この本を読めば、梅原日本学の誕生の経緯が良く分かって興味深い。
三部に分かれていて、第一部は、高校生にあてた人生訓で、偉大な仕事をした人間はすべて心に傷があり、その傷が大きな夢を生み、今日のような不安定な時代こそ、大きな夢を持ち、それを追求することが必要であること、
第二部では、自分の生い立ちを、そして、自身の学問の方法について、克明に語り、
第三部では、新しい哲学を創ることこそ私の大きな夢だと、これまでの自身の学問への軌跡を語りながら、梅原日本学への傾倒や、夢への飽くなき情熱を語っていて、激しい学問への情熱が感動的である。
勉強嫌いで成績も良くなかった梅原少年にとっては、塾だ試験だと言って偏差値教育に追いまくられて育って、無理に無理を重ねて育った学者たちは、力を使い果たして息切れしてしまう。
偉大な数学者岡潔のように、子供の頃、あまり勉強せずに、チョウチョウやトンボとりに熱中したことが、後年、数学の難題を解くのに役立ち、数学ばかりか、あらゆる創造は、情緒によって可能だと言う。
創造的な仕事をした人は、子供の時は決して秀才ではなかった、ニュートンもエジソンも、むしろ、学校の成績は中位であったし、日本初のノーベル賞科学者湯川秀樹も、兄弟のなかでは目立たなかったので、商業学校に行かされるところを、校長の助言で、三高に進めた。
愛知一中に落ちて、私立の東海中学に入り、中学4年では、飛び級どころか、高等学校入試では、4年生で落ち、五年生でも落ち、一年浪人してやっと入ったと言う程出来が悪かったようだが、良いものではないが、一ぺんも落第しないで、そして、一ぺんも恋をしないで、大学を出るのはつまらない。
失恋をしたり、女を泣かせたりする、そんなことで人生が分かるのです。と言う。
西田幾多郎教授に傾倒して、京大に入った梅原先生でも、「善の研究」は、良く分からなかったようで、後年、一種の先験的理論の立場で、西田哲学に批判的になって行ったと言う。
ヘラクレイトスの断片を読んで、ヘラクレイトスを生の哲学者と解釈した論文を書いて見せた時に、田中美智太郎教授に批判されて、傲慢にも蹴って、古典的研究を積まずに、神か仏か、運命あるいは自然と言われるものが、わざと、こういうオーソドックスな哲学の道からずれさせて、まだ殆ど十分、開拓されていない日本の古代の研究をさせようとしたのかも知れない、と、梅原日本学への道程を語っている。
面白いのは、実存哲学が、不安とか絶望とかを最も根源的な人間の感情として、そこから人間を考えたように、笑いをもっと根源的な人間の感情として、そこから人間を考えようと、笑いを哲学しようとして、実際の笑いの研究のために、大阪の中座や角座に毎日通って、ノートを取って漫才を聞き、寄席にも通ったと言う。
哲学者たちからはそっぽを向かれたが、この笑いの研究に理論的関心を持った上山春平教授経由で、梅棹忠夫所長など京大の人文科学研究所の学者たちと近づきになったと言う。
自然を何か霊の力が働いているものと考えたアリストテレスに価値を観出した梅原先生であるから、全く無機的数学的方法によって、見事に、自然科学及び人間が自然を支配する技術を無条件に肯定するデカルト哲学に対して、この自然観そのものが間違っているのではなかろうか、と言う認識になるのは当然であろうか。
科学技術が、近代においてものすごく発展して、人間の自然征服がほぼ完了し、自然エコシステムを壊して、環境破壊がますますひどくなって、地球には人間が住めなくなるのは、もう、はっきりしている、自然との共生を志向した新しい文明、新しい哲学が必要だ、と言うことであろう。
「草木国土悉皆成仏」と言う思想は、狩猟採取文化が長く続いた日本に残ったが、かっての人類共通の思想的原理ではなかったかと思う。
そのような原初的・根源的思想に帰らない限り、」人類の未来の生存や末永い発展は考えられない。と言う。
やっと、「草木国土悉皆成仏」と言う新しい哲学の基本概念を得たにせよ、西洋哲学のしっかりした批判によって、新しい「人類の哲学」と言うものを作り出せるかどうかは疑わしい。
しかし、この哲学を作らない限り、死ぬに死ねないのである、と言う。
さて、何冊もある「京都発見」をはじめ、膨大な梅原先生の著作本をいくらか読んでいるのだが、結構、微に入り細に入りで難しい。
尤も、「梅原猛の授業」シリーズや、能との関係でよく読む「うつぼ舟」シリーズなどは、親しみ易くて楽しませて貰っている。
能に関して、この本では、1ページ割かれていて、紫式部の「源氏物語」と対比しながら、世阿弥は素晴らしいと書いている。
源氏物語は、一夫多妻制の貴族文学であるのに対して、能は、正に、社会を追われた人間の悲哀や社会の底辺にいる人間の苦しみを見事に歌った、世界に誇るべき芸能ではないかと思う。と言うのである。
人生はすべて創造であると言えるが、学問や芸術の本質は、創造や発見である。と言う梅原先生の激しくも真摯な情熱が迸り出た、素晴らしい本である。
