僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

滋賀県甲賀市信楽町『鶏鳴の滝』

2018-08-29 07:30:00 | 風景・イベント・グルメ
 陶芸の里・信楽から三重県の県境にある笹ケ岳(標高738m)を望む山の麓に「鶏鳴八滝」があります。
その八滝の中でも最大の滝である「鶏鳴の滝」は、“笹ヶ岳の山頂に古い寺跡があり、元旦の朝になると、この寺跡の閼伽池から黄金の鶏が現れ新年の幸を告げるという伝説”にちなんで「鶏鳴の滝」と呼ばれています。

駐車場にあった案内図によると「鶏鳴八滝」とは“初音の滝・垂尾の滝・白神の滝・鶏鳴の滝・白蛇の滝・白布の滝・岩しだれの滝・神有の滝”の8つの滝の総称となっています。
結局4番目の「鶏鳴の滝」まで見て折り返してきたのですが、迫力に圧倒される「鶏鳴の滝」は充分に満足出来る滝だったと思います。



信楽方面への国道と分かれ、山道に入ってしばらくすると大きな湿地が見えてきます。
大雨などで水量が増えると、おそらくこの場所は水に浸かるのでしょう。
独特の雰囲気の場所でしたので何か変わった生き物はいないかと見渡してみたものの2羽のアオサギがいただけ。



湿地のある場所を超えると急に道路の幅が狭くなってくる。
“こんな細い道を車で行けというのか?”と不安を抱きつつも、幸いにして対向車がなかったのは助かった。



「鶏鳴八滝」の各滝の横には信楽焼のタヌキが置いてあり、お腹の部分に滝の名称が書いてあるので分かりやすく、見落としがない。
最初の「初音の滝」は渓流の一部にしか見えず、見落としそうになるところでしたが、タヌキのおかげで気付くことが出来ました。



2つめの滝は「垂尾の滝」。
垂尾の滝も滝というより渓流の雰囲気ですが、水量は非常に多く流れに勢いがあります。



岩を渡って正面に回ってみると、滝の雰囲気が随分と変わります。
滑りやすそうな岩でしたのでここは細心の注意での移動です。



「白神の滝」の辺りからは渓流沿いの道を歩くことになりますが、最近は休みのたびにこんな道ばかり歩いているような気がします。
道は整備されてはいますが、誰も来ない山道を進んでいくのは少し怖いものがありますね。



タヌキさんの案内されて「白神の滝」に着いたものの、滝は木に隠れて見にくい状態でした。
滝が見やすい場所まで降りることが出来ましたが、降りるのは楽でも登るのは一苦労。
木を掴みながら何とか元の道へ戻れたという有様でした。



そうこうしているうちにいよいよ本命の「鶏鳴八滝」を代表する「鶏鳴の滝」へ到着です。
滝を見に行って最高の気分になれるのは“本命の滝が見えた最初の瞬間の感動”ではないでしょうか。
この光景を見た瞬間、来て良かった!と満たされた気持ちが溢れてきます。



「鶏鳴の滝」は高さ13m・幅11mの大迫力の滝です。
高さがあって直線に落ちてくる滝も素晴らしいですが、「鶏鳴の滝」のように幅のある滝にも神秘的な凄さがあります。
水量のある瀑布ですので周囲には水飛沫が飛び、天然のミストは涼しいというより寒ささえ感じてしまいます。



滝には様々な姿がありますが、「鶏鳴の滝」に似ている滝は今まで見たことがなかったと思います。
角度によって滝の姿は変わるとはいえ、この滝の瀑布の幅の広さには驚きます。



滝の左上には祠があるのが見えます。
かつてここで修験道や密教の行が行われていたかどうかは定かではありませんが、滝の奥にある笹ケ岳の山頂に寺跡があってといいますから、その可能性はありそうです。



滝の真横には不動明王の石仏が祀られていました。
不動明王が滝に安置されている場所は数多くあり、この「鶏鳴の滝」も修行の場として考えられていたのかもしれません。



「鶏鳴の滝」の左上の祠の横を通ってさらに残りの4滝がある方へ登ることは出来ますが、この滝で堪能してしまったのと、先の道が足元の悪い道になっていたため、ここで折り返します。
もう一度「鶏鳴の滝」の滝を見て合掌してから駐車場まで戻る。



滝を見て合掌したり、日の出に向かって合掌したりするのは日本人独特の発想なのでしょうか。
神々しいものや神秘的なもの、自然の生み出す迫力あるものに感動しながらエネルギーを感じ、その力を受け取ろうとするのはごく自然な想いだと思います。


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御朱印蒐集~滋賀県 犬上郡 多賀町~大瀧神社~

2018-08-26 20:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県犬上郡多賀町には「お多賀さん」で親しまれる「多賀大社」があり、多賀大社奥の院または別当といわれる「胡宮神社」、同じく多賀大社の奥宮あるいは末社と考えられている「大瀧神社」があります。
この3社にお参りすることを“多賀三社まいり”としているそうですが、これは歴史的な経緯があるというよりは観光やウォーキングコースとしての紹介のようですね。

これまで多賀3社の中で「大瀧神社」にだけは参詣する機会がなかったのですが、俗称「瀧の宮」と呼ばれる大瀧神社には景勝地「大蛇ヶ淵」があり、その激流を見たいこともあって参詣致しました。
大瀧神社は307号線を多賀大社から胡宮神社へ向かって南下した後、国道を折れて犬上川に沿い上流へと向かう道筋にありますが、道路脇には“シカ注意!”の看板がいくつか見られるような山間の自然豊かな場所にありました。



大瀧神社は社伝によると807年に坂上田村麻呂の願いにより建立されたとされ、その後の1638年に徳川家光によって造営され現在に至るとされます。
御祭神として祀られている神は「高龗神」「闇龗神」となり、この神は京都の貴船神社と同じ祭神となります。
大瀧・貴船の両社に共通して言えることは、社の付近に勢いのある清流が流れ「水源の神」を司る神ということです。



多賀大社・胡宮神社・大瀧神社の3社には直線距離でも10キロ以上の距離がありますが、大瀧神社を多賀大社の奥宮と考えた場合、かつての多賀大社の社領は膨大な広さであったと考えられます。
特に多賀町周辺には寺院はほぼ目立たないものの、集落単位の鎮守の神社が数多く見られますので、多賀は「お多賀さん」を中心とした神の棲む地域といった感じさえ抱きます。



