BCP(Business Continuity Plan)のセミナーを聞きに、日経ホールに出かけた。
地震のような自然災害への対応を主体に考えて推進されていたBCPのようだが、今回、メキシコに端を発した新型インフルエンザに対する企業の危機管理が急に脚光を浴びて、そのバリエーションも作り出されているようであった。
要するに、BCPとは、企業が、自然災害などの突発的な危機に直面して被災した時に、事業を中断させずに、また、中断した場合でも出来るだけ短期間に事業を再開し、業績の落ち込みを食い止めて企業価値の低下を防御するための企業経営戦略であり、その事業継続計画であると言うことである。
迂闊にも知らなかったのだが、ISO××××のようなBS25999(事業継続マネジメントシステム規格)などと言った規格が制定されているようで、グローバル・ビジネスをやっている企業などは、欧米企業から取引要件として資格取得を求められるのだと言う。
熱心な担当者なり管理者などが会場に詰め掛けていたが、デミング賞、QC、ISO、内部統制等など、これまで、企業は、本業を差し置いてでも、流行の資格要件の取得や体制整備のために、目の色を変えて奔走してきたが、しかし、肝心の経営の質は、依然として旧来のままで、何の進歩もない。また、今回も同じことだろうと、いやな予感を感じてしまった。
BS25999を取得したクリエイトラボ社が、資格取得の試みを、経営者を巻き込んで、経営管理の向上を目的に実施したと言うことであった。大体、これまでは、資格を取ったり準備はしたが、経営上の効果は、その資格要件や実施事項のみに留まっているケースが多いので、かくあるべきだと感じたが、これでも、一過性の経営改革の一こまにしか過ぎないような気がする。
品質管理やリスク管理、経営者の業務や経営の質の向上などと言った部分的な改善改革にはなっても、結局、企業経営そのもの、あるいは、経営者の質ないし経営力のアップには、殆ど役には立たないと言うことであろうか。
このセミナーの表題のサブタイトルに、「まだ、現場・担当者まかせですか?」と言う枕詞がついている。
今回の内部統制もそうだし、IT革命への取り組みもそうだが、日本の場合には、経営トップに、自ら自分自身の問題だと言う認識が欠如しているので、どんな素晴らしい経営手法を導入してみても、すべからく、トータルシステムとして機能しない。
コンセンサス重視かつ集団指導性で、リーダーの顔が見えない日本社会の功罪が、色濃く出ているのかもしれないが、ぼつぼつ、出る釘に権力を明け渡す時代であろうと思う。
危機管理で思い出すのは、もう20年近く前になるのだが、ロンドンのシティで、IRAの爆破事故が起きて、路上の爆弾の炸裂で多くのビルが吹っ飛んだ。
翌朝の土曜日、地下鉄でシティまで出かけたが近寄れず、たまたま、知り合いの住友不動産の知人に会って高層ビルの事務所の窓越しから見せてもらったが、戦後日本の廃墟を見ているようで、唖然とせざるを得なかった。
案の定、ビルは残っているが爆風で吹き飛ばされて使用不能になったビルに本拠を置いていた三和銀行の支店長(後に頭取)から電話が掛かって来て、代わりの事務所を探せと言う。
爆破の被害は限定的だとしても、狭いシティの中で、当時飛ぶ鳥を落とす勢いであった日本の大銀行のロンドン支店と現法の入居するビルなど、不動産会社でもない会社が、おいそれと瞬時に探せる訳がないのだが、そこは、悲しいかな、先方では、出入りの大工だと思っている。
全く、偶然と言うか幸いであったのは、ファイナンシャル・タイムズの旧本社ビルを買収して改築・新装し終えたセントポール寺院前のブラッケン・ハウスに、日本興業銀行に移ってもらった直後であったので、この興銀の旧事務所が解体を始めたところで空いている。家賃の二重払いも避け得るので、興銀にとっても渡りに舟の筈。
それに、今、取り壊しをストップして少し手を加えれば、すぐに使えるかも知れないと思って、夜中だったが、興銀の副支店長を追っかけて電話をして、三和への転貸しを交渉した。
