのかと思いましたが、この赤い幹が並ぶ姿は不思議な光景でした。



リアルとバーチャルで「安土城跡」を巡りましたが、石垣や礎石だけが残る城跡がVRを併用して巡るとかつてはこんな姿だったんだという発見と面白さがあります。
ストリートミュージアムはもう存在しないものが見える楽しさだけでなく、場所ごとの解説のナレーションが入るのがいいですね。


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「浄厳院-現代美術展」~仏像編~

2022-11-06 16:39:39 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 近江八幡市安土町にある「金勝山 浄厳院」は、織田信長の命により行われた浄土宗と法華宗の僧による仏教論争「安土問答」の場として有名な寺院です。
結果的に法華宗は敗北してしまう訳ですが、背景には信長の政治的意思による弾圧があったとされ、勝った浄土宗側は鉦や太鼓を叩いて喜んで念仏を唱えたといいます。
これが現在にも続く「かちどき念仏」で、毎年秋に勤められるこの法要は450年以上続いているという。

今年で3年目となる「浄厳院-現代美術展」では本堂や各堂宇が開帳され、堂宇や境内を使った現代美術展が開催されます。
通常は予約拝観の寺院で堂内には入れない寺院ですが、この期間中は仏像拝観と現代アートの両方を観ることができます。



浄厳院は信長が安土城下に建立した寺院で信長により浄土宗の近江総本山とされ、末寺の数は800余を数える大寺院だったといいます。
寺院は田圃の真ん中にポツンとある寺院ですが、楼門・本堂・鐘楼・不動堂・釈迦堂・庫裡・書院・僧坊など伽藍は多く、重要文化財の建築物や寺宝を有する寺院です。



見事な造りの楼門は室町後期の建築物とされて、国の重要文化財に指定されている。
かつてこの場所には佐々木六角氏頼の菩提寺とされる「慈恩寺」があったといい、慈恩寺は廃寺となったものの、この楼門は慈恩時の遺構ではないかと考えられているようです。
扁額の「金勝山」は、栗東の金勝寺に浄厳坊という草庵を構えていた八世応誉明感の高徳に感じ入った信長が浄厳院に引き込んで寺院を建立したことによる。



「楼門」には阿吽の仁王像が睨みを効かせており、古色然とした姿は歴史を感じさせる。
となると他の寺院から移築された本堂や仏像、江戸期に建てられた建物を除けば、この地に元々あった建築物としては最古のものになるようです。





楼門から境内に入ると正面に本堂ということになりますが、その手前に右には大きな墓地があります。
墓地の参道側には「無縫塔」が多く、過去の住職などの墓と思われる墓が並び、奥まった場所に南北朝期の「宝篋印塔」が祀られています。
南北朝期ですから浄厳院以前の佐々木六角氏の慈恩寺時代のものと推定され、佐々木六角氏頼の供養塔ではないかと伝承されているという。



本堂は今の近江八幡市多賀町にあった興隆寺の弥勒堂を移築したものだとされ、天台様式だった興隆寺の御堂を浄土宗の様式に改造して移築したとされます。
本堂に祀られる御本尊「阿弥陀如来坐像(平安期・重文)は、愛知郡二階堂から移された仏像だとされており、信長の強引さを考えざるを得ない逸話が残ります。



273.5cmの丈六の阿弥陀如来坐像は光背・蓮弁・天蓋が揃っていますが、御堂に入りきらなかったため光背の頂点部分が切り取られているという。
滋賀県では10躰ほどしかない丈六の大きな仏像で、2020年の現代美術展「2020 AT ARTS HIBITION」で初めて拝観するまで、是非一度拝観したい仏像のひとつでした。
(仏像は全て許可を得て撮影しています)



仏画や人物画など寺宝の大半はいくつかの博物館に寄託されており、そのうちの4点は国の重要文化財に指定されています。
後陣には四天王像などの諸仏が並びますが、その中に碁盤の上に立つ「薬師如来立像」という珍しい仏像があります。
薬師如来立像は鎌倉期の造像とされており、像内部の墨書により享保年間の修繕を行ったものと考えられているという。



興味深いのは左端に祀られている清凉寺式の「釈迦如来立像(南北朝期)」です。
信長が浄厳院創建前に当地にあった佐々木氏頼建立の慈恩寺の御本尊であったといい、京都清涼寺の本尊を模刻したものの1躰だとされている。
頭髪は縄目状になっており、衣文は波打ち首の下まで包み込むように彫られており、像高も157.5cmと清凉寺の像とほぼ同じくらいのようである。