現在の多賀町は行政の上で犬上郡に属しているのですが、市町村は平成の大合併によって多くの郡部が合併されてしまって“郡”という区分はなくなったと思っていましたので、郡がまだ残っていたのを知らなかったのは不勉強でした。
尚、犬上郡は豊郷・甲良・多賀の各町で構成されており、滋賀県内には他にも蒲生郡(日野・竜王)・愛知郡(愛荘町)の3つの郡が存在しています。
人口的にも4桁くらい人口の町が寄り合って郡として存続しているのには何か諸事情でもあったのでしょうか?と少し不思議に思います。



一之鳥居、二之鳥居を抜けると境内に入ることになりますが、二之鳥居の前には冨王稲荷神社が祀られています。
稲荷大明神を御祭神に祀るこの稲荷神社は多賀町の別所に1057年に祀られた後、1822年に現地に祀られるようになったとされます。



境内に入るとまず目を引くのは“大瀧神社のスギ”と呼ばれる御神木でしょうか。
樹齢300年以上・樹高28m・幹周り5.2mは後方にある犬上川の「大蛇ヶ淵」に向かって長く枝を伸ばしています。
鎮座する場所は犬上川の岸壁の上ですから、この神木が大蛇ヶ淵と本殿との間の一つの結界になっているようにも思えます。



参詣は拝殿からと本殿の両方で出来るようになっており、拝殿でお参りしたあとで本殿前でもう一度柏手を打つことになりました。
本殿の棟木には1638年の銘が残され、胡宮神社本殿・千代神社本殿(彦根市)と共に多賀大社の末社として家光公により再建されたものと考えられているそうです。



本殿の拝所からはさらに奥にも入ることができますが、本殿の左側には「大雷神社」の祠があり大雷命と大山祇命が御祭神として祀られています。
本殿の右には「犬上神社」に稲依別王命をお祀りした祠があり、この社の御祭神の稲依別王命と愛犬・小石丸の伝説は大瀧神社に大きく関わっているといいます。



日本武尊の子である稲依別王命は日頃より猟を好み、猟犬・小石丸を引き連れ山間を徘徊していた時にこの峡谷の淵に人に危害を加える大蛇がいることを聞きます。
七日七夜が過ぎ仮眠をとっている命に愛犬・小石丸が吠えたててきたため、命は怒り腰の剣で一刀のもとに愛犬の首をはねてしまったとされます。
はねられた小石丸の首は岩影より命に襲いかかろうとする大蛇の喉にしっかり咬みつき、大蛇は淵に落ち悶死したと伝承されています。

神話の世界には理不尽な話が多いのですが、稲依別王命は愛犬の忠死に深く感じ、犬胴塚として祀り松を植えたと伝わります。
その松を犬胴松と呼ぶそうですが、今は建てられた祠の中でしめ縄をかけられ枯れ果てた姿を残しているだけです。



小石丸に由来する祠はもう一ヶ所あって、犬上川の大蛇ヶ淵を挟んだ対岸にある祠は稲依別王命が小石丸の首を鎮めた場所と伝わっている祠です。
本宮横には「犬神(犬咬み)神社」、「犬胴松」の祠、「小石丸の首塚」の祠と犬にまつわる伝承の多い神社といえます。
これらの伝承により犬との関わりの深い大瀧神社では月に一度“犬祈祷日”があり、愛犬の健康や長寿を願う方が犬を連れて祈祷に訪れられるようですね。



さて「大蛇ヶ淵」ですが、上流に犬上ダムができるまでは堂々たる瀑布だったと書かれてありましたが、現在も迫力のある渓谷美を楽しませてくれます。
落差10mを流れ落ち、奇岩の間をうねるような淵はまさに大蛇のような淵の名のとおりの迫力があり、見応え充分です。



大蛇が淵へはすぐ近くまで行くことが出来るのですが、岩が多く流れを見渡せる場所がない。
やむを得ず岩を登って見渡せる位置まで行きましたが、岩が激流でスベスベになっているため、岩から落ちそうで怖い。
落ちたら岩場と激流でただでは済みそうにありませんので、姿勢を保ちながら要注意で川上と川下を眺める。





犬上川に併設された遊歩道を進むと展望台のような場所がありましたので、一息入れながら渓谷見物となりました。
ここからの景観ではモミジが峡谷に覆いかぶさるように枝を伸ばしており、紅葉の時期にはいい景観が満喫できそうですね。





最後になりますが、この「犬上」という地名を最初は「犬神」から変形したものかと根拠もなく思っていました。
この大瀧神社の伝承を聞いてみると、「犬上」の名はどうも「犬咬み」からきているように思われます。
土地にまつわる話は現地へ行ってみて、いろいろ見てみないと分らないことが多いようですね。


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栗東市『九品の滝』

2018-08-24 06:25:25 | 風景・イベント・グルメ
 滋賀県栗東市にある金勝山(阿星山・龍王山・鶏冠山)は古刹「金勝寺」や平安時代の「狛坂磨崖仏」を始めとする磨崖仏、奇石や滝などが点在するハイキングコースとして紹介されることがあります。
コースを巡ると幾つかの滝が見られるようではありますが、ハイキングに数時間かけての滝見物には不安がありますので、アクセスのいい『九品の滝』へと訪れることとしました。



詳しい場所を調べずに行きましたので、まずは道の駅「こんぜの里」まで行って地図をもらって道を折り返す。
林道を進んでいくと「九品の滝」の石標が見えましたので車を停めて歩き出します。



辺鄙な場所を一人きりで歩くのはあまり気持ちのいいものではありませんが、道は平坦で歩くのには困らない。
足元から数匹のカワトンボがフワッと舞い上がるのには一瞬驚きつつも、カワトンボの数の多さには別の意味で驚きます。
道の横には滝からの水が流れる湿地が広がっていますので、カワトンボの絶好の繁殖地になっているのでしょうね。



湿地帯を抜けると杉林になりますが、この辺りまで来ると水音がよく聞こえてくるようになる。
年中こんな道ばかり歩いているなぁ~と自分で呆れながらも道を進んで行く。



カーブを曲がるとすぐに滝の姿が目に入ってきます。
思わず“あっ!”と声が出でしまうほど雰囲気たっぷりの滝を見て、“来て良かった、想像以上の滝だ。”と興奮する。



九品の滝は上滝が落差10m、中滝が8m、下滝が3mの全20mの滝ですが、渓流を含めると約100mといわれる滝です。
滝に沿って上滝の前まで上がれますので、まずは最上部の大滝と向き合います。