三部に分かれていて、第一部は、高校生にあてた人生訓で、偉大な仕事をした人間はすべて心に傷があり、その傷が大きな夢を生み、今日のような不安定な時代こそ、大きな夢を持ち、それを追求することが必要であること、
第二部では、自分の生い立ちを、そして、自身の学問の方法について、克明に語り、
第三部では、新しい哲学を創ることこそ私の大きな夢だと、これまでの自身の学問への軌跡を語りながら、梅原日本学への傾倒や、夢への飽くなき情熱を語っていて、激しい学問への情熱が感動的である。
勉強嫌いで成績も良くなかった梅原少年にとっては、塾だ試験だと言って偏差値教育に追いまくられて育って、無理に無理を重ねて育った学者たちは、力を使い果たして息切れしてしまう。
偉大な数学者岡潔のように、子供の頃、あまり勉強せずに、チョウチョウやトンボとりに熱中したことが、後年、数学の難題を解くのに役立ち、数学ばかりか、あらゆる創造は、情緒によって可能だと言う。
創造的な仕事をした人は、子供の時は決して秀才ではなかった、ニュートンもエジソンも、むしろ、学校の成績は中位であったし、日本初のノーベル賞科学者湯川秀樹も、兄弟のなかでは目立たなかったので、商業学校に行かされるところを、校長の助言で、三高に進めた。
愛知一中に落ちて、私立の東海中学に入り、中学4年では、飛び級どころか、高等学校入試では、4年生で落ち、五年生でも落ち、一年浪人してやっと入ったと言う程出来が悪かったようだが、良いものではないが、一ぺんも落第しないで、そして、一ぺんも恋をしないで、大学を出るのはつまらない。
失恋をしたり、女を泣かせたりする、そんなことで人生が分かるのです。と言う。
西田幾多郎教授に傾倒して、京大に入った梅原先生でも、「善の研究」は、良く分からなかったようで、後年、一種の先験的理論の立場で、西田哲学に批判的になって行ったと言う。
ヘラクレイトスの断片を読んで、ヘラクレイトスを生の哲学者と解釈した論文を書いて見せた時に、田中美智太郎教授に批判されて、傲慢にも蹴って、古典的研究を積まずに、神か仏か、運命あるいは自然と言われるものが、わざと、こういうオーソドックスな哲学の道からずれさせて、まだ殆ど十分、開拓されていない日本の古代の研究をさせようとしたのかも知れない、と、梅原日本学への道程を語っている。
面白いのは、実存哲学が、不安とか絶望とかを最も根源的な人間の感情として、そこから人間を考えたように、笑いをもっと根源的な人間の感情として、そこから人間を考えようと、笑いを哲学しようとして、実際の笑いの研究のために、大阪の中座や角座に毎日通って、ノートを取って漫才を聞き、寄席にも通ったと言う。
哲学者たちからはそっぽを向かれたが、この笑いの研究に理論的関心を持った上山春平教授経由で、梅棹忠夫所長など京大の人文科学研究所の学者たちと近づきになったと言う。
自然を何か霊の力が働いているものと考えたアリストテレスに価値を観出した梅原先生であるから、全く無機的数学的方法によって、見事に、自然科学及び人間が自然を支配する技術を無条件に肯定するデカルト哲学に対して、この自然観そのものが間違っているのではなかろうか、と言う認識になるのは当然であろうか。
科学技術が、近代においてものすごく発展して、人間の自然征服がほぼ完了し、自然エコシステムを壊して、環境破壊がますますひどくなって、地球には人間が住めなくなるのは、もう、はっきりしている、自然との共生を志向した新しい文明、新しい哲学が必要だ、と言うことであろう。
「草木国土悉皆成仏」と言う思想は、狩猟採取文化が長く続いた日本に残ったが、かっての人類共通の思想的原理ではなかったかと思う。
そのような原初的・根源的思想に帰らない限り、」人類の未来の生存や末永い発展は考えられない。と言う。
やっと、「草木国土悉皆成仏」と言う新しい哲学の基本概念を得たにせよ、西洋哲学のしっかりした批判によって、新しい「人類の哲学」と言うものを作り出せるかどうかは疑わしい。
しかし、この哲学を作らない限り、死ぬに死ねないのである、と言う。
さて、何冊もある「京都発見」をはじめ、膨大な梅原先生の著作本をいくらか読んでいるのだが、結構、微に入り細に入りで難しい。
尤も、「梅原猛の授業」シリーズや、能との関係でよく読む「うつぼ舟」シリーズなどは、親しみ易くて楽しませて貰っている。
能に関して、この本では、1ページ割かれていて、紫式部の「源氏物語」と対比しながら、世阿弥は素晴らしいと書いている。
源氏物語は、一夫多妻制の貴族文学であるのに対して、能は、正に、社会を追われた人間の悲哀や社会の底辺にいる人間の苦しみを見事に歌った、世界に誇るべき芸能ではないかと思う。と言うのである。
人生はすべて創造であると言えるが、学問や芸術の本質は、創造や発見である。と言う梅原先生の激しくも真摯な情熱が迸り出た、素晴らしい本である。