僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~京都市左京区 平安神宮~

2018-03-30 19:02:22 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 これまで何度、平安神宮の大鳥居の前の道を通り過ぎてきたことでしょう。
この界隈は京都~滋賀間を移動する時にアクセスの良い道としていつも使う道で、通過するたびにあの大きな鳥居を見てきたと思います。

それだけよく通っていた道にも関わらず、今回が初めての参詣になってのはとても不思議に思えてしまいます。
いつでも訪れることが出来ると思うところは、かえって縁遠くなってしまうものかもしれませんね。



平安京を取りまく岡崎公園の近くには複数の美術館やイベント会場・ホールや動物園などが並ぶ文化ゾーンとなっている楽しみの多いエリアになっています。
この日は美術館へ行った後に参詣しましたが、インパクトの強い神社ということもあってアジア系外国人の方が非常に多く訪れられていました。



平安神宮の大鳥居は、高さ20m・幅18mの巨大な鳥居で、日本最大の鳥居としては熊野本宮神社の33.9mには負けるものの、その大きさは遠くから見ても目に付く驚くべく大きさの鳥居です。
柱の径も約3.6mで車のサイズと比較すると、その太さが規格外なことが分かります。





平安神宮の名は誰もが聞いたことのある神社だと思いますが、その歴史は非常に浅く1895年に創建されています。
御祭神は平安京の創始者とされる桓武天皇で、平安神宮は平安遷都1100年記念として創建されたそうです。

その当時の京都は幕末の戦乱による荒廃、首都が東京となったことからくる喪失感に包まれており、京都復興への思いが形になったのが平安神宮だったといわれます。
反面、1895年は日清戦争が終わった年でもあり、近代国家として・または神国日本として海外列強との戦争へと向かっていく時期だったことの影響があったとも考えられそうですね。



大鳥居からの参道を歩いて行くと朱色の應天門が近づいてきますが、これはなかなか見応えのある光景です。
應天門は第4回内国勧業博覧会(万博の国内版)のモニュメントとして造営されており、平安京朝堂院の應天門を模しているとされます。(重要文化財)

平安時代に存在した應天門は866年に放火によって炎上したと伝わりますが、そこには公家社会の争い・陰謀が原因だったともされていて疑獄事件にまで発展したようです。
いつの世にも権力闘争による陰謀はあるようですが、失ったものも大きかったということになります。





礼拝する大極殿へ行くまでにまずは手水舎で身を清めます。
この手水舎は水が出ていないため、溜まっている水をすくって清めることになりますが、出来れば流れ落ちる水の方が衛生上いいかも?



境内には「白虎」の手水と「蒼龍」の手水がありましたが、どなたかが左右の楼を模して奉獣されたのでしょうね。





広い境内を歩いていくと、結界になっているのかのように「龍尾壇」と呼ばれる一段高くなって場所があります。
ここから先の段差のある場所に楼閣・大極殿・本殿は建てられていました。
「右近の橘・左近の桜」が龍尾壇の上に対になって植えられており、花期には見応えがありそうです。



平安神宮は正面にある大極殿からの参詣となりますが、奥には内拝殿と最奥に本殿が縦に並びます。
左右には「白虎楼」と「蒼龍楼」が左右対象に建てられており、さながら竜宮城に来たかののような印象を受けてしまいます。

大極殿の右にあるのは蒼龍楼。右にあるのは白虎楼。
複雑な造りになっている建物で、拝殿とは歩廊によってつながっていました。





平安時代の應天門は放火により焼失していますが、1895年に創建された平安神宮も1976年に火災によって本殿・内拝殿など9棟が焼失してしまってます。
昭和の火災は新左翼活動家による放火テロ事件として扱われていて、理由として“桓武天皇を祭神として祀ることは「神」に対する冒涜”と考えたとされています。



無知で知らなかったのですが、平安神宮では毎年10月に「時代祭」が行われていて、京都御所から平安神宮までの道のりを時代衣装の大行列で練り歩く祭りがあるそうです。
祭りとしての歴史は新しいものの「葵祭」「祇園祭」と並んで京都三大祭りとして定着しているみたいですね。
神宮のHPには「一目で京の都の歴史と文化が理解できるものを」「京都をおいて他にはまねのできないものを」とあり、京都人の祭りに対する心意気が感じられます。

ところで、“京都らしい”といえば和菓子でしょうか。
平安神宮からの物見遊山の道中で“くずぜんざい(平安殿)”を頂きました。



甘いものに目がない当方にとって“小豆・白玉・葛”とは至上の取合せです。
これで甘いものに満足したかというと...
道中にあった“わらびもち(峯嵐堂)”に立ち寄ってまた甘物ということで、随分とヘビーなスイーツ巡礼になってしまいましたよ。


