2月5日はニコニコということで「笑顔の日」ということだ。奇しくも私は年に数回設ける「母とのプチ旅行」の日だった。距離や所要時間、移動方法、費用などから伊豆方面が多いが、ポイントは「自分が訪れたことがない地」ということである。この辺りに多分に私の都合が入りこんでいる。今回は西伊豆の「金山」で有名な温泉地が目的地だった。スーパー銭湯に行く時間くらいに迎えに実家に迎えに行く際、私は一つのことを忘れないように気を付けていた。小学校の卒業アルバムを回収してくることである。今まで気にも留めていなかったのだが、ひょんなことから卒業して○十年、キリのいい年に、とあることに動きだそうかなと考えていたからだ。きっかけは友人がはるか昔の担任の先生宅にお邪魔したという記事を見たことだった。小学校時代だから数十年前、しかもクラスが違うからむろん、かの先生は私のことなど記憶しているわけもない。怖いおばさん先生だったが、通学路にお宅があって今もそこで健全ということもあり何か親近感を持っていた。
もう完全に忘れていたのだが、6年生の時に卒業記念製作品ということで、一人ずつ木片に顔の彫刻を彫って低いトーテムのような塔を形作った。校庭の一角にクラス毎にあったのだが、数十年の歳月に劣化も進み、子供がいるところで倒壊する危険があるということで解体が決まったのが数年前、当時の担任の先生と卒業生有志が集まって解体作業を手伝ったらしいのである。ただ残念ながら昨今個人情報のセキュリティポリシーも厳しい中、もう数十年も経つ卒業生の連絡を取るだけでも困難を極め、平日ということもあって参加できたのはわずか数人だったということだった。かくいう私も久闊を叙するのが楽しみな人がいたのだが、珍しく仕事の都合がつかず参加できなかった。卒業生よりも当時の担任の先生の方が気を使って集まってくれ、しかも解体した児童の作品は丁寧に担任ごとに保管いてくれていると聞いて密かに心を痛めていた。
ぶっちゃけ忘れていたことに興味は無かったのだが、「処分するのは簡単なのに、それを いつか卒業生に渡したいと思って 大切に保管して下さっている先生の気持ちを考えると、行動に移すのが遅いくらい・・・」という知人の言葉に雷撃を食らったように心を打たれ、「柄でもないが、何かやらなきゃいかんわな」とずーっと気になっていた。「我が組も何かしたいんだけど、どーしたもんじゃろねえ」みたいに便りしたら、間髪なく「協力するから、がんばって!」みたいな励ましとともに我らが担任のゴリ橋先生(仮称)の連絡先を伝えてきてくれた。「(だからさー、オレはキミみたいな行動力ないんだよ・・・・)」と苦笑しながら「義を見てせざるは勇なきなり」とぐずぐず迷っていた。そしてふと思いつき、箱根峠に向かう赤いライオン号で母親にそんな話をしてみたのである。小学生くらいなら意外と親つながりもあると思ったのだが、老人特有の「最近のことは忘れてばかりだが、昔のことは鮮明に覚えている」現象が現れ、名前しか覚えていない当時のクラスの女子のお母さんと連絡がとれるという。
ホテルに入ってひとっ風呂浴び、夕食時間までゆっくりビールを飲みながら小学校の卒業アルバムを見ていた。母の記憶も驚くべきもので、「あの黒い顔した先生、いい先生だったよねえ」などと言いつつも、他のクラスの(主に女子が多かったが)人も色々と「親つながり」があることを吐露した。部屋から眼下に広がる駿河湾を眺めながら、「今日はニコニコの日だったよな。これも何かの御縁か・・・」40年ぶりに担任の先生に電話など、気弱な私には考えられないような所業だが、何かが私を後押ししてくれ、母の目の前で教えてもらった電話番号をダイヤルしたのである。呼び出し音が長く続く間、好きな女子の家に電話をかけるようなドキドキ恐怖感みたいなものが走ったが、やがて開き直り、「出なきゃ、それまでの縁ということだよな」と待っていたら、やがて女性が応答してくれた。「な、な、なんと、つながっちゃったた・・・!」
