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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

NHK:サンクトペテルブルク 音楽の都300年の物語

2021年09月18日 | 学問・文化・芸術
   NHK BSPのプレミアムカフェで、2003年に放映された
   「サンクトペテルブルク 音楽の都300年の物語」の再放送の録画を見た。
   ピヨトル大帝から、エカテリーナ2世、革命から、レーニン、世界大戦による大空襲、苦難と栄光に満ちた「サンクトペテルブルク 音楽の都300年の物語」を、ギルギエフが、オペラやクラシック音楽に載せて情熱的に語る。
   オペラやコンサートの画像が、前世紀末の古い映像なので、ギルギエフも若く溌剌として居れば、MET売り出し前のネトレプコの美貌に魅せられる。
   
   
   さて、まず、私自身のザンクトペテルブルクの思い出だが、ロシアへは、2014年末に一度しか行ったことがなく、その紀行文は、このブログの「晩秋のロシア紀行」で詳しく書いている。
   本当は、1993年に、ロンドンからの帰任前に、休暇を取って、ロシアを歩きたかったのだが、丁度、ベルリンの壁が崩壊して、それに続いて、ソ連邦も崩壊して、その直後、政治経済社会が壊滅状態になって、ロシアの治安が最悪となり、外国人が旅をするなど考えられないような状態であったので諦めたことがあった。
   帰国後、ロンドンなどヨーロッパやアメリカ、中国へは行ったが、ロシアに行きたくて、やっと、2014年にJALパックに加わって行くことが出来た。

   私の場合、世界中をあっちこっちを歩いてきたが、長期旅行でも業務旅行でも、すべて、自分自身で手配していたので、このロシア旅行と最後の中国旅行は、団体旅行に便乗したので、自由が利かず苦痛であった。
   しかし、どうしても、ザンクトペテルブルクでは、マリインスキー劇場、そして、モスクワでは、ボリショイ劇場に行って、オペラかバレエを鑑賞したいと思った。
   まず、マリインスキー劇場のHPを開いて、1日だけ可能な日のプログラムを見ると、本劇場では、バレエの「ジゼル」、新劇場では、オペラ「鼻」が上演されていて良い席のチケットが残っていた。当然、クラシックな本劇場で観劇の雰囲気を味わいたいと思っていたのだが、予備にと思って、ダブルブッキングした。
   私は、ニューヨークのMETでも、ヨーロッパのロイヤルオペラは勿論、スカラ座やウィーン国立歌劇場、それに、チェコのプラハ国立劇場でも、どこでも、総て、直接、劇場のBOXオフィスに当たってチケットを手配してきたので、ロシアでは、ロシア語が出てきたり遣り方が違っていたが、全く、不安はなかった。

   欧米で10年、夜の観劇には慣れているのだが、やはり、ツアーとは別行動を取ったので、ツアーコンダクターの方が、気を使ってお世話くださり感謝と同時に、申し訳ない気持ちでもあった。
   本当なら、ザンクトペテルベルクに到着した日、ギルギエフ指揮で、オペラ「戦争と平和」を上演しており、ホテル着で車を飛ばせば開演1時間くらいは遅れても、最後の幕くらいは観劇できそうだったので、行きたかったが、こう言うときには自由旅行ではないのでダメである。
  
   当然、サンクトペテルブルクの音楽劇場と云えば、マリインスキー劇場で、ロシアの音楽やオペラのシーンなど、この劇場でのギルギエフ指揮の映像が随所に登場してくる。
   現在では、ギルギエフもネトレプコも、私など、METライブビューイングや、ヨーロッパでの舞台姿を観ることが多いのだが、この前世紀最後の頃は、やはり、世界的と云うよりは、ロシアの最高峰の音楽家であって、舞台も、その方が主体だったのであろう。
   ギルギエフのサンクトペテルブルクへの限りない誇りと熱い思いに感動しながら観ていた。
   
   

