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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・観世銕之丞の「道成寺」

2019年01月29日 | 能・狂言
   「明治150年記念 苦難を乗り越えた能楽」の後半の「道成寺」は、シテは、梅若実に代わって、観世銕之丞が舞った。
  
   明治9年1876年4月4日に、馬場先門内の岩倉具視邸で、天皇が能を観覧された、これが、東京での天覧能の初めだと言う。
   明治20年(1887年)4月26日から29日にかけて井上馨邸で挙行された、明治天皇、昭憲皇太后、英照皇太后臨席の下で催された天覧歌舞伎の方が有名だが、明治9年(1876年)に能楽が、明治19年(1886年)に相撲が、それぞれ天覧の栄誉を受けたのに対して、随分遅れているのが興味深い。 
   天覧能の当日の番組は、「小鍛冶」「橋弁慶」「土蜘蛛」「熊坂」であったと言うから、口絵写真は、今回の公演のビラの明治天皇の天覧能の絵なのだが、舞台は、「高砂」のようであるので、その後、何度か天覧能が催されたのであろう。
   明治維新による武家政権の崩壊によって、それまで、式楽として、徳川幕府や大名たちの強力なバックアップがあって隆盛を極めてきた能・狂言が、一気にその後ろ盾を失って壊滅的な打撃を受けて崩壊の危機に瀕した時期であったから、この天覧能の果たした役割は、決して小さくはなかったのであろう。

   文化デジタルによると、
   江戸時代、幕府や藩から保護を受けていた5座の役者は、明治維新で大きな打撃を受け、転職する人も多く出ました。維新の影響でワキ方の進藤流をはじめ、諸役の流儀がいくつも断絶します。しかし、岩倉具視をはじめとした新政府の有力者や華族、新興財閥などが能の新たな保護者となり、1881年[明治14年]に能楽社が設立され、芝公園内に芝能楽堂ができると、この舞台で多くの役者が芸を競いました。明治期に特に活躍した役者としては、梅若実・宝生九郎・桜間伴馬等が挙げられます。

   この明治9年の天覧能の経緯について、梅若実の「梅若六郎家の至芸」に書かれており、
   維新後に初めて天皇が叡覧した初日の行幸能、二日目の行啓能、三日目の台覧能と言う大掛かりな催しで、初世実に師事していた岩倉のいとこの坊城俊政が、この実務を取り仕切っていた宮内庁式部寮式部頭で、能楽者側の責任者として実を選んだ。
   実は、行幸・行啓・台覧能に出演して、能役者の手配など行い、その際、帰農・隠居していた宝生九郎知栄に入能として臨時に能を舞わせて、能楽界復帰を印象付ける演出で、復帰への道筋をつけたと言う。

   その苦難の能楽の歴史を回顧して、明治150年記念に際して、この明治期以降の「苦難を乗り越えた能楽」特別番組として、再興に貢献した梅若実・宝生九郎・桜間伴馬の子孫がシテを舞う「道成寺」を企画したと言うわけである。

   さて、「乱拍子」だが、まず、宝生流の時とは違って、人間国宝大倉源次郎の小鼓は、掛け声を長々と引いた迫力のある奏法で、殆ど動きのない銕之丞のシテ白拍子が、間欠的に響く長い掛け声とともに打ち鳴らされる小鼓に呼応して、一瞬、何かの気配を察知した獣のような俊敏さでキット身構えて、また、元に戻って殆ど静止した足取りで、延々と舞い続け、不気味な静寂が舞台を圧倒する。
   突然、囃子の位が速くなり太鼓も加わってアップテンポに急展開すると、足さばきが最高潮に達し、旋回するように激烈な舞い姿に転じて急之舞。

   「鐘入リ」のシーンだが、銕仙会の能楽辞典によると、
   異様な雰囲気を漂わせつつも、芸を重ねてゆく女。
やがて夜も更け、人々も寝静まった。隙を見て鐘に近づき、撞こうとする女。しかしそのとき何を思ったか、彼女は鐘を恨めしげに見つめると、鐘を掴んで引き落とす。その中に吸い込まれるように、女は姿を消すのだった。と説いている。
   これで、下掛りとは一寸違って、横から鐘に飛び込むのではなくて、鐘の下へ走り込み、鐘に両手を掛けて、「引き被きてぞ、失せにける」で飛びあがって消える。と言うのが良く分かる。
   あくまで、辺りを焼き尽くす業火の炎のよう煮えたぎった怨念に苛まれた白拍子は、自然に落下してくる鐘に飛び込んで消えるのではなくて、自分の意志で「鐘を掴んで引き落とす」のである。
   銕之丞の白拍子も、勢いよく扇で烏帽子を叩き落として、鐘の下に入って、両手を大きく広げて鐘の内側を支えて、飛び上がって消えた。

   ところで、いつも気になるのは、小さな鐘の中に取り込められたシテが、白拍子から蛇体に変身するのだが、般若の面や蛇体の衣装や錫杖など一切がこの鐘の中に収容されていると言うのだが、企業秘密だと言うことで、整った鐘は、渡された狂言方が厳重に守るのだと聞く。
   今回、シテが、鐘が引き上げられて、蛇体に変身して現れる少し前に、シンバルのような音が聞こえたのでびっくりしたのだが、これは、小型シンバル「鐃鈸」の音で、鐘の中からシテが準備が整ったと言う合図だと知ってなるほどと感心した。

   後シテが、橋掛かりを抜けるところで後見が唐織を引き三角形を見せて落とし(鱗落とし)、僧たちを追いかけて舞台に戻る途中に、シテ柱に巻き付いて蛇体を表現(柱巻)するのだが、宝生和英宗家の時には、シテ柱に体を預けて悶え苦しむ哀れな姿は、堪らない程妖艶で美しいと思ったのに比べて、銕之丞の場合には、最初はかなり淡白な表現であったが、シテ柱に背中をすりつけて、中空を仰ぎながら悶える姿は、正に圧巻で、これ以上の不幸を背負ったことがないと言った絶望に圧し拉がれた苦悶の表情をたたえてしばらくフリーズしていた姿は忘れられないほど感動的で美しいのである。

   連続2回、頂点だと思える「道成寺」を鑑賞する機会を得て、幸せであった。
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