僕はびわ湖のカイツブリ

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“男のためのガーデニング”改め

「観音の里ふるさとまつり2019」6/10~高月町東阿閉 薬師堂・乃伎多神社~

2019-10-27 17:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「東阿閉薬師堂」は「乃伎多神社」の境内にある寺院で、この御堂も神仏習合の色濃い場所となります。
乃伎多神社はかつては「野北八幡」「北の八幡宮」と称され、安曇郷の鎮守として安曇連の祖神を祀っているといいます。

御祭神は「応神天皇」と「天造日女命」の2柱を祀り、延喜式神名帳にある「乃伎多神社」とする説があるようです。
薬師堂は乃伎多神社の神宮寺と考えられていますが、この寺院も賤ヶ岳の合戦の折の兵火に罹って焼失したといいます。

 

現在の社殿は1797年に再建されたものといい、神社の社と平安仏を祀る薬師堂、不動明王堂の3つの建造物が並列に並びます。
従いまして薬師堂へは乃伎多神社の大鳥居から入ることになります。



境内の最奥の左側に建てられているのが「薬師堂」。
須弥壇には平安後期の「薬師如来立像」「聖観音立像」、2躰の「毘沙門天」が安置されています。



須弥壇に並ぶ4躰の仏像を見てド胆を抜かれるのは両毘沙門天像の顔と姿ではないでしょうか。
4躰が並んでいる姿を見ると、全ての仏像が平安仏とは思えない姿となっています。



ただし薬師如来(総高94.4cm)と聖観音(像高108cm)には大きくは修復されていないと思われ、両仏ともに素朴さを感じる仏像です。
薬師如来は鼻がやや大きく、少し目尻が下がっているように見えるが、バランスの良い躰をされている。
聖観音は頭頂に化仏を載せており、髻と両手は後世に修理されたものであることから、元は十一面観音として造像され、聖観音として修理された可能性があるとされています。





4躰の仏像の台座の裏に書かれた墨書銘には1825年に修理された記録が残されており、東柳野の河口藤三郎という仏師が修理を担当したとされます。
東柳野村では京都で学んだ当地の仏師・浅尾宗儀が居住したといい、村からは宗儀の流れを汲む多くの仏師を輩出したという。

衝撃的なのは毘沙門天ですが、左の毘沙門天は頭上に兜をかぶっており、玉眼や体型といい、平安期のものとはとても思えません。
解説によると当初は平安期に造られたものと考えられるが、背面材を除くほぼ全身・台座・持物・表面の彩色は後補だといいます。おそらく破損がよほど激しかったのでしょう。





右の毘沙門天も同様に後補の部分があるようですが、先の毘沙門天ほどは衝撃を感じない。
こちらの毘沙門天は台座・両肩より先・持物・両足先・表面の彩色が後補だといいます。



八幡宮は小ぶりながらもよく整備された社で、オコナイや神事がここで行われるのでしょう。





境内には奥から順に「薬師堂・八幡宮」と並び、一番右側には「不動明王堂」があります。
不動明王は開帳されておらず、その姿は知る由もありませんが、造りを見ると元々不動明王の祠があり、祠を覆うように建物が建てられたように見えます。



この乃伎多神社では毎年9月13日に「モロコ祭り」が行われ、子供達の歌と舞が奉納されるそうです。
モロコとは琵琶湖固有種の「モロコ」と「諸子・諸戸」の意味があるといい、氏子の成長と五穀豊穣を祈願すると言われます。



巡回バスの停車場は「ヤンマー会館(東安閉公民館)」でした。
このゴチック調の建物を遠くからな眺めたことはありましたが、近くで見るのも中へ入るのも初めて。

ヤンマーの創業者の山岡孫吉は東安閉の出身で7人兄弟の6番目の子供だったといい、大阪へ方向に出て、紆余曲折の末にヤンマーディーゼル(現・ヤンマーホールディングス)を立ち上げたといいます。
成功した後には湖北の何ヶ所かにヤンマーの工場を作り、地元の人の雇用改善にも勤められたといいます。



山岡孫吉の功績を称えて、ドイツ発明協会から金牌が贈られたり、ドイツ大博物館より名誉理事に推薦されるなど海外での評価も高かったようです。
ヤンマー会館の中には西ドイツ(当時)アウグスブルグ市に滞在中にミューラー市町から贈られた石像が展示されてありました。(女流彫刻家ボーハイム 1898年の作)



観音を巡って各所を歩いていると、その土地に関する歴史や人物など仏像以外の興味深い事項にも出会えます。
さて、まだ時間は早い。今度は琵琶湖方面へ移動してみよう。


『星と祭』復刊本と『星と祭』復刊プロジェクト公式ガイドブック


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