この口絵は、ニューヨークのロックフェラーセンターの今年のクリスマス飾である。
GEの広報によると、電球3万個はすべてLEDで、電気は、背後のロックフェラープラザ45に設置された363枚の太陽電池による太陽発電で賄われていると言う。
時代も変わったもので、やはり、地球温暖化の影響であろう。
アメリカはブッシュ政権の方は煮え切らないが、民間や地方自治体など下からの環境保全運動が動き始めており、、クモよりも、頭はなくても自由に機能するヒドラの方が強い時代であるから、良い傾向なのであろう。
バチカンのローマ法王ベネディクト16世が、サンピエトロ広場での恒例のクリスマスメッセージで、世界規模での環境破壊の深刻さについて警鐘を鳴らした。
ところが、日本では、やはり、悲しいかな、体制派べったり業界シンパの人間もいるもので、最近、「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」とか言うペーパーバック本が売れているようだが、こと環境破壊問題、地球温暖化問題に限っては、誤解ウソ大いに結構で、行き過ぎくらいでないとダメであって、サステイナブルな地球環境保全運動には、迎合すれば迎合するほど良いと、私は考えている。
ニューヨークには結構出かけているが、まだこのクリスマス飾は見たことがない。
ロンドンのトラファルガー・スクウエアーの巨大なモミの木は、北欧から送られてくるようだが、この方は、私がロンドンに居た頃には、非常にシンプルでよかったと思っている。
最近、わが千葉の郊外でも、民家の庭に場違いと思えるほどの派手なクリスマス飾が設えられて夜の雰囲気を変えている。
不思議なもので、一軒がやり始めると次から次ぎに近所で広がり賑やかになる。
悪くはないが、元々、キリスト教や欧米の風習に縁がない人達の飾りつけなので、商業ベースに乗って煽られたデコレーションなりイルミネーションなので、一寸首をかしげるような飾り付けもある。
全く関係のない日本人が、クリスマスケーキを楽しむのなどもう日本の歳時記のようになってしまったが、キリスト教徒から見れば、欧米のオペラ劇場で演じられている和装の外人歌手のプッチーニの蝶々夫人のように見えている筈である。
私が、民家の庭のクリスマス・イルミネーションが、美しいなあと始めて思ったのは、1972年にフィラデルフィアで、院生として勉強していた頃であった。
大学のキャンパス近くやフィラデルフィア市内だけだったが、どこの家にも夫々趣向を凝らした飾り付けがなされていて夜になると美しく点灯されて夜の闇を輝かせていた。
庭には、キリスト誕生の馬小屋の風景や色々な逸話を物語にしたセットなどの飾り付けがなされていて興味深かったのを覚えている。
わがキャンパスの高層アパートの窓にも思い思いのイルミネーションをしている部屋もあった。
勉強勉強と単純な生活に明け暮れていた頃でもあり、冷蔵庫の底を歩いているような極寒のフィラデルフィア生活でもあったので余計にクリスマスイルミネーションが印象的に映ったのかも知れない。
ところが、私の記憶では、ヨーロッパに移り住んでからは、あまり、民家のクリスマス飾の記憶はない。
オランダのアムステルダムでもイギリスのロンドンでも、アメリカのようにどこの家庭でもといった飾りつけはなく、あってもちらほらと言う感じで、ヨーロッパでは飾り付けをしないのかと思ったような記憶がある。
しかし、街の中は結構クリスマスデコレーションには力を入れるようで、ロンドンなどリージェント・ストリートのイルミネーションは毎年趣向を凝らしており、何よりもショッピング・ストリートの名だたる店のショウウインドーの飾りつけは、人々の注目を集め楽しみにしている人が多い。
ハムリーズの前には、子供たちが群れており、綺麗に飾り付けられた小舞台のようなショウウインドーの中で人形や動物のぬいぐるみたちが踊っていたのである。
ところで、日本の年末年始の街頭風景だが、私が子供の頃はクリスマス前にはどこの街角からも派手なジングルベルの音楽ががなりたてており、年末には、秋葉原のアメ横のようなに賑わいがあったが、最近では、殆ど街全体がシラーットして季節感がなくなってしまった。