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御朱印蒐集~京都市西京区 西山 善峯寺~

2018-03-26 18:50:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 善峯寺は、釈迦岳の支峰の善峯の山腹一帯に多くの堂宇を構えている古刹感溢れる寺院で、竹林が連なる細い山道を登っていった先にありました。
「十輪寺」(業平寺)という寺院を過ぎてからさらに進んだ先に善峯寺の参道の入口となる赤い橋が見えてきましたが、この付近には駐車場がなかったため通り過ぎて山門前パーキングまで行くことになりました。
正式な参拝道から歩いて登られる方も多いだろうと思いますが、如何せん車が停められないのでこれは断念です。

善峯寺は西国三十三所巡礼の第20番札所となっている寺院であり、1029年に源算上人によって創建された寺院だとされます。
源算上人は、比叡山横川の恵心僧都(源信)に師事された方とされていることもあって、天台宗系の善峰観音宗の寺院になっています。



鎌倉時代には慈鎮和尚(慈円・天台座主)が住職を勤め、多くの法親王が入山したため「西山門跡」と呼ばれるようになり、室町時代には僧坊52を数える大寺院になったとされます。
応仁の乱によって大半の伽藍を焼失しまいますが、江戸時代には徳川5代将軍綱吉の生母である桂昌院(3代家光の側室)の寄進により再興されたといいます。



駐車場から少し登ると本来の参道から来た人が入山する東門があります。
一旦東門から出て、もう一度入り直し、つづら折りの善峯古道を登ってきた雰囲気だけを感じさせてもらいます。



善峯寺でまず驚くのは、その山門(楼門)の見事さです。
1716年建立といわれる山門の堂々とした力強い姿には圧倒される他ありません。

金剛力士像は運慶作で源頼朝寄進と伝えられていますが、力士像はガラス張りのため反射してよく見えない。
山門の右側には「西山宮門跡」の門札が掛けられており、かつては官寺であったことが分かります。





開山当時の寺号は「良峯寺」だったとされますが、1192年に後鳥羽天皇より現在の「善峯寺」の寺号が下賜されたと伝わります。
扁額の下にしめ縄を付けた門の迫力のある門構えには威圧感があり、何とも堪えられない感慨を受けます。



山門から入山するとほぼ正面に観音堂(本堂)が見えてきて、今度は山裾にある古刹寺院の良さに感じ入ります。
山門と観音堂の間に大きな燈籠がありましたが、この燈籠の火袋の部分には四天王が彫られてある立派な灯篭でした。



まず参拝の前に身を清めようと手水舎へ向かいましたが、何とこの手水には全て竹が使われています。
何とも風流というか優雅な手水に感動してしまい、2度も手水を繰り返してしまいましたよ。
寺院への道中に竹林が多かったので、この辺りの竹は名産品になっているのかもしれませんね。



観音堂は1692年に桂昌院の寄進により再建されたもので、古色感のある入母屋造の堂です。
広い境内を歩いている間にだんだんと参拝者が増えてきたのはやはり西国三十三所の巡礼寺院ゆえのことなのでしょう。





拝所で線香をあげてお参りしたあと外陣に入りますが、官寺だっただけあって奉納額には神社に掛けられているような絵柄のものが見受けられます。
こうして見ると朝廷とのつながりが深く、神道の影響を受けた寺院だった印象が感じとれます。



須弥壇に祀られているのは、本尊「千手観音」(仁弘法師作)と脇本尊「千手観音」(源算上人作)ですが、厨子は閉じられたままです。
厨子の左右に二十八部衆と思われる仏像が安置されていて、仏像の数を数えてみましたが数は合わずでしたので詳しいことは分かりません。

内陣で驚くのは厨子の前に神鏡が祀られていたことでしょうか。
神仏習合の名残りが善峯寺にも残されているということなのでしょう。


パンフレットより

参拝順序が逆になってしまいましたが、鐘楼堂(つりがね堂)へ行って鐘を撞かせていただきました。
この鐘楼堂は、1685年 徳川5代将軍綱吉公の厄年に母である桂昌院の寄進により建立されたものだとされています。



厄除けの鐘の札が掛かっており、梵鐘の下には南無不動明王の石柱があります。
撞いてみると歪のない美しい響きがして、余韻も非常に長い音色が山の麓に響きます。



鐘楼堂の横には護摩堂(1692年 桂昌院により建立)があり、障子が少しだけ開いています。
堂には“不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉”の五大明王が祀られていました。
この五大明王像は江戸期以降の仏像なのか、やや新し感のある仏像です。





護摩堂の建てられている一角には鐘楼堂・多宝塔・経堂などが並び建ち、国の天然記念物である「遊龍の松」や「桂昌院しだれ桜」の巨木がある寺院の中心部になっています。
多宝堂は1621年に建立され、重要文化財となっている建物で本尊として愛染明王が祀られているそうです。