程なくOKを取ったので、後は、両銀行に任せたが、土日をかけて必死に回復作業をしたのであろう。翌月曜日朝、いつもの電話番号に電話したら、「SANWA BANK!」と言う元気な交換手の声が返ってきたので、ほっとした。
別に感謝される訳でもなく、その後、また、厳しい高飛車な取引が始まる。
当時、建設プロジェクトの開発などに対する邦銀の対応は、欧米の銀行のようにプロジェクト・ファイナンスに対する対応が殆どなかったので、担当者に、開発プロジェクトを分析評価する能力などなく、プロジェクトの収支などを詰問しても答えられる銀行員は皆無であった。
出入りの大工であるわが事務系日本人スタッフは、全員、米英仏の夫々の大学院で学位を取得したMBAであったから、当たり前のことだと思っていたのだが、金を貸す方の銀行マンが、プリジェクトの収益目論見さえはじき出せず分析さえ出来ないのは、驚き以外のなにものでもなかった。
とにかく、興銀の開発チームだけは違ったが、どこの銀行も同じで、有望なプロジェクトを聞き込むと、御用聞きのように売り込みをかけてきて、親保証があればいくらでも貸しますの一点張りで、リスク管理は勿論のこと、世界情勢は勿論、開発案件の収益・帰趨などには、殆ど無関心だとしか思えななかった。
担保と保証に安住して無節操に貸し込み競争に奔走した銀行のその後は、周知のごとくであった。
あのバブルの頂点での邦銀の世界制覇とも思える快進撃は、実質は、優秀なものづくり日本の余勢をかって膨れ上がった日本経済の波に乗っただけで、銀行業、ひいては、金融業務に対する本当の能力と実力があったのかは疑問だと思っている。
この三和銀行だが、東海銀行と合併したまでは良かったが、不祥事の連続で命運が揺らぎ、結局、実質的には、三菱に吸収合併されてしまって跡形もなくなってしまったような気がしている。
本論に戻るが、事業継続プランと言うのなら、本来は、小手先の手法をいくら磨き上げても駄目で、結局は、経営の質、経営者の質、社員の質をあげない限りどうしようもないと言うことを肝に銘じるべきだと思っている。
地震のような自然災害への対応を主体に考えて推進されていたBCPのようだが、今回、メキシコに端を発した新型インフルエンザに対する企業の危機管理が急に脚光を浴びて、そのバリエーションも作り出されているようであった。
要するに、BCPとは、企業が、自然災害などの突発的な危機に直面して被災した時に、事業を中断させずに、また、中断した場合でも出来るだけ短期間に事業を再開し、業績の落ち込みを食い止めて企業価値の低下を防御するための企業経営戦略であり、その事業継続計画であると言うことである。
迂闊にも知らなかったのだが、ISO××××のようなBS25999(事業継続マネジメントシステム規格)などと言った規格が制定されているようで、グローバル・ビジネスをやっている企業などは、欧米企業から取引要件として資格取得を求められるのだと言う。
熱心な担当者なり管理者などが会場に詰め掛けていたが、デミング賞、QC、ISO、内部統制等など、これまで、企業は、本業を差し置いてでも、流行の資格要件の取得や体制整備のために、目の色を変えて奔走してきたが、しかし、肝心の経営の質は、依然として旧来のままで、何の進歩もない。また、今回も同じことだろうと、いやな予感を感じてしまった。
BS25999を取得したクリエイトラボ社が、資格取得の試みを、経営者を巻き込んで、経営管理の向上を目的に実施したと言うことであった。大体、これまでは、資格を取ったり準備はしたが、経営上の効果は、その資格要件や実施事項のみに留まっているケースが多いので、かくあるべきだと感じたが、これでも、一過性の経営改革の一こまにしか過ぎないような気がする。
品質管理やリスク管理、経営者の業務や経営の質の向上などと言った部分的な改善改革にはなっても、結局、企業経営そのもの、あるいは、経営者の質ないし経営力のアップには、殆ど役には立たないと言うことであろうか。
このセミナーの表題のサブタイトルに、「まだ、現場・担当者まかせですか?」と言う枕詞がついている。
