熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・狂言「末広がり」「二人袴」「蝸牛」

2019年05月28日 | 能・狂言
   狂言だけの国立能楽堂の◎家・世代を越えてと銘打った狂言の夜
   人間国宝がシテを務める定番狂言3曲の素晴らしい公演で、次のようなプログラム。

   狂言 末広かり (すえひろがり)  野村 萬(和泉流)
   狂言 二人袴 (ふたりばかま)  山本 東次郎(大蔵流)
   狂言 蝸牛 (かぎゅう)  野村 万作(和泉流)

   「末広がり」は、先日鑑賞したので、印象はビビッド、
   今回は、萬の気迫の籠った迫力のある果報者に圧倒された。
   資産家のシテが、一族を集めて饗応の席を設けて、引き出物に末広がり(扇)を進上するために、その調達に太郎冠者を京都へ向かわせると言うことであるから、それ相応の威厳と風格があってしかるべきだが、これほどの元気な舞台は初めてである。
   それに、来年90歳と言う大ベテランでありながら、機嫌を治して、太郎冠者に引き込まれて、「傘をさすなら春日山」と、軽快に飛び跳ねて舞うと言う軽やかさ。
   ほかの人間国宝の狂言を観ていても、そうだが、歳は取っても、芸の衰えはなく、年輪を重ねた芸の深み豊かさのみが加わって、いぶし銀のような風格を滲ませていて魅せてくれる。

   「二人袴」は、親が、親離れしない幼稚な聟の聟入りに付いて行ったのだが、聟の袴しか用意せずに行ったので、舅に、二人一緒に会いたいと言われて、袴を取り合いしている間に、袴が二つに割けて、夫々、前だけ袴を着けて、舅の前に出るのだが、三人の相舞いの途中で、それがばれて、恥をかくと言う話。
   迷惑至極だが、バレない様に、恥をかかないように、細心の注意を払って舅の前に登場する親に対して、ボーっとした能天気な聟は、無頓着、それを、必死になって注意するも、仕方なく同調する東次郎の演技が秀逸である。
   東次郎家のベテラン兄弟と彌右衛門宗家の若い狂言師との「家・世代を越えた共演」は、相性抜群で、非常に面白かった。

   「蝸牛」は、主が、祖父への長寿の薬として蝸牛(カタツムリ)を贈ろうとして、太郎冠者に取って来いと命じるのだが、蝸牛を知らない太郎冠者が、「藪に住み、頭が黒くて、腰に貝をつけ、時々角を出すもので、大きいのは人ほどもある」と教えられて、藪で昼寝をしていた山伏に揶揄われて連れて帰ると言う突拍子もない話。
   蝸牛さえ知らない太郎冠者の無知ぶりにあきれた山伏が、いかにも主の説明にぴったりのように太郎冠者を言い含める頓珍漢な掛合いの面白さ、それに、帰りに、囃して行こうと言われて、「雨も風も吹かぬに出ざかま打ち割ろう」と言う太郎冠者の囃子に乗って「でんでん虫々」と謡い戯れる山伏の姿が面白いのだが、とにかく、現実離れしたストーリー展開。
   真面目で誠実一途、何でも知っていると言う学者然とした万作が、大真面目で山伏の口から出まかせに調子を合わせると言う落差の激しさ、このあたりの正攻法で直球の万作の芸に、滲みだすような可笑しみ笑いを感じて、いつも、楽しませて貰っている。

   三宅派の萬と万作の舞台には、先日ブックレビューした野村又三郎家の野村派の狂言師が加わっての「家・世代を越えた共演」で、私など、どこが流派の差でそれがどのように融合したのか、全く分からなかったのだが、面白かった。

   能の場合には、もっと、大きな差のある筈の五流派間の共演もあり、色々舞台芸術の分野で異業種の交流があって、どんどん、新しい分野の芸術や芸能が生まれており、望ましい傾向ではないかと思う。

   次元は違うが、
   異人種間の結合によって、素晴らしい子孫が生まれ出でる確率は結構高いし、90年代に純粋培養主義のソニーがMITレポートで疑問を呈されたのだが、今では、オープン経営も良いところ。
   とにかく、異文化異文明が文明の十字路で炸裂し融合して生まれたメディチ効果がルネサンスを生んだように、異分子の衝突の凄さを、軽視してはならない。
コメント
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