超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

駅を語る集い

2015-06-27 10:14:24 | 昭和
「駅周辺にあった店」編投稿時点では「予定」に過ぎなかった「茅ヶ崎駅を語る会」が意外にもあっさり実現した。すべて同級生であり、通勤・通学などかの駅を長きに渡り利用してきた面々である。近年は「故郷への回帰現象」とも思えるような、同期会、同窓会が結構あり、数十年ぶりということはないし、とあるSNSサイトにマメに近況報告している者もいるから、何となく超久々に会ったという気はしない。この手の目論見を思いつき、言い出すのは私であることが多いのだが、実行力のない私は人選や声掛けは最初にこの話をした女子に任せていた。「忘れないうちに集まってしまおう」ということで、すぐに来れそうな少人数に限定したようだが「女子ばっかりになってもいい?」と連絡してきた。昔の合コンじゃあるまいし正直、この年齢になるとメンバの男女比率など気にならないのだが、本来語るべき「駅」路線から外れ、私の知らない「女子の世界」を築かれるとポツンと浮いてしまうので、やはり悪友に一人声をかけることにした。ここ数年会っていないが、昔の私に関してはほぼ全てを知るある意味「危険な存在」でもある人物である。

駅のコンコースで待ち合わせをして手を振る彼を見て、少し髪の毛に白いモノが混じったが変わっていない姿に安心した。学生の頃にはお父上様にも大変世話になったのだが、数年前にお亡くなりになった。年齢的なものもあり家族のみで「お別れ」したそうで、風の便りに聞いてはいたが、「一度伺わなきゃねえ」と思いながら足を運びあぐねていた。「久しぶりに会ったのにこんな場所で申し訳ないんだけど・・・」と「御仏前」として手渡しするとひどく恐縮していながら受け取ってくれ、長い間の胸のつかえがとれた気がした。私はサッカー部、彼は野球部だったが、部活が休みの時は飽かずに駅周辺を歩き回った「ダイクマ」仲間であり、ラーメンにかけては「北京亭」仲間であった。彼とは「茅ヶ崎駅の話」以外にも積もる話が山ほどあったのだが、とりあえずその日は「駅を語る会」なので、これに徹しようということで彼にとってはたぶん何十年ぶりに再会する「クラスの女子達」の待つ会場へ向かった。

北口コンコースを久々に歩きながら「この辺もずいぶん綺麗になったもんだなー。この辺でどんなこと覚えてる?」と尋ねると、すかさず「お前が大踏切の陸橋から転げ落ちたことぐらいかなー」その時密かに「(コイツに声かけたのは失敗だった・・・)」とつくづく思い、会場で披露されないことを祈った。私はここ数年で何度か再会しているメンバーだが、彼にとって女性軍はホントに久々だったらしく、最初はかなり緊張していた。私は自分にとって不利な(今じゃ苦笑いに過ぎないが)話題にならないうちに、とっとと「エキバナ」に持っていこうとしたのだが、やはり最初は近況報告会のようになってしまった。「○○(旧姓)は今、▲▲に勤務してるんだよな。ルミネにいたことあったのか?」と確か県内の百貨店勤務と聞いていた一人に尋ねると、「ううん、今は□□。この前、あなたが奥さんと歩いてるの見かけたよ〜買い物とかよくするの?」「(うげげーっ、▲▲だと聞いてたから、そっちには近寄らないようにしてたのに、裏目に出るなんて・・・)」しばらく「パートナーと買い物に行くか?行ったらどうするか?」についての話題となった。不思議なことに相方に付き合ってぴっしり買い物する者は私くらいだった。ガンさん(悪友の仮称)は「オレは入口で集合時間を決めて個別行動!」なるほど合理的で同調する女子も多かった。

「えーっ、えーっ、洋服なんて『どっちが似合う?』とか聞かれて見てあげんの?たろーって結構優しいじゃん」この年齢になると別に照れくさくもない。「好みのままに『両方良ければ良し、両方ダメならダメ、片方が気に入ったらそっちを指差し、どっちでもよい時はどうでもよし』この4つを瞬時に判定し余計な気を使わずに宣言する。何店舗も見て回ることも可、しかし最終的には必ずどれか決めること。つまり私の時間を空転させないことを要求する。」という配偶者との買い物に関しての自説を披露する。散々歩き回ったあげく、「今日はやめておく」というのは許さないのである。最初はにやにやしていた主婦軍もだんだん複雑な表情になってきた。「そんな話よりも、茅ヶ崎駅を語りに来たんだからな。オレ、ちゃんとこういうのも用意したんだぞ。偉いだろ」私は実家に駅の写真はないか?と尋ねて母親が市役所の用事ついでにもらってきてくれた「茅ヶ崎駅の一世紀」という茅ヶ崎市史編集委員会(そんなのホントにあったんだ!?)の冊子を取り出した。「うわーっ、すごいね、こんな本があるんだ・・・」数人の女性がおもむろに眼鏡を取り出した。「年ゃー、取りたくねえもんだな。」と冷やかした向かいの人は拳を上げかけたが「まー、同い年だからごまかしようがないもんね」と諦めていた。