天然記念物の「遊龍の松」は、枝は低く横に伸びていて龍が遊ぶような姿であることから名が付けられており、全長37mともいわれるこの松は樹齢600年以上といわれています。
残念ながら、あまりにも松の拡がりが長すぎて全景を写真には収められませんでしたけどね。



善峯寺の堂宇はほぼ桂昌院により再建されているのですが、この経堂も1705年に桂昌院によって再建されています。
傅大士を奉安して、鉄眼版一切経が納められていましたが、現在は絵馬奉納所となっているようです。





境内を山に向かって少し石段を登った所にある釈迦堂には開山・源算上人作と伝えられている「石仏釈迦如来坐像」が祀られています。
石仏釈迦如来は釈迦岳の頂上に元々祀られていて、堂宇が焼けて雨風にさらされていたものを1878年にお遷りされたものといわれています。

最初は薬師堂に安置されていたのですが、1885年に釈迦堂を建立して本尊として祀られたとされます。
石仏が堂内の須弥壇に祀られているのは少し珍しい感じがして、違和感を感じてしまいます。





境内の堂宇には他に阿弥陀堂がありますが、こちらは工事中でホロを被った状態です。
しかしながら、阿弥陀堂までの道はとても味わいのある石畳の参道になっていました。



更に奥の院を目指して登っていくと「出世薬師如来」に石柱があり、その奥には稲荷社があります。
南天の赤い色が少し見えますが、善峯寺は春は桜・夏はさつき、紫陽花、百日紅・秋は紅葉・冬は南天、さざんか、椿と四季折々の花が咲く、花の寺院でもあるようです。



最後にお参りしたのは薬師堂になりました。
薬師堂は1701年に建立で、昭和63年に現在地に移築された御堂ということです。

桂昌院は徳川家光の側室で5代将軍・綱吉の生母であった人物ですが、出自は諸説はあるものの高い身分の出ではなかったようです。
出生はともかくとしても将軍の生母にまで上り詰めた桂昌院にあやかって、この薬師如来は出世薬師如来と云われているそうです。





薬師堂の前から観る眺望は雲がかかっていたとはいえ、素晴らしいものでした。
京都盆地の向こうの雲の隙間に見えるのはもしや比叡山でしょうか?いずれにしても絶景でした。



西国三十三所巡礼は未だ道半ばです。
ゆっくりと一寺一寺、ライフワークのようにして参拝していこうかと考えています。


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シジュウカラの安心マイホーム

2018-03-24 17:07:37 | 野鳥
 冬鳥の季節が終わり渡りの鳥の季節にはまだ早いこの時期、暖かく陽当りのいい休日にブラブラと鳥見をするのも楽しいものです。
今の時期に近場で見られる野鳥は定住している留鳥になるため、普通に見られる野鳥ばかりとなりますが、逆に疲れない鳥見ということにもなります。



満開近しの梅の花を眺めていると、何度もシジュウカラが巣材を運んでいる姿が見える。
どこに巣があるのか行き先を見ていると、それは小さな祠に付けられた賽銭箱でした。
賽銭箱の中になら外敵はこないでしょうから、子育てを始めるには安心マイホームとなりますね。



賽銭の投入口がちょうどいい大きさになっていて、よくここを選んだなぁと感心することしきり。
何度も巣材を運んでいましたので急ピッチでマイホームを建築中なのでしょう。



このマイホームの唯一の問題は、もしこの賽銭箱に賽銭を入れる人がいたら頭上からお金が降ってくること。
人間なら家の中にお金が降ってきたら嬉しい出来事になりますが、シジュウカラにとっては心配の種かもね。

祠の近くの木ではエナガ数羽がお食事中です。
このエナガたちもこの辺りの樹木で巣作りしているかもしれませんね。





周辺で見かけた鳥は“アトリ・シロハラ・ツグミ・ヒヨドリ・ムクドリ・ヒバリ・キジ・セキレイ・スズメ”といったところ。
変わったやつは出ませんが、妙な期待をしないためゆったりとした鳥見になります。

シロハラはもう今シーズンは終りでしょうけど、ツグミもそろそろ最終組になりそうです。
今年はツグミの仲間の少し風変わりなやつを見ることがなかったな。



チョウゲンボウやノスリもしばらくの間、見かける機会が少なくなるかもしれません。
冬の時期なら電柱を見れば、ノスリやチョウゲンボウの姿はあちこちで見ることが出来たのですけどね。





4月も半ば近くになると田圃では田おこし・代掻きが始まり、桜の花も葉桜になっていることでしょう。
その頃になれば、その時期にしか会えない野鳥たちが続々と飛来してくれそうですね。


