僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

ボーダレス・エリア近江八幡芸術祭『ちかくのまち』②~「B&G海洋センタ-」と「西の湖 ヨシ灯り展」

2020-09-30 06:16:16 | アート・ライブ・読書
 ボーダレス・アートミュージアムNO-MA美術館で開催中の展覧会「ちかくのまち」は、近江八幡という“町”を舞台にして、みんなで作る芸術祭として4会場で開催されています。
「ちかくのまち」の“ちかく”は“知覚”の意味も含んでおり、私たちの“知覚”を刺激してくれるアートとの出会いが待っていると紹介されています。

4会場の内の2会場は「NO-MA美術館」と「奥村家」の旧市街地の町屋での開催となり、残りの2会場は西の湖畔の「近江八幡市安土B&G海洋センター」と「よしきりの池」での開催となります。
前回は「よしきりの池」へ訪れましたが、今回はその隣にある「B&G海洋センター」と、同時開催されていた「西の湖 ヨシ灯り展」へと足を運びました。



「B&G海洋センター」では東近江市在住の小西節雄さんの「カカシ」がリアルでかつユーモラスな姿で展示されています。
カカシのおばさんが番をする受付から広場へ進むと、コロナ防護服に身を包み新型コロナウィルスを殺菌しているカカシが登場します。
カカシも新型コロナ収束に協力してくれています。



西の湖畔では釣りに興じるおじさんの姿。
“釣果はどうですか?”と思わず声をかけたくなるような後ろ姿です。



広場の木の下には葉狩りに忙しいご夫婦の姿。
奥さんが梯子を支えていますが、“おじさんうっかり落ちないようにして気をつけて!”



草むらの奥には草刈り機で雑草を刈っているいるおばさんがいる。
“暑いのに精が出ますね。”



草むしりをしている2人のおばさんもリアルです。
実物の人が混じっていても気付かないでしょうし、農村部の畑なんかだと普通に居そうな方々です。





カカシの中には作業を中断して一休みをしている人もいます。
後方のおじさんは立小便をしているようです。こういう人を時々見かけることがありますが...。



東屋のベンチで休憩しているのは親子でしょうか?
何やら楽しそうに話が弾んでいるようです。



小西さんは、会社を定年退職して畑作業をするようになって、畑のスイカをカラスから守ろうとしてカカシを作ったのが始まりだといいます。
カカシは、より人間らしくみせるために、動く関節をボルトで留めて、人間と同じ動きが出来るように作られているようです。

この光景に馴染んでしまうと、普通に農作業している人までも実はカカシではないかと錯覚してしまいそうになります。
農村部で畑のカカシかと思っていたら、急に動き出されてカカシじゃなかったんだと驚かされたりする事もあります。



小西さんのカカシは2016年の「アールブリュット☆アート☆日本3」の奥村家の庭園で見たのが最初でしたが、思わず笑顔になって和まされる作品ばかりで愛着が持てます。
肩ひじ張らない農夫アートと呼べますし、毛色の変わった作品としてはヒョウ柄の服に身を包んだ大阪のおばちゃんカカシなんかも展示されている。

さて、先日訪れた「よしきりの池」では「ヨシ灯り展」が芸術祭に加わり、同時開催されていました。
西の湖のヨシを使った作品は、主に県内各地の小学生が作った作品を展示し、日暮れからはライトアップされるそうです。



武友義樹さんの「壺」、久保寛子さんの防風ネットで造った神秘的な作品と並んで、ヨシで造った作品が並びます。
前日からの強風と雨で壊れた作品が多かったことのは可哀そうでしたが、力作揃いの総数306点の作品はどれも個性的で面白い。



「壺」が並ぶ湿地の横には霊的なイメージを思わせるオブジェがあり、この作品はアマビエを表現しているように見えます。
疫病を鎮めによしきりの池に出現したアマビエは、豊作と疫病退散を予言して「西の湖 ヨシ灯り展」が終わると共に消えていくのでしょう。



ヨシ原に設けられたヨシの空間は、後方のヨシ群落から力を放出しているようにも見えます。
琵琶湖にはかつてヨシの群落があちこちにあったようですが、知ってる範囲でこれほどの群落は西の湖と高島のヨシ群落くらいではないかと思います。



ヨシ群落は、琵琶湖へ龍する水の浄化、魚の棲み家、野鳥の棲み家の役割を果たすと共に、葦簀やヨシ屋根として人とのつながりが深く生活に密着してきた植物です。
現在もヨシ焼きやヨシの植栽などが行われており、ヨシを使って子供たちが遊び感覚で作品を造るのは、未来につながる夢のあるイベントだと思います。



「よしきりの池」のヨシ群落の池面に浮かぶのは、久保寛子さんの「土頭」。
次にこういった形での展示がいつになるか(行ける場所で展示されるか)分かりませんので、記憶に焼き付けておきたい作品です。




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ノビタキとアオアシシギをパチリ!

2020-09-27 17:05:05 | 野鳥
 “ツクツクボウシの声が途絶えて、彼岸花の咲くころになると渡りの野鳥たちに会える”というのをこの季節の鳥見の目安みたいなものとしています。
とはいえ、そう都合よくは出会えないのが野鳥でもありますし、ばったりと出会ってしまうのも探鳥の楽しみというもの。
今朝は風が強かったため、小鳥はちょっとキツイかなと思いつつ巡回してみると、運よくノビタキのワン・ペアーに出会えました。



畦道をヒバリがやたらと飛ぶなぁと思っている時、最後に飛んで行ったのはノビダキだったかもしれないと気がかりとなる。
もう一度農道に入り直して確認すると、やはりノビタキ。2羽の姿がありました。
1羽はすぐに飛んで居場所が分からなくなったものの、1羽はしばらくお付き合いをしてくれました。



ノビタキが多い年は、数十羽の集団が飛来したことがあったとはいえ、ここ数年は飛来場所に多くて数羽といった感じでしょうか。
何となく飛来する野鳥の種も数も減ったような気がするのは当方だけ?鳥見の出来る場所も減ったようにも思います。