御本尊の須弥壇の裏側には「釈迦三尊像」の大きな仏画があり、お釈迦さまを中心に、右に文殊菩薩・左に普賢菩薩が描かれています。
浄厳院の寺宝の半数近くは博物館の寄託になっていますが、寺院にも数多くの寺宝が残されている寺院だと感じます。

寺宝の内4点は2020年に栗東歴史民俗博物館で開催された「栗太郡の神・仏 祈りのかがやき」展に出品された時に拝見致しました。
特に「厨子入銀造阿弥陀如来立像(鎌倉期・重文)」と「舎利厨子 厨子入銅製舎利塔(室町期・重文)」の美しさに魅了された記憶があります。
*「栗太郡の神・仏 祈りのかがやき」展では他に「観経変相図 (南北朝期・市指定文化財)」「日吉山王曼荼羅図(鎌倉期・重文)」も展示。



この日は現代アートから始まって、本堂参拝で仏像を拝観して、また現代アートを見るという時間を過ごさせてもらいました。
すっかり時間を忘れてしまってお昼ご飯も抜きのまま、堂宇や境内を歩き回っておりました。


(図録「浄厳院の寺宝」)


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「浄厳院-現代美術展」~現代美術編~

2022-11-03 08:13:00 | アート・ライブ・読書
 近江八幡市安土町にある「金勝山 浄厳院」では2020年から現代美術展を開催されており、2年ぶりに本堂参拝と美術展に訪れました。
「浄厳院現代美術展」では19人のアーティストの作品と友情作品の2作家の作品が展示され、レジデンスアーティストとして5人の海外アーティストの作品が寺院の各御堂に展示されている。

美術展の主宰者は自身もアーティストである「西村のんき」さんで支援学校で教員をした後、個展や展覧会への参加をされ、浄土宗の僧侶でもある方のようです。
また、浄厳院の副住職の勝山さんも美術教師をしながら現代アート作品を創られており、2020年の現代美術展の時は5人の作家が参加されていたにも関わらず、このお二人の作品が印象深かった。



レジデンスアーティストの5人は、ウクライナ・ポーランド・韓国から来日して2か月間、寺に泊まって共同生活をしながら作品を製作されたといい、それぞれ数点の作品を完成されています。
総勢26名のアーティストが約200点の作品が見落としてしまうような場所にまで展示されていますので、見る方も集中して見ないといけません。
会場には作家さんがおられて説明をしていただけますので、作家さんとの会話も楽しい美術展でもありました。



作品は個性の際立つ作品揃いでしたが、膨大な作品数ですので気になった7人の作品をあげます。
吉田重信さんの「翻天覆地」は、楼門の外に生えている銀杏の樹を使った作品で、銀杏の若木に取り囲まれた主幹の下には造花の花が挿し込まれています。
福島県いわき市生まれの吉田さんは、東日本大震災などで社会の秩序や物質が破壊され解体された後、アートの息吹によって全く異なる新たな世界を生み出そうとされているようです。

銀杏の樹の最上部あたりには、葉で隠れて見えにくくなっているが仏像が埋め込まれている。
樹が成長していくことで樹の中に埋没するのか、仏を包み込むように樹が成長していくのか、何十年もの歳月をかけて新たな世界を生み出そうとする試みです。



焼け焦げた和紙で人形(ひとがた)を造られるのは近江八幡市にお住まいの美術教師の奥田誠一さん。
「surfaceー行き交う処ー」というインスタレーションでは、庫裡の土間と和室2間を使ってヒトガタが展示されており、
土間から上がり框をあがった最初の部屋には、年代物の水屋箪笥の上にヒトガタが座っています。



タイトルとなっている「surface」は表層・浮き上がるという意味だといい、畳の上・床の間・襖からヒトガタが湧き出てくるように展示されている。
表層は焼け焦げて穴だらけでユラユラと揺らいでいるヒトガタもある。



作品からはカタストロフィーの後の再生や蘇る生命の印象の方が強く、ヒトガタには蘇ろうとする生命感を感じます。
焼け焦げた和紙という素材の面白さもありますが、美術を専攻して美術教師をされておられますので造形の技術が高い方なんだろうなと思う作品群でした。





書院と本堂とをつなぐ渡り廊下の空間に作品を制作されたのは、モデルでも俳優でもあり作詞作曲をされ歌を歌うパフォーマーと多彩な才能を発揮されている空間アーティストのレイさんです。
「守・破・離・光」と題された作品を見た時に自分が感じたことと、レイさんの話を伺った時の説明と実は全く逆だったので、生き方について大いに考える機会となりました。

