超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

禁断の宗教論議

2017-03-01 22:13:42 | 出来事
もう20年以上前になるが入社して数年、若手中堅どころとか言われていた時期に1ヶ月ほど研修でヨーロッパを訪れる機会があった。同業界がグローバル的に見ても競争、再編が今ほど進んでおらず、また革命的に市中技術が浸透していなかった時(だと自分では思っている)なので、同業他社間も若手の見学・研修、意見交換などを通じて研鑽を積ませようとした大らかなところがあった。この交換研修会とも呼べるイベントに参加していたのは、我が方と英仏蘭独伊及びスウェーデンで、各国の同業種企業がそれぞれの国に数人ずつ代表を送りあうものだ。つまりどのホスト企業も自分以外の6ヶ国の訪問を受けるわけである。最初はそれぞれ自国の市場動向や自企業の事業運営などを紹介しあい、より専門的なディスカッションへ進んで行く。ただこのプログラムの大らかなのは「国の文化に触れる」という暗黙の了解事項があって、本業以外に多数の見学ツアーなどが用意されている。

入社して数年、学生時代に留学していたり、この手のイベントに慣れている者ならよいが、ようやく1人で仕事をこなせるようになったレベルの我々に「若手同士とは言え、会社を代表してディスカッションしたり、その国の歴史・文化を学んだりする」のは初めての体験でかなりの試練だった。このプログラムに参加する同年代たちが集まり、色々と事前のオリエンテーションを受けたり、ビジネス英会話訓練などもさせられた。数十人に上るメンバーの自己紹介と派遣先国を聞いた限りでは(かなり偏見が入るが)、英仏派遣組は抜群の英語力と海外経験、オランダ、スウェーデン方面組は英語は得意で仕事がマニアック、そして独伊派遣団は「英語も仕事もイマイチだけど好奇心が強く物怖じしない」タイプに見えた。むろん私が派遣されたのはドイツである。この話だけでも会社員時代を象徴する多彩な経験が多く、10話くらいは書けるのだが古い話だからまた別の機会にしよう。

さて事前のオリエンテーションで(まるで学生だな)欧米でのビジネスマナーや覚えておくとよい語句、現地の一般的な生活習慣などがレクチャーされた。その中で「この方面の話題には触れない方がいいよ」と言われたのが「政治と宗教」である。大学で専攻でもしない限り、せいぜい30歳そこそこの若造にはかの国の歴史に直結する政治機構や宗教感などを語れるわけもなく「泥沼議論になる」のがオチだと言うのである。我々も忠実にその警告を守って研修を続けていた。ただほとんどドイツ中を移動するプログラムで交通はもっぱらサロンバスだったから、とにかくやたらに会話をする機会が多い。フランス派遣チームはギャル3人組だったが、キャピキャピと賑やかで我々の歴史をよく聞きたがった。考えてみればEUはまだ無かったが、日本以外は欧州つながりで何かにつけて交流しているから、そう珍しくもなく「他県の人と仲良くする」くらいしか感覚が無かったのかもしれない。その点、唯一アジアから参加している我々は興味の的だったようだ。

その3人ギャルに仏語なまりで「シュグーン」と「イド」について教えてくれと盛んにせっつかれた。「???」何のことかさっぱり分からなかったのだが、「将軍」と「江戸」のことだったのである。「エンペラーとの違いは?」という更問いにはまた凍りついたが、将軍は「キング オブ サムライ」、天皇は「エンペラー アズ スピリチュアル シンボル」とかわした。しかして言わずもがな「サムライ」についても説明を求められ、「ハラキリ」へと発展し、ついに禁断の「サムライにクリスチャンはいないのか?」という質問をさせてしまった。さー、困ったぞ・・・「サムライは基本ブディストである」と結ぶつもりだったが、元々その辺りの歴史が好きなこともあり、とうとう「1500年年代半ばに鉄砲と一緒にキリスト教が伝わったが、その後禁止された。」という、踏んではならない地雷を踏んでしまった。ただ心配された宗教や信仰の論争などにはならず、彼女たちは好奇心に満ちた目で我々のたどたどしい説明を聞いてくれたのが救いだった。