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獅子舞が舞う、ウグイスが囀る、空海が解き明かす

2018-03-19 18:38:38 | アート・ライブ・読書
 冬の間、野鳥用の餌場を作っていましたので自宅に何種かの野鳥が訪れてくれましたが、春の訪れとともに野鳥たちが遊びに来てくれることはなくなりました。
やって来た野鳥は“ハクセキレイ2羽、シロハラ、ジョウビタキ♀、イソヒヨドリ♂の若、イソヒヨドリ♀、スズメ、カラス”と中々の盛況ぶりでしたが、既に開店休業状態になっていますのでそろそろ店仕舞といったところ。

湖北の春は雪国とあって遅いので梅の見頃はまだ先になりそうですが、やっと春告鳥のウグイスが鳴き始めましたね。
まだ辿たどしい囀りに可笑しさを感じてしまいますが、春が来たよと心地よく告げてくれています。



ウグイスが鳴きフキノトウが味わえるようになった頃になると、湖北の春の風物詩の一つの獅子舞がやって来ます。
獅子舞を舞うのは三重県の伊勢大神楽から巡ってくる山本源太夫家で、神楽に合わせて舞う獅子を見て春訪れを感じるのは獅子舞がこの季節の風物詩として人々に刷り込まれているからなのでしょう。





伊勢大神楽は季節ごとに巡る地方が決まっていて、1年の大半をかけてお祓いの旅「回壇」を行っているといわれます。
伊勢神宮からの使者という言い方も出来ると思いますが、獅子舞の季節になると回壇を心待ちしている方が多いのではないかと思います。





話は変わりますが、“劇場で映画を見る事”への楽しみが蘇ってきていますので劇場に足を運んで『空海 ーKU-KAIー 美しき王妃の謎』を見てきました。
この映画は仏教僧・空海を描いたものではなく、遣唐使として唐へやって来た空海と唐の詩人・白楽天が権力者の謎の死と怪事件の謎に迫るミステリー・エンターテイメント映画です。

事件のキーとなるのは絶世の美女・楊貴妃と黒猫の謎に満ちた運命で、阿倍仲麻呂や詩人・李白、幻術使いを交えながら核心へと近づいていきます。
日本版ではタイトルに『空海』の名が付いていますが、中国では『妖猫伝』、英語では『Legend of the Demon Catt』と日本版タイトルとは意図するところが違っています。
しかし、唐の長安の都を再現したセットは圧倒される素晴らしさで、エピソードをやや詰め込みすぎたストーリーだったにも関わらず退屈させない映像になっていて劇場で見てこその迫力があります。



個人的に面白かったのは、空海が初めて青龍寺を訪ねた時にそこで出会った恵果大師の正体が○○だったこと。
空海は「また会えましたね。苦痛を覚えない教えは見つかりましたか?」と尋ねる。

逸話での空海には唐で恵果に教えを請うまでに既に密教を理解していたという説がありますが、映画中では恵果に出会う前の空海が“これが密というものです。”と白楽天に語る場面があります。
その後、青龍寺の門が開き恵果大師と出会う(再会する)シーンでは既に密教を会得していたとされる空海の天才性がストーリー的にもうまく表現されていたなと思います。


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御朱印蒐集~京都府亀岡市 菩提山 穴太寺~

2018-03-16 18:11:11 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 穴太寺は、旧丹波国・現在の亀岡市にある西国三十三所巡礼の第21番札所となる天台宗の寺院となります。
思い立ったように穴太寺を訪れたのは、本堂の拝所に掲げられた懸仏を写真で見てからで、是非ともその懸仏を見てみたいという思いからでした。

懸仏は円板に浮彫の仏像を付けたもので、“円板=神鏡に仏像を付けた”神仏習合の証になるものと考えられています。
“日本の八百万の神々が様々な仏の化身として現れた”とされる本地垂迹思想によって懸仏は盛行していったといわれており、穴太寺ではその名残の懸仏が3種見られます。



穴太寺の起源としては、奈良時代後半の705年、文武天皇の勅願によって大伴古麻呂が薬師如来を本尊に安置し建立したことが始まりと伝わります。
戦国時代の丹波地方は明智光秀の所領となりましたが、織田信長の命により丹波攻略にあたっていた光秀が亀山城を築いた際には短期間での築城が必要であったことより、穴太寺からも部材が徴発されたと伝わります。



そんな経緯もあって伽藍は荒廃してしまったものの、17世紀中期になって再興が始まったとされます。
しかし、1728年に本堂を焼失。1737年には再び再興を果たした歴史があるようです。