   たった3日間のサンクトペテルブルクでの滞在であったが、都市景観や街の雰囲気など、殆どヨーロッパの古都と違った感じはなく、革命などソ連時代の開発遅れで、逆に昔の面影を色濃く残していて、タイムスリップしたような懐かしさを感じて、不思議な感慨にふけったのを覚えている。
   ヨーロッパの先進国へキャッチアップしようと必死であったドイツ人のエカテリーナの思い入れがあったからでもあろうか。
   エルミタージュは圧巻であった。

   よく知らなかったのだが、19世紀後半のロシア音楽の黄金時代の5人組やチャイコフスキーの活躍の舞台が、サンクトペテルブルクであったこと、
   ショスタコーヴィチがスターリンに嫌われたこと、第7番「レニングラード」が、ナチ・ドイツの爆撃の最中に作曲されたこと、
   音楽史を紐解きながら、素晴しいロシアの音楽風景を交えた1時間半の「音楽の都サンクトペテルブルク300年」の物語で、非常に興味深かった。

   
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フェルメールの原画が蘇った

2021年08月25日 | 学問・文化・芸術
   朝日が、「壁からキューピッド現る フェルメールの絵画修復が完了」
   産経が、「フェルメールの絵画、完全復元 幻のキューピッドよみがえる」と報じた。
   ドイツのドレスデン国立古典絵画館は24日、所蔵する17世紀のオランダの画家フェルメールの絵画「窓辺で手紙を読む女」の修復がすべて終わり、もともと描かれた恋愛を象徴するキューピッドが上塗りして隠されており、3年前から塗られた絵の具の層を取り除く作業が続けられていて、キューピッドが現われたオリジナルの作品を、9月10日から一般公開すると発表した。と言うのである。
   画像をインターネットから借用して表示すると、次の通りで、その違いは鮮やかである。
   
   
 
   何故、キューピッドが消されたのか分からないが、ザクセン選帝侯アウグスト3世のコレクションであったらしい。
   ウィキペディアによると、
   ルベルト・スナイデルはその著書『フェルメール、1632年 - 1675年 (Vermeer, 1632–1675 )』(2000年)で、開かれた窓について家や社会など「この女性が自身の置かれている境遇から逃れたいという願望」ではないかとし、果物は「不倫関係の象徴」だと主張した。さらにスナイデルはこの説の証拠として、X線を使用した調査でこのキャンバスにもともとはキューピッドが描かれていたことが判明したことをあげている。下絵の段階では画面右上にプットー(裸身の幼い天使)が描かれていたが、絵が完成した後のフェルメール死後に何者かによって塗りつぶされており、近年それを取り除く作業が行われている。
   マルクス・ガブリエルは、女の服と開かれた幕の色が同じであることから、鑑賞者は無防備な女の裸を窃視することになり、食べかけの桃が果物皿からこぼれてベッドに乱れて転がっている状態は性的暗示であり、女が光源の方向を向かずに頬を紅潮させていることから、神への罪悪から目を背けているのだと精神分析的に解釈している。
   そのような専門的な話は、良く分からないが、キューピッドがあるかないかによって、繪のイメージなり印象が随分変ってくることは事実である。
   ダ・ヴィンチにもミケランジェロにも言えるのだが、後に、手を加えられている名作が結構多いのだが、修復復元作業の貴重さが良く分かって面白い。

   さて、余談だが、私が初めてフェルメールの絵に接していたく感激したのは、1979年、アムステルダム国立美術館で「牛乳を注ぐ女」を観た時である。
   メイドが、牛乳をずんぐりとした陶器に丁寧に注ぎ入れている繪だが、オランダ典型のリンネルのキャップに、青いエプロン、肘まで捲りあげた分厚い作業着を着た健康そうな女性。この芥子色の上腕と捲りあげて層になった緑系統の微妙な色彩の醸し出すハーモニー、かすかに光っていて、眼を奪われてしまったのである。
   この美術館にはフェルメールは4点しかないが、ハーグのマウリッツハイス美術館の3点を皮切りに、ロンドン、パリ、ドイツ、ニューヨークと、手当たり次第に美術館を回ってフェルメール行脚、35点しか残っていないフェルメールを、ほぼ、30点くらいは観る機会を得た。
   