  

驚くべきことにそれまでのちょん髷が終わった明治維新の20年後には東海道線の新橋から横浜を経て国府津までが開通していた。(日本ってすごい!)停車場は旧宿場町が基本となっていたので、同じ湘南地方の藤沢、平塚、大磯に比べて遅れていた茅ヶ崎だが、10年後ついに開業し、あと数年で120周年を迎えるそうだ。当時、主要幹線として東海道の整備が最優先だったとはいえ、「原っぱにできた駅であきんどは茶屋町だけ・・・歓迎のために天狗様になって仮装行列した」ということだから、やはりすごいことだったんだろう。我々のおばあさんくらいの年齢の人の時代は駅から海が見えたという。関東大震災で大きな被害を受け、終戦後は占領軍の厚木基地からの相模線の輸送に大きな役目を果たし、茅ヶ崎市が戦後発足して数年後、戦後の新時代の象徴とされる「湘南電車」が登場する。私も乗った記憶のあるオレンジとグリーン二色の80系式と言われるこの湘南電車はさまざまな意味でそれまでの「電車」の常識を破るものだったと記述されている。長距離運行は機関車牽引の列車が一般的だった時代に、海外でも類を見ない15両固定編成の電車が100km以上の区間を最高時速95キロで走ったのである。何か誇らしい思いになった。その後、高度経済成長期の「人口増」や「通勤地獄」、1日に14時間も遮断されてしまう「大踏切」などの問題を経て駅周辺が開発整備されていく。「ダイクマ」「西友」ができ、「イトーヨーカドー」が建設されるが、その直後の駅ビル建設計画により商業界はかなり混乱したようである。

私の持ち込んだこの冊子により本来の「駅を語る会」の話題に向かいかけたのだが、やっぱりすぐに「久々再会した面々」にありがちな「コイバナ」「バカバナ」路線に外れて行ってしまった・・・ガンさんは運動に関しては学校でも「超エース級」で私などよりもはるかに女子にモテた。勉学に関しての「エース級」男子の名前も次々と話題に登場したが、思ったよりもモテたヤツはいなかった。運動に関しても勉学に関しても「並みより結構上」程度の私の話題など登場するべくもない。しかしこれまでも何度か昔話だけ聞いたことがあるが、当時圧倒的人気を誇っていたという男子はルックスをともかくとすると、私とガンさんが「??」と首を傾げるほど、あまり目立たない(はっきり言えばあまり冴えない)面々だった。「私は○○」「私も・・・」「私は▲▲」と次々に聞く学校内モテ男クンの名前を聞いてガンさんと目を合わせ「こいつらの好みってよくわからんなー」と無言で会話していた。その後、全盛だったアイドルの話題になり、SMAPファンクラブだった人が「たろーは誰のファンだったのよ?聖子ちゃん?明菜ちゃん?」私は首を振り続けていたら「あー、分かった。堀ちえみでしょ!そんな感じするー!」私は憐れむように首を振り「河合・・・」と言いかけると「あーっ、そうだ。河合奈保子ちゃんだー。いたよねー。秀樹の妹だよねー」唖然とする私の隣からガンさんが苦笑しながら救いの手を差し伸べた。「違うよ、たろーは・・・」会員番号12番の娘の名前をあげ、「オレはゆうゆ・・・」と付け加えた。実は私達は「おニャン子」仲間でもあったのである。

とりとめもない話ばかりで夜も更けていったが「駅周辺にあった店」編でいくつかあげた店名がさすがに上がってきた。女性軍が詳しいパスタの店や雰囲気のある喫茶店、加えてラーメン屋などに混じり「これは知らないだろう」と名前をあげたイトーヨーカドー最上階レストランと南口松坂牛の店を一瞬にして思い出したのは幼い頃近所に住んでいた女子である。今や(自称)スポーツ万能を誇る私も自転車が乗れるようになったのは彼女の指導によるものだったのだ。「ルアンもジャルダンも知ってんの?オレが言うのもなんだが、そりゃー結構すごいぞ!」私は彼女の話題同調に興奮し、周辺の店の話題でさらに盛り上がっていったが「そー言えば、たろーってさ。お泊り保育の時にペンギンのぬいぐるみ持ってきたよねー」幸い周囲の視線を一斉に浴びるほどではなかったが、私は密かに凍りついた。「(そーだった。コイツと幼稚園一緒だったんだ・・・この辺の話題は危険だ)」女性軍とはかなり久々だったガンさんも駅周辺の知識は豊富で、中々盛り上がりを見せて皆で記念写真を撮り、「第1回茅ヶ崎駅を語る会」は無事に閉会したのである。

