超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

料理とテーブルマナー

2017-02-04 20:07:55 | 出来事
いつもこの時期になるようだが、実家の母も入れて家族4人で温泉に浸かりに行った。甘辛の部活が長期オフとなるので、4人揃って出かけられる時期なのである。今回向かったのは箱根強羅温泉だ。元は健康保険組合の特約保養所だったのだが、全面改装し高級ホテル顔負けの施設に生まれ変わり「アド街ック天国」でも紹介された。価格も高級に生まれ変わったのだが、年度の終わりに近くなると福利厚生ポイントが余るのでクーポンに変えてもらうと結構リーズナブルに泊まれるのだ。しかし昨年は箱根の火山活動が活発化してしまい、噴火警戒レベルのが上がってしまったので、営業停止に追い込まれてしまったのである。場所的は噴火の危険というよりは、エリア内の給湯施設の維持に立ち入りができなくなり、源泉からの供給が安定的にできなくなってしまったようなのである。1年近く休館していたのだが、昨年10月にめでたく営業再開できたようだ。ケーブルカーやロープウェイも動き出してようやく観光も復活してきたらしい。

以前の建物からそうだったが、山の中腹に無理やり建設したようなスタイルで、駐車場入口までの最後の道のりがかなり急傾斜の坂になっており、降雪があったりすると登れなくなるから、冬場の宿泊は箱根登山鉄道で行くことが多かった。今年はたまたま暖かかったので念のため朝に電話していた「あのーぅ、雪用タイヤや滑り止め持ってないんですけど、車で行けますか?」「今は道路に雪もありませんし、今日明日なら大丈夫だと思いますよ。お待ちしております」電車のお出掛けというのはこの機会しかほぼないので、ビールとつまみでのんびりとというパターンも悪くないのだが、東海道、小田急、箱根登山鉄道と乗り継ぐルートではイマイチ乗車時間が身近くてゆっくり飲んでもいられない。4人で旅行するときはあまりガツガツあちこち動き回らないのだが、箱根神社の御朱印はゲットしたかったので今回は赤いライオン号を出動させることにした。

さてこの施設、「値段も高級」になっただけあって、料理もかなり凝ったコースメニューとなっている。普段、あまり気取った「横メシ」(品書きに味の知らない横文字が並ぶ食事)など縁のない私は「へえーっ」と目を見張るほど綺麗な料理が並ぶ。パスタが出たからイタリアンなんだろうか、披露宴で見るようなメニューに色んな意味で感心してしまったが、知らない名称が多い。また腹を空かした息子甘辛がいきなりカゴにあったパンにかじりついたので、妻にたしなめられていた。甘辛もそろそろフォーマルっぽい場でのテーブルマナー的なことを覚えなければならないと妻は考えたようだった。「宮中晩餐会など出ることは決してないから、何となく覚えておけばいいんじゃないか?」妻は学校でフランス料理のテーブルマナーについて教えられたことがあるそうだが、これまで仕事上、海外で割とフォーマルディナーの出くわしてきた私でもちゃんとした作法は教わったことがない。

「ナイフ類は外側から使うんんだったよな。って、そもそも前に箸が置いてあるじゃん!」
最初の品「山の恵みキノコと栗とチキンのテリーヌ たっぷり冬野菜のピクルス添え」
まるでカンヴァスに絵を描いているようなお皿である。どう見ても「たっぷり」はないようなのだが、私は洋の東西を問わず「漬物」は食べられないから、箸で妻の皿に足した。(明らかにこれはマナー違反だろうが、残すのはもったいないからこれはアリ)。「この点々としたソースにがちゃがちゃと浸けて食うのかな。テリーヌって何だっけ?」肉をかまぼこのようにミンチにしたものにキノコや栗を混ぜて焼いたものらしい。外側が肉の脂のようなもので包んであるようにも見える。話題がテーブルマナーの話題になったから、最初のメニューを例に単なる習慣だけで済ませられない、前々から感じていた西洋料理の恐るべき不便さ・不合理さを語ろうと思う。

  