穴太寺は田舎道を進んだ先の平坦な場所にありましたが、道中の道は細くカーブの多い道になっており、こんなところに寺院があるのだろうか?と不安になるような道中でした。
少し開けた門前町の通りまで来ると、道に面した場所に仁王門が見えてきましたので一安心です。
金剛力士像が祀られた仁王門は江戸時代中期の再建とされていますが、一説にはかつてあった楼門の古材を利用しての再建ではないかともいわれているようです。



鐘楼は1759年の建立といわれており、古色感のある古寺ならではの趣のあるものです。
さっそく鐘を撞かせてもらおうと思いましたが、この鐘は撞けないようですね。
あまりにも民家に近い場所に寺院があることも影響しているのかもしれません。



ところで、鐘楼の天井裏にはたくさんの千社札が貼られていましたが、あんな高い所へどうやって貼ったのでしょうか。
脚立か梯子でもなければ貼れそうにない高い位置に貼られているのです。
また、鐘楼の向かいには1804年に再建されたという多宝堂があり、この多宝堂は亀岡市では唯一の木造塔だそうです。



多宝堂の内部には四天王が立ち、来迎壁を設けて、須弥壇に釈迦如来と多宝如来が安置されていると書かれてありました。
多宝如来は東方の宝浄国の教主とされていて多宝堂に安置されることが多いようですが、内部拝観可能な多宝堂というのはあまり記憶にありませんので、いつかその機会に恵まれたいものですね。



本堂(観音堂)は1735年に再建されたという建物で西国巡礼の札所寺院特有の雰囲気が漂います。
拝所にも巡礼寺院独特の活力のようなものが感じられ、扉にはこの寺院の鎮守の神様の菅原道真にちなんだ「梅鉢紋」の形の窓が設けられています。
境内には道真公を祀る鎮守堂(天満宮・稲荷社)がありますので、道真公への信仰もあるようです。





拝所の向拝の内側にも膨大な千社札が貼られていますので、どうしたらあんなに高い位置に貼れるのかと悩んでしまいます。



この拝所に扁額や奉納額と並んで3種の懸仏が掛けられていました。
懸仏は神仏習合的な色合いが濃かった故に、明治の神仏分離・廃仏毀釈によって失われたものが多いようですが、この穴太寺にはよく残っていたものです。
三室戸寺にも懸仏が残されていましたので、西国三十三所の札所寺院には時代に屈しない信仰の強さがあったのかとも思います。



3種の懸仏が意味するところは分かりませんが、普通に考えると内陣に祀られている御本尊の「薬師如来」を挟んで、左に札所本尊の「聖観世音菩薩」、右にお前立の「聖観世音菩薩」と考えた方がよいようです。
上の懸仏は拝所の左に掛けられていましたので、札所本尊の「聖観世音菩薩」を表しているのでしょう。

と考えると中央に掛けられているのは御本尊の「薬師如来」に見立てたものといえます。
穴太寺の拝所には鰐口が3ヵ所あって、それぞれの如来様にお参り出来るようになっていました。



一番右に掛けられているのがお前立の「聖観世音菩薩」になりますが、札所本尊の「聖観世音菩薩」の懸仏との違いはよく分かりません。
これはこの懸仏をお前立の聖観世音菩薩に見立てていることから同じようなお姿になっているのかと思います。



内陣には須弥壇には3つの厨子がありますが、「薬師如来」「聖観世音菩薩」は秘仏になっているため扉は閉じられており、お前立の「聖観世音菩薩」が扉の隙間からわずかに見えるだけでした。
興味深いのは、須弥壇の厨子の前に神鏡が安置されていたことで、この事からも穴太寺には神仏習合の色濃く残されていることを認識出来ます。

左の脇陣には「不動明王立像」が安置されており、右の脇陣には「阿弥陀如来立像」と共に見た瞬間に激しい衝撃を感じてしまった「釈迦如来大涅槃像」が横たわっておられます。
涅槃像は撫でると御利益がある諸病厄除けの「なで仏」とされていて、寺の方から“布団をめくって撫でて下さい。”と言われて何ヶ所か自分の弱い箇所を撫でさせていただきました。
しかし、台座の上で布団をかぶって寝ておられるお釈迦様の姿には怖さを感じるほどの強烈な印象を受けてしまいます。


観光ポスターより


パンフレットより

「釈迦如来大涅槃像」は鎌倉時代作の像長116cmとされる仏像ですが、明治29年(1896年)に本堂の屋根裏で見つかったといいます。
もしかすると何らかの理由があって隠されたのかもしれませんね。

札所本尊の「聖観世音菩薩」には「身代わり」の霊験譚がある慈悲深い観音様と伝わり、「釈迦如来大涅槃像」には撫でると人々の病や苦しみを受け止めてくださる霊験があるとされます。
そんな御利益を求める参拝者に永年の年月をかけて「釈迦如来大涅槃像」は撫でられ続けてきたのでしょう。
人々の想いを込めて撫でられてきたお釈迦様の躰は艶々とした光沢で輝いています。


