超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

神頼み観

2015-01-14 22:34:02 | 出来事
我が家は「初詣」なるものにはそれほど拘らない方だった。私が実家に同居しなくなって、正月に家族で相模一宮に詣でることは何度かあったが、「恒例」というほどでもなかった。確かに自家用車で行くと駐車するまですごく大変だし、その割には亡き父親など一直線体質で、お参り以外に寄り道などしないから、だんだん面倒くさくなってきた。昔の人なのに私よりも「割り切り体質」な母親は「1年で最初のお参りが初詣なんだから何も正月でなくてよい」という合理的なことを言い出し、少しシーズンをずらすようになったが、正月を終えると受験シーズンが到来し、引っ越しやら入学、入社など人生的な節目が多いこの数か月は一向に神社が空くことはない。自然にどんどん後送りとなり、とうとう1回も詣でずに翌年を迎えてしまうこともあった。妻もあまり「初詣」という習慣はなかったらしく、息子甘辛は物心ついてから正月はサッカー漬けだから正月の初詣など記憶にもないことだろう。

かく言う私も母ほどではないが合理的である上に我ながら独特な「神頼み」観があるため、昨年末の甘辛達のように友達同士で普段と異なる刺激を求め夜中からお参りに向かう時期を除いては、積極的に人混みに突入することはしなかった。大晦日に紅白が終わり「行く年来る年」を見ていると、とんでもない秘境の寺や秘密結社のような修行僧に続き、大勢の初詣客がひしめいているのを見て不思議に思ったものだ。単なる習慣なのだろうが、一番乗りで行かないと「ご利益」が薄れてしまうと考える貧乏性なのか、新年の祈念を済ませるまで「無病息災」が保証されないと考える心配性なのだと思っていた。その年(というのも一定期間に過ぎないが)に最初に行うものが「初」であり、考えてみれば物事はすべからく「初物」尽くしである。我が家にはどこかそういう「無常観」が流れているのかもしれない。

しかし「神を頼む」ことについて、私はかなり敬虔な方だと思っている。むろん欧米、中東などに見られる「信教」とは異なる。神仏分離の影響の歴史もあってか私のような者は少なくないと思うが「願いごと」は神道、結婚は「キリスト教」、死んだ時は「仏教」である。「一つの神をひたすら拝む」者たちから見ると「無宗教」と言われることも多いが、決して信ずる神がないわけではない。神の話「神話」に基づく宗教観などは日本や中国、インド、ギリシア、北欧など世界各地にあり、もはやこれらは学術論議にも近いからここは論じないが、キャプテン・ハーロック風に言うと「自分の胸の中にあるもの」がここで言う神に近い。これは便利なもので「どこにいる何」というわけではないから、あらゆる局面で「心で唱えれば」願い事になるし、神社仏閣、教会その他ではそれに向かって唱えるだけである。

今年は「一休」編で書いたように、少し敬虔になるつもりでいるから、妻との散歩がてらだが早いうちに近所の稲荷神社で初詣を済ませ、「海難除け」お守りを購入した。宮司や巫女に「ようこそお詣りでした」と渡されるには「(ちょっと地域カラー出し過ぎてない?)」という感じだが、この神社は何と私が愛して止まない「ウルトラセブン」の「アイスラッガー御守り」という飛び道具過ぎるアイテムを提供しているのである。モロボシ・ダンを演じた俳優さんの店がすぐそばにあるからという神社らしからぬ御由緒で、以前は社務所にオープンにされてはおらず、地元のレアファンから都市伝説のように広まったもので、昨今は堂々と他の御守りと同様に並ぶようになった。今年行かなかった「お正月だよウルトラマン」のスタジオ内にあるキング神社などは異なり、まさしく本職なのだからパワーがありそうだ。ただ1年たってお札と共に納めて新しいのを求める気にはならない、私にとっては「鰯の頭」である。

    

実家の母を連れてはたぶん正月に訪れるのは初めてだが、以前何度かここでも紹介した「大雄山最乗寺」に赴いた。5月は「藤棚」が見事で11月は紅葉が素晴らしい道了尊だが、全国的にはそれほど有名ではないのか、度休日であってもそれほど賑わっていた経験がない。今回も少し寒いが問題ないだろうと午前中に到着するくらいに出発したら、駐車場までまさかの大渋滞?!正月はやはり大所は混んでしまうものらしく、少し甘く見ていたようだ。確かに全山を敷地に持ち、広大な境内と施設規模は先般訪れた中尊寺を凌ぐものがある。どうも商売を営んでいた母親の実家は私が生まれるはるか昔、さらに富山から茅ヶ崎に出てくるもっと昔からご縁のあるお寺として詣でていたらしい。確かに昔、田舎から祖母が出てきて実家に泊まると何かにつけて大雄山に足を運んでいた。