「九品」は浄土教で極楽往生の際の九等級の階位だとされており、階位によって極楽浄土から迎えに来る仏様が違い、極楽まで乗せてもらえる乗り物にも差があるとされます。
「九品の滝」と呼ばれるようになった由来は、この地に江戸時代の前期に島津家ゆかりの尼僧が隠棲しており、幾度もこの滝を訪れ、その際に詠んだ歌の伝承によるもののようです。
 「井上の 滝の響きはさながらに 九品浄土の楽とこそきけ」



「極楽浄土(九品浄土)の美しい音楽(楽)を聴く思いである」と詠まれるだけあって、激流ではないものの穏やかに形を変えつつ流れていく滝の姿に見とれてしまいます。
しかし、遠い九州・薩摩の島津家ゆかりの方(側室)がなぜこの地で隠棲されたのでしょう。隠れ里のような所で暮らさなければいけないような事情があったのでしょうか。



改めて書くほどのことではありませんが、やはり山の力は凄いものがあります。
今年の夏のようにほとんど雨の降らない日照り続きの猛暑でも、山からは蓄えられた水がこんこんと湧き出して水を送り出してくれるのですから。
人間が侵してはいけない領域というのはこういう自然のことなのかと思います。



滝は下滝の近くまでくると流れもゆっくりとなり、緩やかな渓流へと姿が変わります。
岩場を幾筋かに分かれて流れる水は白い糸のように折れ曲がりながら下っていき、滝は終焉を迎えます。





涼しかった滝から元来た道に戻ると、行きの道中には感じなかった蒸し暑さを感じる。
汗を拭いながら歩き、ふと横を見ると動物の頭蓋骨が置いてあり、驚くと共に諸行無常の感慨にふけることになります。
誰が何のために置いていったのかは分かりませんが、この頭蓋骨はイノシシのもののように見えますね。



滝好きなので時々思い立ったように滝へと足を運びますが、どの滝にもそれぞれ形や個性があり、その場所の雰囲気にも大きな違いがあります。
共通するものがあるとすれば、それは自然のダイナミックスさとエネルギーが感じられることなのではないでしょうか。
“なぜ滝が好きなのか?”と聞かれたら、“そこで過ごす時間が好きだから。”ということになりますね。


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ボーダレス・アートミュージアムNO-MA~アトリエ プレイトゥゲザー展-コギリの7人-~

2018-08-21 06:13:00 | アート・ライブ・読書
 アールブリュットのネットワークは日本国内のみならず、世界へ拡がりつつありますが、近江八幡市の“ボーダレス・アートミュ-ジアムNO-MA”では韓国のアーティストの企画展が貸館という形で開催されました。
「A・P・T(アトリエ・プレイトゥゲザー)」は発達障害を持つ青年作家たちの共同作業場として2013年にオープンし、日本での開催は今回が初めてとなるようです。

A・P・T代表の朱サンヒさんは、1956年静岡県に生まれた韓国在住の在日韓国人2世で、高校卒業後にソウルの梨花女子大学校で陶芸を学び、A・P・Tで美術指導や幅広い支援活動に取り組まれている方だそうです。
日本で開催しようと思ったのは、日本には支援の多様な土壌があり、「彼らの作品を日本に持って行けば分かってもらえるんじゃないかという思いが強かった」との思いから今回の美術展の開催となったようです。



入口正面に展示されていたのはキム・ソンテ(1995年生まれ)さん作の「猫」。
現在はSHEHAN大学デザイン科に籍を置き卒業製作に取り組まれておられ、その作品はA・P・Tに来て始めた習字がきっかけになり水墨画作品へと発展してきているようです。
そのかたわら廃棄物やゴミなどを集めて水墨画に変化を加え、独特な画風を生み出されているようです。



作品に作者・題名の明記がなく推測の部分があって誤りがあるかと思いますが、パク・テヒョン(1993年生まれ)さんの作品の墨で描いた「カモメ(Seagull)」の絵はインパクトがあります。
絵の右下には落款が押されているあたりに水墨画を意識した部分が出ていますが、この方はポップアート作家・紙人形作家として韓国内外で活躍されている方だそうです。
また、ライブ・テーピングの実演を通じて発達障害者に対する認識改善に努力されている方でもあるようです。



鮮やかな色彩で動物を描いたポップアート作品は上と同じくパク・テヒョンさん作の「Indonesian Park」。
色彩が綺麗で立体的に造られた作品からは何とも楽しげな動物たちが描かれている面白い作品となっています。



次の2枚はランドスケープを描いた作品ですが、左は水墨画・右はコーラージュ作品となっています。
キム・ソンテさんの作品と思われますが、どの作家も多様な作品を造られておられるので、別の作家の作品のように見えるものがあります。



面白いのは右の作品で、この作品は近くで見るとスターバックスなどのレシートや袋を貼り付けた上に絵が描かれています。
デザイン科の学生らしい発想の絵ですが、離れて見れば風景画に仕上がっているのが面白いですね。



「LADY」というコラージュ作品ではポスターから切り取った女性の顔の上に森が広がっています。
今回の展示会を通じての印象からは“正規の美術教育を受けず”というアールブリュットの定義より、美術教育を受けた方の作品との印象を受けます。
語弊があるかもしれませんが、絵を学ぶ才能のある方に障がいがあり、その方たちを支援しているということなのかもしれません。



キム・ジェヒョン(1998年生まれ)さんは発達障害が全般的に表れ、指の筋肉障害があったため、機能回復訓練としてシールを貼ったり剥がしたりする訓練を受けられていたそうです。
訓練を受けるうちに創作活動へと発展していったようです。
作品は「Flower of paradise」を題されてナンバーのシールが妖しい花のように造られていました。



1Fには他にもカン・ケビン(1989年アメリカ生まれ)さん、チュー・ヘリミ(2002年生まれ)、リ・チャンキュ(1993年生まれ)の作品が全ての壁に展示されており、床面にはパク・テヒョンさん作の人形が置かれていました。
2Fへの階段にもパク・テヒョンさんのロボット人形と一緒に朱サンヒさんの「Samsara」が掛けられていました。
絵にタイトルになっているサンサーラはそのまま読むと“輪廻”を意味する言葉ですね。



2Fにも10枚近い絵とロボット人形が展示されていますが、一際目を引くのは建物の玄関方向の前にある「信・忠・悌・孝」のBig wordsでしょうか。
儒教の八種の徳のうちの4文字のことだと思うのですが、かつて儒教国家だった韓国らしい取り上げ方ともいえるのかもしれません。