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御朱印蒐集~岐阜市 金凰山 正法寺~

2018-03-12 19:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「日本三大仏」といえば、まず奈良・東大寺の『奈良の大仏』、鎌倉・高徳院の『鎌倉大仏』の2つの大仏様が思い浮かびます。
では、あとの1大仏は何?ということになりますが、実は正式には決められてはいないようです。

「日本三大仏」は時代によって変遷があったといわれますが、現在は岐阜の正法寺の『岐阜大仏』を入れて「日本三大仏」としているようです。
(富山県高岡市の「高岡大仏」をカウントすることもある)
『岐阜大仏』を祀る岐阜・正法寺大仏殿は、山頂に岐阜城がある金華山(旧名:稲葉山)の麓に建てられた黄檗宗の寺院になります。



江戸時代に日本に伝わった黄檗宗の寺院ですから、開山は1692年と江戸時代になり、大仏の開眼は1832年のこと。
第十一代惟中和尚が歴代の大地震および大飢饉の災霊の祈願をたて、大釈迦如来像を建立するために25年をかけて托鉢に歩いたと伝わります。

托鉢に歩いた地域は遠く信越地方にまで及びましたが、惟中和尚は大仏殿の建立を待たずして亡くなってしまいます。
その後、惟中和尚の意志を継いだ第十二代肯宗和尚の時代に完成した大仏様が現在に伝わるものとされています。



本堂は黄檗宗の寺院らしい中国風の建築物で、上階へ行くほど幅が狭くなっています。
2階の中央部に「花頭窓」がありますが、開放時は大仏様の顔が見えるように設計されているのかもしれませんね。
この御堂に内に像高14m近い「大釈迦如来像」が納められていますので、堂内の目一杯に大仏様が安置されているということになります。



本堂の入口の受付には寺院の息子さんと思われる小学生の男の子が番をしていました。
寒そうな場所で毛布に膝をくるんで参拝者への対応をしていていましたが、それも将来のご住職としての修行になるのかもしれませんね。

堂内に入ると“うわぁ~”と思わず声が出てしまう大きな大仏様が目に入ってきます。
寺院の案内によると、像高:13.7m、顔長さ:3.63m、目長さ:0.66m、耳長さ:2.12m、口幅:0.70m、鼻高さ:0.36mとまさしくキングサイズの大仏様です。



「奈良の大仏」が像高:14.98m、「鎌倉大仏」が11.35mですから日本三大仏の中でサイズ的にはNo2になる大きさです。
また「岐阜大仏」は奈良や鎌倉大仏が金銅仏なのに対して、木心乾漆造り(乾漆仏)ですので、「奈良の大仏」とは随分と印象が異なります。
それにも増して驚くのが、この大仏様の何とも優しげな表情ではないでしょうか。包み込まれるような慈愛に満ちています。





堂内は大仏様を中心として堂内をひと回り出来るようになっていて進んでいくと、大仏様の背面には3枚の「地獄絵」が掛けられていました。
1枚目には三途の川の「正塚婆(しょうづかのばば)」が亡者の着物を剥ぎ取り、「浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)」に生前の行いを写され大王に裁かれる亡者達が描かれています。



2枚目には“炎に包まれて焼かれる亡者”や“水に沈められて龍に喰われる亡者の姿、体に釘を打たれている亡者の姿まであります。
地獄絵に描かれる厳しい責め苦を受ける亡者達の姿は、絵によって多少の違いはあれどもいつ見ても怖しい光景です。



3枚目にも“血の池に沈められ、その血を飲まされる亡者”や“鳥に喰われる亡者”がいます。
賽の河原では“積み上げた小石を鬼に崩される子供達”がありますが、地蔵菩薩が救済に来てくれたようです。
絵の上部には極楽浄土へ導かれる亡者が極楽橋を渡っていく姿があり、空からは天女が迎えにきていますね。



大仏様の両脇の壁には五百羅漢が並んでいます。
この五百羅漢は過去の大地震で震災を免れたものが保管されているとされ、数は揃ってはいないようですが、 錚錚たるお姿です。





大仏様の背面の地獄絵を見て正面まで戻ってくると、そこには何とも優しげな表情の大仏様が待ち受けてくれています。
結んだ“説法印”が「あなたは今のままでいいんだよ。万事それで大丈夫なんだ。OKなんだよ。」と言いたげなメッセージに思えてしまいうのは大仏様の表情からくる感情なのでしょう。
上から見下ろすその尊顔には、微笑みかけるような優しさに悪い気持ちや行いが許されるような包容力を感じ、何ともいえない安堵感があります。