神奈川屈指のパワースポットと言われ、季節ごとの見どころも豊かだが、普段はあまり訪れる人も少ないこの寺も正月はさすがにすごい賑わい方だ。いつも総受付で願いごとを書いてお札に書いてもらう。母は実家に一人で住んでいるのに、二つまでできる「家内安全」「健康増進」と選んだ願い事について依頼主に私の名前を使用するところに老いた「親心」を感じてしまうが、私の本籍が実家の住所になっているからおかしくはないだろう。すると私が書く依頼主は自分の名前ではいかにもダブるから昔風に当家の跡取りという意味で、息子甘辛の名前を使用することにした。願い事は「厄災消除」「成長安全」である。ここで「自己の利益実現のためには神頼みしない」という、ちょっとカッコつけた「神頼み観」が登場する。

    

正月の仕事始めで私が勤務した全ての職場は大枚をはたいてかなり格式の高い祈祷をお願いする。代表者に合わせて二礼二拍手、神妙な面持ちでお祓いを受ける。私が密かに気に入っているのは「商売繁昌」ではなく「安全祈願」であるところだ。これは日本人のどこかに「人知を超えた力を持つものを畏れ敬う」DNAがあり、これが発動して「厄災をもたらさないように願う」のが、自分の利益をギラつかせて「商売」「合格」「縁結び」などを願うよりも自然で清々しいように感じるのである。大地震が発生した数年前、群馬県境にある雷電神社のなまずさんを地震が発生しないように真面目にさすって祈った。それこそ科学的根拠のない信心だろうが、人間こういう時が一番真摯になり、緊張感を漲らせるものだ。大雄山もそうだが、日本の神社仏閣にはパワースポットと言われるところが多い。巨大な岩や巨木、山、滝など自然が多いが、人間が制御できそうもない力に対して畏まり「守り給え」というのが私の「神頼み観」である。

大雄山最乗寺は普段は一周して帰るだけだが、1月成人の日はまだ正月仕様になっており、訪れた参拝客とともにいつもはスルーする儀礼もきちんと行った。お線香を焚き煙で身体を清める、本堂に上がってろうそくをたててお参りする。金剛水で身体や御堂を清める、確か普通は衝く棒のなかった鐘を並んで打つ。どこにでも手前に「浄銭箱」があり、最初はコツコツと入れていたが、そのうち小銭がなくなると母も私も賽銭はスルーして手を合わせていた。「実は祈祷料をまとめて払っているので個々の支払いは不要なのだ」という勝手な解釈である。母などお線香の列が長いからと並ぶこともせずに帰りに誰もいない所を見計らって他人の布施による煙で身体を清めていた。。。(前払い制だから?!)こうしてみると祈祷料などというものほど根拠のないものはない。例えば実弾として参千円と壱萬円の種類があるが、札の大きさとノベルティが違うだけで祈祷密度(たぶん単位はテスラではないと思うが)に差異があるわけではあるまい。

       

私欲を満たすために祈る者はその願いの大きさや多さに比例して祈祷料を見積もってしまうだろう。「一番人気が着実にきますように」と願うものは100円玉だが、「万馬券がきますように」と願うものは1万円出さないとご利益がないような気がしてしまう。「厄災消除」であれば祈祷料(賽銭の多寡)よりもこれによって自分に生じる緊張感次第だと思うだろう。さらに恐ろしいのは天罰である。いつかも書いたが道了尊の御真殿への長い階段に通じる「結界門」にいる天狗像はホントに恐ろしかった。母の実家で水槽の金魚を掃除機で吸い出した時も「今度やったら天狗さんに連れて置いてくるぞ」と言われ、2度としないことを誓った。あの結界を過ぎて悪い子は置いて行かれると2度と出て来れなくなる、と硬く信じていたのである。画像から見ても素晴らしいパワースポットであると思う。

          

いつもは1周20分程度でお札が出来上がってくるので受け取って帰ってしまうのだが、人が多いから今回は50分程度かかると言われ、その分境内の施設も詳しく由来などを見て歩くことになる。子に乳を飲ませる狛犬なども全国的に珍しい石像なのだそうだ。自分なりの解釈で多少なりとも「割り切り」はあるだろうが、今年は神社仏閣を訪れることが何となく増えるだろう。むろん歴史を訪ねて楽しむこともあろうが、Cool Downのためのお参りも機会を持とうと思う。今年は(麻雀でいうと)パワーを外向きから内向き、動から静に少しスライドさせる「ツモの流れ」を感じる。先ほど「とあるサイト」でその存在が電撃のように響いた「アーユルヴェーダ」クリニックの予約が完了した。さて自分はどんなタイプなのか、今のスナップショットとこれまでこれからの流れがどうなのか、どんなヒントが得られるか楽しみだ。

              


最新の画像もっと見る

コメントを投稿