NO-MA美術館の魅力の一つに蔵の中の展示がありますが、今回も蔵での展示がありました。
古い商家の蔵ですからそれだけでも雰囲気がありますが、蔵の中に展示されている13作品によって独特の空間となっています。



「コギリの7人」は企画・主催がアトリエ プレイトゥゲザーですので、通常のNO-MA美術館の企画展とは少し雰囲気は違うとはいえ、ボーダレスアート40点以上の展示には興味深いものがありました。
入定無料にも関わらず、ポストカードやクリアファイルの配布があって、企画側の日本初開催にかける意気込みが感じられ、今後の日本各地での開催が期待されるところです。



2Fの和室にはA・P・Tの紹介ビデオが繰り返し流されており、共同作業場の様子や彼らの母親のインタビューなどが紹介されていました。
そこにはアーティスト然とした雰囲気は微塵もなく、ただ作品造りに没頭する作家たちと熱心に指導される朱サンヒさんの姿が映し出されています。
朱さんの言葉を借りると日本での開催に際して「これが最初で最後ではなくスタートなんだって思いたい」「韓国でも障害のある人たちが頑張っているというのを皆さんと分かち合いたい」と語られています。(在日本韓民国民団_記事より)


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御朱印蒐集~京都市 左京区 貴船神社~

2018-08-18 18:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 鞍馬山を歩き回ってやっと降りてきた貴船には清涼な貴船川に川床が並ぶ京都らしい風景が連なっていました。
もうお昼をとっくに過ぎていましたので、お腹はペコペコながら川床は予約のお客さんでいっぱいで入れそうにない。

恨めしく川床を眺めることになりましたが、何とも優雅で涼しげな風景を見ると、納涼のお客さんが訪れるのも納得できます。
蒸し暑い日に一度訪れてみたい場所ですが、懐石料理ですので懐具合と相談しないといけないですね。



さて、貴船には川沿いに貴船神社の本宮・結社(中宮)・奥宮が点在していますが、まず本宮へ参詣することにしました。
貴船神社は高龗神(たかおかみのかみ)を御祭神として祀り、「水源の神」として信仰されていますが、「縁結びの神」としての御利益があることから、若い女性や恋人たちの参拝者が多く目立ちます。



ただし「縁結びの神」は結社の磐長姫命の御利益になりますが、授与品や御朱印は本宮になりますから本宮に参詣される方が多いのでしょう。
朱色の大鳥居の辺りも人が途切れることなく続き、たいへん人気のある神社であることが伺われます。



鳥居を入ってすぐの場所には見事なケヤキの大木がありました。
鞍馬山も同じなのですが、貴船の周辺にも大きな木が目立ち、この辺りが古来より神聖な地であったことが分かります。



参道の石段は朱色の灯籠が両端に建てられており、鞍馬寺の参道を思わせる造りになっています。
過去に貴船神社と鞍馬寺には何らかのつながりがあったのか、近隣のため同じように造ったのかは分かりませんが、似ているのは確かですね。



石段を登りきったところにある門の中は本堂の境内となります。
石段にも人は多かったのですが、境内に入ると人の行列に驚かされてしまいます。



まず手水舎で身を清めますが、さすが水源の神の神社だけあって水量豊富で冷たい水が流れています。
苔むした手水岩も雰囲気があって気持ちが落ち着きますね。



手水舎の横には黒と白の神馬像が奉納されています。
これは貴船神社が平安の頃より貴船神社で雨乞の儀式をしていたことによるようで、現在も毎年3月9日に神事として雨乞祭が行われているようです。
黒毛の神馬は「雨乞い」に、白毛の神馬は「雨止め」が奉られていた故事により、2頭の神馬像が祀られているようです。



いよいよ参詣ということになりますが、本宮前には長い行列が出来ています。
本宮の反対側には授与所があり、そちらにも御朱印授与の列が出来ていましたから、改めて貴船神社の人気に驚きます。



本宮は2005年に大造営されたこともあり、綺麗な宮だなというのが最初の感想です。
寺院は古刹感がある方が好きですが、神社は神が降りられる場所ですから綺麗にしないといけませんからね。



本宮にお参りしたあとは、貴船川を遡りながら奥宮へと向かいます。
貴船神社には「三社詣」という習わしがあるそうで、知っていた訳ではないものの偶然で順番通りの参詣になりました。
川沿いに川床が見えますが、横を歩いているだけでも涼しいのですから、真夏でも川床へ上がれば涼しいのだろうなと考えつつ道を歩きます。



奥宮への道中には「相生の杉」という御神木がありました。
同じ根から生えた2本の杉のことを指しますが、樹齢は1000年。夫婦ともに長生きの意味のある杉だそうです。



貴船神社では本宮に「高龗神」、奥宮に「闇龗神」を祀り、社記では「呼び名は違っても同じ神なり」とされています。
また、「高龗神」は「山上の龍神」、「闇龗神」は「他底暗闇の龍神」ともいわれていることから、いくつかのオカルト的な都市伝説があるようです。



鳥居の下を流れる“思ひ川”はかつては禊の川・物忌の川だったとされており、和泉式部が夫の愛を取り戻そうとこの谷川で手を洗い口をすすぎ、身を清めて参詣したと伝わります。
奥宮の桜門まで来ると、さすがに人の姿は減ってはきますが、参詣者は絶えない宮でした。



奥宮の境内には「御船形石」という玉依姫命が水の源を求めて黄色い船に乗り、水神を祀り「黄船の宮」と称されたとされ、その黄色い船は人目に触れぬよう石で包まれたという伝説があるそうです。
「貴船」は万物のエネルギーである氣が生じる根源の地という意味で「きふね」とされるようですが、「黄色の宮」、黄色=貴人の色からも「きふね」の由来がありそうです。



奥宮本殿のましたには「龍穴」と呼ばれる大きな穴が空いているとされますが、誰も見ることが許されていないそうです。
鞍馬山と貴船山に挟まれ、貴船川に沿うように開かれたこの地域にはある種独特のパワーがあるようです。



この界隈には大木・古木が多く見られますが、「連理の杉」という杉と楓が和合した御神木が迫力のある姿を見せてくれます。
2本の異なる樹が和合する姿は、縁結びの神の神社ならではの御神木となりますね。



本宮と奥宮の中間点にあるのは磐長姫命を御祭神とする「結社」になります。
磐長姫命は、妹である木花開耶姫とともに瓊々杵命に嫁いだものの、容姿が醜かったため返されてしまい、「吾ここに留まりて人々に良縁を授けよう」と御鎮座されたとされます。
そのためこの結社で祈願すると、あらゆる縁結びの願いに御利益があるとされます。