田圃はヒバリ・ムクドリ・スズメ・セキレイ・トビ・カラス・シラサギ・アオサギと数はいるものの、季節の野鳥はノビダキだけ...。
水辺には相変わらず大量のサギ・カワウがいるなかで、アオアシシギの姿がありました。ちなみにこちらもワン・ペアー。



このアオアシシギは2羽ともに、あまり警戒心がなく、こちらが少し動いても微動だにせず。
おかげで回り込んで逆光を少しかわすことが出来たのは助かりました。



アオアシシギはシギチの仲間の中では中型のシギになるかと思いますが、下にいるアカミミガメの大きいこと!
アオアシシギがハト・サイズとすると、このカメはかなり大亀の部類に入りますね。



月が替わって10月になると、出会うことの出来る野鳥の顔ぶれも増えてきそうです。
どこを回ろうか、あそこはパスしようかなどと迷ってしまう贅沢な季節が目の前まで来ていますね。


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ボーダレス・エリア近江八幡芸術祭『ちかくのまち』①~よしきりの池~

2020-09-25 06:20:20 | アート・ライブ・読書
 ボーダレス・アートミュージアムNO-MA美術館の秋の企画展は、「NO-MA美術館」「奥村家住宅」「近江八幡市安土B&G海洋センタ-」「よしきりの池」の4会場で開催されています。
「ちかくのまち」の開催場所は、古民家の風情を残す旧市街地の2会場と琵琶湖の内湖「西の湖」の畔の2会場に大別され、今回は西の湖近くの「よしきりの池」へ訪れました。

「よしきりの池」は、小中之湖地区の農業・生活排水をヨシなどの自然の力で浄化して、きれいな水を西の湖に注ぎ込むための水質保全池だといいます。
循環させる水は、農業用水として再利用されることもあるといい、池の畔の一角に設けられている広場が「よしきりの池」会場となります。



道路側から「よしきりの池」を見ると、湿地のようになっている場所に武友義樹 さんの「壺」が置かれている。
指の跡も生々しくも力強い「壺」と、後方には葦が茂って壁のようになっている光景。
この組み合わせは、かつて琵琶湖の内湖だった西の湖の原風景を想像させる。



武友さんの作品は、滋賀県内(特に湖北地方)で見ることが多く、この8月にも三橋真巳さんとのコラボレーション作品を見たばかり。
とはいえ、「よしきりの池」のような自然豊かな場所で見ると印象も随分と異なり、「壺」の力強さと湿地がうまく溶け合っています。



「よしきりの池」での展示は「武友義樹」「坂本三次郎 × 椎原保」「久保寛子」の3アーティスト。
個別に展示されているようで、全域がひとつのインスタレーション・アート作品になっているようにも感じられる。
特に興味深かったのは久保 寛子さんの作品で、「よしきりの池」には3作品が展示されていました。



タイトルは「段山遺跡群(サル)」といい、“段山遺跡群”とは段山という地に古代文明が存在したと架空の話を設定して、動物や人体などを創作した立体作品のシリーズのようです。
久保さんは、先史芸術や民族芸術・文化人類学の学説などにインスピレーションを得ながら、鉄や防風ネットを素材に巨大なオブジェを作り出す作家と紹介されています。



専門的でアカデミックな芸術の教育も受けられている方だといい、昨年の「ボーダレス・エリア近江八幡芸術祭 ちかくのたび」では「やさしい手」という作品が公開されています。
「ちかくのたび」には行くことが出来なかったたけ、「やさしい手」は写真で見ただけですが、衝撃的な作品でしたので記憶に残っていました。
葦の壁のような池の自然の姿と、防風ネットで造った極めて人工的な動物の組み合わせのアンマッチさも、かえって想像力が掻き立てられて面白いと思います。



想像を絶する作品だったのは池の上に浮かぶ「土頭」という作品。
「土頭」を水面上に浮かべるのは初めての試みだとありましたが、この作品は「水頭」へと変質している。



水面に大きな横顔が浮かんでおり、神秘的で超自然的な物を見た時のような興奮を覚えます。
顔は空に向かってメッセージを放つようにも見え、ドローンか何かで上から見下ろしてみたい衝動が起きます。

太古の昔に宇宙にいる存在に対して、コンタクトしようとしているような顔。
それは神にむけてなのか、かつて地球に降り立った先祖にむけてなのか...いろいろな想像を掻き立ててくれる作品だと思います。



久保さんの3つ目の作品は「段山遺跡群(トビ)」といい、武友さんの「壺」が並ぶ湿地の横に展示されている。
この作品も自然環境の中に人工物が置かれてあり、有機物と無機物のアンマッチが面白い作品となっています。





プリミティブという感性がさらに進んだ作品として坂本三次郎さんのミクストメディアの展示がありました。
坂本さんは、暮らしていた福祉施設の空き地に、身近にあり自らの関心を刺激するものを拾い集めてきては作品を製作していたといいます。



しかも坂本さんは作品制作を70歳頃から始められて、亡くなる2016年まで毎日行っていたそうでもあります。
まるで空の上から見てもらうための地上絵のようにも見えますし、自身の聖域を造っているようにも見えます。



坂本三次郎さんは既にお亡くなりになっていますので、今回の展示は現代美術家の椎原 保さんが坂本さんの作品の写真と関係者の証言を手掛かりに再現を目指したものだといいます。
説明板には“写真をそのまま再現することは出来ない。彼の日常感覚になりきった行為の再現です。”とあり、タイトルも「坂本三十郎の行為の再現」となっています。



武友さんの「壺」の一つを取り上げてみます。
「壺」は、粘土を紐状にして積み上げたものですが、土が乾き始めると、それ以上積み上げるのが嫌になるそうです。
よって夏場の作品は背が低く、冬場の作品は高くなるとのことで、その時の気持ちによって作品の傾向が変わるようですね。





かつて織田信長が築いた安土城があった時代、安土城は3方を内湖に囲まれた城郭だったとされ、内湖は水運と防御に役立っていたとされます。
安土城と琵琶湖の間にあった内湖の内、戦後に弁天内湖・伊庭内湖(小中之湖地区)・大中の湖は干拓されて農地となって姿を消しました。
(干拓された面積は1万平方メートル)

