僕はびわ湖のカイツブリ

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“男のためのガーデニング”改め

「観音の里ふるさとまつり2019」5/10~高月町宇根 慈光山 冷水寺~

2019-10-26 17:23:23 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 高月町宇根の「冷水寺」は寺歴を奈良時代に遡ることとなり、神亀年中(724年~)に行基が観音像を彫り、宇根野寺を建てたことが始まりだといいます。
貞観年間(859年~)には天台座主・円珍が安養寺と改称、1155年の後白河帝が石道寺に行幸の帰り宇根を訪れ伽藍を建築したと伝わります。

しかし1583年の賎ヶ岳の合戦で柴田勝家軍の放った火により観音堂は焼失、本尊は焼損してしまったといいます。
その時に焼損した本尊を村人達は守り続け、冷水寺として観音堂を再建し、長らく秘仏としてお守りしてきたそうです。

 

1702年には「鞘仏十一面観音像」を造り、焼損した本尊を胎内仏として祀り、その後守り続けてきたといいます。
どんなお姿になっても村の観音様を守り続けるという強い意思が感じられる話ですね。





冷水寺の寺名が付いた経緯には賎ヶ岳の合戦で焼き討ちに遭った観音堂を新たに建てた時に、その傍に盛衰が湧き出ていた事が由来となっているようです。
現在の冷水寺は明治以降にこの地に移築されたもので、清水は途絶えていたようですが、平成の修復の際に地下水が汲み上げられ、現在の御手洗所になったようです。
宇根は宇根野ヶ原と称されていたるところで水が湧き出し、田畑に恵みをもたらしてきた地下水の豊富な地域だったようです。



観音堂は中に3~4人入るともう一杯といった大きさ。
厨子には鞘仏の「十一面観音坐像」が居られるが、外観からは鞘仏だとは全くわからない。





鞘仏は江戸期の仏像となり、垣間見えるお顔はやや怒った表情にも見える。
人間の愚かさを叱りつけるような表情は、これまで胎内仏が辿ってきた歴史を考えると理解できるような気もする。





表の鞘の十一面観音が怒りの表情なら、胎内仏である十一面観音は見るも無残で痛々しい姿である。
ほぼ炭化してしまった焼損仏をよくこんな形で蘇らせてくれたと伝わるものは大きい。





1996年には伝承となっていた胎内仏の再確認を行われたといい、写真は1997年に鞘仏を取り外した時の写真のようです。
ちょうど台座の上あたりに顔があることになり、後世にこの仏像を見た人は現代の我々のように大いに驚かれることでしょう。



厨子の横にはかなり劣化・損傷した像があり、こちらは仏像というより神像に思える。
こういった破損仏を残し伝えていくのは、その時代に関わった人のある意味で努めなのかもしれません。





寺院の境内には小さな小さな資料館「冷水寺胎内仏資料館」があり、写真や資料が公開されています。
看板には年中無休 昼夜無休とありますので、いつでも見れる資料館ということになります。



仏像の胎内から胎内仏や古文書や経典などが発見されることがありますが、冷水寺の場合は後天的に鞘仏を作ったという珍しい仏像です。
ここまでして人々が守りたかったのは何なのか?そこには村の観音様を信仰する人々の厚い熱意のようなものが感じられます。


『星と祭』復刊本と『星と祭』復刊プロジェクト公式ガイドブック


コメント
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