参拝が終わった後、叡山鉄道「貴船口」まで戻ることになるのですが、ここで距離を読み間違ってしまいます。
貴船川を下流に向かって歩けども歩けども駅は見えてこない。ここはバスを使うべきでしたね

やっと叡山鉄道に到着した頃にはもうヘトヘトです。
車を駐車している「鞍馬」駅までの1駅だけの乗車をします。



鞍馬寺の仁王門から山中を巡って、貴船を歩く。
なかなかタフな神社仏閣巡りでしたが、独特の地の力と訪れる方々の祈願の力の両方が強い場所でした。
また、京都の奥座敷として観光地としての側面もある京都らしい風情のある一帯ですね。


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御朱印蒐集~京都市 左京区 鞍馬山 鞍馬寺②(多宝塔-本堂金堂-貴船)~

2018-08-14 18:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 今回の鞍馬寺の参拝ルートは観光茶屋の並ぶ鞍馬寺の門前町に車を駐車して、仁王門⇒由岐神社戻る⇒普明殿⇒鞍馬山ケーブル(山門駅)⇒ケーブル多宝塔駅(山上駅)から参拝するコースをとりました。
鞍馬寺本殿⇒奥の院に参拝した後は、貴船へのアップダウンの多い山道を下り貴船へと出て、貴船からは叡山鉄道「貴船口」~「鞍馬」の一駅を電車で移動して、車のある鞍馬寺門前町まで戻るという鞍馬山ひと周りコースです。

鞍馬山縦断は軽く行けると踏んでいましたが、後半はほぼ登山道を延々と歩くことになり、足腰がガクガクになってしました。
万歩系によるとこの日は、15000歩・11Kmとカウント。平地なら大した距離ではないですけど山道でしたのでこれはキツかった。
叡山鉄道「鞍馬駅」の大天狗の前まで戻ってきた時は正直ホッとしましたよ。





さて、ケーブル多宝塔駅(山上駅)に着くと、すぐ目の前に多宝塔が目に入ってきます。
多宝塔は元は本殿東側にあったようですが、江戸時代に焼失してしまい、ケーブルカー開通後の1960年に現在地に再建されたようです。



多宝塔からはやや緩やかな石畳が続き、弥勒堂へと到着します。
弥勒堂を過ぎると九十九折参道と合流しますが、徒歩で九十九折参道から登ってきた場合だと、多宝塔へは合流地点から多宝塔まで遠回りしないといけませんのでケーブル利用は正解だったかな。





本堂金堂へ行くには最後の難関と言える石段がありますが、石段好きの当方にとってはこれも楽しみの一つ。朱色の灯籠に導かれて登っていきます。
石段は155段といいますから、苦しみよりも楽しみの範疇の石段ですね。



ここでも手水で身を清めることになりますが、この手水の龍はとても迫力があります。
手水の横には“お水さん ありがとう”の言葉が添えられており、山の限られた水に感謝する気持ちと一緒に身を清めさせていただきました。





本堂金堂がある位置は標高410mの地点といわれており、向かいには比叡山が眺望出来ます。
両山共に山岳信仰や密教が盛んな場所で山を僧兵が守っていたというところでも共通しています。
かつての鞍馬寺にいた僧兵は数では比叡山より劣るものの、より勇敢な僧兵だったと称えられていたと伝わりますから巨大な勢力を持つ寺院だったといえるようです。



さて、本殿金堂の前には見慣れる狛犬が鎮座していました。
本来、狛犬は神社に祀られているのですが、鞍馬寺は寺院にも関わらず狛犬、しかも狛犬ではなく虎。
狛虎は本尊・毘沙門天のお使いである神獣とされており、毘沙門天の出現が寅の月・寅の日・寅の刻とされていることにも由来しているようです。





本殿金堂は1971年の再建と比較的新しいものですが、正殿前には「六芒星」を形どった金剛床があり、宇宙のエネルギーを授かろうとする方々が並んでおられました。
当方も六芒星の中心に立ってみましたが、思い込みもあったのでしょう、急に体が内部から熱くなるような気配を感じてしまい、怖くなって慌てて中心部から離れました。





内陣へは祈祷を申し込んだ方しか入れませんが、外陣から見ると須弥壇の中央に「毘沙門天(お前立ち?)」が安置され、閉じられた右の厨子には「千手観音菩薩」、同じく閉じられた左の厨子には「護法魔王尊」が安置されているようです。
「護法魔王尊」は天狗のような姿をしており、650万年前に金星からやってきたサナート・クマラの転化とされているという話があります。



本堂金堂から先からはさらに登りの石段が続き、途中からは登山道を下ることになりますが、そこへ至る道筋には「霊宝殿(鞍馬山博物館)」がありました。
この山の中の博物館は3階建で、1階に「鞍馬山自然科学博物苑展示室」、2階に「寺宝展観室」と「与謝野記念室」、3階には「仏像奉安室」とそれぞれのテーマで展示をされています。



仏像奉安室は入った瞬間目に入ってくる位並ぶ毘沙門天に圧倒されます。
展示内容を順を追って書くと、最初の面には穏やかな微笑みをたたえる「聖観音菩薩立像(鎌倉期・重文)」、中央に「毘沙門天立像」「吉祥天立像」「善膩師童子」の平安後期の国宝の3躰が並びます。
次の面にも「兜跋毘沙門天立像(平安後期・重文)」、鎌倉期の「毘沙門天立像」が3躰と全部で5躰の毘沙門天が安置されています。

時代による作風の違う毘沙門天を並列で見ることができるのは興味深いところがあり、中でも平安後期の兜跋毘沙門天に至っては足元に邪鬼2躰を踏み、その間に天女の姿がある珍しい像でした。
異質だったのは台風で倒れた樹齢千年といわれる神木から造った大杉大権現。
大権現と名前が付いていますが、木の一部を御神体に見立てたもので、これは古来の自然崇拝と神仏習合の影響を感じさせるものでした。





鞍馬寺は京都最強のパワースポットと呼ばれることがありますが、実際に来られている方の一部にはスピリチャルな方々(あるいはスピリチャルなものを求めている方々)が居られ、特に鞍馬山の西側(貴船側)の御堂には多かったと思います。
この山にいると、鈍感な当方でも何か見えない力が渦巻いているような錯覚を起こしそうになりますからスピリチャルを求める方が多いのかと思います。
ただそういったことばかりでなく、「木の根道」の辺りには写生をされている方々がおられましたので求めるものはそれぞれということなのでしょうね。