唯一残された西の湖は、琵琶湖のラムサール条約湿地登録エリアに指定されており、西の湖巡りなど観光資源となると共に、野鳥が多く飛来する探鳥地にもなっています。
西の湖の大きさは2.8キロ㎡となっていますが、実際に周囲を巡るとかなりの大きさを感じ、琵琶湖の北にある余呉湖よりも広い。



近江八幡芸術祭『ちかくのまち』は、「近江八幡市安土B&G海洋センタ-」「よしきりの池」、「NO-MA美術館」と向かいの「奥村家住宅」の4会場での開催となり、今回は「よしきりの池」にだけ訪れました。
すぐ真向かいにあった「近江八幡市安土B&G海洋センタ-」には小西節雄さんの「カカシ」の作品群が見えていましたが、時間が早くてまだ開場されていなかったのは誤算です。
芸術祭は11月23日まで開催されていますから、日を改めて残りの3会場へ行くことにしましょう。


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『ぴかっtoアート展-それぞれのカタチ-』湖北巡回展~長浜市 北国街道 安藤家~

2020-09-21 16:46:15 | アート・ライブ・読書
 障がいのある人による公募作品展『ぴかっtoアート展-それぞれのカタチ-』の湖北巡回展が長浜市の北国街道 安藤家で開催されています。
「ぴかっtoアート展」は滋賀県内の知的障がい者が心のおもむくままに作った作品を公募し、発表することにより作者に生きがいを持ってもらい、地域社会に理解してもらうことを目的としています。

北国街道 安藤家で開催された美術展は、昨年イオンモール草津で開催された「第9回 障害のある人による公募作品展」の受賞作品から14作品を公開する湖北巡回展となる。
令和2年度も11月27日より「第10回ぴかっtoアート展」が開催される模様で、入賞した作品は来年また巡回展で公開されるのかと思います。



会場となる安藤家は、明治38年から大正4年にかけて建てられた近代和風建築の家で、北大路魯山人が逗留して、書や篆刻の制作に打ち込んでいた時期があったことで有名です。
魯山人は、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家と様々な顔を持つ人物で、安藤家の離れの書院「小蘭亭」の美術装飾を施したとされます。



「小蘭亭」の襖に描かれた『長楽未央千秋萬歳』という中国の故事は“楽しみはまだ、これから、いつまでも続く”の意で、今回の湖北巡回展のキャッチコピーにもなっている。
アールブリュットと明治の豪商の建築物との組み合わせは見逃せない美術展ですので、さっそく足を運ぶことになりました。



安藤家は室町時代から長浜に移り住んだ旧家とされ、賤ケ岳の合戦で秀吉に協力して長浜の自治を委ねる「十人衆」となり、江戸時代には十人衆の中から選ばれる「三年寄」となったようです。
安藤家は明治以降は、商人となって東北地方を商圏として、福島県に百貨店・中合を展開したといいます。(百貨店・中合は2020年8月31日に廃業)



安藤家のノレンをくぐって玄関に入ると、正面には「ひきかえる」の大きな置物が置かれている。
この「ひきかえる」は杉の木の一本彫りでは日本一の大きさとされており、台となる松の一枚板は樹齢500年以上のものだと云われている。
“ひきかえる”は、“客を引く”との語呂合わせで、当地方の商家では店先に置くと縁起のいい置物として大切にされているという。





美術展は撮影禁止ですので気になった作品を羅列します。

「ゴリラ」:細い線を重ねて質感を感じさせる作品で迫力満点で、繊細に描かれたゴリラの絵とは対照的に顔の表情に妙な愛嬌があるのが魅力的。(入賞作品)
「カラフルな空模様」:アクリル絵の具と水彩絵の具で青と紫を主として黒と黄色と白を使った抽象画。
興味深いのは絵のあちこちにバターナイフや竹串で突いた穴が開いていること。計算されたものではなく感情由来のものなのだろう。(佳作)

「和服姿の美人女性」:あっと驚く見事なこの作品は小さな紙を爪楊枝で丸め筒形にして、創作した美人画。
美人画の表現力も見事だが、色彩感覚や作り方ゆえ凹凸のある作品の立体感にも魅了されます。(入選)
「やぎくんの目」は約90cm角のパネルにボールペンで無数の目を書き込んだ作品。
大きさゆえの迫力もありますが、描き込まれた目(丸)は力強く、離れて見ると無数のクレーターのようです。(佳作)

他にも陶芸作品やダンボール作品など個性的な作品は多岐に渡り、大賞を取ったのは「パルテノン神殿(展示は写真のみ)」で、この作家の方は2年連続での大賞受賞だとか。
高さ70cm・重量33.7Kgの大作で、いつかパルテノン神殿へ行って採掘したいという想いが作品制作の発想につながったそうです。
神殿が柱だけなのは、見た人が自身の神殿をイメージして欲しいから...とのこと。


パルテノン神殿

安藤家には「古翠園」という庭園があり、布施宇吉という庭師が10年の歳月をかけて作庭したとされます。
庭は玄関から入って広間へ入る時にまず見え、奥の客間の縁側から全体が見渡せる。



更に奥へ進むと離れ書院「小蘭亭」が見えてくる。
小蘭亭は現在非公開のため雨戸が閉められているが、飾り窓や渡り廊下の柵からは異国情緒が漂います。



渡り廊下の入口からは立入禁止となりますが、廊下の床も独特の雰囲気があります。
随分前に一度中へ入ったことがありますが、凝りに凝った美術作品といった感のある書院で、他ではあのような部屋を見たことがない独特の世界観の内装でした。



奥座敷には北大路魯山人による篆刻「呉服」の九尺(2.7m)の大看板が展示されており、「呉」は亀・「服」は鶴を表すという。
北大路魯山人は、美術家としての評価とは裏腹に、傲慢な態度と辛辣な物言いによる悪評も高く、不運な幼少期と早熟な才能からくるのか、かなり気難しい人だったとされています。
ちなみに、漫画「美味しんぼ」に登場する美食家・海原雄山のモデルは北大路魯山人だともいいます。



