熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・狂言「横座」能「高砂」

2011年12月12日 | 能・狂言
   1か月に1回くらいは能楽堂に通って、少し、古典芸能鑑賞の幅を広げようと思って、今回は、田中貴子教授の解説付きの普及公演に出かけた。
   普及公演と言っても、人間国宝が登場するような歴とした舞台で、一切の手抜きはないのだが、私のような能楽狂言初歩組には、普及と言う言葉に意味があるのである。

   今回は、本当に久しぶりに能を見た。
   私にとって能楽は、白洲正子の本は読んだが、日本の古典藝術では最も縁の遠い分野で、とにかく、殆どその良さが分からないのだから、まず、あの結婚式で謡う「高砂や・・・」が出てくると言う、それだけで「高砂」を、まず、見ようと思ったようなものである。
   しかし、田中教授の話を聞くと、兵庫県人の私には、この舞台に登場する播磨の高砂や大阪の住吉などは、故郷であるし、地名やその雰囲気などには、少なからず親近感があり、興味を持って鑑賞することが出来た。
   田中教授の話では、この能は、本来、流布しているような結婚讃歌ではなくて、和歌の隆盛を願い、ひいては、世の中の平和を願った世阿弥の作品で、江戸後期あたりから、婚礼の席などで祝言曲として謡われるようになったのだと言う。
   この「高砂や、この浦舟に帆を上げて・・・」は、神主友成主従が、高砂の浦から、住吉に向かって船出するシーンで謡われるのだが、映画やテレビでしか見たことがないのだけれど、婚礼の席での雰囲気とは全く違って、実に荘重であった。

   私にとって良く分からないには、相生の松で、高砂市のホームページを見ると、この能の舞台でもある高砂神社の松について、「松どころ高砂でも特に有名なのが、高砂神社の相生の松です。相生の松とは、根が一つで雌雄の幹が左右に分かれた松のことで、ある日、尉と姥の二神が現れ「神霊をこの木に宿し、世に夫婦の道を示さん」と告げたことから、霊松として人々の信仰を集めるようになりました。」と書いてあり、第3代目だと言う相生の松の写真が載せられている。
   田中教授も説明していたが、松は雌雄同体であるので、雌雄の幹が左右に分かれてオマツ、メマツに分かれる筈がないのだが、別名が、クロマツがオマツ・オトコマツ、アカマツがメマツ・オンナマツと称されているので表現上間違いではないにしても、接ぎ木で増やす場合があるので、相生の松は、接ぎ木ではないかと思っている。
   こんな理屈が気になるようでは、能楽鑑賞などは、無理なのかも知れないと思ったりしているのだが、今のところ、能楽堂全体の雰囲気も含めて、新鮮なときめきを感じている。
   
   前場で松のめでたさを語る場面では、動かない「居グセ」が基本とかで、非常に動きが少ないシーンが続くのだが、後場に入って、後シテ/住吉明神が、邯鄲男の面をかけて非常に豪華な若い男神の姿で足早に登場して、テンポの速い囃子に乗って颯爽とした舞を舞い、華麗な舞台を展開する。
   この能楽堂には、前の座席の背に、はがきより少し大きな感じの字幕スクリーンがあって、簡単な説明や、能楽師が謡う台詞などがディスプレイされるので、私には非常に都合が良い。
   この形式のディスプレイを最初に見たのは、改装中で郊外に移転していたミラノ・スカラ座だが、METにもあって、大変便利であるのだが、新歌舞伎座などでも、取り付けるのであろうか。

   狂言の「横座」は、非常に面白かった。
   前回、楽しませて貰った大蔵流の大藏彌太郎が、シテ/牛博労で、善竹十郎が、アド/耕作人として登場する。
   耕作人が手に入れた牛が、良い牛かどうか見定めて貰うために、牛博労に見せるのだが、実は、この牛は、居なくなった牛博労の牛なので、返せと言う。
   自分の牛かどうか確かめるために、牛の名前の「横座」と呼べば、鳴くと言うので、3度の呼びかけの約束で2回試みるが、声をかけると耕作人が大声を上げて邪魔をするので、牛は反応しない。
   牛博労は、3度目に、賢い牛の故事来歴話をトクトクと牛に語って聞かせて「横座」と呼ぶと、大きな鳴き声をだして応えたので、いそいそと牛を引いて帰る。
   そんなたわいもない話なのだが、両人が、大真面目に対決する、何とも、時代離れした対話が面白い。
   前回の太郎冠者もそうだったが、彌太郎の真面目一徹の雰囲気から醸し出すユーモアとウイットに富んだ語り口が何とも言えない程おかしみを誘って爽快である。
   それに対応する謹厳実直で強面の十郎のうけが、好対照で面白く、もし、牛がなかなければ、博労に家来になって仕えろと最後通牒を突きつけるのであるから、笑い事ではなく、真剣勝負の牛鳴かせ対決なのである。
   この牛の横座と言う名前なのだが、可愛い子牛の時に、いつも、横に座らせて可愛がっていたのでそうなったと言うのだが、このあたりのひねった動物愛護のトピックスを交えた話も、中々味があって面白いと思った。
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