僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

湖東の巨樹を巡る2~蒲生郡日野町「熊野神社」(タコ杉とヒダリマキガヤ)~

2020-10-28 20:08:08 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 “神社で蛇に出会う”というのは吉兆の知らせなのでしょうか。注意喚起の前兆なのでしょうか。
日野町にある熊野神社に参拝した時、圧倒されるような巨樹が何本もある境内を歩いていると、巨樹の根の所にいた蛇がこちらの気配に驚いて木の幹を登ろうとしてうねる姿に出会いました。

当方は大の蛇嫌いにも関わらず、足元から蛇が出て、目の高さ近くでうねっている姿には連鎖反応で悲鳴をあげてしまった次第です。しかも結構大きなやつだった。
まぁ楽観的に“これは吉兆”だと思い境内を進みましたが、この「熊野神社」は修験道の霊場の空気が漂う神社です。



熊野神社は、綿向山の麓にある熊野集落にあり、山岳信仰の御神体である綿向山を中心に活躍した修験道者達の拠点となっていたといいます。
熊野神社から綿向山へ入っていくと、「熊野滝(熊野飛滝神社)」があり、熊野神社の御神体として神聖な御滝を祀っているともいわれている。

鳥居後方の木には勧請縄が掛けられているが、湖東や湖南地方の神社では勧請縄に下がりものが吊るされているのを時々見かけることがある。
村の外から悪いものが入ってこないように張った結界と思われ、下がりものにはその集落特有の決まり事があるようです。



熊野神社ではさらに竹に挟んだ御幣も祀られており、勧請縄には竹に挟んだ御幣が差されている。
また、勧請縄が掛けられた木の根っこにも御幣が差されてあるのは、熊野集落独特の儀式・儀礼かと思われます。



熊野神社の鳥居の前には「熊野神社のタコ杉」と呼ばれる巨樹があり、巨樹ぞろいの熊野神社でも異彩を放っています。
タコ杉は、タコが逆立ちして足が上向きになったような姿から名が付いたとされ、幹周7.3m・樹高25mで樹齢は推定で400年とされる独特の姿をしたスギです。



杉の巨樹が多い熊野神社にあって、他の杉は真っすぐに伸びているにも関わらず、このタコ杉だけが異様な姿をしているのが不思議です。
なぜこのタコ杉がこのようになったのかは不明ですが、周りに何もないところに単立で立っていることで、環境的な影響があったのかもしれません。





境内は「お宮さんの森」と呼ばれ、巨木としてカウントされる樹が26本あるとされます。
大半は杉の木となる中で、勢いよく葉を茂らせているのがイチョウの木。
幹周3.7m・樹高が33mのイチョウはなかなかの見応えです。



熊野神社は、伊弉冉命と武三熊大人命の2柱を御祭神として祀り、武三熊大人命は同じ日野町にある「馬見岡綿向神社」の御祭神の1柱としても祀られています。
馬見岡綿向神社では、天照大神の第二の御子である「天穂日命」、その御子の「天夷鳥命」「武三熊大人命」を祀っており、この神々と日野との関係が興味深い所です。
また、「武三熊大人命」は「たけくまのうし」と読み、「くまの」という音が含まれているのも何か地名と関係がありそうで面白いですね。



拝殿の横の杉も巨樹と呼べるサイズがあり、本殿の横にも巨樹の姿があります。
入母屋造の本殿には千木・鰹木はなく、清々しい雰囲気がありつつも引き締まった空気感を感じます。





本殿の横にも巨樹はあり、御神木とされてもおかしくないような樹齢の杉が多く見られる。
白洲正子さんは熊野のことを「村の中には、老樹にかこまれた熊野神社だ建ち、おきまりの神体山もそびえている。」と書かれている。
さらに「その山中には「熊野の滝」もあると聞いたが、行ってみることは出来なかった。」とある。(近江山河抄・あかねさす 紫野)

「熊野の滝」は以前は落差10mほどある美しい滝のようでしたが、2013年の大雨で滝は原型を崩し、滝道には崩落箇所があり通行困難となっていて滝も崩れているらしい。
おまけに滝への道には山ヒルが多いとのことで行かずじまいです。



「熊野の滝」には「熊野飛滝神社」も祀られていることから、修験者達はこの地に和歌山の熊野を忠実に再現しようとし、綿向山は熊野を再現するに足る神体山だったのでしょう。
境内の滝道へと通じる場所には「山之神」と「野之神」と彫られた石碑が立てられていました。



「山之神」の石碑の横にはタコ杉以外では最大となる杉の巨樹がある。
おそらく幹周は6m以上ありそうで、圧倒される迫力の見事な山之神です。



「野之神」の石碑の前にある杉も見事な巨樹ですが、山之神の迫力ある姿と比べてやさしい印象を受ける。
いずれにしても、魅力的な2本の巨樹が「山之神」「野之神」として祀られているのは、見ている方の気持ちも昂ります。



ところで、熊野神社には成人の日に行われる「弓取りの神事」があるといいます。
遠い昔、熊野の人々を苦しめた2匹の大蛇を修行僧と引率された村の若者が退治した勇気を伝える行事とされます。