安藤家には表玄関の他に内玄関があって、そこにも庭が設けられており、さほど広くはない庭ではあるものの、雰囲気は充分です。
豪商の旧家には外からは見えないけど、中には贅を尽くした庭があるようです。



安藤家を出て街を歩いていると道路越しに「長浜タワー」と「開知学校」が見える。
「長浜タワー」は1964年に建てられた5階建てのビルで、好景気だった頃の長浜のシンボルタワーだったが、今は珍名所となっている。
「開知学校」は1874年に町民の寄付によって建てられた学校で、上部に八角形の櫓を設けたモダーンな建物です。



『ぴかっtoアート展-それぞれのカタチ-』に出展されていた作家は、今まで名前を聞いたことのない方ばかりで、滋賀県の障がい者アートの奥行の広さに驚きます。
作品を造る作家の発想は自由。観る方の受け取り方も自由。アールブリュットの一つの魅力です。


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彼岸花とミサゴとサギの群れ~湖北の初秋の風物詩~

2020-09-19 17:25:25 | 野鳥
 シルバーウィーク初日から好天に恵まれましたので、久しぶりに探鳥に出てみました。
まずは湖北の田圃周辺を探してみるものの、季節の野鳥の姿は見つけられず。まだ時期が少し早かったのかもしれませんね。

湖岸沿いの林を歩いてみても、シジュウカラやエナガの群れには会いましたが、季節の野鳥ということではコサメビタキだけ。
琵琶湖につながる河口の浅瀬に膨大な数の白い鳥が見えましたので、琵琶湖の湖岸へ出てみる。



浅瀬にいたのはシラサギとカワウの群れでした。おそらく産卵に遡上してくるコアユを狙っているのでしょう。
後方には竹生島、浅瀬には膨大な数のシラサギとカワウ。空にはトビが飛んでおり、ゆるやかな琵琶湖の風に吹かれているのはこの上なく心地よい。



しばらくすると川の上流からミサゴが飛んできましたよ。季節の定番の野鳥です。
最初は獲物を探しているようでしたが、ダイブすることなく何度も空を旋回をして、高度を上げながら琵琶湖の沖の方へと消えていく。



しばらくすると、思わぬ方向から再びミサゴが姿を見せる。
沖を飛んで一回りして戻ってきたのか?今度は北の方角へと飛んで行ってしまい姿が見えなくなる。
琵琶湖の水位が低くなっているので浅瀬や川での狩りができず、狩りの出来る場所を探しているのかもしれませんね。



ところで、今の季節の琵琶湖の湖岸には産卵を終えたコアユが無数に打ち上げられています。
コアユは琵琶湖で1年を過ごす年魚で、川の上流で暮らすアユのようには大きくならず、成魚になっても10センチ程度にしか大きくなりません。

産卵を終わり、この場所で息絶えたコアユの数だけでも膨大な数で、河口にはコアユを追う中型以上の魚や野鳥が集まる光景は、自然豊かな湖北の初秋の風物詩といえます。
ちなみに昨年度の滋賀県でのアユの産卵数は何と約50億粒だそうで、全てが成魚にならないとはいえ、琵琶湖の水産資源の多さに驚かされます。



さて、今年の秋の彼岸入りは19日ということで彼岸花を探しましたが、彼岸花の群生地ではまだ茎が確認できた程度の状態。
自分が知っている場所の中で、いつも最初に彼岸花が咲く場所へ行ってみると、そこではやはり彼岸花が見頃を迎えていました。
湖北の彼岸花の開花は遅めですので、来週末辺りから本格的に咲き始めるのかと思います。



おまけは、どこで撮ったか忘れましたが、カカシの写真がカメラに残っていましたので追加。
左後方の作業しているようなおばさんも実はカカシです。




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京都国立博物館 屋外展示~「西の庭」~

2020-09-15 18:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都国立博物館は1897年(明治30年)に「帝国京都博物館」として開館され、モダーンな煉瓦造の明治古都館(旧 帝国京都博物館 本館)は、表門・札売場・袖塀とともに重要文化財に指定されています。
特別展などの展示は、2013年に竣工された「平成知新館」が会場となり、噴水とロダンの「考える人」を横目に向かうことになる。

博物館の敷地には、来館者だけが入れる屋外展示があり、石仏や石造の遺品などが展示されています。
庭園は「東の庭」と「西の庭」の2つあり、今回は「西の庭」を一巡りしてきました。



「山城・丹波国境標示石柱」は、京都市と亀岡市の境となる旧老之坂峠にあったものを移設したもので、江戸期のものだといいます。
老之坂峠は、源義経(一ノ谷の戦いへ進軍)、足利尊氏(六波羅探題攻撃)で通った道だとされ、明智光秀が本能寺の変の際に、丹波亀山城から老之坂峠を通って本能寺へ向かった道と伝わります。

平安時代の作と伝わる「阿弥陀三尊像」は、伏見区竹田の真言宗智山派の寺院・安楽寿院からの寄託品。
安楽寿院は、鳥羽離宮内にあった仏堂の後身だといい、石造三尊像は江戸時代に出土されたものだといいます。



「阿弥陀如来」を中心に、右に「観音菩薩」・左に「勢至菩薩」が配置されており、観音・勢至の両脇侍が阿弥陀如来に体を寄り添うように傾けているように見えます。
愛らしくも感じてしまう阿弥陀三尊の姿からは、西方極楽浄土から来迎し、迎えにきてくれた慈愛に満ちた心を感じてしまいます。



平安時代後期作の「大日如来坐像」は、「行願寺(革堂)」伝来と伝わる石仏です。
定印を結んだ胎蔵界の大日如来は、風化はしているものの、頭上の宝冠はくっきりと残り、腕には腕釧が見える。



モダーンな煉瓦造の塀と平安期の石仏の取り合わせに多少の違和感を感じますが、これは京都国立博物館ならではの光景なのでしょう。
明治の建築物の庭におかれた平安期の石仏はふくよかで穏やかな表情で千年以上の時を過ごしています。