木の根道を超えた辺りからは下りに入りますが、この辺りからはもう完全な登山道になります。
ただただ寡黙に山道を下りますが、トレッキングシューズもなく何度も滑りそうになり難儀をします。
何とか不動堂まで辿り着き少し休憩しようと堂内に入ると、堂内にはメディテーションに入っている数名の女性がおられましたので、すぐに堂を出る。



鞍馬山には幾つかの御神木外にも樹齢の長そうな巨木が何本も生えています。
そのうちの何本かは根っこごとひっくり返ったり、途中で折れて倒れている木があり、自然の恐ろしさと倒れても次の木が育っていく自然の力の強さに感じ入ります。
巨木の多さに驚く以外にも、異様な曲がり方・ねじれ方をしている木が多いのも目に付き、不思議な光景にも圧倒されます。



鞍馬寺の最後の堂宇となるのは「奥の院 魔王殿」となり、おどろおどろしい名前が付いています。
寺院の紹介文では“「魔王殿」は太古、護法魔王尊が降臨した磐坐・磐境として崇拝されてきた”とされています。
護法魔王尊は650万年前に金星から地球に降り立ったという魔王尊のことになりますが、この金星から降り立つというリアルさはどこからきているのでしょう。



奥の院を過ぎてからも下りの山道が続きますが、高度が下がってきているのは分かっていても平地がなかなか見えてきません。
やっと貴船川の水音や車の走行音が聞こえてきたかと思うと、急に視界が拡がり、目に入るのは貴船の川床でした。
貴船側からも山道を登ってくる方がおられましたが、こちらからのコースだと魔王殿までの登りの山道で心が折れてしまうかもしれませんね。



鞍馬寺は律宗に始まり、真言宗・天台宗・古神道・陰陽道、修験道等の影響を受けながら、鞍馬弘教というスピリチャルな宗教観を持つに至ったのは神智学の影響が大きかったとされます。
神智学のことについてはさておくとしても、鞍馬山には迫力のある多数の御神木やねじれて異様な姿をしている木など自然のエネルギーを感じられるものが多い。
歴史のある寺院ではありますが、一種独特で強い土地のエネルギーを感じる寺院といえます。


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御朱印蒐集~京都市 左京区 鞍馬山 鞍馬寺①(仁王門-由岐神社-鞍馬山ケーブル)~

2018-08-11 17:38:38 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 日本の各地に「天狗伝説」が残るといわれ、その正体を妖怪やUMA・エイリアン・超能力者の一種と解釈されたり、修験者のことと言われたりすることがあるようです。
天狗は柳田国男の「遠野物語」や水木しげるの漫画にも出てきますが、昔の人は自然現象や怪奇現象などへの畏怖と不可思議さに対して、この世のものではないものを想像したのではないでしょうか。
もっとも、本当に天狗が存在していて、実際に目撃したり、伝説にあるようにさらわれた人がいたのかもしれませんけどね。

不思議なのは情報網が発達していない時代にも関わらず、天狗の顔が各地で共通して“鼻や嘴が前面に飛び出している姿”であることでしょう。
人が潜在的に持つイメージが反映しているのか、情報が伝わるにつれて共有化されていったのか等、興味深いところがあります。



滋賀県だと東近江市の赤神山・太郎坊宮に棲むとされる太郎坊天狗が有名ですが、鞍馬山にはあの鞍馬天狗の伝説が残されています。
鞍馬寺には源義経(牛若丸)が7歳で入山し16歳の頃に奥州平泉に下ったとの寺伝があり、義経の鞍馬寺での修行時代には天狗に兵法を授けられたとの伝説があるようです。



鞍馬寺の開創は、奈良時代末期の770年。鑑真和尚の高弟・鑑禎上人が草庵を結び毘沙門天を安置したのが始まりとされます。
平安中期になると、藤原道長・頼通、藤原師通などの参詣が相次ぎ、平安王朝に仕える女流文学者も多く来山されたようです。



鞍馬寺は開創・鑑禎上人(律宗)に始まり、真言宗・天台宗の教義を取り入れ、神代以前からの古神道や陰陽道、修験道等の山岳宗教の要素を含みながら、現在は「鞍馬弘教」の総本山となっています。
その佇まいは、まさしく“都の遠郊外にある深山・霊山”にある寺院という呼び名がよく合います。



浄域への結界となる仁王門は1911年の再建。
創建は平安時代末期(1182~4年)とされており、安置されている仁王像は湛慶(運慶の嫡男)作と伝えられています。



目には玉眼がはめ込まれてあり、力感があって表情やバランスもいいですね。



仁王門を抜けると雰囲気のある参道へと入ります。
この参道から鞍馬寺の鎮守社になる「由岐神社」を経て本殿金堂へ行くことができますが、この九十九折参道へのルートを利用すると約1㌔強の道中となります。
今回は鞍馬山を縦断して貴船まで行く予定でしたので、少し先にある「由岐神社」へ参拝した後、元来た道を降りてケーブルを利用しました。



「由岐神社」までは広い道が続き、放生池・吉鞍稲荷・魔王の滝・鬼一法眼社にお参りしながら進みます。
「鬼一法眼社」は、牛若丸(義経)に兵法を授けたとされる兵法の大家・鬼一法眼を祀った宮である一方で、『義経記』では義経が鬼一法眼から兵法書を盗んで学んだとされているようです。





「由岐神社」は主祭神として大己貴命と少彦名命を祀り、別名では祭神「靫明神」と呼ばれているようです。
開創は、天変地異が続く都を鎮めるため、940年に朱雀天皇の勅により、御所から鞍馬寺に勧請したのが始まりとされます。
京都三大奇祭の一つの「鞍馬の火祭」は、この由岐神社の例祭になっているそうで、かがり火で山一面が赤く染まる勇壮な祭はネットで見ても非常に迫力のある神事です。



石造りの鳥居の奥に拝殿がありますが、この拝殿は豊臣秀頼による再建建築物で重要文化財に指定されています。
拝殿の前方は懸造りになっており、参拝者の姿は見られるものの、とても静かな神社で火祭りの神社でありながらも冷水のような厳粛さを感じてしまいます。



切り出された太い竹の上に尺が置かれていますが、手水の水は冷たく水量が豊富です。
鞍馬山の宮や寺院の各所にはとにかく手水が多く、このあと何度も清めることになります。