「ゴリ橋さんのお宅でいらっしゃいますか?あ、あのーぅ、私怪しいものじゃないんですけど(っていきなり怪しさMAXか?!)、○十年前に●スカ小学校6年□組でゴリ橋先生にお世話になった磯辺太郎という・・・」「あー、今本人と代わりますね」「もしもーし、おーっ、磯辺クンか、久しぶりだねえ」「先生、お声は変わりないですねー。お元気ですか。もう○十年になるんですよ」卒業制作品が数年前取り壊されたこと、それを先生に預かってもらっていると聞いたこと、これを引き取るとともによろしければ何人かでご挨拶とお礼に伺いたいことなど、不思議に淀みなく口にできた。「あー、あれは今、信州の実家にあってね。もう無人だからどうなってるか見に行ってくるよ。それまで待ってくれないかな。もうクラスメイトには声をかけたのかい?」「今、卒業アルバム持って電話してるんですけど、これから心当たりに連絡するつもりです」「オレももう年だからさー。雪道の運転はキツいんで暖かくなってからにしてくれると助かるよ」「ちなみに先生、失礼ですけどおいくつになられたんですか?」「いくつだと思う?」私は真っ黒な顔した山男だった先生を思い出して瞬間的に「●0歳くらい?」と聞くと「●2だよ。」自分の電話番号を伝えて、モノの状態が分かったら連絡する約束をしてくれた。
小学生の時は無邪気に「女子はオレ達よりも勉強ができる」と信じていた。ノートの字もきれいだし、宿題も忘れずにちゃんとやってくる。高学年になると塾に行ったり家庭教師がいる子や「私立中学」(なんて当時は別宇宙のようなもの)を受験する女子もいた。5年生とときの担任はやたらに勉学のことばかり厳しく煽って閉口したが、山男のゴリ橋先生はあまり勉強勉強とうるさく言わないので好きだった。逆に体育でやる運動系は何でもできた私は特に得意の球技などで、はしゃいでいると「ひとりで何でもやろうとするな!」とよく窘められた。○十年ぶりに電話でお話ししながら、断片的だが鮮明に思い出したこともあった。体育館がまだ無かった我々の小学校では青空卒業式の予定だったのだが、雨が降ってしまい、各々の教室で校長先生のお話を放送で聞き、スピーカーから流れる伴奏で「蛍の光」を歌ったのだった。卒業証書は担任の先生から受け取ったのだが、ゴリ橋先生は▽里クンのところで感極まって涙を流したのだった。
アルバムを見ながらそんなことを思い出していたら、不思議な達成感が沸いてきて、この話を連絡の取れる元クラスメイトなど(と言っても数少ないが)にメッセージやメールで送ってみたのである。他の組のように行動力溢れるしっかりした幹事役がクラス会まで企画しているのには遠く及ばないが、とりあえず気にしてくれているのに「いつまでも放置」状態は脱せそうだ。木彫り製作品は全部で40個あまり、保管状態もよくなく、持ち主も分からぬただのガラクタかもしれないから、誰も興味を示さなければ「まずは自分ひとりで引き取ってくるかな」と考えていたが、何人かは少なくとも「先生に会いたい」とは返してくれた。写真ではよく分からないが、遺跡のようにも見えるから、我が家のウッドデッキ部にでも貼り付け、観賞用に作り変えてしまってもよいかな。また今は違法かもしれないが、浜辺で盛大にキャンプファイヤーという手もある。