正法寺の境内には戦国時代の作といわれる「地蔵菩薩像」が地蔵堂に祀られてあり、その横には石造りの多宝塔が残されています。
元々は正法寺の近くにある「伊奈波神社」に奉安されていたものが、明治の神仏分離令の難を逃れるため正法寺に移されたものとありました。



寺院にはいろいろな姿があるかと思いますが、正法寺は人の気持ちを穏やかにさせてくれる寺院だったとの強い印象が残ります。


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第67回 長浜盆梅展~信楽焼の茶碗を買う~

2018-03-10 17:55:55 | 風景・イベント・グルメ
 暖かい地方では梅が見頃、もしくは終わりに近づいていると思いますが、滋賀の湖北地方の梅の見頃はまだ遠いようです。
野外の梅はまだまだとはいえ、慶雲館で毎年開催される長浜盆梅展の梅はもう終了寸前となっています。

毎年招待券をいただくので盆梅展に行くのが我が家の年中行事になっており、今年も遅まきながら梅見へと参りました。
開館直後ということもあって来場者はチラホラでしたが、皆さん梅の香りの漂う部屋で気に入った角度から写真撮影されておられました。



長浜盆梅展は第67回ということですから、最初の開催は1952年(昭和27年)からになります。
実に長いあいだ続いてきたものだと感心しますが、定着した風物詩としての集客力があるのでしょうね。



盆梅展が開催されているのは明治時代に建てられた慶雲館ですが、この建物は明治天皇の行幸に合わせて急遽建設された建物だそうです。
明治天皇夫妻が滞在されたのは昼食を兼ねて約1時間。よくこれだけの建物を造ったものです。

慶雲館を建てたのは実業家・浅見又蔵という方で琵琶湖上の航路を運営する海運会社の頭取だったとされる人物です。
その浅見氏は日露戦争の頃の横綱・常陸山の贔屓筋(谷町)だったようで、前庭には常陸山の石像があります。
当時の事ですからかなりの資産家だったのでしょう。



慶雲館に入ると微かに梅の香りが漂い、紅・白の梅の花が華やかに咲いています。
梅の写真を撮ろうかと思いカメラを構えると、すぐにスマホを構えた人が前に来てファインダーに入ってくるので写真は諦めます。



新たな試みなのでしょう、樹齢:伝120年といわれる「清音(せいいん)」の置かれていた場所は下がミラーのようになっていて梅の花が映り込んでいて綺麗でしたよ。
定番の「不老」の方も樹齢:伝400年、高さ2mの古木に満開の梅が咲き、枯れと花の両方の味わいのある盆梅です。



梅の香りということでは明治の旧館よりも新館の方が香りの濃度は高かったように思います。
変わり花ということで紅白の2色が1本の木から咲く梅がありましたが、その鉢に一輪2葉が白花・3葉がピンクという面白い花が一輪ありました。



何と書いてあるか読めない掛け軸の横には梅の巨木の影。
こういう文字がすんなりと読める人を羨ましく思ったりします。



梅の飾り窓の向こうには梅のステンドグラスが見えます。
青い部分は何を表現しているのでしょう?琵琶湖かな?



ということで、これも毎年恒例の抹茶と和菓子タイムです。
抹茶に「盆梅しそもち」が付くのですが、「盆梅しそもち」は白あんを包んだもちを紫蘇の葉で巻き上げた和菓子で抹茶によくあいます。



今年はこのセットの他に“信楽焼の茶碗付き”のセットがあり、そちらのセットを選びました。
見本の茶碗には釉薬がかかっていなかったのですが、もらった蜿にはいい感じで釉薬がかかっていたのは嬉しかったですね。

会場には信楽高校とのコラボの盆梅コーナーがありましたから、この茶碗は信楽高校の生徒さんの作品かもしれません。
滋賀県で唯一陶芸技術を学ぶカリキュラムが組まれている科のある高校ですから出来栄えも良く、上手く出来ています。
将来は信楽の釜で陶芸作家を目指すのかも?



盆梅が終わると長浜は曳山まつりの季節になります。
桜が咲き始める頃には獅子舞がやってくる春のにぎやかな季節が始まりますね。


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京都国立近代美術館~ゴッホ展 巡りゆく日本の夢~

2018-03-04 17:38:38 | アート・ライブ・読書
 人はなぜ美術館へ行くのでしょうか?
当方も年間通して何度か美術館へ足を運びますが、ゴッホ展のような大きな美術展で凄まじいまでの来客数に揉まれると、いったい美術作品とはなぜ人の心を惹きつけてやまないのかと感じてしまいます。

その理由の1つとしては“画集やネットではなく本物を自分の目で見てみたい”という欲求があると思いますし、一同に展示された作品を年代や分類によって見られるということもあるのでしょう。
当方は「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」のポスターにも取り上げられている色鮮やかな花魁の絵、これを是非見てみたいというのが動機でした。