拝殿から本殿への石段を見上げると、圧倒されるような太さの御神木があり、まず驚かされてしまいます。
この杉は「願掛け杉」と呼ばれており、樹齢800年・樹高53mと巨大ですが、驚くのは杉はこの1本だけではなく、周囲に巨大な御神木が3本あることでしょう。
また由岐神社の杉だけではなく、鞍馬山から貴船にかけても巨木が多く、進むたびにその姿に驚かされることになります。



石段の左右や本宮までの間には「三宝荒神社」「白長弁財天社」「冠者社」「岩上社」「大杉社」「八幡宮社」の末社が並びます。
本殿の前に末社が並ぶ神社は少し独特な神社のようにも思えますが、場所の造り上そうなっているのでしょう。
境内に祀られた三宝荒神社は、火と竈の神様で「仏・法・僧」の三宝を守護する仏神を祀っています。



本殿も拝殿と同様に豊臣秀頼の再建で、廻り縁には子供を抱いている狛犬が鎮座しています。
そのため、子授祈願や安産祈願に御利益があるとされています。



境内の横の九十九折参道に石標が建てられていますが、この石標は境内側と参道側の両方に社名が彫られていました。
これから鞍馬寺へと登られる方も、参道を降りてこられる方も、両方から読めるようになっているのでしょう。



さて、この由岐神社に参拝した後、ケーブルの山門駅まで戻ることに致します。
ケーブルは200mほどの距離しかなく、2分で到着してしまいますが、少しは旅気分も味わいたいこともあって乗りました。
鉄道事業法による許可を受けた鉄道として宗教法人が運営しているのはこのケーブルだけだそうですね。



ケーブルは28名が定員ですが、列はどんどん伸びていって乗れない人も多数おられました。
幸いにして順番がよく、当方の前には3人が並んでいるだけでしたので座って景色を見ながら、わずか2分間の旅気分となりました。
ケーブルの到着駅は“ケーブル多宝塔駅(山上駅)”。本堂金堂まではまだ遠い。


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御朱印蒐集~大阪府 茨城市 補陀洛山 総持寺~

2018-08-06 07:12:12 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 総持寺は西国三十三所巡礼の第22番札所になりますが、西国の札所寺院の中では珍しくベッドタウンにある寺院です。
ベッドタウンとはいっても最近の新興住宅地とは違って道路は狭く、入り組んだ道では車のすれ違いさえ出来ないため、寺院は見えながらも対向する車が全て通り切るのを待つことしきり。

近くに阪急京都線の総持寺駅があるので車がないと困ることは少ないとは思いますが、地元の方が大通りまで車で出入りするのは大変そうに思えます。
地元の方からすれば、車が混み合うから総持寺へは電車で来て欲しいと思われているでしょうね。



石標は亀が支える形となっていますが、これは総持寺が亀の恩返しの伝説を持つ寺院であることに由来するようです。
開基・藤原山蔭の父・藤原高房が漁師が大亀を捕えているのを見て、亀を買い取って逃がしてやったといいます。
その日、高房の息子の山蔭が川に落とされてしまい、高房が観音様に祈ったところ、翌朝亀に乗った山蔭が帰ってきたという逸話です。



山門(仁王門)は江戸時代中期の18世紀初頭に建てられたものと伝わります。
ただし、現在の山門は時代は不明ながら比較的近代に建てられた門のようにみえます。
北摂地方では楼門形式の門は珍しいとされていて、現存するのは勝尾寺(箕面市)、久安寺(池田市)とこの総持寺の3棟だけだそうですね。



山門には「補陀落山」の扁額がかけられ、阿吽の金剛力士像が寺院を守護しています。
この仁王様は南北朝時代の14世紀に造られたもので、阿形・吽形ともに高さ約2.3mの堂々たる仁王様です。







鐘楼も江戸時代の18世紀に建てられたもののようですが、現在の梵鐘は平成26年に高野山開創1200年を記念して新造されたもの。
かつて使われていた梵鐘には1434年の銘があり、片桐且元陣中の鐘と伝えられている鐘で、現在は納経所に保存されているようです。



本堂は1603年に豊臣秀頼の命により片桐且元によって再建されたものの、災害や大火などで大破してしまい、1699年に再興されたとされます。
本堂の厨子内には秘仏の「千手観世音菩薩(平安時代・像高75.4cm)」が祀られていますが、特別開帳は限られた期間だけになっているようです。





本堂の右手には「弘法」の扁額がかかった「大師堂」。
ガラス越しにしか内部は見えませんが、須弥壇上には中央に「弘法大師御影像(1647年)」、右に「弥勒菩薩坐像(桃山~江戸時代)」。
左には「不動明王像(江戸時代)」、愛染明王坐像(室町時代)」が安置されているようです。





放生池の真ん中にあるのは「閻魔堂」ですが、こちらも中を見ることは出来ません。
この後方に建てられているのは「薬師三尊(鎌倉~南北朝時代)」で、施無畏印を結んだ薬師如来坐像と日光・月光の脇侍が祀られているようです。
脇侍の横には一二神将が祀られていますが、脇侍と一二神将は江戸時代以降の補作だそうです。





境内には「五社稲荷大明神」への道がありましたが、稲荷社の前で一人の方が修験道の儀式のようなものをずっとされていましたので、近づくことが出来ません。
複雑な印を組み換えながら、大きな声で加持祈祷をされておられましたので、何らかの修行をされてこられた方なのかと思います。



懸造の「開山堂(包丁式殿)」では毎年4月18日に「山陰流包丁式」という儀式が行われているそうです。
これは開山・中納言・藤原山陰が総持寺本尊造粒の時、仏師に千日間、違う料理を出して「中納言の千日料理」としたことが始まりだそうで、現在も全国の調理師によって包丁式が奉納されているようですね。





本堂の後方には包丁塚が祀られており、石塔などが並ぶ一角がありました。
さしずめ小さな奥の院といった風情があります。



また“大黒天”“弁財天”“青面金剛”を祀る鎮守社など御堂・宮が多く、総持寺は市中のコンパクトに納められた寺院といった感の強い寺院です。
寺院が創建された平安時代(890年)には周囲には寺領以外は何もなかったのでしょうけど、いつの時代かに住居が立ち並ぶようになったのでしょう。



京都の市街地にある寺院を除くと、総持寺は西国三十三所札所では異質の寺院ともいえます。
近所の方がふらりと立ち寄ったり、犬の散歩や毎日の朝の日課のように訪れる方も多そうな寺です。
地域の方にとっては憩いの場となっているのかもしれませんね。