「弓取りの神事」は、村の6人の長男たちがそれぞれの家で身を清め、狩衣に身を固めて、神社の鳥居の中から「おろち塚」と呼ばれる大蛇を埋めた塚に向かって弓を放つ神事だといいます。
鳥居の反対側(外側)には「おろち塚」に見立てた塚に結界が張られていて、設置された的に向かって矢を射るといい、修験者の儀式ゆかりの神事と考えられているようです。



巨樹の多い熊野神社でしたが、この熊野集落には国の天然記念物である「熊野のヒダリマキガヤ」があると聞きます。
最初はどこにあるのか分からず人に聞こうとまず人を探し、人を見つけるのも一苦労の中、やっと見つけたお爺さんが分かりやすく教えてくださったのは助かりました。
熊野集落には3本のヒダリマキガヤがあり、この樹はその中の1本で、幹周2.4m・樹高30mで樹齢は400年とされています。



ヒダリマキガヤはカヤの突然変異だとされ、長さが4~5cmの長楕円形の種子の浅い溝が一般のカヤは直線であるのに対して、左方向へ螺旋状に巻いているといい、カヤ稀少品種とされています。
実際には種子を見ないと、ヒダリマキガヤは確認は出来ませんが、国の天然記念物として指定されているのは、熊野の2本のヒダリマキガヤ・兵庫県養父市・宮城県白石市の3カ所だけだといいます。



枝は片側だけに伸びており、その枝はくねったような形をしています。
道路下へ降りていくのは困難そうでしたので、ガードレールの隙間から覗き込むようにして樹を見る。



この熊野集落は、和歌山の熊野神社を再現しようかとでもいうような修験道の臭いがし、ビシッとした空気感の中にタコ杉や林立する杉の巨樹が並び、天然記念物のヒダリマキガヤまである。
熊野集落の隣になる蔵王集落には、吉野山系の修験道者たちが勧請した「金峯神社」があるといい、綿向山で修行する修験者が信仰したといいます。
この地域は古来より山岳信仰と修験道の色濃い一帯だったことを物語るような空気感が伝わってきます。


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ジョウビタキとアトリとノビタキをパチリ!

2020-10-25 17:03:03 | 野鳥
 10月下旬は冬の気配にはまだ早く、これから秋が深まっていき、紅葉が始まるのを目の前にしているといった感じでしょうか。
今の季節はジョウビタキとノビタキの両方に出会うことができ、週ごとに冬の野鳥が増えてくることが実感できるような季節ともいえます。

先週は姿が確認できただけのジョウビタキでしたが、なんとか♀だけは写真に収めることが出来ました。
♂の姿もあったのですが、撮れる場所には留まってくれないんですよ。



ただ、この♀のジョウビタキは飛んでもすぐに同じ場所に戻ってきてくれるやつなので、この場所が好きなようだ。
♂の方もこれから徐々に警戒心が薄れてきて愛想も良くなってくれるでしょう。



田園地帯に行くと、まだノビタキが何羽か残ってくれていましたよ。
とはいえ、出てきてくれたノビタキも♀で、どうやら女の子特集になりそうだ。



別の田圃にもノビタキがいたが、こっちもやはり♀。
ノビタキを探しに行くと、稲穂や蕎麦の花・豆と季節の作物に留まってくれるので季節感が感じられる。





今日は女の子特集かと思いきや、♂のノビタキを発見!
もうシーズン最後になるかもしれませんので、♂♀ともにお別れの写真になるかな?





コォーコォーの声は降り注いできたので空を見上げるとコハクチョウ数羽が東に向いて飛んでいきます。
追いかけきれそうにないので諦めましたが、いったいどこの田圃に降りたのやら?

電柱にチョウゲンボウを見つけたが、1枚撮ったところで飛ばれてしまう。
チョウゲンボウのいなくなった電線を見ると、ニュウナイスズメ10羽ほどが留まっている。これは想定外でした。





今朝の鳥巡回で一番の驚きは、数百羽は居たであろうアトリの大集団でした。
過去に見たアトリの群れの中で最も数が多い。一斉に空を飛ぶ光景はまさに圧巻!



アトリが上空を覆いつくしていた時は、農作業されていた方も手を休めて空を見上げておられました。鳥見の人でなくとも呆気に取られる姿だったということです。
田圃から飛び立つ時の羽音も数が数だけに凄い音となっていて、降りてくるとなると道路にまで溢れる始末。



田圃に降りてきたアトリはあまりの数にどこにピントを持っていったらよいかも分からなくなる。
いずれにしてもワクワクする素晴らしい時間を過ごせたと思います。




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三雲城址の「八丈岩」~湖南市吉永字城山~

2020-10-22 05:30:00 | 風景・イベント・グルメ
 湖南市吉永界隈には「三雲城址」や「八丈岩」ののぼりが何本も立てられており、行先表示の看板に誘われるようにして三雲城址へと向かいました。
三雲城は、六角氏の重臣で甲賀五十三家に数えられる三雲氏の居城だったといい、1488年に三雲高典膳に築かせた城とされます。

六角氏は三雲城を逃げ込み用の本城とし、観音寺城を責められた時にも、この城に逃げ込んだと伝わります。
三雲氏は六角氏が滅亡し三雲城が落城した後、城主・三雲成持は織田信雄に仕え、その後は蒲生氏郷に仕えた後、江戸時代には徳川幕府の旗本として仕えたとされます。