今回の内部統制もそうだし、IT革命への取り組みもそうだが、日本の場合には、経営トップに、自ら自分自身の問題だと言う認識が欠如しているので、どんな素晴らしい経営手法を導入してみても、すべからく、トータルシステムとして機能しない。
コンセンサス重視かつ集団指導性で、リーダーの顔が見えない日本社会の功罪が、色濃く出ているのかもしれないが、ぼつぼつ、出る釘に権力を明け渡す時代であろうと思う。
危機管理で思い出すのは、もう20年近く前になるのだが、ロンドンのシティで、IRAの爆破事故が起きて、路上の爆弾の炸裂で多くのビルが吹っ飛んだ。
翌朝の土曜日、地下鉄でシティまで出かけたが近寄れず、たまたま、知り合いの住友不動産の知人に会って高層ビルの事務所の窓越しから見せてもらったが、戦後日本の廃墟を見ているようで、唖然とせざるを得なかった。
案の定、ビルは残っているが爆風で吹き飛ばされて使用不能になったビルに本拠を置いていた三和銀行の支店長(後に頭取)から電話が掛かって来て、代わりの事務所を探せと言う。
爆破の被害は限定的だとしても、狭いシティの中で、当時飛ぶ鳥を落とす勢いであった日本の大銀行のロンドン支店と現法の入居するビルなど、不動産会社でもない会社が、おいそれと瞬時に探せる訳がないのだが、そこは、悲しいかな、先方では、出入りの大工だと思っている。
全く、偶然と言うか幸いであったのは、ファイナンシャル・タイムズの旧本社ビルを買収して改築・新装し終えたセントポール寺院前のブラッケン・ハウスに、日本興業銀行に移ってもらった直後であったので、この興銀の旧事務所が解体を始めたところで空いている。家賃の二重払いも避け得るので、興銀にとっても渡りに舟の筈。
それに、今、取り壊しをストップして少し手を加えれば、すぐに使えるかも知れないと思って、夜中だったが、興銀の副支店長を追っかけて電話をして、三和への転貸しを交渉した。
程なくOKを取ったので、後は、両銀行に任せたが、土日をかけて必死に回復作業をしたのであろう。翌月曜日朝、いつもの電話番号に電話したら、「SANWA BANK!」と言う元気な交換手の声が返ってきたので、ほっとした。
別に感謝される訳でもなく、その後、また、厳しい高飛車な取引が始まる。
当時、建設プロジェクトの開発などに対する邦銀の対応は、欧米の銀行のようにプロジェクト・ファイナンスに対する対応が殆どなかったので、担当者に、開発プロジェクトを分析評価する能力などなく、プロジェクトの収支などを詰問しても答えられる銀行員は皆無であった。
出入りの大工であるわが事務系日本人スタッフは、全員、米英仏の夫々の大学院で学位を取得したMBAであったから、当たり前のことだと思っていたのだが、金を貸す方の銀行マンが、プリジェクトの収益目論見さえはじき出せず分析さえ出来ないのは、驚き以外のなにものでもなかった。
とにかく、興銀の開発チームだけは違ったが、どこの銀行も同じで、有望なプロジェクトを聞き込むと、御用聞きのように売り込みをかけてきて、親保証があればいくらでも貸しますの一点張りで、リスク管理は勿論のこと、世界情勢は勿論、開発案件の収益・帰趨などには、殆ど無関心だとしか思えななかった。
担保と保証に安住して無節操に貸し込み競争に奔走した銀行のその後は、周知のごとくであった。
あのバブルの頂点での邦銀の世界制覇とも思える快進撃は、実質は、優秀なものづくり日本の余勢をかって膨れ上がった日本経済の波に乗っただけで、銀行業、ひいては、金融業務に対する本当の能力と実力があったのかは疑問だと思っている。
この三和銀行だが、東海銀行と合併したまでは良かったが、不祥事の連続で命運が揺らぎ、結局、実質的には、三菱に吸収合併されてしまって跡形もなくなってしまったような気がしている。
本論に戻るが、事業継続プランと言うのなら、本来は、小手先の手法をいくら磨き上げても駄目で、結局は、経営の質、経営者の質、社員の質をあげない限りどうしようもないと言うことを肝に銘じるべきだと思っている。