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御朱印蒐集~大阪府 箕面市 応頂山 勝尾寺~

2018-08-01 18:28:28 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 箕面川をさかのぼり、箕面の滝を越え、くねくねした道を進む。
この一帯は行楽にはもってこいの場所なのでしょう。サイクリング・ジョギング・ウォーキングの方が多く車の運転に気を遣う。
箕面の滝の付近まで来ると、家族連れ・恋人たち・観光の方が多くなってきて、さらに運転しにくくなる。

そんな行楽地・箕面の地に勝尾寺はありました。
勝尾寺は西国三十三所の第23番札所で高野山真言宗の寺院になります。



駐車場から山門に向かうとすぐに拡声された祈祷の声が聞こえてきます。
それは念仏というよりは神社の祝詞に近いもので、祈願者の区切りのところでは太鼓が叩かれていました。
拡声されていることもあったのしょうけど、祝詞のように読み上げる祈願には寺院の祈祷としては少し違和感を感じてしまいます。



勝尾寺は奈良時代末期の727年、善仲、善算の双子兄弟が草庵を構え修業されたことに始まるとされます。
765年には光仁天皇の皇子・開成が二師出逢い、大般若経六百巻を理経して「彌勒寺」として開山されたと伝わります。
また、780年には妙観という名の比丘が身丈八尺の十一面千手観音を彫刻して本尊として祀ったとされています。



勝尾寺は永寿の乱によって大講堂や伽藍をことごとく焼失したとされており、1195年に源頼朝の命により再建されたとされます。(現存するのは供養塔と薬師堂のみ)
仁王門(山門)は豊臣秀頼によって再建されたとされていますが、その後も修復工事が行われているようですね。
仁王門に鎮座する金剛力士像も保護もあってか朱色に塗られていますが、背が高く見上げるような仁王様です。





噴水が吹き上がり、ミストが流れる弁天池にかかる橋を渡って行きますが、手前に見える弁天堂と山の合間に見える伽藍に気持ちが高ぶります。
ミストが噴射されているのは熱中症予防かと思いましたが、実際には年中ミストは出ているようで、これは心身を清める意味があっての噴射だそうです。



参道脇には石灯籠がありますが、なんと2列になって並んでいます。
それだけ奉納者が多いということなのでしょうけど、緑の中に並ぶ多くの石灯籠にみとれてしまいます。



新緑がトンネルのように覆いかぶさる石段の先に見えるのは多宝塔。
紅葉の季節はさぞや絶景なのでしょう。



ところで、かつて「彌勒寺」とされた寺院が「勝尾寺」となってのは六代座主の行巡上人の時代だったようです。
清和天皇の玉体安隠を祈って効験があったことから、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」 の寺号を賜ったが、寺では「王」と付けるのはあまりにも畏れ多いため「尾」に変えて「勝尾寺」としたそうです。

以降、清和源氏の流れをくむ鎌倉幕府や足利幕府の将軍が勝運の神として信仰していたとされます。
現在も勝運信仰が続いていて、「勝ちダルマ」を授かる方が多く、願いを成就し両目を入れたダルマが納められていました。



ミストでのお清めは受けていましたが、流儀に従って手水舎で身を清めます。
箕面川の流れる水の豊富な地域ということもあってか、水量の多い冷たい水が心地よい。



片側に石垣がそびえ立つ参道を進むと、まず最初に「厄ばらい三宝荒神社」があります。
三宝荒神社は日本最古の荒神さんを祀るとされており、三宝荒神は神仏習合として、荒神信仰・修験道・仏教(密教)が結びついたものともいわれます。
そう考えると祝詞にも聞こえる激しい祈願の理由も理解出来るように思います。





境内には各御堂が並びますが、面白いのはどの堂や灯籠にもダルマが置かれていることでしょうか。
ダルマおみくじを引かれた方が、神社のおみくじを木に結んで帰るようにお祀りして帰られるのでしょう。





「大師堂」の内部には四国八十八ヶ所霊場の各本尊を模した石仏とお砂踏み場がありました。
お砂踏みをして一巡しようと思ったものの、丁寧に踏まれていく先客があり、待ちくたびれてこれは断念です。



西国三十三所の札所である勝尾寺本堂には、巡礼の寺院らしく笈摺を羽織った集団の方々が参拝しておられます。
堂内には入れませんが、中には十一面観音菩薩が祀られているとされ、毎月18日に特別開帳されているようですから実際に拝まれた方も多いことでしょう。





順序が逆になってしまいましたが、鐘楼で鐘を撞かせていただきました。
ここにも勝ちダルマが置かれてあり、寺院のどこもかしこも勝ちダルマで溢れているのをみると、何となくユーモラスに見えてきますね。





勝尾寺にある二階堂には1208年から3年10ヶ月の間、法然上人が逗留されたといわれています。
隠岐国に流罪となった法然が赦免されたものの京都には入れず、勝尾寺に滞在していたようですが、滞在の翌年に京都に戻るも翌年に78歳で入定したといいますから、法然が晩年を過ごした寺院ともいえそうです。



多宝塔は比較的新しい建築なのか、朱色が非常に美しく、山の緑に映えます。



弁天池まで戻ってくると、入山時には対岸に見えていた弁財天へお参りします。
勝尾寺の弁財天は、知恵を与え、学問や芸能や音楽の才能を開花させる神さまとして信仰されているようです。



仁王門からの橋の噴水が勢いよく吹き上げているのが見えると参拝も終わりということになります。
もう一度、清めのミスト・シャワーを浴びて仁王門を出ます。



仁王門を出ると、如何にもパワースポット然とした「知恵の輪」がありました。
右回りに7周して中心まで入り、中心から逆廻りで7周廻って入口から戻ると、晴れやかに、湧き出る力や良い知恵が頂けるそうです。



勝尾寺は季節によって“桜まつり”“シャクナゲまつり”“紫陽花まつり”“紅葉まつり”の行事が開催されるようです。
また、ライトアップされる期間もあるそうですから、参拝客や観光客でにぎわっている寺院といえます。



箕面山からの眺望は視界の広がった場所があまりないとはいえ、北大阪の風景が垣間見えます。
帰りのドライブウェイから見える景色は、手前に住宅などの低い建物、奥の千里中央方面には高層ビルがみえます。
自然豊富な箕面の地は、思いのほか大阪の中心部から近い場所にあるようですね。


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