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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

寅さんの「とらやのだんご」と赤福

2007年11月01日 | 経営・ビジネス
   インターネットの爆発的な普及等によって引き起こされたITブームだったが、ドットコム・バブル的要素が強く、IT関連投資と株式投資の異常に急速な膨張によったため、実体経済がついて行けずにITバブルで中断したが、
   その後、IC技術の本格的な産業への組み込み・活用によって、グローバリゼーションと呼応して、実質的な第3次産業革命とも言うべきIT革命に突入し、世界全体に高度経済成長時代を迎えるに至った。

   フリードマンの言うフラット化した経済社会の恩恵が世界中に広がって、産業構造や企業の実態が様変わりとなってしまったが、ある意味では、ITバブルがはじけた為に、ICコスト、すなわち、不況脱出のための企業の悪戦苦闘が幸いして、情報・通信関連コストが短期間に異常に引き下がったことが、大きくICT革命を促進したと言えるであろう。
   この安く早く厖大なキャパシティを有したIC技術が企業のビジネスモデルを大きく様変わりさせて、企業の生み出す財やサービスまで変質させてしまった。
   
   自動車などは機械と言うよりはエレクトロニクスの塊になってしまったし、小売店スーパーであったウォルマートはITを駆使するサプライチェーンの核に変貌してしまったし、金融なども金融工学がドライブするなど、何れの産業においても、最新の情報・通信技術を駆使してIC戦争に勝抜かなければ生きて行けなくなってしまった。

   さて、ここまでが一般的に言われている今日の経済産業社会であるが、
   果たして、渥美清の寅さんの世界である「とらやの草だんご」は、ICT革命の時代に、どう生きて行けるのであろうか。
   おいちゃんとおばちゃんが店先でだんごを丸めている家内工業であり、賞味期限の短い生もののだんごであるから、一日の生産量は極めて限られていて、本来なら、帝釈天の縁日の時などにはすぐ売り切れてしまうし、お寺の大量の注文にはおいそれと対応できない筈である。

   これと同じことが、不二家や赤福で起こっている不祥事の本質である。 
   2~3日しか日持ちのしない生もの製品を、遠隔地まで拡販販売し、毎日大きく変動する需要数に対応する為には、極めて厳しい限界があり、赤福など、伊勢神宮の特別な祭礼の時の需要を十分に満たすなどは、「つくり立て」「出来立て」を旨とする生もの販売である以上、冷凍保存して対応するか賞味期限を改ざんするか等しない限り出来る筈がないのである。
   したがって、私自身は、経済原則から考えても激しい需給の変動には耐え切れる筈がないので、売り切れ御免の販売を励行している店以外の生もの店の賞味期限表示は、あまり信用出来ないと思っている。

   冷凍・冷蔵システムの異常な進歩により、瞬間冷凍などの技術を活用すれば、生ものでも殆ど本来の質を落とさずに保てる段階まで来ているのだから、政府も、現実にあった制度を確立すべきであって、商品表示の問題ではない筈である。
   赤福の場合でも、可能ならば、出来立てと冷凍品と区別して表示させ、価格に差をつけるとかの適切な指導を行えば資源の無駄使いもなくなる筈であり、その選択は消費者に任せば良い。

   スーパーなど売れ残りの弁当を廃却するのが美徳のように言われているが、いくら飽食の時代であっても、世界中に何十億と言う餓死で死んで行く人々がいることを考えれば如何にも勿体なくて看過できない。
   先日、NHKのニューヨーク事情の放映で、フリーガン達が生ものゴミを漁って食材を集めて来て料理を作って豪華な(?)パーティを開いていたが、豊かな国では十分に活用できる物財が無尽蔵に廃棄されてしまっている。

   食料自給率が40%を切ってしまった日本である。
   昔、主食の豆が不作になってパニックのようになったブラジルを見ているが、一度、食料輸入に齟齬を来たせば、日本は干上がってしまう。
   何故、これほどまで、毎日のように食品に対する不当表示など不祥事が起こり続けるのか。
   もっと、本質的な日本の食糧事情をじっくり考えた対策を取るべき時期に来ているのではないかと思っている。

   そして、このとらやのだんごのように、ICT革命にはのらない大切なビジネスがあることも、忘れてはならないと言う気がしている。
   食の世界は、コンピューターでは賞味できないのである。

    

   
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