三雲城址の林道を登っていくと、途中に「八丈岩」へ通じるハイキングコースの看板があり、八丈岩への階段を登っていく。
興味深いのは、司馬遼太郎が『風神の門』のなかで「三雲成持の甥にあたる三雲佐助賢春が猿飛佐助である」としていることでしょうか。
猿飛佐助がこの三雲城に育ち、この山で修行していたとすると、佐助がこの坂を駆け上がっていったことがあったのかもしれない。



「八丈岩」は、2つの巨大な岩が立つようにしてあり、かつては三雲城の見張り台として使われていたともいいます。
高さ5m・幅10mとされる八丈岩はカメラのフレームに収まらない大きさで、巨岩の多い湖南地方の凄さに改めて感じ入ることになります。



岩の裏側に回るとゴツゴツとした巨岩が重なるようにして集まっていることが分かる。
「八丈岩」がある場所は崖にもなっていますので、不注意に歩くと落下してしまいますので、慎重に動かないといけません。



岩の横に三雲城址へつながる道がありますので、少し進んでみると、八丈岩が見渡せる見晴台があります。
よくこんな不安定そうな形で長い間あったものだと感心しますが、巨石の多い場所は湖南にはいくつかありますので、湖南の巨石の文化の豊さが伺われます。





見晴台から眺める八丈岩は不思議な姿でもあり、迫力のある姿をしており、正直凄いという言葉しか浮かばない。
“落ちそうで落ちないのが八丈岩”というのもよく分かります。



このまま進めば、三雲城址まで行けるはずでしたが、元来た道を戻り、再び八丈岩まで戻ってくる。
反対側から眺める八丈岩も今にも落ちそう(倒れてきそう)ではあるものの、これまで何度も地震が来ても倒れなかったのですから、絶妙のバランスで立っているのでしょう。



八丈岩は受験生の信仰を集めており、“落ちそうで落ちない”の御利益にあやかろうと「合格祈願石」に願い事を書かれる人が多いようです。
八丈岩の下には祠があり、平たい石とマジックが置かれていますので、願い事の書かれた石が積みあがっています。
この景色の元で祈願すれば、受験や試験に対する気持ちも高まってくるでしょうね。



ところで、三雲城址への林道の途中に「奇石」と書かれた看板があり、巨石がありました。
“上(横)から見れば犬頭さん、下(前)から見れば象さん”とありましたが、いまいちよく分からない。
確かにスヌーピーの頭のように見える角度はあるのですけどね。





象さんはどこから見たらいいのか分からずじまい...。



湖南地方を訪れると、摩崖仏が彫られている巨岩も含めて、巨石が多い一帯だと実感する場所が多くあります。
三雲城址では「八丈岩」で折り返して帰ったのですが、その先には石垣の位置や巨石・井戸跡などが残されれているようです。
三雲城の石垣等の用材は、秀吉の中老・中村一氏が水口岡山城を築く際に持ち去ったといい、水口岡山城が廃城になった後は水口城の築城の時に部材として転用されたといいます。




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ノビタキとキツネをパチリ!

2020-10-19 19:17:17 | 野鳥
 そろそろジョウビタキが来ているだろうと探鳥してみると、案の定その姿を見ることが出来ました。
本来、ジョウビタキは警戒心のあまりない身近な鳥ですが、飛来してきてすぐはどうしても警戒心が強くなるようで、カメラを出す前に飛び去って消えてしまう。
環境に馴染んでくれば多少近くに寄っても逃げない鳥で、3月末まで滞在してくれるからまた出会える。

今のこの季節は移動中のノビタキと冬鳥のジョウビタキの両方が見られる時期ですので、ジョウビタキを諦めてノビタキを探してみる。
ノビタキは2カ所の場所で確認ができ、花開いた蕎麦の田圃にいたやつをパチリ!





蕎麦の田圃の畔にしか留まってくれませんので、蕎麦の田圃の真ん中に留まってくれるのを待ってみる。
しかしながら距離が遠く、ピントを蕎麦に持って行かれてしまったりして、撮ってみただけ写真になる。



田園地帯の電柱に猛禽類でもいないかと車を走らせていると、トビばっかり見かける中、チョウゲンボウの姿がありました。
冬の湖北では電柱(電線)でチョウゲンボウやノスリを見ることが多くなりすぎてスルーしてしまったりしますが、シーズンの初見は季節を感じられて嬉しいもの。





ちょっと変わったやつがいるなぁと撮ってみると、スズメの若鳥。
なかなか面白いやつには出会えない。



田園地帯の農道で車を切り返していると、目の前にキジ♂の姿。
しばらくの間、動きもせず同じ場所にいましたが、しばらくするとノソノソと豆畑へと消えていく。





空が曇ってきましたので、そろそろ引き上げようかと帰る道中、キツネが1頭出てきました。
なんか興味深げにこちらを見ていましたが、こちらが動いたらゆっくりと茂みの中へと消えていきました。





このキツネは「お稲荷さん」のキツネ・ポーズまで決めてくれましたよ。
狐は稲荷神の眷属として祀られ、神の使いとして祀られる一方で、九尾の狐・妖狐・狐憑き・狐の嫁入りとちょっと怖い側面もあります。