   オランダに、3年住む機会を得たので、フェルメールの故郷デルフトをよく訪れた。
   この口絵写真のフェルメールが描いたデルフト風景が、今でも、そのまま残っている。
   フェルメールは、この絵のように、左壁面の窓際に佇む人物を描いた繪が多いのだが、デルフトに行くと、昔の民家の雰囲気は全く変らず、電光などなく、薄暗い部屋を小さな窓から自然光で臨む雰囲気は繪の通りである。
   民家に入る機会は少ないので、デルフトに行くと、そのようなフェルメールの絵が醸し出す雰囲気の残っている小さな鄙びたレストランで、時間を過ごすことにしていた。


   この作品だが、第二次世界大戦中のドレスデン爆撃の被害の戦禍を避けるために他の美術品とともにザクセンスイス の坑道に保管されていたのをソ連赤軍がこれらを発見し接収したのを、スターリンの死後、当時の東ドイツに返還された。ドレスデンの、ツヴィンガー城 の中庭に面して、北側は歌劇場ゼンパー・オーパーに隣接したアルテ・マイスター絵画館、すなわち、このドレスデン国立古典絵画館に展示されていると言うことである。
   ベルリンの壁が崩壊した直後、東ドイツ視察時に、ドレスデンを訪れて、半日、この美術館で過ごしていたので、間違いなしに、この絵を見ているはずである。
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ネフェルティティの実像は

2020年09月05日 | 学問・文化・芸術
   インターネットを叩いていると、ベルリン博物館にあるトトメスのネフェルティティ像によく似た生身の口絵のような写真が現れた。
   やはり、直感は当たっていて、「ネフェルティティの本当のイメージ」と言うことで、
    3Dイメージ技術を使用して、ネフェルティティのものであるとされている「若い貴婦人」のミイラの顔をスキャンしてデジタルマッピングした。このミイラの本当の正体に関してはまだ議論がされているが、ミイラの顔がスキャンされた後、ネフェルティティの歴史的なイメージに基づき、古美術家のエリザベス・デインズが500時間を費やして顔を再現。と言うのである。
   ネフェルティティの肌の色に関して様々な議論が飛び交っているのだが、古代エジプト人はヨーロッパ人と近い関係にあり、皮膚の色素も薄かったという説もあれば、また色もさまざまで、茶褐色から赤や黄色まであった。と言うのだが、この像では、白人と言うよりは褐色の肌に近い。

   ネフェルティティ(Nefertiti、NeFeRTiTi)は、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオであったアクエンアテン(aKH-eN-aToN, イクナートン)の正妃であり、ファラオ・トゥト・アンク・アメン(TuT-aNKH-aMeN, ツタンカーメン)の義母である。
   ネフェルティティは、「古代エジプトの3大美女」の1人で、他の2人は、紀元前1世紀、プトレマイオス朝の女王クレオパトラ7世、紀元前13世紀、第19王朝の大王ラムセス2世の正妃ネフェルタリ。
   下記の写真は、ネフェルティティの胸像で、ドイツ人考古学者ルートヴィヒ・ボルヒャルト主導のドイツ・オリエント協会 によって、1912年12月6日にナイル川河畔のアマルナの彫刻家トトメスの工房跡で発見され発掘された。
   私は、ベルリンの壁崩壊前に、ベルリンの旧博物館のこじんまりしたエジプト博物館で観たのだが、小さなホールに1体だけ中央に飾られていたので、ルーブルのミロのヴィーナス像のように、くるくる、像の周りを回りながら、沢山の写真を撮った。現在は、ベルリン博物館の至宝として展示されているのだが、大英博物館のパルテノンのエルジンマーブルをギリシャが返せと言っているように、この胸像もエジプトから返せと言われていると言うから興味深い。
   このネフェルティティの胸像は高さ47cm、重さ約20kgほどで、石灰岩を芯として彩色された化粧漆喰 (Stucco) が被せられて作られている。完全に左右対称となっているのだが、右目の瞳は黒く塗られた石英の象嵌がはめ込まれ、蜜蝋で固定されていルにも拘わらず、左目の眼窩は彩色されていない石灰岩のままとなっている。元は象嵌がついていて、剥がれたとして探したのだが、見つからなかったという。紀元前1345年に制作されたと言うから、3000年以上も経つのだが、彩色も綺麗で鮮やかな像で、ネフェルティティの色香さえ漂わせた妖艶な彫刻であった。
   