今時は全く見かけなくなったが、その昔「ライスをフォークの背に乗せて食べるのは正規の作法ではない」と実しやかに教えられた。確かにどの方面の海外でもそんなことをしている欧米人を見たことがないから、おかしいのだろう。しかしバターライスや細かく分散する食べ物が皿の上に乗っていることはいくらでもある。ナイフは基本「切る」ものでフォークは「刺す」ものだろう。しかしそれだけでは食いにくいことこの上ない料理が世界には山ほどある。現にこの「テリーヌ」だって中身のキノコやクリをうまく避けて切らないとバラバラになりやすい。切る時に動かないように押さえるフォークは背中を上にしている。しかし刺したものをそのまま口に運べない料理はフォークですくわなければならないから、腹を上向きにしなければならないが、手首の返しだけでやろうとするとかなり無理のある捻りになってしまう。かと言ってくるっと持ち替えるのはイマイチ面倒くさい。そもそも「フォークですくう」行為そのものに構造的に無理があると思うのである。(隙間から落ちてしまうから)

欧米人の食べている様を見ると、まとまりのよくないモノは手前にナイフ、外側にフォークの腹を自分に向得て皿に縦にして挟み込み、くるっとフォークの腹に乗せている食べ方が多いようだった。見ているうちに何となく自分にもその癖が沁み付いてしまったが、手首が柔らかくないと脇を締めるのが難しく全体的に何となく窮屈である。ちなみにフォークを右手に持ち替えてすくって食べてもよいようだが、箸でつまむことに比べると明らかに効率が悪い。そもそも料理を食うのに何種類もの食器を持ち替えなければならない意味がよく分からない。ちなみにパンは先にテーブルに用意されていても、スープを飲み終わるまで食べないのが「しきたり」のようなのだが、甘辛はスープが来る前にお代わりしていた。。。このあたりはOKなんだろうな。さしあたって注意すべきは「デートに張り込んで行き慣れない高級レストランに行く」ケースだろう。

2品目は「フォアグラのフランとカリフラワーの二重奏」
たかだかスープなのに「二重奏」とは言い放ったものだが、思わず「これ、美味え・・」とつぶやくほど、今まで食べたこともない濃厚で鮮烈なモノだった。ところで「フラン」とは何か?どうも具(ここではフォアグラ)を卵やクリームに混ぜた「プリン=プディング」のようなものらしい。カリフラワー(がスープになったのかな)の濃厚な味に加えカップの底にさらにコクのある、とろけるフォアグラが登場する。「なーるほど、それで二重奏ね」そういう技がそもそもあるのか知らないが、素晴らしい演出だった。確かスープはスプーンを手前から向こう側に動かしてすくい、少なくなったら皿を傾けていったような気がするが、カップに入っているので最後は紅茶みたいにそのまま飲んでもよいのだろうか?だとしたら最初からスプーンもいらないような気がするんだが。。。甘辛は最初からカップを持って飲んでいた。

  

3品目が「アサリのクリームパスタ 大葉の香り」
これは甘辛の好物だったからあっという間に食べてしまった。漬物のように食べられないわけではないが、大葉というのはあまり好きではない。シソもそうなのだが、その料理の味が「全部、大葉一色」になってしまうような気がするからである。「パスタ食うのにスプーンを使うのは日本人だけ」とよく言われるているようだが、確かにスープを台にしてその上でくるくる巻きつけて食うのは海外では見たことがない。でもアメリカなどでは、切れ端ができてしまった時にスプーンで集めて食うのを見たことはある。たぶん「すすらない=音をたてない」あたりがマナーだと思われる。先のフォーク論に続くが、「するする落ちないように、そして口に入る量をうまく巻き取る」のは利き腕でなければ決してできないかなり熟練を要する動作であると思う。パスタ用の滑らないフォーク(あったら便利だな)が用意されていればいいが、そうでなければ左側から移して持ってこなければならない。

  