長浜市の長浜御坊(大通寺)には、大広間の天井に住む「お花ぎつね」の昔ばなしがあり、いくつかの伝承話が残されています。
悪戯もするがお寺を守る神とされる「お花はん」は、好物の油揚げを供えるなどして親しまれているといいます。


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湖南の巨樹を巡る1~「弘法杉」と「ウツクシマツ」~

2020-10-17 17:07:07 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
<湖南市吉永の「弘法杉」>

旧東海道を横切る大砂川は、道の上を流れる天井川となっており、堤防に掘られたトンネルは「大沙川の隧道」または「吉永のマンボ」と呼ばれているそうです。
大砂川は、奈良時代に奈良の寺院や石山寺の造営時にこの辺り山の木々が切り出され、山が禿山となってしまい、川底に土砂が流れ込んだといいます。
溜まった土砂によって周辺の地面の高さより川床が上昇していき、岡のような堤防の間を流れる天井川になったと伝えられています。

かつて東海道を旅する人々は天井川に出会うと、土手を登って小橋や浅瀬を渡って川越していったといい、道中の難所の一つになっていたとされます。
天井川は全国に存在するといいますが、そのうちの半分は関西地方にあり、全体の1/3は滋賀県にあるといいますから驚きです。



明治になって東海道の整備が進み、天井川に隧道を掘って陣馬の通行の便宜を図ることになり、大沙川隧道は明治17年(1884年)に県下最初の築造トンネルとして築造されたそうです。
花崗岩の切石積みで造られた半円アーチ型のトンネルは、明治の味わいを残し、地元では「吉永のマンポ」と呼ばれているようです。
「マンポ」という聞きなれない言葉は、語源は定かではなく、湖南地方では「マンポ」、湖東地方や三重県では「マンボ」、愛媛・岡山・兵庫県では「マンプ」と呼ばれていると書かれているものがあります。



吉永のマンポの提上には、「弘法杉」という樹高26m・幹周6m・樹齢750年とされる巨樹があり、これが湖南市を訪れた目的でもありました。
「弘法杉」と呼ばれる由来は、“空海がこの地方を通過した時に2本の木を植えた、また空海が食事をしたあと杉箸を差しておいたのが芽を出した。”との伝説によるものとされます。



“箸を差しておいたら芽が出て育った”とか“空海に関する伝説”は各地にあるのが興味深く、お大師さんが如何に広く信仰されていたかの証ともいえます。
弘法杉には「二本杉」という別称があり、もとは2本あったが大風で倒れ、里人が植え直した杉のうちの1本も1773年の台風で倒れたと伝えられているようです。
樹の前には祠が祀られ、中には弘法大師像や古い石碑が祀られており、綺麗に整備されています。



堤防の上の道は狭く、草木も多く生えているため、弘法杉の全景が見通せる場所はありませんでしたが、ゴツゴツとした力強い幹は、6mの幹周以上の迫力を感じます。
樹幹はこんもりと茂り緑豊かで、樹勢の勢いを感じることもでき、“隧道の提上にしてこの巨樹”。実に見応えがあります。



幹を見上げてみても、力強い木肌から生命力が伝わり、上部には新芽が幾つか出てきていることからも、この樹の樹勢の良さを感じ取ることが出来る。
隧道のなかった江戸時代に東海道を旅した人は、土手を登って大砂川を渡る時、このスギを見て安堵したり、手を合わせる人も多かったことでしょう。



<湖南市「平松のウツクシマツ自生地」>

国の天然記念物「ウツクシマツ」のことを知ったのは、名神高速・菩提寺上りパーキングで偶然見かけた「美し松」の独特の姿に出会った時のことでした。
湖南市平松にある標高227.6mの美松山の南東斜面に自生するウツクシマツは約200株あるといい、自然状態で自生地を形成しているのは、この「平松のウツクシマツ自生地」だけだという。

ウツクシマツはアカマツの変種とされており、砂礫の混ざった赤土の土質や浅い土壌、一部に岩盤が露出する特殊な土質の影響と考えられてきましたが、近年の研究では劣性遺伝によるものだと判明したようです。
幾世代にもわたって劣性遺伝を繰り返した結果、ウツクシマツの遺伝子が濃くなり、平松のウツクシマツ自生地が形成されていったのでしょう。



ウツクシマツは、根元に近い部分から枝分かれした複数の幹が上方へ伸び、背が高くなる特徴があるといい、斜面全てがマツの群生に覆われている。
大きいものは幹周2.1m・高さ12.7m・樹齢200~300年ほどあるといいますが、広場の手前にあるのが、一般的にはこの自生地のシンボルツリーとなる樹といえます。



しかし、このシンボルツリーはマツ枯れの症状でも出ているのでしょうか、針葉が色あせてきているように見えます。
現在、自生地内のウツクシマツが減少してきているといい、湖南市は「保全活用計画」を策定し保護と活用を進めているといいますので、何とか未来に向けて残していって欲しいと思います。





湖南市の調査では平成31年度時点で、枯れているもの・部分枯れした部分のみを伐採したものも含めてウツクシマツは128本になっているといいます。(昭和55年当時は254本)
ウツクシマツは、古くは平安時代の藤原頼平の民話に残り、江戸時代後期の絵師・歌川広重は『東海道五十三次』の水口宿で美松山を描き、白洲正子さんは「近江山河抄」の“鈴鹿の流れ星”で次のように書かれています。
“天然記念物の美し松は、平松の山の上にあり、根元から何十株にもわかれて、傘の形に密生しているのは、目ざめるような眺めである。”





