「己高山 円満寺」は元々「井口日吉神社」の神宮寺だったといい、古くは奈良仏教や白山信仰の影響下にあり、近世まで天台宗に属していた寺院だとされます。
円満寺は、己高山五箇寺の「観音寺」の別院であったとされ、「惣山之七箇寺」の一つに数えられたといいますから、古い歴史を持つ寺院です。
平安・鎌倉期には末寺六坊を従えて栄えたものの、度重なる戦乱などにより次第に衰退していってしまい、現在は無住の寺院として井口区民によって護持されているといいます。
村は十組に分かれていて、毎月組毎に円満寺の法要を執り行っており、オコナイの神事の場でもあるといいます。
円満寺は日吉神社の神宮寺として境内の奥にあるため、入るのはやはり大鳥居からということになります。
鳥居の奥には拝殿・本殿があり、これだけ見ると中に寺院があるとはとても思えない感じがします。
鳥居の前には「鐘楼」と池が飛び境内のようにしてあり、「梵鐘」は県内で有銘鐘楼中で最古の銅鐘として重要文化財に指定されています。
銘には1231年とあるので鎌倉期の梵鐘になりますが、何と鐘を撞かしてもらえるという。
重要文化財なのでなるべく優しく撞かせて頂くと、実に柔らかく響きの長い梵鐘でした。
おそらくクラック等のない良好な状態なのでしょうけど、800年近くの間よく保存されてきたものです。
鳥居から神社の境内に入ると、正面が本殿、右奥が観音堂という配置になっている。
まずは神様にご挨拶してからということで、先に神社の方へと向かいます。
手水で身を清めようとすると、豊富な水量の冷たい水が流れて出ており、尺で掬った水を手に掛けると冷たくてとても気持ちが良い。
水の中にはおもてなしのお茶が冷やされているが、この冷たさなら程よく冷えることでしょう。
少し驚くのが神社の本殿がかなり立派な造りだったこと。
井口日吉神社は1270年に創立されたといい、現在の本堂は1738年の再建だといいます。
円満寺の縁起と合わない部分があるが、鎌倉期以降に神宮寺になったということか。
さて、円満寺は井口日吉神社の奥にひっそりと祀られた御堂でした。
かつての大寺は今は観音堂を残すのみとなり、栄枯盛衰は世の習いとはいえ少し寂しいものがあります。
「十一面観音立像」は室町期以降の作のようではあるものの、出来栄えは素晴らしく表情は美しい。
歴史ある天台系寺院ですから平安期の仏像が残っていてもよさそうだが、織田信長と浅井長政の合戦で灰塵に帰したということなのでしょう。
十一面観音立像は至近距離で拝観出来るのですが、落ち着き払った表情のお顔からは澄み切った心が伝わります。
右に祀られた「阿弥陀如来立像」はふくよかなお顔に微かな笑みを浮かべておられ、厨子からも年月が感じられます。
また、「地蔵菩薩坐像」は凛々しくも穏やかな表情をされ、集落の子供達を見守っておられます。
境内には何の木から不明ですが、幾本もの根が張って生命感の強さを感じさせる木がありました。
巡回バスの車窓から見えた「野大神」の大木が気になるのですが、あれがどこだったががどうしても思い出せない。
湖北の観音様は戦乱の戦で失われたもの、廃仏毀釈で失われたものが多数あると言われています。
しかし、土中に埋める・水中に隠す・失われたことにするなど地域の方の決死の信仰により守られてきた仏像が今も残ります。
小さな観音堂を巡って地域の老人方の話を聞くと、連綿と続いてきた“おらが村の観音さん”への強い愛が伺われます。
『星と祭』復刊本と『星と祭』復刊プロジェクト公式ガイドブック
円満寺は、己高山五箇寺の「観音寺」の別院であったとされ、「惣山之七箇寺」の一つに数えられたといいますから、古い歴史を持つ寺院です。
平安・鎌倉期には末寺六坊を従えて栄えたものの、度重なる戦乱などにより次第に衰退していってしまい、現在は無住の寺院として井口区民によって護持されているといいます。
村は十組に分かれていて、毎月組毎に円満寺の法要を執り行っており、オコナイの神事の場でもあるといいます。
円満寺は日吉神社の神宮寺として境内の奥にあるため、入るのはやはり大鳥居からということになります。
鳥居の奥には拝殿・本殿があり、これだけ見ると中に寺院があるとはとても思えない感じがします。
鳥居の前には「鐘楼」と池が飛び境内のようにしてあり、「梵鐘」は県内で有銘鐘楼中で最古の銅鐘として重要文化財に指定されています。
銘には1231年とあるので鎌倉期の梵鐘になりますが、何と鐘を撞かしてもらえるという。
重要文化財なのでなるべく優しく撞かせて頂くと、実に柔らかく響きの長い梵鐘でした。
おそらくクラック等のない良好な状態なのでしょうけど、800年近くの間よく保存されてきたものです。
鳥居から神社の境内に入ると、正面が本殿、右奥が観音堂という配置になっている。
まずは神様にご挨拶してからということで、先に神社の方へと向かいます。
手水で身を清めようとすると、豊富な水量の冷たい水が流れて出ており、尺で掬った水を手に掛けると冷たくてとても気持ちが良い。
水の中にはおもてなしのお茶が冷やされているが、この冷たさなら程よく冷えることでしょう。
少し驚くのが神社の本殿がかなり立派な造りだったこと。
井口日吉神社は1270年に創立されたといい、現在の本堂は1738年の再建だといいます。
円満寺の縁起と合わない部分があるが、鎌倉期以降に神宮寺になったということか。
さて、円満寺は井口日吉神社の奥にひっそりと祀られた御堂でした。
かつての大寺は今は観音堂を残すのみとなり、栄枯盛衰は世の習いとはいえ少し寂しいものがあります。
「十一面観音立像」は室町期以降の作のようではあるものの、出来栄えは素晴らしく表情は美しい。
歴史ある天台系寺院ですから平安期の仏像が残っていてもよさそうだが、織田信長と浅井長政の合戦で灰塵に帰したということなのでしょう。
十一面観音立像は至近距離で拝観出来るのですが、落ち着き払った表情のお顔からは澄み切った心が伝わります。
右に祀られた「阿弥陀如来立像」はふくよかなお顔に微かな笑みを浮かべておられ、厨子からも年月が感じられます。
また、「地蔵菩薩坐像」は凛々しくも穏やかな表情をされ、集落の子供達を見守っておられます。
境内には何の木から不明ですが、幾本もの根が張って生命感の強さを感じさせる木がありました。
巡回バスの車窓から見えた「野大神」の大木が気になるのですが、あれがどこだったががどうしても思い出せない。
湖北の観音様は戦乱の戦で失われたもの、廃仏毀釈で失われたものが多数あると言われています。
しかし、土中に埋める・水中に隠す・失われたことにするなど地域の方の決死の信仰により守られてきた仏像が今も残ります。
小さな観音堂を巡って地域の老人方の話を聞くと、連綿と続いてきた“おらが村の観音さん”への強い愛が伺われます。
『星と祭』復刊本と『星と祭』復刊プロジェクト公式ガイドブック