大日如来の化身とされるのが「不動明王」で、西の庭の中央あたりに鎌倉期の「不動明王立像」がある。
鎌倉期の石仏とはいえ、左手に持つ羂索や右手に持つ剣ははっきりとしており、腰の部分の火炎光背に修復跡はみられるものの、状態の良い石像だと思います。



閻魔大王の化身とされる「地蔵菩薩」座像は、鎌倉期の作とされ、個人の寄贈によるものだとあります。
蓮華座に座し、輪光を放つ地蔵菩薩ではあるが、その正面に木が育ってきていて、地蔵石仏の前を塞ぎつつある。



西の庭の入口付近にあるのは、京都府与謝野町岩屋の雲岩寺(雲厳寺)にあった「八角型石燈籠」で、鎌倉期の石灯籠だといいます。
雲岩寺は750年頃に開創された修験道道だと伝えられましたが、1525年の兵火で衰退し、現在は雲岩公園として数躰の仏像と宝篋印塔を残すのみのようです。



奈良・東大寺の大仏殿の前にある「金銅八角燈籠」は、スケールも細工の見事さも兼ね備えた国宝ですが、東大寺では目の前に見える大仏殿とその中に見える盧舎那仏に目を引かれてしまいがちです。
京都国立博物館の西の庭にはその複製が展示され、当時の鋳造品と同様にヒ素など不純物を含む素銅を用いて鋳造製作されているといいます。



石灯籠はもう2基あって横並びになって展示され、手前の灯籠は舞鶴城址伝来の石灯籠で鎌倉時代後期の作とされます。
舞鶴城は、元は丹後国守護所の八田の館だったとされ、本能寺の変で明智光秀からの参戦の要請を断った細川幽斎が隠居城としたのが、舞鶴城(田辺城)だったといいます。
江戸時代に破却された舞鶴城(田辺城)は現在、舞鶴公園として資料館などがあるそうです。



珍しいなと思って眺めていたのは、キリシタン信徒の墓碑で、左の墓碑の半円柱の蓋石型には十字架が読み取れます。
この墓碑は、桃山時代の慶長年間(1596~1615年)の墓碑だといい、ほとんどのキリシタン墓碑は江戸時代に破壊されて残っているのは少しだけだとか。
2基の墓碑は2つとも京都市内の寺院の境内から発見されたというのも興味深い話です。



同じ墓でも全く様相が異なるのが6世紀・古墳時代の「家形石棺」となります。
岡山県瀬戸内市の横穴式石室に納められていたものといい、小型石棺なのは子供が埋葬されていたと考えられているそうです。



安土桃山時代の京都を伝えるものとして「三条大橋の橋脚石柱1本」と「五条大橋の橋脚石柱2本」がオブジェでも構成するかのように展示されていました。
橋は1589年に豊臣秀吉が鴨川に架けた大橋の橋脚だといい、「天正十七年津国御影七月吉日」の刻銘があるそうです。(銘が刻まれているのは分かる)



分かりやすい形で橋脚・桁が残っているのは、上記と同じく秀吉が架けた五条大橋の橋脚と桁でした。
「津国御影天正十七年五月吉日」の銘刻があるといい、津国御影とは摂津の御影産(現・神戸市)のことを指すという意味のようです。
桁の切込みに木の梁を渡し、その梁の上に踏み台を敷き詰めたとされ、橋桁の長さが約7m半あることから、橋の幅はそれくらいあったと推定されていますので、大きな橋だったことが伺われます。



「西の庭」には所狭しと遺跡が展示されており、この日のような猛暑でなければ、博物展を見た後に木々に囲まれてゆったりとくつろげるような空間でした。
庭園内には大きく育ったエノキや幹の太いイチョウなどの木々があり、もっとも雰囲気があったのがスダジイの樹でした。



「東の庭」へは今回訪れることが出来ませんでしたが、京都国立博物館は今後も訪れることのあろう博物館ですから、次回来館した時に足を運んでみようと思います。
東の庭には朝鮮時代(1392~1910年)に造られた「墳墓表飾石造遺物」や方広寺から出土した「石塔・石仏群」が展示されているといいます。




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西国三十三所 特別展「聖地をたずねて─西国三十三所の信仰と至宝─」~京都国立博物館~

2020-09-11 06:15:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都国立博物館では『西国三十三所 草創1300年記念 特別展 聖地をたずねて─西国三十三所の信仰と至宝─』が新型コロナ感染症の流行によって一旦は中止の憂き目に遭いながらも無事開催されています。
正直、もう行けないのではないかと諦め気分もあったのですが、思い切って行くべしということで、足を運びました。
この時期、館内は空いているだろうとの予想は外れて、しばらく列に並んで入館を待つことになり驚く。

この日はちょうど「経典にみる観音菩薩」の記念講演会があり、整理券確保のために通常よりも来館者が多かったのかもしれません。
来館者の方の中には、僧衣の方や外国人(おそらく台湾の方)のグループも来館されており、国際色も豊かです。
音声ガイドは一般的なガイドにプラスして、いとうせいこう&みうらじゅんの見仏記コンビがナビゲーターということで、違った意味での見方が出来る特別展となりました。



特別展の内容で想像していたのは、西国三十三所札所にまつわる仏像・仏画展のようなものでしたが、いい意味で想像は外れ、あらゆる視点から西国巡礼の姿を映し出すような構成となっていました。
また、展示品は飛鳥時代~江戸時代まで長期にわたっていることから、時代ごとの西国巡礼に対する受け入れ方の変遷も分かりやすくなっています。



第1章は「説かれる観音」として仏像と経典が中心となる構成となっており、飛鳥~奈良時代の観音像8躰と経典が展示。経典では縫字の法華経の完成度の高さに驚きます。
鋳造製の観音像は、それぞれ味わいがある中で岡寺(龍蓋寺)の「菩薩半跏像(奈良時代)」が美しさという面ではもっとも魅かれる仏像でした。

他にもスーパーモデルのような体形にアルカイックな笑顔を浮かべる「観音菩薩立像(壷阪寺)」や頭部と右手の肘から先が欠損した「菩薩立像(石山寺)」が印象に残ります。
異形の姿に驚かされるのが「観音菩薩立像(一乗寺)」。異様に大きな顔に縮こまったように小さな腕と手は、なぜこんな異形の姿にしたのか不思議に思われる特筆的な仏像です。