美松山の斜面に生えるウツクシマツを眺めていると、何とも心地よく気持ちが安らいでいくのが分かります。
国の天然記念物の自生地ですから、必要以上に手が入っていず、基本的にはウツクシマツだけの森となっているのも景観の良さを引き立てている。





平松は東海道の宿場では石部宿~水口宿の間にあり、東海道を旅する人が立ち寄ることもあったでしょうし、浮世絵などをガイドブックのように見て美し松に思いをはせた方もおられたことでしょう。
歌川広重は「隷書東海道五十三次」の中で、「水口・平松山美松」として美し松を描いています。
江戸時代や古くは平安時代から、基本的には同じ風景がここにはあると言えます。


歌川広重「水口・平松山美松」


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湖西の巨樹を巡る~「森神社」「若宮神社」「阿志都弥神社」~

2020-10-14 18:11:11 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 湖北の巨樹は、大きくは「御神木」と「野神さん」の2つに分かれると思いますが、高島市の巨樹にはどのようなものがあるのか興味深いところです。
高島の巨樹で知っているところというと、酒波寺のエドヒガンザクラ・藤樹神社のダマの木・興聖寺(足利庭園)のスギ・葛川明王院のスギくらいなのが実際のところ。

<森神社>

少し調べてみると、神社の御神木に魅力的な巨樹があったものですから、巨樹を求めて高島市へと足を運びました。
最初に参拝したのは「森神社」で、この神社のタブノキの樹齢はなんと1200年。奈良時代末期からある樹と伝承されている。



神社には難なく到着したものの、車を停めるところがない。
神社近くで立ち話されていた人に“神社へ行きたいんですけど、どこか車が停められるところはありませんか?”と聞いてみる。
すると“30分~1時間程度ならうちへ停めていいよ。”とありがたい言葉に感謝しながら神社へと向かおうとすると、“裏から入ったらすぐに御神木がある。樹齢1200年だよ。”と教えてもらう。



すぐに御神木のタブノキが見えてくるが、独特の形といい太さ大きさといい、老いながらも威厳を持って立つ巨樹に圧倒される。
神社の案内板には“このタブノキは暖地性植物で温帯性植物が多く見られるこのあたりでは大変めずらしく貴重な存在だと考えられている”とある。



このタブノキは、何本かの支幹に分かれており折れていたり枯れていたりするが、幹周5.9m・樹高は25mあるという。
「古社取調書(1895年)」の中に「森神社境内には常緑樹が生い茂り老樹はどれも周囲が二丈(六メートル)に及ぶ」と書かれてあったとされます。
確かに、境内には古木が多く生えていて『森』のような神社ですが、中でもこの御神木は存在感が大きい。



地面にはムキムキとした根っこが張っていて、老いたりとはいえ健在な様子です。
側面から見ても幹は流々と盛り上がっており、注連縄は束を締め付けているような錯覚に陥ってしまう。





境内にある巨木の中で、御神木に次ぐのは拝殿の横にある2本並んだケヤキの木で、後方のケヤキは太さもある。
さほど広くはない境内で、街の中にある神社にも関わらず、松やスギではない大木が並ぶ姿は、古くからの神社の歴史を今も伝えているのだといえます。



ところで、神社の御神木とは反対方向に、目を引く宝塔がありました。
案内板によると、この宝塔は今から700年前、鎌倉時代の作。
石灰岩で八尺塔として造られたものだといい、高さは2m以上あり、欠損部はあるとはいえ、魅力のある宝塔です。



森神社から道を挟んだ場所には「親王さん(貞隆親王さん)」が祀られており、祠には石造り宝塔2基と石地蔵が祀られているといいます。
「親王さん」は、森神社の御旅所にあたるといい、境内社の饗庭神社がかつてあったところだとされます。
御祭神は、饗庭氏の祖とされる貞隆卿とされ、結界で仕切られた一角に立砂のようなものが祀られてありました。

<若宮神社>

安曇川町の西の山麓の集落・武曽横山には「若宮神社」が鎮座し、後方に控える山を越えると朽木の集落へとつながる。
山麓にある神社ということもあり、参道の入口となる鳥居の上にまで緑が覆いかぶさっている。



鳥居のすぐ横には「若宮神社の大椎」があり、すぐに目に入ってきたが、まずは参道を進み本殿へ参拝する。
参道は長く、木々が茂っており、参道を埋める落ち葉を踏みしめながら歩く。
緑に囲まれた参道をウグイスの囀りを聞きながら、カサカサと落ち葉が踏みしめられる音がよく響く。



若宮神社は、仁徳天皇を御祭神として祀り、鎮座地は磐衝別王の別業跡(別荘)・応神天皇の行在所だったと伝承されているといいます。
この日、高島市の道路を走行しましたが、このくらいの規模の社が幾つもあるのに驚かされます。



「若宮神社の大椎」と名の付くシイの木は、日本にはツブラジイとスダジイの2種類があるといい、この大椎はツブラジイだといいます。
このツブラジイは合体樹と思われますが、幹周は8m・樹高は30mという見応えのある巨樹です。