先生は何と我が家と同じ市内に在住だという。もし木彫りに持ち主が誰か分かる印があるとすれば、記念のモノだからやはりできるだけ持ち主に返ることを望むだろう。我が家に飾っておいて、気長に持ち主と連絡を試み続けるというのも構わないが、昨今はお互いに知人であって共通の知人に対してさえ本人の同意なしで連絡先など個人情報を押せるのはNGだから、こちらの意図を伝えるだけでも難航を極めそうだ。先生の連絡先はよく見ると卒業アルバムに載っている住所録と同じだったから、持ち主に対して教えるのはセーフ。私は連絡した数人には「連絡してあげると喜ぶよ」とこれを伝えておいた。色々な方面でこの話題が飛び交い、網が広がっていくことを期待したのである。クラスメイトに当時一番の人気者で、某結婚式場に勤務するヤツがいて、メールを送ったら「ぜひ協力したい」と返してくれた。私達の披露宴にも悪友に混ぜて出席していたが、寄せ書きのメッセージには「この裏切者!」と書いてあった。可能性は限りなく低いが、結構大きな規模で人数を集めて先生を囲めるならば、ここを会場にし木彫り配付ができたらいいなと思った。
もう完全に忘れていたのだが、6年生の時に卒業記念製作品ということで、一人ずつ木片に顔の彫刻を彫って低いトーテムのような塔を形作った。校庭の一角にクラス毎にあったのだが、数十年の歳月に劣化も進み、子供がいるところで倒壊する危険があるということで解体が決まったのが数年前、当時の担任の先生と卒業生有志が集まって解体作業を手伝ったらしいのである。ただ残念ながら昨今個人情報のセキュリティポリシーも厳しい中、もう数十年も経つ卒業生の連絡を取るだけでも困難を極め、平日ということもあって参加できたのはわずか数人だったということだった。かくいう私も久闊を叙するのが楽しみな人がいたのだが、珍しく仕事の都合がつかず参加できなかった。卒業生よりも当時の担任の先生の方が気を使って集まってくれ、しかも解体した児童の作品は丁寧に担任ごとに保管いてくれていると聞いて密かに心を痛めていた。
ぶっちゃけ忘れていたことに興味は無かったのだが、「処分するのは簡単なのに、それを いつか卒業生に渡したいと思って 大切に保管して下さっている先生の気持ちを考えると、行動に移すのが遅いくらい・・・」という知人の言葉に雷撃を食らったように心を打たれ、「柄でもないが、何かやらなきゃいかんわな」とずーっと気になっていた。「我が組も何かしたいんだけど、どーしたもんじゃろねえ」みたいに便りしたら、間髪なく「協力するから、がんばって!」みたいな励ましとともに我らが担任のゴリ橋先生(仮称)の連絡先を伝えてきてくれた。「(だからさー、オレはキミみたいな行動力ないんだよ・・・・)」と苦笑しながら「義を見てせざるは勇なきなり」とぐずぐず迷っていた。そしてふと思いつき、箱根峠に向かう赤いライオン号で母親にそんな話をしてみたのである。小学生くらいなら意外と親つながりもあると思ったのだが、老人特有の「最近のことは忘れてばかりだが、昔のことは鮮明に覚えている」現象が現れ、名前しか覚えていない当時のクラスの女子のお母さんと連絡がとれるという。
ホテルに入ってひとっ風呂浴び、夕食時間までゆっくりビールを飲みながら小学校の卒業アルバムを見ていた。母の記憶も驚くべきもので、「あの黒い顔した先生、いい先生だったよねえ」などと言いつつも、他のクラスの(主に女子が多かったが)人も色々と「親つながり」があることを吐露した。部屋から眼下に広がる駿河湾を眺めながら、「今日はニコニコの日だったよな。これも何かの御縁か・・・」40年ぶりに担任の先生に電話など、気弱な私には考えられないような所業だが、何かが私を後押ししてくれ、母の目の前で教えてもらった電話番号をダイヤルしたのである。呼び出し音が長く続く間、好きな女子の家に電話をかけるようなドキドキ恐怖感みたいなものが走ったが、やがて開き直り、「出なきゃ、それまでの縁ということだよな」と待っていたら、やがて女性が応答してくれた。「な、な、なんと、つながっちゃったた・・・!」