第2章は「地獄のすがた」として「六道絵」や「餓鬼草紙」「十王図」などの画が中心となる。
平安~鎌倉期に描かれた「餓鬼草紙」は、飢えや喉の渇きに苦しみながらも、死ぬことも許されず(もう死んでいるけれど...)救いのない苦しみを描き出しているといいます。



大津市の聖衆来迎寺の「六道図」は、源心(恵心僧都)が『往生要集』の中で説いた六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上界)を描いたもの。
閻魔大王の裁かれ、生前の罪でそれぞれの地獄へ落される画には背筋が凍る思いがします。
聖衆来迎寺で六道絵15幅の模本を虫干会で見たことがありますが、オリジナルを見るのは初めてで、同じ画ながら印象は随分と異なります。



第3章「聖地のはじまり」では西国三十三所に関わる人物と霊場寺院の縁起書や曼荼羅などが展示。
寺院の縁起については音声ガイドでの解説が画を理解するのに大いに参考になりました。

西国三十三所巡礼は、当初は修行僧や修験道たちが中心だったとされますが、室町時代以降は武士や庶民も巡礼を行うようになったといいます。
寺院は天変地異や戦乱で荒れた寺院を立て直すために、勧進状や観音曼荼羅によって巡礼者を集め、浄財を募るようになっていったとされます。

第4章「聖地へのいざない」では「三十三所観音曼荼羅」や各寺の「参詣曼荼羅」、勧進状などが紹介されます。
参詣曼荼羅では在りし日の寺院を鳥観図のように描くのですが、画の上部には“太陽と月”が対称して描かれているのが面白い。



「施福寺参詣曼荼羅」は1581年に織田信長に焼き払われる前の槙尾山の伽藍を描いており、寺院の財源確保のための勧請に用いられたとみられています。
室町期以降に西国三十三所巡礼が一般化していったのと、戦乱の世や迫害が続いた時代以降の勧進はどこかでリンクしていたのでしょう。

滋賀の「観音正寺曼荼羅」では釈迦三尊を中心にして下に聖徳太子を配し、周囲を三十三所本尊が曼荼羅のように描かれる。
こういう画は鎌倉期以降から描かれるようになったとされますが、既視感があるのは現代でも見かけるような図柄からなのかもしれません。



今回の特別展での最大のみどころはやはり第5章「祈りと信仰のかたち」で展示される仏像群の素晴らしさでしょうか。
特別展では3Fから順に2F、1Fと降りていくのですが、1Fへの階段へ向かう途中で1Fが見渡せる場所があり、ここへ行くと期待に気持ちが高揚し、下に見える仏像群に心踊る心境となります。


(今回の特別展のものではありませんが、今回同様に安祥寺委託の「五智如来坐像(国宝)」が中央に展示されていた。)

第5章では「聖観音・十一面観音・千手観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音・不空羂索観音」の七観音が全て揃って紹介されており、懸仏や仏画・観音厨子など32点が展示。
強烈なインパクトがあったのは、まず醍醐寺の「千手観音立像(鎌倉期)」で、カヤの一木造りの千手観音は一材から彫りだした影響か手が前に向かっており、横に手の広がりはない。
光背はなかったので特に目立ったのかもしれないが、この千手さんは何度でも見たくなる仏像です。



対称的に粉河寺の「千手観音立像(平安期)」は平安期らしい穏やかさと優しさを感じる仏像で、衣紋の彫りは浅く、落ち着いた仏像に見える。
西国三十三所の霊場は総距離1000キロにも及びますから、仏師集団や時代から受けた影響にも違いがあると考えられ、一同に仏像が並ぶと何となく特徴的なものも見えてきます。



圧倒されたという点では松尾寺の「馬頭観音座像(江戸期)」でしょうか。
松尾寺に参拝した時には写真のみの公開でしたが、それだけでもかなりの衝撃を受けており、今回やっと実物を目にすることが出来ました。
江戸期の仏像としても群を抜いて秀逸だと思います。



竹生島「宝厳寺」といえば、「宇賀弁才天」が思い浮かびます。
西国巡礼札所本尊としては秘仏の「千手観音像」となりますが、この「聖観音立像」は宝厳寺の本堂・弁天堂の後陣で破損した状態で安置されていたものだという。
近年、修復されたといい、横や後ろから見るとやや前傾姿勢なのが正面から見るとそうは見えないところが興味深く、平安期の仏像の良さが伝わる仏像だと思います。



この機会でないと出会えないかもしれない仏像群に堪能した後、第6章「巡礼の足あと」へと移動します。
西国巡礼が広がりだすと、旅の要素が加わるようになり、歌川広重や歌川国貞は「観音霊験記」などを描き、一種の旅のガイドブックのようなものも求められるようになったようです。
また、朱印や籤・奉納された巡礼札のようなものも盛んになり、現代の西国巡礼の基となるような変化があったようです。

第7章「受け継がれる至宝」では「三十三所」というキーワードだけでは語れない各寺院固有の寺宝について紹介されています。
この章で紹介される寺宝は、「銅板法華説相図」や「太刀」「密教法具」など多岐にわたり、寺院それぞれの寺宝が展示されており、興味深く見ることが出来ました。



特別展の踊り場から下の通路で何かイベントをやっていたので上から覗いてみる。
あの着ぐるみは「虎形 琳丿丞こと『とらリン』」といって京都国立博物館の公式キャラクターだそうです。
愛想良く手を振ってくれましたよ。
...ということで平成知新館を出て博物館の庭園を一回りしてみることにする。




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『雨森・無動寺のホトケたち-農村に眠る密教の輝き-』~高月観音の里歴史民俗資料館~

2020-09-05 06:06:06 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「観音の里」高月町にある「高月観音の里歴史民俗資料館」では、『雨森・無動寺のホトケたち-農村に眠る密教の輝き-』と題された特別陳列が開催されています。
今回特別展示されている雨森(あめのもり)の無動寺の仏像・仏画は、通常公開されていないもので、よほど詳しい人でなければ知らない寺院になります。