巨樹には近くに生えていた樹木どうしが成長するに連れ、合体して1本の木となっているのを時々見ることがあります。
人の世界には“袖振り合うも多生の縁”という言葉がありますが、ただ隣り合わせに芽生えたというだけで運命を共有していく合体樹には不思議なものを感じてしまいます。



太い幹をねじったような溝の文様が美しく、上部で何本もに枝分かれして葉もよく茂っています。
こういう幹の姿や合体した幹を見ると、生命感の凄さに圧倒されてしまいます。





神社の表参道の鳥居の横に神社を象徴するように立つ大椎。
参道にも何本かのシイノキがありましたが、その姿からは神の依り代としての威厳を感じます。

<阿志都弥神社・行過天満宮>

高島市には「西近江七福神」という七福神巡りがあり、その中の1社に「阿志都弥神社・行過天満宮」があったため、社名だけは知っている神社でした。
西近江七福神巡りは途中で中断してしまいましたので、お参りする機会がなかったのですが、神社に樹齢1000年とされるスダジイの巨樹があると知り、神社へと向かいました。



「阿志都弥神社・行過天満宮」の鳥居の横には、なんとも凄まじい姿をしたスダジイの巨樹。
これだけの巨樹を見ると、伝承1000年余と伝わる樹齢にも納得がいく。



「若宮神社のツブラジイ」もそうでしたが、シイノキとはこういう太い幹をねじったような溝が出来るものなのか?と不思議に感じてしまいます。
毎年4月の例祭の時に注連縄の張り替えが行われているといい、まだ何カ月も経っていない注連縄は新し感が残り、かなり立派な注連縄のようにも思える。



少し道側に傾いていますが、途中からは上方に向かって何本もの支幹が伸びているのが面白い。
スダジイを右側から見るのがよいか?左側から見るのがよいか?どちらから見ても迫力がある。
幹周は6.5m、樹高15mの巨樹は阿志都弥神社・行過天満宮の御神木となっています。



「阿志都弥神社」は木花開耶姫命を御祭神として祀り、「行過天満宮」は菅原道真を御祭神として祀り、両社が合祀されたのは天保14年(1843年)のことだとされます。
境内には阿志都弥神社・行過天満宮の左に「白山神社」、右奥に「稲荷神社」が祀られ、西近江七福神の福禄寿を祀る祠があったようだが見落としてしまった。



稲荷神社に通じる参道の入口にも大き目の木があり、こちらは幹の部分に大きな穴がある。
神社へはスダジイやこの木がある側から入りましたので、境内で社殿の向きに違和感を感じましたが、表参道となる道は別の方向にあったようでした。



巨樹の世界で言うと、日本には幹周(地上1.3mの高さで輪切りにするようにして測ることを基準とする)が10mを越える巨樹が何十本とあるといいます。
その中には伝承で樹齢2000年とか3000年とされるものがあり、滋賀県ではそこまでの巨樹はないとはいえ、巨樹に対する地元の信仰(野神さん信仰)など実に興味深いものがあります。


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『栗田郡の神・仏-祈りのかがやき-』~栗東歴史民俗博物館 開館30周年記念展~

2020-10-10 05:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 2020年は「栗東歴史民俗博物館」の開館30周年にあたり、記念展として「滋賀県立琵琶湖文化館(1961年開館・2008年休館)」と連携した美術展が開催されています。
「滋賀県立琵琶湖文化館」は大津市の琵琶湖にせり出した天守閣を模したような建物で、大津の湖岸をドライブした時などに目に入ってくる建築物です。

「琵琶湖文化館」に寄託された収蔵品は、「近代美術館」を改装する「新生美術館」へ移される予定でしたが、「近代美術館」の再整備は未だ凍結中となっています。
「新生美術館」は、「琵琶湖文化館」が保管する収蔵品と滋賀のアールブリュットを2本柱とするとのことで大いに期待していましたが、「近代美術館」自体も休館中。
滋賀県立の美術館は未来が見えない状況となってしまい、「琵琶湖文化館」に眠る130万点とも言われる収蔵品はこういう機会でないと見ることが出来なくなっています。



ここでいう「栗太郡」とは現在の市町でいうと、草津市・栗東市全域と、大津市・守山市の一部の地域を含めた一帯をいい、古来より奈良・京都と縁深い地域とされます。
琵琶湖の水運や京都奈良へと通じる瀬田川の流れにより都の文化が流入したこともありますが、歴史は縄文・弥生時代から続くともいいます。
また、霊山・金勝山を信仰の対象として金勝寺を始めとする寺院が多く、金勝山宗教圏とでもいうべき文化を築いてきた地で、神仏とのつながりが深い地域でもあります。



記念展の構成は「1.栗太郡の仏教美術銘品選」」「2.珠玉の仏たち」「3.神と仏の聖地・栗太郡」の3部で構成され、別室ではコーナー展示として「栗東の神・仏」が開催中。
神仏の文化で興味深いところは、同じ滋賀県でも地域によって宗教文化の形態が随分と違うことでしょう。