「ゴリ橋さんのお宅でいらっしゃいますか?あ、あのーぅ、私怪しいものじゃないんですけど(っていきなり怪しさMAXか?!)、○十年前に●スカ小学校6年□組でゴリ橋先生にお世話になった磯辺太郎という・・・」「あー、今本人と代わりますね」「もしもーし、おーっ、磯辺クンか、久しぶりだねえ」「先生、お声は変わりないですねー。お元気ですか。もう○十年になるんですよ」卒業制作品が数年前取り壊されたこと、それを先生に預かってもらっていると聞いたこと、これを引き取るとともによろしければ何人かでご挨拶とお礼に伺いたいことなど、不思議に淀みなく口にできた。「あー、あれは今、信州の実家にあってね。もう無人だからどうなってるか見に行ってくるよ。それまで待ってくれないかな。もうクラスメイトには声をかけたのかい?」「今、卒業アルバム持って電話してるんですけど、これから心当たりに連絡するつもりです」「オレももう年だからさー。雪道の運転はキツいんで暖かくなってからにしてくれると助かるよ」「ちなみに先生、失礼ですけどおいくつになられたんですか?」「いくつだと思う?」私は真っ黒な顔した山男だった先生を思い出して瞬間的に「●0歳くらい?」と聞くと「●2だよ。」自分の電話番号を伝えて、モノの状態が分かったら連絡する約束をしてくれた。
小学生の時は無邪気に「女子はオレ達よりも勉強ができる」と信じていた。ノートの字もきれいだし、宿題も忘れずにちゃんとやってくる。高学年になると塾に行ったり家庭教師がいる子や「私立中学」(なんて当時は別宇宙のようなもの)を受験する女子もいた。5年生とときの担任はやたらに勉学のことばかり厳しく煽って閉口したが、山男のゴリ橋先生はあまり勉強勉強とうるさく言わないので好きだった。逆に体育でやる運動系は何でもできた私は特に得意の球技などで、はしゃいでいると「ひとりで何でもやろうとするな!」とよく窘められた。○十年ぶりに電話でお話ししながら、断片的だが鮮明に思い出したこともあった。体育館がまだ無かった我々の小学校では青空卒業式の予定だったのだが、雨が降ってしまい、各々の教室で校長先生のお話を放送で聞き、スピーカーから流れる伴奏で「蛍の光」を歌ったのだった。卒業証書は担任の先生から受け取ったのだが、ゴリ橋先生は▽里クンのところで感極まって涙を流したのだった。
アルバムを見ながらそんなことを思い出していたら、不思議な達成感が沸いてきて、この話を連絡の取れる元クラスメイトなど(と言っても数少ないが)にメッセージやメールで送ってみたのである。他の組のように行動力溢れるしっかりした幹事役がクラス会まで企画しているのには遠く及ばないが、とりあえず気にしてくれているのに「いつまでも放置」状態は脱せそうだ。木彫り製作品は全部で40個あまり、保管状態もよくなく、持ち主も分からぬただのガラクタかもしれないから、誰も興味を示さなければ「まずは自分ひとりで引き取ってくるかな」と考えていたが、何人かは少なくとも「先生に会いたい」とは返してくれた。写真ではよく分からないが、遺跡のようにも見えるから、我が家のウッドデッキ部にでも貼り付け、観賞用に作り変えてしまってもよいかな。また今は違法かもしれないが、浜辺で盛大にキャンプファイヤーという手もある。
先生は何と我が家と同じ市内に在住だという。もし木彫りに持ち主が誰か分かる印があるとすれば、記念のモノだからやはりできるだけ持ち主に返ることを望むだろう。我が家に飾っておいて、気長に持ち主と連絡を試み続けるというのも構わないが、昨今はお互いに知人であって共通の知人に対してさえ本人の同意なしで連絡先など個人情報を押せるのはNGだから、こちらの意図を伝えるだけでも難航を極めそうだ。先生の連絡先はよく見ると卒業アルバムに載っている住所録と同じだったから、持ち主に対して教えるのはセーフ。私は連絡した数人には「連絡してあげると喜ぶよ」とこれを伝えておいた。色々な方面でこの話題が飛び交い、網が広がっていくことを期待したのである。クラスメイトに当時一番の人気者で、某結婚式場に勤務するヤツがいて、メールを送ったら「ぜひ協力したい」と返してくれた。私達の披露宴にも悪友に混ぜて出席していたが、寄せ書きのメッセージには「この裏切者!」と書いてあった。可能性は限りなく低いが、結構大きな規模で人数を集めて先生を囲めるならば、ここを会場にし木彫り配付ができたらいいなと思った。