魚料理が「真鯛とズワイ蟹の白ワイン蒸し じっくり煮込んだブイヤベースのソース」ブイヤベースと言えば魚介のごった煮鍋なんだが、ソースにもなるのか。
肉料理は「箱根山麓ポークのグリルと玉葱のクーリー 完熟リンゴのカラメリゼを添えて」
うーむ。。。見ても読んでもさっぱり分からぬ。クーリーと検索したら多数の「苦力」が出てしまった。どうも料理用語としてはペーストのようなものらしいが、玉葱はそのままの形で出ているようだし(と思ったがニンニクらしい)・・・さらに謎の物質「カラメリゼ」とは?どうやらカラメルの由来するお菓子用語のようだ。肉の食べ方でよく言われるのは左側から食べる分たけ切ってフォークで口に入れるのと、最初から等分に切ってしまいフォークだけで食べる方式で、フレンチの正式は前者でなければいけないようだが、アメリカ人は大抵最初に全部切ってしまう。

      

難癖ばかり付けてしまったようだが、料理はどれも素晴らしいものだった。結局甘辛は祖母のものも含めて5つ6つライ麦パンを平らげた。どれも料理人が我々の目を楽しませ、舌鼓をうたせようと趣向を凝らしているのがよく分かる。あまり言えた義理ではないのだが、テーブルマナーとは共に食べる人と作ってくれる人への「敬意」であろうと思う。肉は先に全部切ってしまうと断面が食う気に触れ、覚めたり風味が逃げたりしやすい。美味し状態で食べるのはそう望んでいるであろう料理人へのリスペクトである。だから「端から切りながら食え」という方が筋が通る。以前、草野球チームの後輩の披露宴に呼ばれた時に出た食事のメインはローストビーフだったが、冷めているというよりは「冷たかった」。何十人分も作るものだしローストビーフは熱々ではないだろうし、味そのものは中々なものだったが、私は「これだけは作りたてだよね」と思われるソースをつけて、ナイフで割ったロールパンに挟んで頂いた。

私はもう一つ、「料理人と食べる人がお互いに期待する敬意は同等であるべきだ」と考えている。司馬遼太郎の「国盗物語」に私のお気に入りのエピソードがある。
「京都を制していた三好党を駆逐し制圧した信長は、三好家に仕えていた天下第一と言われた料理人を召すかどうかで、料理を作らせた。美味ければ採用するつもりだったが、出された料理を悉く平らげた上で「あんな料理が食えるか。料理人にして料理悪しきもの生かす必要なし」と殺そうとする。その料理人はもう一度作らせてほしい。それで気に入らなければ殺されても仕方がない、と再挑戦を請うて許される。見た目同じように飾られた次の料理を再び悉く平らげた信長は「滅法美味かった」と感心し採用を決める。別の者が「なぜ最初から美味しいと言われた方を作らなかったのか?」尋ねると、実は最初の料理が京都の公家文化の贅を尽した力作だった。だから薄味だった。素材の味を活かし、微妙な変化を楽しむのが京料理の風雅だった。しかし次に出した料理は煮物などは変色するほど濃い味付けとし、とにかく甘かったり辛かったりドぎつい味付けを並べた。かの料理人曰く「田舎者仕立てにしたのよ」ここからが私の好きなエピソードの核心である。

その話が巡り廻って信長の耳に入った時に、「オレの料理人ならオレを喜ばせ、オレの血肉となる料理を作るのは当たり前だ」と彼は別に怒りもせずに言ったという。実は京都に上った時から京料理など何度も口にし、(彼にとって)そのばかばかしいほどの薄味を憎悪していたのである。1度目の料理には「コイツもそうか!」と思ったが、2度目に自分好みの料理を作ってきたのを見て「これは使える」と感じたのだ。最初の料理には食べる人に対してのリスペクトを感じなかったので「殺せ」と命じ、次の料理にそれがあったので暴言も許し「使える」と感じたのではなかろうか?ま、あまり堅苦しく考えることはないだろうが、テーブルマナーとは「敬意」であると考るならば、今回は結構な水準を求められたような気がするのである。ただ日本には「おもてなし」の精神が強く現れるから、パンにかぶりついたくらいで、顔をしかめられたりはしないのだろう。


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