「花魁(渓斎英泉による)」は日本の浮世絵に強い関心を持っていたゴッホが模写した作品ですが、オリジナルの絵にはない原色を塗り重ねた作品に仕上がっています。
オリジナルは溪斎英泉という絵師が描いた「雲龍打掛(うんりゅううちかけ)の花魁」ですが、絵を掲載したパリ・イリュストレ誌の日本特集号では絵が左右反転して紹介されています。

ゴッホは反転した絵を模写している訳ですから絵はオリジナルとは反転することになってしまいます。
すなわちオリジナルの花魁は右肩から見返しているのに対して、ゴッホの絵は反転して左肩から見返した絵になっているのが面白いですね。
(会場にはオリジナルおよびパリ・イリュストレ誌も展示されている)
花魁の左の鶴や下の蛙なども別の浮世絵から模写して組み合わせているようですから、ゴッホの日本美術への関心の高さが伺えます。


ポストカード

ゴッホは相当エキセントリックな性質の方だったようですが、それはさておきゴッホが住みかけた頃のパリはジャポニスム(日本趣味)が最盛期だった時代のようです。
影響を受けたゴッホは浮世絵を集めて展覧会を開き、模写することで鮮やかでありながらも特有の作品を描くようになったとされます。

「カフェ・ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ」はゴッホと懇意にしていたアゴスティーナ・セガトーリの肖像画だそうです。
後方に浮世絵らしき絵が掛けられている様子が描かれているのが興味深いですね。


ポストカード

その後、ゴッホは南仏プロバンス地方アルルへ移り住みますが、その理由はアルルに日本を夢見たからと書かれてありました。
南仏がどんなところか想像がつきませんが、アルルに対して“ここは日本そのものだ”というのは余程日本を理想化していたのでしょうね。

日本を楽園と考えたゴッホもやがて「日本の夢」から目覚めて以降、あの有名な「耳切り事件」や「精神病疾患に苦しみながら描く作品」には少し変化が見られます。
「ポプラ林の中の二人」では鮮やかだった色彩がなくなり、恋人たちが歩く林のイメージとは異なる孤独感が感じられてしまう作品となっていました。
この絵の前でしばらく立ちすくんでしまったほど何とも言えない雰囲気の絵です。


ポストカード

ゴッホ展には全体で約180点の展示物があり、ゴッホの絵以外には広重・北斎・国貞・国芳の浮世絵、書簡なども多数展示されてありました。
近代美術館のゴッホ展では階を変えたコレクション・ギャラリーでも「森村泰昌、ゴッホの部屋を訪れる」という関連展示を同時開催されています。

現代芸術家の森村泰昌さんは、自らの身体を使って世界的に有名な絵画や有名人に扮してセルフポートレートによって完成度の高い作品を作られる方です。
「自画像の美術史(ゴッホ/青)」という作品の展示がありましたが、これはおそらくゴッホがピストル自殺前の最期に描いた自画像の再現だと思われます。
ゴッホの陰鬱な表情がとても強い印象の絵(写真)ですね。



会場にはゴッホの「寝室」という絵を再現した部屋が設置されていました。
ゴッホはアルルのこの部屋で暮らしたとされ、ゴーギャンとの共同生活もしたとされています。
ここでの生活の末期に「耳切り事件」が起こったとされ、その後ゴッホは精神に変調をきたしていったようです。



森村泰昌さんはこのレプリカの黄色い部屋の中でゴッホに扮装した姿での作品も作られています。
自画像に使われた部分だけに着色されていて過程の分かる面白い作品になっていますね。
また、ゴッホのオリジナルの「寝室」の絵には影が描かれていませんが、レプリカの方には当然ながら影があるのも面白いところです。



展覧会は『第1部 ファン・ゴッホのジャポニスム』に「パリ-夢の始まり」、「アルルー「日本」という名のユートピア」、「サン・レミ、オーヴェールー遠ざかる日本の夢」。
『第2部 日本人のファン・ゴッホ巡礼』に分かれていて、2部ではゴッホに強い憧れを抱いていた日本人の学者や芸術家たちの巡礼の旅の記録や映像の展示もあります。
日本に憧れたゴッホ、そのゴッホに憧れた日本人、どちらにとってもそこは聖地だったのでしょう。


図録

さて、展示室を出て外を見ると、平安神宮の大鳥居が見下ろせます。
朱色の大鳥居の奥に見えるのは京都市美術館でしょうか。この界隈は京都の文化ゾーンですね。



ゴッホという一人の画家の作品の変遷、ゴッホが理想郷とした日本の絵師から受けた影響、変調していくゴッホの作品。
ゴッホの作品のある一部に光を当てた美術展だったと思いますが、見る人の興味が増すように企画された美術展だったと思います。


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