僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

多羅尾滝の磨崖仏~滋賀県甲賀郡多羅尾~

2019-10-14 08:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 1582年、本能寺の変が勃発した時、徳川家康は僅かな供廻だけを連れての堺見物の最中であり、身の危険を感じた家康は決死の「伊賀越え」をして岡崎城に帰還したとされます。
供廻は徳川四天王を含む側近ばかりだったこともあって、もし光秀の配下の兵や一揆に襲われていたら、その後の日本の歴史は大きく変わったかもしれない数日間だったかもしれません。

家康一行の逃亡ルートは一説によると、河内国→宇治田原→甲賀を経て御斎峠を越え、伊賀・亀山・鈴鹿から舟で岡崎へたどり着いたといいます。
物語では伊賀者(忍者)が暗躍して伊賀越えを助けたとされ、伊賀へ至る前の甲賀の地では土豪・多羅尾氏が家康を助けたといいます。
甲賀には現在も“多羅尾”の地名が残り、伊賀への途上には「多羅尾滝の磨崖仏」が今でもその姿を拝ませてくれます。



とはいえ、甲賀から伊賀へと続くこの道を家康一行が実際に通ったかどうかは定かではなく、もっと険しい山中の獣道のような道なき道を行ったのかもしれないため、家康はこの磨崖仏を見ていないとも考えられます。
現在の道路は舗装された道となっていますが、かつての街道は寂しい山道だったと思われますので、道行く人が手を合わせて旅の安堵を祈ったことがあったのではないでしょうか。

この磨崖仏には1325年(鎌倉後期)の年号が彫られているといい、その他の石仏は室町時代後期にかけて、順次彫られていったとされています。
甲賀・栗東・湖南の地には巨石が多く、数多くの磨崖仏が彫られてきたのは元々山岳宗教が盛んな地であったことが影響しているのかもしれません。



磨崖仏は3面に渡って彫られており、中心に位置する岩面には「阿弥陀如来坐像」。
草が垂れてきているが、除去するわけにもいかず、苔と草に包まれた阿弥陀如来に手を合わせる。



右の岩面には「地蔵菩薩像」と「五輪塔」。
現在、岩の上は林となっていて入れる場所ではありませんが、かつてこの上には寺院か何かがあったということも考えられます。



地蔵菩薩石仏が幾つも彫られていますが、中心付近に彫られているのは阿弥陀如来と「不動明王立像」。
不動明王の前には草が垂れてはいるものの、その姿はくっきりと読み取れる。



岩の側面へ回ってみると、かなり風化した五輪塔と地蔵菩薩の姿があります。
風化の度合いが年代差によるものか、場所によって風雪の影響が違うのか分かりませんが、とにかくこの巨石全体に次々と磨崖仏を彫っていったことが分かります。



巨石の中央にはコンクリート製の祠があり、その右方向には梵字が刻まれた石が置かれています。
磨崖仏の前に花立があり、青々しい木が祀られていることから日々お世話をされている方がおられるようです。
木は榊ではなさそうで、オガタマノキ(招霊木)とかその類の樹木のように見えます。



少し違和感を感じたのは「愛宕山」と彫られた灯篭でした。
調べてみると「愛宕山」という山は甲賀市の甲賀町と信楽町にあり、詳細は不明ですが信楽の愛宕山と関係がありそうです。
信楽の市街地にある「紫香楽一宮 新宮神社」の摂社に「愛宕神社」があり、愛宕山山頂にも「愛宕神社」があるといいますから愛宕信仰のある地ともいえます。



磨崖仏の巨石から少し先にはもう一つの磨崖仏があり、こちらの方は劣化・風化の度合いが強いが、五輪塔と幾つかの地蔵菩薩の姿が見て取れる。
剥き出しになった巨石には磨崖仏を彫らねばいけないようにして、年月をかけて彫り続けられたのでしょう。



磨崖仏の案内板に“かつて滝の石仏群の前方には滝の行場があったと伝えられ...”とありますが、今は川が静かに流れるのみ。
信楽の川はどこも粘土色した川が多い。良質な粘土層が信楽焼きの魅力を支えてきたのでしょう。



磨崖仏には自然が生んだ巨石に対する信仰と、彫り込まれた磨崖仏からは自然と融けあうような高い精神性を感じます。
それは神道が形を持つ、仏教が伝来する、それ以前の時代から人が畏怖したり安堵したりする信仰の姿が形を変えながらも継承されてきたと思わざるを得ません。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする