熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

大前研一著「訣別ー大前研一の新・国家戦略論」

2011年12月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   本の帯に、
   ”バカな政府を持つと高くつく。過去の延長線でしか考えない官僚と、政局しか頭にない政治家に任せておけば、日本は間違いなしに衰退する。しかし、バカな政府をつくったのは国民であり、結局のところ自分で変えていくしかない。過去に成功した「ニッポン・モデル」はすっかり陳腐化し、硬直化した。いまこそゼロベースの大改革を断行し、新しい日本をつくるときだ。”と書いてあるのだが、
   私は、この本で、大前研一氏が提案している「2025年ビジョン」には殆ど異存はないのだが、既に、日本は立ち上がれない程衰退してしまっており、織田信長や坂本竜馬のような卓越した革命的リーダーが現れない限り、このまま、煮えガエル状態になって、二流国家、三流国家に成り下がって行くであろうと思っている。

   国民全体が、明治維新や終戦直後の日本人のような、燃えるような情熱も覇気も、そして、自信も失ってしまって、内向き志向で大人しくなってしまい、前進しようと言う前向きのプラス思考のエネルギーが消失してしまっては、どうしようもないのではなかろうか。
   国民が期待して選択した民主党政権が、大前氏の説く如く救いようのないバカ政権であるのなら、JAPAN AS NO1で突っ走っていた日本が、失われた20年でグローバル世界の躍動からどんどん取り残されて今に至っても、まだ、何も学んでおらず、目が覚めなくてバカを地で行っていると言うことで、正に、救いようがないと言うことになろう。

   すべての元凶は偏差値教育にありと、我々年代以降の世代を、日本の教育が、如何にスポイルして来たかを、大前氏は厳しく糾弾している。
   我々の世代には、「自分の限界はここまで」と言った発想はなく、偏差値のようなものでタガをはめられるのは真っ平御免で、人生は自分で決めて、やりたいことをやってきた。
   松下幸之助も本田宗一郎も、戦後第一世代の破壊的イノベーターは皆、分をわきまえない人ばかりであった。
   自分のやりたいことを見つけ、どうしたらできるかを考え、そのためにひたすら努力し続ける。勝ち組になるための法則は実にシンプルで、この組み合わせしかない。戦後第一世代の大経営者は皆、この法則に忠実だった。と言う。
   それに、比べて、偏差値世代の人々は、非常に従順で小市民的だ。偏差値教育が日本人の意欲やアンビション、そして、思考するクセを奪ってしまった。と言うのである。

   そうかも知れないが、私は、この傾向は、何も偏差値世代だけではなく、大前氏の言う我々世代も全く同様に不甲斐ないと言うか体たらく極まれりで、むしろ、後先も考えずに、花見酒の経済に酔いしれて無謀な借金を重ねて日本の将来を無茶苦茶にしてしまって、反省の色さえなく、まだ無駄な繰り言をボヤイテいることこそを恥じるべきだと思っている。
   そして、大方の世界の論調がそうだが、既得利権を握って離さない日本のエスタブリッシュの老害そのものが、若い芽を摘み、出る釘を叩きのめし、折角の活性化の機会を葬り去っているのではないであろうか。
   ホリエモンや村上ファンドの違法性には問題はあったであろうが、あの頃は、若者の起業意欲が爆発的に開花していた。
   今回の大王製紙やオリンパスのコーポレート・ガバナンスの欠如などを見れば、これなどは氷山の一角であろうが、日本の大企業が如何に、会社法を始め法制度を軽視し、ないがしろにして来たかが良く分かり、法化社会においては、この方がはるかに罪が深い筈であり、老害塗れのエスタブリッシュメントが、政財官の枢要を抑えて、自分たちにのみ都合の良い既得利権と現状維持を保守するために、明日の日本の為の活路を閉鎖してしまってきたのではないかと言うことである。
   老兵は去り行くのみと言う格好の良い言葉があるが、八重二十重にも残滓が重層化して動きの取れなくなった閉鎖社会を吹き飛ばして、明治維新や敗戦直後の日本のように、若者たちに、「坂の上の雲」を仰いで、まっしぐらに突っ走って貰う以外に、日本の明日は開けてこない。

   さて、大前氏の提言だが、とにかく、正に、シュンペーターの「創造的破壊」とも言うべき革新的なアイデア満載で、パンチがきいて説得力があり、日本にとって非常に有意義だと思えるものが多いのだが、大阪の橋下革命のように、相当現状から乖離があって実現へのハードルが高い。
   例えば、「途上国の税制から老熟国の税制へ」として、すべての税を廃止して、コミュニティーに資産税を、道州制には付加価値税をと提言している。
   所得税、法人税、相続税などの従来の直接税を全部廃止して、道州制のような統治機構が出来たタイミングで、資産税と、間接税を一本化して付加価値税の二本立てにする。生活基盤を作る責任があるコミュニティーは資産税を、産業基盤や雇用を作る責任のある同州が付加価値税を徴収すると言うのである。
   日本全体で不動産資産が1500兆円、金融資産が賞味1000兆円あるので、資産の時価評価の1%にすれば資産税の税収は25兆円、付加価値税は、GDPが500兆円であるから、5%なら25兆円、10%なら50兆円の税収が捻出できると言う計算である。
   道州制を導入した段階で、夫々の道州が自力で経済の活性化発展と自活を図るべしと言うことだが、地方間の経済格差の問題をどうするのかと言ったような問題など、簡単に踏み切れない要素があろうが、非常に示唆に富む提言ではある。
   
   大前提言の革新性とパンチ力には大したものだが、根本的な問題は、前述した若い世代への日本の舵取り移管問題と同じで、どう考えても、今の日本には、そんなことがおいそれと出来る余地など全くなくなってしまっているのではないかと言うことである。
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