   このような歴史上消えていった偉大な人物の復元像が現れて、マダム・タッソー館(Madame Tussauds)に展示されるようになれば、非常に面白いと思った。
   

 
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アヤソフィアのコンスタンチノープル

2020年08月01日 | 学問・文化・芸術
   ローマ帝国だが、395年に東西に分裂し、486年に西ローマ帝国は消滅したが、その後、1000年の命脈を保っていた東ローマ帝国も、首都コンスタンティノープルが、1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世によって陥落して、権勢を誇ったローマ帝国が歴史から消えていった。
   この時、イスラム化と共に、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルにおけるキリスト教正教会の大聖堂として建設され、帝国第一の格式を誇る教会であったハギアソフィアが、アヤソフィアとして、モスクに改装されて、500年後、新生トルコの時に、博物館となった。
   その間に、漆喰などで塗り固められて消えていた往時のキリスト像などのモザイク画が現れて今日に至っている。
   ところが、最近、エルドアン大統領が、アヤソフィアを博物館からイスラム教の礼拝所であるモスクに変更して、86年ぶりとなる金曜日の集団礼拝が行われたのである。

   さて、今回は、このアヤソフィアを問題にするのではなく、東ローマ帝国の帝都であって、後のオスマントルコの首都でもあったコンスタンチノープル、今日のイスタンブールが果たした東西文化文明の十字路であった貴重な存在が、イタリアルネサンスに大きな影響を与えていることについて、考えてみたいのである。

   まず、「芸術都市の創造」の中で、樺山紘一教授が、「芸術都市の背景にあったもの」の中で、ルネサンスに大きく貢献したフィレンツェのメディチ家の役割について語っている。
   15世紀から16世紀にかけてメディチ家は、自らの膨大な財力と芸術的な霊感によって、多くの芸術家を支援して、建造物、絵画、彫刻、工芸品その他に至るまで、素晴らしい芸術作品を作り上げた。

   重要なことは、1440年から1450年代にかけて、メディチ家は、当時、フィレンツェやトスカナ地方などイタリア全土に流入していた、ヨーロッパ各地の修道院や大学で長く制作されてきた数多くの書物(写本)の収拾に当たり、それ以外に、コンスタンチノープルからイタリアに流入してきた多数のギリシャ語やヘブライ語の古典にかかわる写本も多く含まれていたと言う指摘である。
   丁度、オスマントルコの侵入によってビザンチン帝国(東ローマ帝国)が崩壊した時期でもあり、そこの長らく蓄積されてきた写本が数多くイタリアへ流入してきたのである。
   それらの写本を、メディチ家の当主は、邸宅や別荘、菩提寺であるサン・ロレンツォ聖堂二階のラウンツィーナ図書館などに蓄積して、学者たちの活動の場として公開し、これらの書物を読み解く作業を行った。
   この時に、ギリシャ語からラテン語に翻訳された古代ギリシャのプラトン哲学が、新プラトン主義として、ミケランジェロのサン・ロレンツォ聖堂の作品に影響を与えるなど、大いに知的武装に作用するなど、多くの学者を糾合して取り組んだ写本の蓄積とその研究が、イタリアルネサンスの極めて大きな推進力になった。と言うことである。