うろ覚えだったのですが、正しくは「笑顔の日」ということらしいです。電話の先の顔は分からないけれど、きっかけにはなりました。小学校ってやはり卒業時に色々と思い出に残して行くものですねー。月美さんの学校にもそういうのがあるんですか。どんなものだろな。ボクはどの時でもいいから、自分と同じ学校に子供が通うのって夢だったんです。住むところの都合もあり、結局、実現しませんでしたが、お子さんたちのつながりで母校の記念作品に会えるなんてホント、羨ましいです。
なるほど、そういうモノなら手元に届いたら嬉しいでしょうねえ。さらに懐かしの担任の先生の手渡しか・・・もうちょっと進めてみるかな。
へーえ、幼稚園でねえ。卒業生を持つというのは教員しかできない特権ですよねえ。親までセットというのがよく分かります。ボクも息子の幼稚園の時の先生、よく覚えてますから・・・月美さんは優しい先生だったんでしょうねえ。卒園してからあんまり再会する機会はないかもしれませんが、もしその後が分かったら楽しみですね。
いやー、月美さん、実はホントに勇気がいたんです。先生への電話を終えた時、なぜ妙な達成感を覚えたのか何となく分かりました。月美さんのコメントがボクに感銘を与えた「処分するのは簡単なのに・・・」と言った知人に通じるものを感じました。
それはそれは本当に頑張ったのですね。なんだか こんな事を言って失礼かと思いますが、「本当によく勇気を出して頑張ったね、とっても偉かったね」と、出来るものなら 頭をいいこ いいこしてあげたくなってしまいました。(幼稚園の先生モード)
へ?重要なポジションかどうかはともかく、ただ座っているか、出かけていることが多いです。大勢の前でしゃべるのはさすがに慣れました。
ただ何となく相手の顔が見えない電話って苦手なんですよ。デスクでもほとんど自分で出ることはありませんが、取り次がれても「いないふり」することが多く・・・今回は頑張りました(お酒の力も借りて)。
ほーんと、先生にいいいこいいこされたいです。
卒園の時、先生が「困ったことがあったらいつでも来てね。先生待ってるからね」と涙ながらに語った時、「それって有料か?」とぶちかました息子甘辛にも「ううん、無料無料」と彼女はいいこいいこしてくれました。
先生の目はまんまる、親はのけ反って大笑い・・・でも園児も初めての「お別れ」というのが分かったんでしょうね。何人もが先生のスモッグをつかんで離さずにいたのが目に浮かびます。
幼稚園期の甘辛君はそういうずっこけ話多いんですよ。ここでも書いたことあったかな。この前、JALの機内ミュージックで「さよならぼくたちのようちえん」が流れたときは思わずうるうる来ました!月美先生知ってます?
私が幼稚園に勤めていた頃の卒園式の歌といえば もっぱら「いーつのことーだかー 思い出してごーらんー♪」の「思い出のアルバム」をうちの幼稚園バージョンの替え歌でした。今や その卒園生も37歳〜32歳になっているはずです。歳を感じますねぇ。
芦田愛菜ちゃんのドラマ?「マルモのおきて」ですか。この歌は息子が卒園の時に歌われたんですよ。
「いーつのことーだかー・・・」ありましたね。あんなこと、こんなこと~だったかな。
ははは、幼稚園の先生って、苗字ではなく名前で呼んでましたよねえ。○子先生とかね。
ところで月美さんのネームにちなむようですが、今夜はいい月が出ているようですねえ。
単発ものでしたか。ドラマの中であの歌がかかったら泣けてくるかも。月美さんは息子さんがご成人と聞きましたよね。ほぼ甘辛と同年代です。
「いつのことだか・・・」は「思い出のアルバム」っていうタイトルなんですね。
満月はさきほど富士山の真上を通って沈みました。