隣り合わせとなる栗太郡と甲賀地方でも違いがある。湖北の己高山仏教圏も金勝山宗教圏とは違う。湖東や伊吹山の信仰圏とも違う...。
山への信仰と修験、天台密教の影響ということでは類似点はあるとは思いますが、感覚的にはかなり違いを感じます。

さて、記念展でもっとも魅了されたのは観音寺(草津市 観音寺)の「木造阿弥陀如来立像(鎌倉期・重文)」の美しいお姿でした。
衣文の彫りは深くはっきりとしており、端正な顔立ち。光背の透かしも美しい光背は、造立当時のものだという。
高さは約90cmの阿弥陀如来の足の裏には「仏足文」が描かれているといい、このような仏像はこの世に肉体を持って現れた仏「生身仏」と呼ばれているようです。

 

「1.栗太郡の仏教美術名品選」では仏像・仏画・経典・鰐口など幅広く仏像美術品が展示されており、興味を引かれたのは「厨子入銀造阿弥陀如来立像(鎌倉期・重文)」でした。
高さ7.6センチの銀製の阿弥陀如来もさることながら、厨子の蒔絵の美しさは仏像としてよりも美術品としての魅力を感じる。



「2.珠玉の仏像たち」では先述の観音寺の阿弥陀如来(琵琶湖文化館寄託)の他にも同じ観音寺の「地蔵菩薩立像(鎌倉期・重文)は凛々しいお顔に均整のとれた躰の地蔵さま。
半丈六の「薬師如来坐像(平安期・重文)」と「日光菩薩・月光菩薩」の両脇侍の薬師三尊も見応え充分な見事な仏像です。

栗太郡の宗教圏で特徴的なのは神像の多さでしょうか。
「3.神と仏の聖地・栗太郡」と別室のコーナー展示「栗東の神・仏」には合わせて20躰以上の神像が並び、狛犬も数対展示されていました。
「僧型神座像」「女神座像」は共に金勝寺からの寄託品で平安時代のものと伝わります。

 

また、「熊野本地仏像」が3躰展示されており、熊野信仰が栗太郡に流れ込んでいたことを示しているされます。
当地は山岳信仰が盛んだった地とされていることもあり、修験道や神道文化が栄えて、金勝寺仏教圏へと発展していったのでしょう。
常設展では「山の神」の神事の様子や供物が展示されていて興味深く拝見しましたが、山に対する信仰がかなり深かった地という印象が残ります。

ところで、いまだに訪れたことのない「狛坂磨崖仏」の等身大のレプリカが、栗東歴史民俗博物館で見られるのはここを訪れる楽しみの一つです。
険しい神の山・金勝山の山中にある高さ6.3m幅4.5mの摩崖仏。ぜひ山の中で本物を見てみたい。



狛坂磨崖仏」のある一帯は、平安時代には狛坂寺が建立されていたといい、摩崖仏はそれ以前の奈良時代、もしくは白鳳時代に新羅系渡来人が彫ったとされています。
金勝山は、奈良の都への木材供給地だったとされており、鉱物資源にも恵まれていたといいます。
渡来人が住み着いた地には鉱物資源の豊富だったという話は、渡来人ゆかりの地で聞くことがあり、当時から鉱物資源が重要視されていたことが伺われます。



同じくレプリカの摩崖仏や丁石としては「小屋谷観音摩崖仏(像高100.5cm・鎌倉期)」と「不動明王廿九丁石(像高75.6cm・室町期)」が展示。
こちらの実物がある場所は、狛坂磨崖仏への道より遥かに困難そうですので、レプリカで満足するほかなさそうです。





最後は博物館の前にある「旧中島家住宅」へ立ち寄りました。
旧中島家住宅は明治初年に創建された農家住宅で、昭和30年代頃までは人が住んでいた民家だったといいます。



不思議に思ったのは葦ぶきの屋根に貝があったことで、係の方に聞いてみるとこの貝殻はカラス除けなのだという。
カラスが巣作りに葦を抜いて持って行ってしまうとのことで、大きなアワビの貝殻のパール色の光でカラス除けをしてきたのだといいます。

今ならCDを置くのだけど、かつては光るもので手に入るのは貝殻だったので使っていたとのこと。
でも効果はイマイチで、カラスに葦を持って行かれると嘆いておられました。カラスは賢い鳥ですからね。



室内は広い土間があって“デイ(客間)”“オクノマ”“ダイドコ(食事をする部屋)”“ナンド(寝室)”“オクノマ(仏間)”の4部屋で、トイレとお風呂は外にある。
ヘッツイ(カマド)では火が焚かれていたので“いつも火を焚いているのですか?”と聞くと、“火を焚いておかないと家が傷む”とのこと。
カマドの煙が充満していると逆に家が傷むのではないかと思いましたが、煙によって葦ぶきの屋根の害虫駆除になるのだということで納得。



もう一つ不思議に思ったのは土間の角に設けられた場所で、藁などを保管する場所のように見える。
これも聞いてみると牛小屋なんだと言われます。確かに昔の農家では牛は農耕の貴重な戦力だったのは知っていますが、家の外に牛小屋を作っているのだと思っていました。
農耕を助けてくれる牛は家族同様。ふかふかの藁の上で寝させてもらい家族同然に大事にされてきたのでしょう。