当方も今回の特別展示でその存在を知ったのですが、湖北には人知れず地元の方だけで守っているお寺が実に多いことを改めて感じます。
雨森集落は135世帯・402人(うち外国人13世帯・13人)とされ、様々な宗派の寺院8寺がある中で、無動寺には檀家がなく地域住民(主に真宗門徒)によって守られてきたといいます。



雨森は高月町の北東部に位置しており、己高山から山麓にある鶏足寺や石道寺を経て、平野が広がっていくような場所にあり、己高山仏教圏の影響が強かったと思われる地となります。
無動寺の御本尊は不動明王で、1455年に開山されたとされ、本山を京都の智積院とする新義真言宗智山派の寺院といわれます。



かつての無動寺は雨森集落の中心部にある「天川命神社」の別当寺だったといいますが、江戸時代中期になって雨森村出身の僧・延教が復興するまでは衰退していたのかと思われます。
それは、今回特別展示されている仏像・仏画が全て江戸期のものであることからであり、真言宗系の寺院となったのも江戸期の復興期によるものかもしれません。

特別展示は彫刻が「不動明王像(本尊・像高49.2cm)」「阿弥陀如来坐像(像高22.3cm)」「愛染明王坐像(像高26cm)」など7点を含む14点を公開。
資料館には「オコナイ神事」に使う飾り物や高月町内の遺跡から発掘された勾玉なども展示されており、高月の歴史や民族が分かりやすく展示されています。

1階では「冷水寺の十一面観音座像」「石道寺の懸仏」「宇根春日神社の神像」「黒田安念寺のいも観音」などが展示され、特色豊かな仏像や神像が紹介されている。
無動寺に興味が湧いてきましたので、雨森集落へ現在の無動寺を見に行ってみることにする。



随分と探しましたが見つからないのも当然で、村の中の細い道に石碑が並んでいて、その奥にある民家としか見えない建物が現在の無動寺です。
集落の方がかつての寺院の寺宝を祀り、守っているそうですが、他の多くの観音堂と同様に守り続けていくのは大変なことなのに、よく守られているなぁと感心します。

ところで、無動寺を探している時に迷い込んだ先に「大海道遺跡」の看板が立つ場所がありました。
「大海道遺跡」は、縄文時代後期から中世の遺跡とされており、竪穴住居・掘立柱建物を中心とした集落(ムラ)跡や、奈良・平安時代の寺院跡や館跡などが確認されているようです。



遺跡は、高月町保延寺・持寺・尾山の集落から高時川右岸に沿って約4キロに渡る遺跡群を形成しているといい、古代よりこの地に集落が栄えていたことが分かります。
己高山仏教圏には山岳信仰や白山信仰・密教が栄えたとされる一方で、製鉄や農耕など外部から入ってきた文化が相まって集落が形成されていったのかもしれません。
もちろん近くを流れる高時川の水利も切り離せない条件だったと思われます。



「大海道遺跡」には高槻(高月)の名を表すかのようにケヤキの木が立ちます。
“高月を歩けば、観音堂と巨樹と古墳に巡り合える”と個人的に思っていますが、巨樹は雨森集落だけでも「天川命神社のイチョウ」「雨森芳洲庵のケヤキ」「雨森・保延寺の野神さん」と出会える。
雨森集落の西側で隣接する「日吉神社/円満寺」には、「高月歴史のおくりものシリーズ」の第一回『槻の木十選』に選ばれているケヤキの巨樹があります。



円満寺と日吉神社は同じ境内地に隣接する神仏習合の寺社で、観音堂には「円満寺の十一面観音立像」が祀られている。
『槻の木十選』で日吉神社のケヤキは二本一組として選ばれており、幹周は4.3mと3.6mとされています。
日吉神社の本殿に向かうケヤキも立派に巨樹と呼べるもので、境内にはこれ以外にもケヤキの樹が見える。



注連縄が巻かれているのが日吉神社の神木のスギで、これ樹もまた見応えのある巨樹でした。



高月町の東部から西の琵琶湖方面へと向かう道中に塚を見つけたので立ち寄ってみる。
さて、野神さんか古墳かと確認すると、どうやら「父塚」という古墳でした。



説明版には“1992年の発掘調査では、古墳に伴う周濠と7世紀以降の集落(竪穴住居・掘立建物・溝等が発見された”といいます。
また“復元すると直径40m以上、前方後円墳だとすると全長60mくらいの古墳と考えられ、周濠上層からは6世紀~中世、下層からは4世紀前後と考えられる土器類が出土している”という。



父塚古墳に関しては“今後かなりの検討を要する”と書かれてあり、頂点部に稲荷神社が祀られています。
先述しましたが、高月町界隈は古墳や巨樹・観音堂があちこちに現存していることには驚くばかりです。





巨樹揃いの高月町で、大きさ・古さ・美感・風格・地域との結びつきなどから選ばれた「槻の木十選」の中でも、もっとも迫力や神々しさを感じるのはやはり「柏原の野神さん」になると思います。
正式には「八幡神社のケヤキ(野神ケヤキ)」と呼ばれるこの野神さんは何度見てもその迫力に圧倒されます。(幹周8.4m、樹高22m、推定樹齢300年以上)





高月では“農村に伝わる信仰の輝き”とでも呼べそうなものが各所で溢れんばかりの輝きを放っており、訪れるたびに新しい発見があります。
また、伝わってきたものを残していこうという地元の方々の気概に感謝致します。


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湖北の巨樹を巡る8~「日吉神社のエノキ」「下坂浜のサイカチ」「大通寺のクロマツ」~

2020-09-01 06:15:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「無礙智山 大通寺」は、1602年に長浜城跡に創建された真宗大谷派の寺院で、現在地には長浜城が廃城になった1606年に移されたとされます。
寺伝によると、伏見城の殿舎を徳川家康から寄進された教如(東本願寺第十二代)が、東本願寺の御影堂として用いていたものを移建したのが、大通寺の「本堂(阿弥陀堂)」だといいます。