そんな20年前のことを思い出しながら鑑賞したのが「沈黙-サイレンス-」である。年明けで私がリクエストしたのは「恋妻家宮本」だったのだが、妻のリクエストがこの映画だったのである。「(なんでこんな重たそうな映画を?」と思ったが、○ッセー尾形さんの演技の前評判がよく、これを見たかったそうだ。ネタばれになるから内容を語れないが、江戸時代のキリシタン弾圧を描いたものなのは皆が知るところだ。サブタイトルにもあったが、「これほどまでに信仰を厚くし、苦しむ弱き我々になぜ主は沈黙なさるのか」という宗教と信仰による究極の試練のような内容だが、難しい宗教論や知識はあまり必要なさそうだ。(ホントは違うかもしれないけれど)今の日本人には信仰に殉じるということは理解しにくいかもしれないが、当時歴史的に虐げられてきた層の人を思えば想像することはできる。

支配層から暴虐、簒奪の限りを尽くされ貧困にあえぎ、毎日が苦しみの連続で生きていても良いことは一つもない人々がすがりついたのが天主教であり、「死んで救われる」という発想の元に殉教に走る、というのは歴史的には案内されていると思う。しかしキリスト教のアジア布教活動そのものが他信教排除・支配征服を意図したものというのは、キリスト教の歴史がローマ時代から結構血塗られたものだったことからも想像できる。日本のお祭り騒ぎはもちろん、敬虔なクリスチャンがクリスマスのお祝いをするようなスタイルとも違うような、もっとドロドロした印象を受ける。そんな中であのように純粋な信仰心と殉教心をもったパードレが本当にいたものか?それと「踏み絵」という行為がなぜあれほどまでに、シンボリックな棄教の印とされたのか?信教にやたらにクールな私たちには理解し難いとは思った。

そんな話をネタバレしないようにかいつまみながら、「安全講話」と称するスピーチで以下のような話をしたのである。(ちょっと強引なこじつけだった)「(だらだらと前置きあり)・・・・日常における信仰やその歴史などというのは、我々にはとっつき難いことかもしれません。しかし、こと安全に関しては少しだけ身近なところはありますね。我々は正月の仕事始めには必ず『安全祈願』に行きます。これって完全に非科学的な神頼みですよね。でも安全への取組みってそういう要素が強いと思うんです。むろん具体的な装備やシステム、ルールなどもあるでしょう。しかし人間がやる以上は『気持ち』の影響が強く出ます。神に祈る時、日本人は一番敬虔な気持ちになるのだと思います。そういう時はあまりルール違反やサボりのように『罰が当たる』ようなことはしないものです。以前の職場で30日コミットメントを薦めた時に『毎日通勤ルートにある御地蔵様を拝む』と言った人がいました。習慣化するというよりも、その都度敬虔な気分になるのが素晴らしいと思いました。

私の知っている知識人に『原発は神社をつくって祀るべきものだった』という学者がいました。原子炉はひとたび暴走すると人間の力では制御できない『荒ぶる神の力』です。これに跪いて「お静まりなる」のを祈るのは信仰の領域でしょうが、そういう危険な存在にはそのくらい敬虔な気持ちで臨まなければならない、というのは大事なことだというのです。現実、欧米では原発施設の敷地内配置は古代の神殿のそれに何となく似ているそうです。最初『最新のテクノロジーに神様なんて・・・』と違和感を感じましたが、なるほどなと思いました。我が社の職場にも減ったかもしれないですけど神棚ってまだありますね。毎日の朝礼で拝むってのもどうかとは思いますが、自然に習慣化したら例えば『誰も見ていなくてもルールを逸脱すると神が見ていて罰が当たる』ような気になりませんか?・・・・(この後に実例などが続く)」

「沈黙-サイレンス-」の時代の神は「人を救う」ことを期待された存在だったが、この場合は、「人に鉄槌を下す」畏れる存在としているところがミソである。ちなみにとある記事で読んだのだが、祝と呪は形も似ているが語源も類似しているらしい。前者は頭の大きい一家の長が神の前に跪く姿、後者は同じく「兄」が祝詞を口にする姿という説があるそうだ。どちらも神事であり、祝はいい意味、呪は悪い意味に使い方が変化して行ったが「言葉(霊)」で人を縛るという意味では同じものらしい。つまり「悪いこと」を口にすると、人はその方向に呪縛されてしまうというのである。映画のシーンでも一部登場するが、日本人の信仰対象は仏とか神などの他に太陽や山、木など自然のものが多いようだ。しかし何か目に見える対象物を拝むというよりは、「言霊」を力を信じるというスタイルが日本人らしいような気がする。今まで自身のためのご利益を祈らず、「悪いことが起きないように」祈っていたが、その意味では「息災に過ごす」に加えて「いい結果となる」ように口に出して祈ることも「あり」のような気がしてきたのである。

ちょっと重たい話題だったので、松田山の河津桜と富士などを載せておこう。そう言えば富士山信仰というのもあるにはある。

      

        



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