金勝山は昨年、上桐生~オランダ堰堤~逆さ観音~落ヶ滝を巡りましたが、次回は金勝山側から登って龍王山~茶沸観音~狛坂摩崖仏のコースで行こうかなと思います。
可能なら天狗岩の方へも行きたいところですが、登ってみないと行けるかどうかは分からない。


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長浜城と猿まわし!~モンキーパフォーマンス 二助企画「やまとなでしこ」~

2020-10-06 07:46:36 | アート・ライブ・読書
 ネットなどでの宣伝はなかったのですが、口コミで長浜城で「猿まわし」をやっていると聞きつけて、長浜豊公園へ行ってみました。
確かに豊公園への入口には「猿まわし」ののぼりが上がっており、猿まわしが来ているようでした。

これは是非とも見たいものだとばかり豊公園へ入ると、長浜城の辺りからにぎやかな声が聞こえてくる。
ちょうど前の興業が終わりそうな頃でしたので、観客が引きあげる頃合いを図って座席を確保。



この猿まわしは、二助企画という〝モンキーパフォーマンス〟をやっている会社の方によるものでHPで見ると、「やまとなでしこ」というコンビのようです。
「やまとなでしこ」は、2014年生まれのハル(♀)と太田美由紀(♀)さんのコンビで、小雨のちらつく中でしたが、まずは元気よくご挨拶から。



お猿のハルちゃんは、NHKのドラマや映画にも出演している人気者で、女の子とは思えない脚力の持ち、十八番は大ジャンプとの紹介されています。
立ち姿も背筋が伸びてなかなか凛々しいですね。



トークの間はすまし顔でおりこうさんにしている時もあり、退屈している時もあり。
「ハル」という名の名付け親はNHK大河ファンタジー『精霊の守り人 悲しき破壊神』で一緒だった女優の真木よう子さんだとか。



では、次は竹馬を披露します。
ハルちゃんは竹馬ではこけませんよ!といいつつも、こっちも一緒にこころびそう...。



最初の動画は、ネタでした。実は次が本番。
竹馬に乗って舞台狭しと駆け回ります。



竹馬でハードルを飛ぶのはかなりの難易度かと思いますが、次はさらに難易度の高い3段のハードル飛びです。
しかし、見事な跳躍力でハードル3段の一気飛びを見せてくれますよ。



さらに難易度を上げて、今度は2つの跳び箱の間を飛んで、逆立ちで着地する曲芸です。
まずは狭めの間隔で飛ぶ練習。このくらいならなんなくクリアーやね。



この跳び箱をどこまで離すかでトレーナーの方と客の間のやり取りのあと、クライマックスのスペシャル技が始まります。
人が普通には飛べない距離を飛んで、さらには逆立ちで着地するとはもの凄く難易度が高そうですね。
野生のニホンザルが枝の間を飛び移っていくのを見たことはありますが、目の前の跳び箱を飛んでいくと跳躍力の凄さに改めて驚きます。



天気が悪かったので観客は多くはなく、トレーナーの方もアットホームなお客さんと言われるくらいでしたが、少ないながらも大盛り上がりでのエンディングとなりました。
最後は「やまとなでしこ」コンビの写真撮影です。





終了時には大きなカゴで御祝儀を集められていて、500円以上の御祝儀の方には感謝のカードが配られます。
猿は神の使いとする神社が幾つかあり、縁起のよいものとされており、猿まわしは千年以上も続く伝統芸能ともされています。
縁起の良い猿の芸能を見て、見た人みんなが笑顔になって帰れるのは気持ちがいいですね。

 


コメント (2)
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エゾビタキとノビタキをパチリ!

2020-10-04 15:00:00 | 野鳥
 平日は天気が良いのにも関わらず、休日になると天気が冴えないのが少し不満なのですが、この日現地に到着してからの30分くらいは野鳥が活発に動いている時間にあたりました。
この時間帯は全体的な囀りのにぎやかさが感じられて種類も多いなか、エゾビタキだけが射程距離に入ってくれました。



今シーズン、エゾビタキ1羽単独では2回ほど見かけましたが、この日は数が違います。
グループ程度の集団にはなってきているようで、あちこちの木陰で餌を採っていましたよ。



食事の後、ベンチで一服でもしているのでしょうか。
一旦は飛んでも、またベンチで休んでいる姿が見受けられます。



枝に留まって定例ポーズのやつもいます。
いつまで滞在するのか分かりませんが、秋の林の定番の野鳥というとエゾビタキになるように思います。



ノビタキも数が増えてきており、前回は♀でしたが、今回は♂を発見。
稲刈りがまだの田圃も少なくなってきた時期、黄金の田圃に留まってくれました。光が悪すぎますが...。



稲刈りが終わったひこばえの田圃に留まるノビタキをパチリ!
もうそろそろノビタキと入れ替えにジョウビタキが入ってくる季節かな。



多いといえばモズの姿でしょうか。
山から下りてきて平地で冬を過ごすのでしょう。モズは何カ所かで出会いました。



人の体感的には秋が始まったといったところですが、野鳥の世界ではどんどん冬の気配がしてきています。
少し前まで咲き誇っていたマルバルコウも少し花が少なくなってきて、季節の変わり目を感じます。

帰り道に最近見ることの少なくなったハサ掛けに出会う。
農業をやったことはありませんが、妙な懐かしさを感じてしまう光景です。




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