熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ストラトフォードのシェイクスピア旅(12)ロミオとジュリエット

2023年10月01日 | 30年前のシェイクスピア旅
   午後遅くウォリックから帰り、アーデン・ホテルでゆっくりと寛いで夕食を取り、劇場へ出かけた。 
   大劇場の玄関前、ロイヤル・シェイクスピア・シアターと大書された看板の前で、日本の高校生のグループが記念写真スタイルで並んでいる。前で若い男の先生が、前方の低い塀の上に直にカメラを置いて、しまらぬ格好でファインダーを覗いてシャッターを切り、生徒の列に走り込んだ。あまりいいカメラでもないし、塀の一部にレンズが蹴られていて、上手く写っていないと思って、シャッター押しを買って出た。カメラ王国から来た記念写真好きの日本人とは思えないような体たらく、携帯用か簡易三脚を所持すれば済むことである。折角のイギリス旅行の全行程を、こんな馬鹿げた写真撮影を続けたのであろう。この高校生たちが、その後、劇場に入って、ロミオとジュリエットを観たのかどうかは分からない。

   今夜は、エイドリアン・ノーブル演出の「ロミオとジュリエット」である。ノーブルは、現在、RSCの芸術監督で最高の演出家の一人として呼び声が高い。これまで、彼の演出のRSCの舞台で、ヘンリー四世一部二部、冬物語、ハムレット、リア王を観ている。ハムレットを演じたケネス・ブラナー、リア王とファルスタッフを演じたロバート・ステファンスの姿を今でも思い出すが、それに、舞台もシンプルで、客を裏切らず結構古典的なのが好ましい。冬物語は、日本でも観たが、シェイクスピア劇には珍しく、出演者も多く大掛かりであって、カラフルで楽しく、どこかオペラの世界に浸っているような感じがした。

   今回の第一印象は、何故こんなに瑞々しい舞台なのかと言うことであった。これは、タイトル・ロールを演じた二人の若い役者に負うところが大きい。殆ど無名に近い二人の演じたロミオとジュリエットが、あまりも新鮮で初々しかったからだと思う。
   ジュリエット役のルーシー・ホワイトブローは、育ちの良い、良く教育された、可愛い良家の令嬢を、地で行くような演技に徹している。しかし、可愛い無垢な子供を演じながら、時折、しっかりとした大人の女の片鱗を覗かせる。
   第二幕の有名なジュリエットのバルコニーでの独白、「おお、ロミオ、ロミオ! なぜ、あなたは、ロミオなの」。このシェイクスピア劇のたまらない独白の場の役者の歌うような美しい詩形の台詞回し、この場のホワイトブローの演技は秀逸である。何処を見ているのか分からない、しかし、必死の目で中空を見つめながら、語りかけるように切々と思いを独白する。突然、バルコニー下にロミオがいるのに気付くと、一瞬狼狽して怯えるが、瞬時に、喜びの表情を示して、喜々としてロメオに対する。これは、演技ではない演技、したがって、尋常では出来ない素晴しい芝居心の発露である。

   ロミオを演じたズビン・ヴァルラは、これも、極めて素直な愛くるしい演技で、アクや嫌みを全く感じさせない。ホワイトブローより少し抑えた理知的な演技をしており、線は細いが安定した役作りが清々しい。マキューショーとティルボルトとの闘いの場で、ジュリエットとの結婚式を終えた所為もあるが、反目する両家の和睦の橋渡しをしようとする心理的に難しいシーンがあるが、その思いと親友のマキューショーを殺害された後の心の変化を実に鮮やかに演じていた。

   スーザン・ブラウン演じる乳母は、一寸家庭教師風の雰囲気が面白い。ジュリアン・グローヴァーのローレンス神父は、ロメオの唯一の理解者で、彼だけが旧世代から離れている。二人の運命が幸にも不幸にもどちらにも振れる重要なキャスティンボートを握っていたにも拘わらず、結局打つ手が遅れて、二人の死を招く役回りである。神に仕える身、どうにも逆らえない絶対的な運命を信じながら、理性的な行動を取りつつも、どうしようもない人間的な弱さ悲しさを滲ませながら懺悔する神父をグローヴァーが好演している。キャピュレットを演じるクリストファー・ベンジャミンとその夫人のダーレン・ジョンソンは、ベテラン役者で、ロミオとジュリエットの若い世代と対立する世代を、情け容赦なく厳しく演じて凄まじい。第三幕第五場のパリスとの結婚に対するジュリエットとのやり取りの激しさ凄まじさ、この戯曲のテーマでもある新旧の相容れない対立の悲劇を痛いほど感じさせてくれる。

   ところで、ノーブルは、最初から、イタリアをイメージするために、舞台に、戸外に干された洗濯物の旗竿を使っている。イタリア、特に、ナポリなどでは凄まじく、繁華街でも道路を渡して洗濯旗の満艦飾で、ロンドンやパリではあり得ない光景。
   ジュリエットが大きなブランコに乗って登場する第一幕も、頭上に洗濯物がびっしりぶら下がっているし、決闘の場も、あっちこっちに洗濯物が干してある。シェイクスピア劇の舞台なので、大がかりなセットはないが、第二幕の仮面舞踏会のシーンは、華やかなオペラの舞台の雰囲気があった。ノーブルの舞台は、奇を衒うことも、モダンな特殊なテクニックを使うこともなく、ビックリするような斬新さもないけれど、非常にオーソドックスながらも、色彩豊かでで美しく、いつも、キラリと光る何かを感じさせてくれる美しい演出だと思っている。

   さて、この舞台は、普通の大劇場での公演だったが、シェイクスピア当時の劇場は、グロ-ブ座のように青天井の劇場であったので、参考のために、口絵写真もそうだが、当時の公演の雰囲気を示すために、グローブ座の写真を掲載しておく。
   
   
    
   
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