   また、樺山教授は、別な講演会で、 当時のイタリアの学問体系が、イスラムに極めて近かったのは、東ローマ帝国のギリシャの学者たちが、最先端を行くイスラム科学や文学等学問や芸術の翻訳文献を持ち込むなどして、大きく影響を与えたと述べており、
   スペインの古文献学者アシン・バラシオスが、ダンテを研究し、「神曲」は、イスラムから霊感を得たと解釈していると言う学説を紹介して、永遠の女性と人間の聖化、地獄と煉獄の宇宙など、イスラムと共通だと述べている。
   その時に、同席していた田中英道教授が、ダ・ヴィンチの母親はイスラム人で、ダ・ヴィンチの指紋はイスラム人のものであることが分かったと付け加えた。
   いずれにしろ、コンスタンチノープルを支配したイスラム文化文明は、当時最高峰の水準であり、さらに、ギリシャ文化文明をそっくり継承したような形であったから、ルネサンス時代に、このコンスタンチノープルが伝播招来した文化遺産が、フィレンツェなど新興のイタリア文明に与えた影響には計り知れないものがあったのである。

   私は、初めてイスタンブールを訪れたとき、アヤソフィアやトプカプ宮殿など歴史遺産を精力的に歩いたが、一番印象に残っているのは、ヨーロッパ側のホテルの大きく開いた窓から、対岸のアジア側のウスクダラの夜景を眺めながら、真っ暗に横たうボスポラス海峡の水面に揺れる月光の美しさを実感し、東西をつなぐ歴史的な文明の十字路に立っているのだという言い知れぬ感動であった。
   次の機会に、ボスポラス海峡のルメリ・ヒサル要塞巡りで、対岸のアナドル・ヒサルで、初めてアジア側に接近したのだが、この時ほど、東西交流の歴史の重さを感じたことはなかった。
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首里城焼失、世界遺産とは

2019年11月07日 | 学問・文化・芸術
   琉球の魂とも言うべき首里城が、業火にみまわれ、焼失した。
   失火原因は、正殿の電気系統が濃厚で、配線にショート痕があったと言うことであるから、悲しいことに、完全に人災である。

   もう、20年以上になるが、沖縄に出張して、休日に、首里城を訪れて半日を過ごし、琉球・沖縄の歴史に思いを馳せた。
   新しい建物であったが、威厳と風格のある立派な佇まいは、強烈に印象に残っている。

   首里城跡地も世界遺産に認定されているのだが、先にレビューした東大の「ブレイクスルーへの思考」の中で、西村幸夫教授が、日本の世界遺産について興味深い話をしている。
   世界遺産は、アスワンハイダムの建設で水没するアブシンベル神殿を守ろう、「世界の宝を守る」と言う運動を皮切りに始まった。
   最初は、ヨーロッパの感覚で価値を評価して認定されるのは石造りの教会やモニュメントなどヨーロッパのものばかりであったが、日本は木造だし、中東は日干し煉瓦だが、これらにも価値がある筈だと、多様に観なければならないと価値の転換が起きた。
   1992年に、日本が世界遺産条約に参加するようになって、ヨーロッパと日本の、文化に対する感覚が全く違うと言うことが認識されるようになった。
   日本の建造物は、割とコンスタントに細かな修理をして保たせている。柱を丁寧に補修しながら、腐りかけたら取り換える。壁は取り換えていいんだという感覚である。
   木造の建物の保存は100年ほど前から組織的に行っており、技術者育成も以前からずっとやっていて、修理についても何百年にわたって続けてきており、東照宮の場合など17世紀ころから行われてきた修理の資料がすべて残っていて、資材は新しく変わっていても、技術そのものは連綿と続いているわけで、ヨーロッパの石の古さは物が古いと言うだけで、日本は技術が古いのであって、どっちが良くてどっちが劣っていると言えますか、と言うわけである。

   さて、首里城は、1980年代末から本格的な復元が行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。
   2000年(平成12年)12月に、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡」であって、復元され今回焼失した正殿などの建物や城壁は世界遺産に含まれていない。 と言うことである。
   しかし、西村教授の言に従えば、正殿などの建物は、十分に、世界遺産の資格はあるであろう。