時代はどんどん移っているのである。
GEの広報によると、電球3万個はすべてLEDで、電気は、背後のロックフェラープラザ45に設置された363枚の太陽電池による太陽発電で賄われていると言う。
時代も変わったもので、やはり、地球温暖化の影響であろう。
アメリカはブッシュ政権の方は煮え切らないが、民間や地方自治体など下からの環境保全運動が動き始めており、、クモよりも、頭はなくても自由に機能するヒドラの方が強い時代であるから、良い傾向なのであろう。
バチカンのローマ法王ベネディクト16世が、サンピエトロ広場での恒例のクリスマスメッセージで、世界規模での環境破壊の深刻さについて警鐘を鳴らした。
ところが、日本では、やはり、悲しいかな、体制派べったり業界シンパの人間もいるもので、最近、「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」とか言うペーパーバック本が売れているようだが、こと環境破壊問題、地球温暖化問題に限っては、誤解ウソ大いに結構で、行き過ぎくらいでないとダメであって、サステイナブルな地球環境保全運動には、迎合すれば迎合するほど良いと、私は考えている。
ニューヨークには結構出かけているが、まだこのクリスマス飾は見たことがない。
ロンドンのトラファルガー・スクウエアーの巨大なモミの木は、北欧から送られてくるようだが、この方は、私がロンドンに居た頃には、非常にシンプルでよかったと思っている。
最近、わが千葉の郊外でも、民家の庭に場違いと思えるほどの派手なクリスマス飾が設えられて夜の雰囲気を変えている。
不思議なもので、一軒がやり始めると次から次ぎに近所で広がり賑やかになる。
悪くはないが、元々、キリスト教や欧米の風習に縁がない人達の飾りつけなので、商業ベースに乗って煽られたデコレーションなりイルミネーションなので、一寸首をかしげるような飾り付けもある。
全く関係のない日本人が、クリスマスケーキを楽しむのなどもう日本の歳時記のようになってしまったが、キリスト教徒から見れば、欧米のオペラ劇場で演じられている和装の外人歌手のプッチーニの蝶々夫人のように見えている筈である。
私が、民家の庭のクリスマス・イルミネーションが、美しいなあと始めて思ったのは、1972年にフィラデルフィアで、院生として勉強していた頃であった。
大学のキャンパス近くやフィラデルフィア市内だけだったが、どこの家にも夫々趣向を凝らした飾り付けがなされていて夜になると美しく点灯されて夜の闇を輝かせていた。
庭には、キリスト誕生の馬小屋の風景や色々な逸話を物語にしたセットなどの飾り付けがなされていて興味深かったのを覚えている。
わがキャンパスの高層アパートの窓にも思い思いのイルミネーションをしている部屋もあった。
勉強勉強と単純な生活に明け暮れていた頃でもあり、冷蔵庫の底を歩いているような極寒のフィラデルフィア生活でもあったので余計にクリスマスイルミネーションが印象的に映ったのかも知れない。
ところが、私の記憶では、ヨーロッパに移り住んでからは、あまり、民家のクリスマス飾の記憶はない。
オランダのアムステルダムでもイギリスのロンドンでも、アメリカのようにどこの家庭でもといった飾りつけはなく、あってもちらほらと言う感じで、ヨーロッパでは飾り付けをしないのかと思ったような記憶がある。
しかし、街の中は結構クリスマスデコレーションには力を入れるようで、ロンドンなどリージェント・ストリートのイルミネーションは毎年趣向を凝らしており、何よりもショッピング・ストリートの名だたる店のショウウインドーの飾りつけは、人々の注目を集め楽しみにしている人が多い。
ハムリーズの前には、子供たちが群れており、綺麗に飾り付けられた小舞台のようなショウウインドーの中で人形や動物のぬいぐるみたちが踊っていたのである。
ところで、日本の年末年始の街頭風景だが、私が子供の頃はクリスマス前にはどこの街角からも派手なジングルベルの音楽ががなりたてており、年末には、秋葉原のアメ横のようなに賑わいがあったが、最近では、殆ど街全体がシラーットして季節感がなくなってしまった。
時代はどんどん移っているのである。