浄土真宗の親交の厚い湖北地方の拠点となっていた寺院となりますが、長浜市民には「御坊(ごぼう)さん」と親しまれる寺院となっています。
近所の子供たちの遊び場や大人たちの休憩場所でもあると同時に、毎日の参拝を欠かさない人や観光客も多く訪れる和みの場所といえます。



この大通寺の山門から塀伝いに米川へ向かうと、「日吉神社」というこじんまりとした神社があり、祠の後方には大きな桜の木とエノキがあります。
坂本(大津市)の日吉大社(山王権現)から勧請された御祭神は「大山咋神」で、旧長浜町の鬼門守護の神として1810年に鎮座されたと伝わります。



神社としては祠が祀られているだけですが、後方に植えられた2本の木は、狭い場所にも関わらず樹勢の良い姿を見せてくれます。
石標の左側にあるのが桜の木で、枝が道路側にまで伸びていることから、桜の季節には絶景の桜となります。



右側の木が米川の川辺へと伸びるエノキで、幹が水上にあることもあって、苔が広がり独特の姿を見せてくれます。
このエノキは幹周が1.3m、樹高は9.8mで、樹齢は推定で80年(平成15年当時)とされています。



米川は、長浜市の中心部を何度も曲がりながら流れて、旧長浜港の辺りで琵琶湖に注ぎ込む。
市街地では街並みの間を流れる川として、古い町並みの趣を残し長浜御坊表参道や曳山博物館の辺りでは風情のある景色が見られます。



現在の市中の様子からは想像が付きませんが、日吉神社は旧長浜町の鬼門守護の神だったといいますから、この辺りまでが城下町で、ここから少し東の方向からは田園地帯だったのかと思われます。
「長浜曳山まつり」の13基の曳山のある山組の配置からみても、北は「知善院」、東は「八幡神社」、南は長浜港近くとなり、この山組の配置内が長浜城下町の範囲だったのでしょう。



エノキを下から見上げても樹冠が盛り上がっており、実に樹勢の良い木なのが分かる。
湖北のエノキとしては「えんねのエノキ」が有名ですが、樹齢250年を超えるエンネのエノキとは違った味わいがあります。



米川の橋の上から日吉神社のサクラとエノキを眺める。
右後方にあるのは大通寺の塀で、大通寺とは市道を挟んだ近距離にある。



この日吉大社は、「山王宮」、「山王さん」と呼ばれているといい、例祭には子供神輿の渡御が行われるといいます。
大通寺の表参道(ながはま御坊表参道商店街)のすぐそばにある神社の祭典ですから、にぎやかに催されるのかと思います。

<大通寺のクロマツ>

大通寺の境内に戻り、参拝を済ませると庫裡の前方にある「保存樹指定樹木標識」が目に入ってきた。
標識には樹木名クロマツ、幹周2.3m、樹高17mで樹齢は400年と書かれている。

クロマツは海岸や湖岸に防風林として植えられている事が多く、庭園でもよく見かけます。
また、松は1年中緑が絶えないことから不老長寿の縁起のいい木とされ、正月飾りや障壁画の題材として取り上げられることが多い木です。



寺院の庭園などで造形の美しい松をじっと見ることはありますが、身近な樹木なので自宅の庭に松を植えている人か盆栽趣味でもなければ、じっくり見る機会はあまりないように思います。
普段見る松の印象と比較すると、このクロマツは幹の太さが感じられ、松の樹齢400年とはこうなるのかというのが感想です。



大通寺の境内にはもう1本のクロマツがありますが、こちらは円錐状に選定されて整った感があり、馴染みやすい形をしています。
この位置から境内を眺めると、「広間附玄関」「本堂」「太鼓楼」を見渡すことが出来ます。



かつて長浜城にあった大通寺を街の中に移そうとする話があった時、賛成派と反対派の人々が東本願寺に決めてもらおうと本山に向かったといいます。
反対派は途中に立ち寄った茶屋の娘・お花はんが気に入って、お花はんに足止めされている間に東本願寺より移転の沙汰があったといいます。
これは「近江むかし話」に伝わる長浜御坊さん(大通寺)の「お花きつね」の話です。

<下坂浜のサイカチ>

湖岸道路を南から長浜市方面へと走行すると、見えてくるのは「良畴寺の長浜びわこ大仏」ではないでしょうか。
初代のびわこ大仏は、戦前の1937年に開眼したコンクリート製の大仏で、現在の2代目は1994年に建てられた高さ28mの青銅製の大仏となる。

「長浜びわこ大仏」があるのは下坂浜町といい、下坂浜町から田村町へと続く湖岸には現在は湖水浴場としては機能していないようですが“さいかち浜水泳場”があり、マリンスポーツのメッカとなっている。
「さいかち浜」と名前が付くのは、湖岸にかつて「サイカチ」の木が数多く生えていたことに由来しますが、今は湖岸から少し離れた場所に1本の老木を残すのみとなっています。



このサイカチは幹周が3m、樹高が5mあるといい、樹齢は400年とされています。
老木ですので幹に空洞が出来ていたりしますが、樹冠はこんもりと茂り、まだまだ樹勢は良いようです。



「サイカチ」は、マメ科の落葉高木に分類され、秋には実を付けるといいます。
サイカチの木の後方に田園が広がりますが、ここは下坂浜の古い住宅街の外れになる。
近くの新興住宅地には新しい家や店舗が立ち並んでいますので、この老木は歴史の生き証人となっている。



主幹は太く、何本かの幹に複雑な形に枝分かれしていて力感がある。
緑色の小さな葉っぱがぼんやりとしたトーンを描き出していて美しく感じます。



かつて織田信長と浅井長政らが戦った「小谷城の戦い」や「姉川の合戦」の主戦場は、もっと北にありますが、このサイカチ辺りでも合戦があったようです。
15代将軍・足利義昭に呼応した石山本願寺の指令により、浅井方に味方した湖北の真宗門徒が一向一揆の勢力として立ち向かった戦い(1571年)の一場面です。

湖北の真宗門徒は数は多かったとはいえ、戦いにかけては素人。
信長方の秀吉軍などに打ち破られて後退し、この「さいかち浜」で最後の一戦を交えて敗れ去ったと伝わります。


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