   ところで、焼失前の首里城の復元にかかった総事業費は1986〜2018年度の33年間で約240億円に上った。と言うから、それ以上のコストがかかるかもしれない。
   辺野古移設の膨大な支出を考えれば、そして、沖縄のことを本当に思うのなら、超法規であろうとも、沖縄の魂である首里城を、早急に、復元すべきであろうと思う。
   文化遺産と言うものは、途轍もない精神的支柱となるのである。

   私と沖縄との接点は、何度かの沖縄旅行の思い出と、組踊と琉球舞踊、
   組踊は、琉球音楽にのせて演じる沖縄独特の歌舞劇で、能の名曲をテーマに脚色した舞台が多いようで、私は、2016年1月に、横浜能楽堂で、能「羽衣」を模した組踊「銘苅子」を見て、その優雅で美しい舞台に感激して、それ以降、関東地方で、行われた組踊と沖縄舞踊を、知る限り鑑賞している。
   最近では、今年の3月に、国立劇場で、天皇陛下御在位30年記念、国立劇場おきなわ開場15周年記念、組踊上演300周年記念実行委員会共催事業と銘打っての記念公演、天皇皇后両陛下がご来臨になった天覧公演で、組踊「辺戸の大主」組踊「二童敵討」を鑑賞しており、
   今月下旬の国立能楽堂の公演 組踊「銘苅子」と組踊「二童敵討」を、その原曲の能「羽衣」と能「放下僧」とを鑑賞することにしており楽しみにしている。
   首里城を舞台に演じられば、いかばかり素晴らしいか、思いを馳せている。
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ダンテ「神曲」:パオロとフランチェスカ

2019年07月29日 | 学問・文化・芸術
   ダンテの「神曲」は、壮大な詩編だが、最初から最後まで、空想の世界である。
   理解しようと思っても、中々難しくて、どうしても、これまで、あっちこっちで見た絵画や映画、オペラや劇などの視覚経験から、想像したりイメージしたりする以外に方法がない。
   
   ダンテの「神曲」の絵画については、ボッティチェリに、素晴らしい作品があることを知っていたが、洋書では取得可能なのだが、非常に高く、和書でないかと探していたら、国会図書館のアーカイブ資料で、中山昌樹編・新生堂版「ダンテ神曲画集」で、ギュスタヴ・ドレエの135枚が収録されていたので、これなら手に入ると思った。
   1926年出版であるから、完全に古書で、アマゾンや日本の古本屋などでチェックしたらあることはあったのだが、程度が分からないので、一番新しい昭和17年版の本を買った。
   本は、箱入りで特に問題はなく、とにかく、後期高齢者となった本であるから、経年の衰えは避け難く、殆ど褐色で、絵画のページは、やや良質の紙なのでまずまずだったが、印刷が悪いのか、インターネットの画像程ビビッドではないのが難点。
   しかし、絵画1枚毎に、その絵の説明として、神曲の訳文と簡単な説明が付されているので、理解するのには重宝で、絵を見ながら、読んでいると、少し、去年読んだ「神曲」を思い出した。
   それに助かるのは、どの訳本や説明文にも「神曲」の原文の何行目かを表示されているので、直ぐに、フォローできることである。

   私が、ダンテの「神曲」の絵画で、真っ先に思い出すのは、ルーブルにあるウジェーヌ・ドラクロワ の「地獄のダンテとウェルギリウス」
   ダンテとウェルギリウスがプレギュアスの漕ぐ船で地獄の世界ディーテを取り囲む湖を渡っているところで、湖の中では亡者たちが苦痛に身を捩り、小舟にしがみついて地獄から逃れようとしている凄い迫力のある絵である。
   何回か見ているので良く覚えているが、ダンテの「神曲」地獄編に触れた最初のイメージである。
   