当方の見方(写真の順序):「守」生まれた時は混沌の中、「破」良いこと悪いことも山あり谷ありながら必死に生き、「離」終わった感を感じてしまうある転機を迎える。
「光」余分なモノを脱ぎ捨てて真っ白な道を進んで、観音さんのもとへ歩く。観音さまの厨子の向こうには本堂には阿弥陀仏が祀られた西方浄土がある。



レイさんの作品意図:「守」守られてこの世に生まれ、「破」本来の自分に気付き、「離」じぶんらしく生き、「光」優秀(有終)の美を飾る。
着物の着こなしも独特で、虎の絵が描かれた長襦袢の上に、上下ともに裏返しにした羽織を着て、羽織の裏地の柄を見せるスタイルで個性的な「光」を放っておられました。



レイさんは37年間、サラリーマン生活をされていたが家庭の事情で退職され、落ち着いた頃からモデル・俳優・アーティストを始められたそうです。
過去アートには携わったことはなく、「レイ」というのは「0(ゼロ)」点からのスタートという意味。“人生は旅だ”とも“自分は運の強い人間”だとも言われていました。
“自分は運のいい人間だ”と言える人と、“自分には運がない”と思ってしまう人間では人生が大きく変わりそうです。



境内にある「釈迦堂」には今村源さんの「なりゆくさま」という作品が展示されている。
釈迦堂の中に釈迦はおられず、瓦や普段使わないものが置かれた物置に近い状態になっていて、そこに白いビニールで被覆された針金で造られたお釈迦さんが祀られています。
お釈迦さんはどの方向から見ても仏像の姿が確認でき、目や鼻も読み取ることができます。



鐘楼と梵鐘に和紙を重ねた作品は、小松原智史さんの「コマノエ」。
鐘楼の中には墨で描かれた絵の和紙が貼られてあり、急な階段を登って梵鐘が吊るされた階上へとあがる。



梵鐘は寒冷紗にペンキで色づけしたもので覆われており、梵鐘が大きなオブジェへと変貌している。
壁板の模様(滲みの汚れ?)と融合した感があり、インパクトの強い作品でした。



ロシアのウクライナへの侵攻が逐一報道される中、ウクライナのザポリージャから来日して5人の海外アーティストと共同生活をして作品を創られたのはマリア・ルイーザ・フィラトバさん。
ザポリージャはロシアが独立国家として承認した親ロ派地域に接し、原子力発電所を巡る激しい抗争に見舞われている激戦地だと思います。



日本に来て描かれた7点の作品は、ロシア軍によって破壊された街ではなく、戦前ののどかなウクライナの田園風景を描かれています。
もはや存在せず、まだ来ていないユートピア世界を描くことで、復興しなければいけないという強い思いの作品です。



ルイーザさんは各種のメディアに取り上げられていますが、主宰者側のひとりは“あちこちに引っ張り出されて可哀そうに思う。”と言われていました。
同じように寺で合宿された韓国のアンボラさんは、ルイーザさんのことを思って空に虹がかかる絵を描いて平和を祈られているという。



「春陽院」では奥の間にルイーザさんの作品。庭に面した広間には主宰者でもある「西村のんき」さんの屏風絵が展示されています。
庭園や縁側には鏡が設置されていて、鏡が太陽光を反射して絵を照らし出し、太陽の動きに従って光の位置がどんどん変わるように設計してあります。

襖絵や屏風絵には中心に大きな「✖」点が描かれており、キャプションは以下になります。
 コロナウイルス、ロシアのウクライナ侵攻、自然災害、
 私たちは✖な世界に幾度も出会う。
 その中でも在るべき方向に向かって、
 力強く生き抜く力を持ち続けたい。



西村のんきさんの作品が展示された間では、裏千家 丹下宗律さんの「お茶会」が行われ、茶道の作法など全く分からないまま参加させて頂きました。
緊張しながら座っているとまず「柚子琥珀」と「栗を模った落雁」が出され、茶釜から柄杓でお湯を注いで茶をたてられます。

寺院などで抹茶と和菓子を頼むことがありますが、目の前で茶釜や棗・水差しなどを使いお茶をたてられるのは初めて見ました。
“自己流でお楽しみ下さい。”とは言われたものの、真似事をするだけにしても緊張しながら抹茶を頂いた様は、まるで落語の「茶の湯(上方版)」の如くでした。



「浄厳院-現代美術展」では26名・約200作品が寺院のあちこちに展示されており、時間を忘れてしまうような美術展でした。
美術館ではなく、寺院での展示ということも魅力を引き立たせるひとつの背景になっているとも思います。
さて、「浄厳院」は仏像や寺宝の宝庫でもありますので、次は本堂仏像編へと続きます...。


コメント
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