さてこの会の盛況をとあるSNSサイトに投稿し「次は辻堂駅を語る会で集まろう」と締めくくったら、「辻堂なら○○って店知ってる?」とか「ちみさいってラーメン屋覚えてる」とかやたらマニアなコメントがあった。私も「語る会」を口にしたものの、かの駅は高校通学時にチャリで通過していただけなので、周辺の駅についての記憶があまりない。そうこうしているうちに「辻堂の会には呼んで〜」という人が結構現れた。中には「浜中華にキムタクが来たことも知らないの?予習してきてね〜」という厳しいコメントである。知人が投稿した茅ヶ崎駅の時もすごかったが(最終的にはコメントが100件超えたそうだ)、マイナーな辻堂についても通勤・通学で馴染みの人が次々に参加を表明してきた。実はそのサイト以外にもメールやメッセージで「面白そうだよね」「10年間利用した」「ぜひ次回誘って〜」という声があった。うーむ。。。これは少し困ったぞ。いつの間にか私が開催を企画しなければならない状況に追い込まれた。予習もそうだが、誰かこの手のイベント開催得意な人にお願いできないかなー。。。

    


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4 コメント

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Unknown (小夏)
2015-06-27 21:47:00
師匠、こんばんは!
梅雨らしくない梅雨ですねぇ。蒸さないのはありがたいのですけども^^

今度の会は開催まで早かったのですねーw
大踏切の陸橋から転げ落ちちゃたんですかっ?
お怪我はいかほどだったのでしょう!?
(って本当にいろいろやらかしていらっしゃいますねー クス)

な、な、なんと「ちょん髷が終わった明治維新の20年後には東海道線の新橋から横浜を経て国府津までが開通」しているのですか!?毎度わかりやすい解説で俄然前のめりになってしまいました♪
師匠、一度犬山の「明治村」にいらっしゃいませんか?師匠ほどの知識をお持ちでしたら、ますます歴史と深く繋がれそうです。
Unknown (磯辺太郎)
2015-06-28 08:59:50
小夏さま

おはようございます。今朝はまるで真夏のようです。

今回は「冷めないうちに集まっちゃえ」ということですぐに実現しました。(みな、嫌いではないようなので)

そーなんです。面目ないんですが、当時「開かず」で問題だった大踏切にできたばかりの螺旋形陸橋から・・・頭に7針縫うけがでした。(問題はみんな、そのことを覚えてるってことなんですよねえ)

維新後の進歩ってホントに信じられないです。国府津に開通した2年後にはなんと神戸まで全線開通!すごいでしょ?!
犬山というとお城のあるところですか?明治村ぜひ訪れてみたいです。江戸村は行ったことあるんですが・・・
Unknown (小夏)
2015-06-29 22:18:27
なんと2年後に我が地方にもつながったのですね!
重機もろくにない人力中心の作業ですよねぇ。
維新1867年~1868年(つけ焼き刃勉強)、、ふーむパリの街並みが出来た頃ですから江戸時代の人力とは違いそうですね。

「岡崎は鶏が卵を産まなくなるとのことで駅を拒否した」と幼い頃父から聞きました。
あぁ、、またまた師匠のおかげで当時の人々の暮らし・考え方が繋がったように思います♪

ご存知とは思いますが、明治村は帝国ホテル玄関などが移築され当時の汽車も乗ることができます。(撮影にもよく使われているようです)
若いころいったきりですが、今また行ってもいいなと思い始めました^^

そうそう、先日JR岐阜駅から見える山の上にお城らしきものを発見!もしや織田の、、、な~んて ハハハ
Unknown (磯辺太郎)
2015-06-30 06:08:01
小夏さま

ホントすごいですよね。でもパリでは万博が開催されていて、日本からも見学に行きましたから、たぶん国力の差に驚いたんでしょうねえ。

えっ。そうなんですか?!鶏が卵を・・・駅を拒否とはやはり異文化だったんですね。馬しかない時代ですもんねー。
明治村では当時の汽車にも乗れるんですか?おサルの汽車じゃなくて本物?それはすごい!
予習しています。(犬山でしたよね)

いやー、地理的なものはわからないんですが、「岐阜」自体が信長が名づけた名前でしたよねー。
一度は必ず行ってみたいと思っていた岐阜城だったらすごいなー。私にとっては歴史上、尊敬する斎藤道三の稲葉山城から歴史あるポイントなんです。

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