   さて、今回話題にしたいのは、パオロとフランチェスカのことである。
   先のドレエの画集に、この二人の絵が、4枚も描かれていて、その一枚が、口絵写真の美しい絵である。
   地獄編の第五歌 第二の谷の中空には、肉欲の罪を犯した者が、地獄の颷風に煽られて吹きまわされている代表としてセミラミス、ヘレネ、クレオパトラ等に引き続いて、フランチェスカの愛の軌跡を描き、嵐の中で、理性を省みずに己の情熱に身を任せて罰を受ける恋人たちとの出会いを語る。

   フランチェスカは、ラヴェンナ領主グイド・ダ・ポレンタの娘だが、政略結婚で、リミニ領主ジョヴァンニ・マラテスタに嫁がせることにしたのだが、ジョヴァンニは、足が不自由で容姿は醜かったので、ジョヴァンニのハンサムな弟パオロ・マラテスタを替え玉にして結婚式をあげ、フランチェスカは翌朝まで知らなかった。
    ある時、フランチェスカとパオロは、2人でランスロットとグイネヴィア王妃の物語を読んでいて互いに惹かれ合い、パオロはフランチェスカを抱き寄せ、その直後、2人の密会を物陰から盗み見ていたジョヴァンニが、2人を殺害する。
   そんな話であるが、「神曲」では、風に乗っていとも軽やかに飛んで近づいてきた二人に、ダンテが尋ねると、フランチェスカが、パオロとの愛の経緯を語り、二人の魂はしみじみと泣くので、ダンテは、哀憐の情に打たれて卒倒する。

   ルーブルにあるアリ・シェーフェルの「パオロとフランチェスカ」も、素晴らしく美しい。
   秘的でメランコリックなシェーフェルは、魂の奥深い感情を描き出しながら、精神的な解釈を提示しており、2人を永遠に彼岸で結びつけている感情を通して、神聖なる精神を具現化している。と言う。
   

   フランチェスカは、ダンテの同時代人である。
   ベアトリーチェへの思いが冷めやらぬダンテであるから、フランチェスカへの思い入れにも一入のものがあったのであろう、このパオロとフランチェスカの叙述は、第五歌のメインを占めていて、地獄とは思えないほどきれいな叙述で、ゲーテの恋人たち(ファウストとマルゲリーテ)、シェイクスピアの恋人たち(ロミオとジュリエット)のように、ダンテの恋人たち(パオロとフランチェスカ)は、多くの画家にインスピレーションを与えている。
   フランチェスカは、自分たちの死については、愛は二人の死へ導いたと述べただけだが、私どもの命を奪ったものは必ずやカインの国へ落ちるでしょう。と結んでいる。  
   ドミニク・アングルの「パオロとフランチェスカを発見するジャンチョット」が面白い。
   

   ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの「パオロとフランチェスカ」は、自分の名前をダンテにしたくらいであるから、「神曲」を熟知している。
   ダンテとウェルギリウスを真ん中にして、二人の天国と地獄を描いている三連の絵が面白い。
   

   ロダンには、地獄の門に「パオロとフランチェスカ」を、そして「接吻」にイメージを与え、
   チャイコフスキーも幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」を、ラフマニノフはオペラ「フランチェスカ・ダ・リミニ」を作曲するなど、芸術家を触発して多くの作品を残している。
   
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宗左近:「モナ・リザ」は何を語るのか

2019年07月03日 | 学問・文化・芸術
   宗左近の「美の中の美」と言う本、1992年に、14年前の作品を再出版したと言うから、40年も経った随想集だが、古い蔵書は殆ど処分した筈が、偶々残っていて、時々、ページを繰る。
   結構面白いのだが、最近、レオナルド・ダ・ヴィンチの本を読んだ後だったので、”「モナ・リザ」は何を語るのか”と言う随想が気になって読んでみた。

   特に、得たものは何もないのだが、面白いので記してみる。
   その前に、この「モナ・リザ」が、1974年の5月に来日したようだが、知らなかったのは、丁度、ウォートン・スクールの卒業式でフィラデルフィアに居たからで、その前々のクリスマス休暇に、パリで観ているので、まず、良いかと思ったことと、その後、ヨーロッパに赴任したので、何度も観ていると言うこと。

   「モナ・リザ」の前に立つと、何時もウーンとうなってしまい、、長い間、・・・1時間以上、身動きすることができない。勿論、作品がわたしに魅入ってしまい放さないからです。
   まず、この作品には、したたかな実在感がある。
   この婦人像には、どうやら正確すぎるところがあるのです。
   ほほえんでいるのか、いないのか。さそいかけているのか、いないのか。・・・表情の意味は、ひいては見る人の感覚は、いわば宙吊りになって、・・・眩暈に似たものが生まれてくる。惑乱です。それも、静かで冷たい惑乱です。
   いったんこの魅惑の中に揺れ始めてくると、悩ましいことが相次いで起こってきます。・・・「完璧」。それが、見る人から落着きを失わせて来るのです。
   そのじりじりのさなかで、ある瞬間、ふっと気付くのです。・・・この女性はわたしと直接の交流がなかったのだ、そのせいだったのか。
   モナ・リザを前にしてのじりじりは、西洋に来て一ヵ月あまりに日本人の男性コンプレックス的ノイローゼ状態に似ていなくもないのです。(以下、男女の営みについて3ページほど書いているのだが、私には、全く意味不明。)

   沢山の「モナ・リザ」論があるが、一番感心したのは、横山隆一の「モナ・リザは個人ではなくて、モンタージュである。」と言う言葉で、自分の考えも、そう違ったものではなく、付け加えておくべきは、「モンタージュだと言うことは、この婦人像が作者の呈出した女性の典型だということ、あらゆる点で、もっとも女性らしい女性の代表だとして、作者がおのれの責任において差し出したものだと言うことです。」

   もう一つ面白い指摘は、「その作品が、二次元空間の閉じ込められている人造人間だと、言うこと、つまり、モナ・リザ像は、危うく、生きている・・・もしも、そうならば、レオナルド・ダ・ヴィンチは神に近い、と言うことになり、その作品世界においては神は死んでいる。」
   「モナ・リザ像の前に立つと、身動きできできなくなる。そして、恐怖にしびれてくる。その恐怖とは、作品から放射して来る否応ない神の不存在なのです。」と言う。

   見る人の感覚が宙吊りになって眩暈に似たものが生まれるのは、当然すぎるので、それが作者の企図なのです。
   この作品の前に立つ人が味わわされるのは、つまりは、明るい不安感です。
   「美は人を不安ににする。」「美は人を沈黙させる。」
   美は、むしろ、不安と沈黙とを媒介として、人間になにごとかを告げてくれるものなのです。
   以上が、宗左近の「モナ・リザ」論である。

   ところで、作者は、中学生の頃、同級生の妹に恋をした話から、この「モナ・リザ」の文章を書き起こして、若くして逝った彼女に、モナ・リザ像の複製画を見て会う。
   一言も言葉を交わすことなく思い詰めた乙女が若くして逝き、モナ・リザ像で再会する・・・なにか、天国で再会したダンテとベアトリーチェとの話のようだが、
   オスカー・ワイルドの「自然が芸術を模倣する」を引用して、西洋のルネッサンスのイタリアに「モナ・リザ」が制作されたからこそ、20世紀の東洋の日本の片田舎にそっくりの少女が育ったのです。と言う。
   美は人を不安にし、人を沈黙させる、そのことによって、美は人の深いところに働きかけて、眠っているものを目覚めさせる。
   美の力の凄さの一つは、そこにあると思えてなりません。と結んでいる。

   面白い論評だが、私には良く分からなかった。
   素晴らしい、凄い絵を観た。
   それで良いのではないかと思っている。
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R. ターガート マーフィーの京都タワー嫌い

2019年04月19日 | 学問・文化・芸術
   先に論じたR. ターガート マーフィーの「日本‐呪縛の構図」の中で、マーフィーは、日本の戦後の経済成長の代償として、日本の伝統文化の軽視などを論じていて、最も深刻な問題の一つは、芸術や文化の世界だけではなく、もっと広範な意味での日本文化で劣化と荒廃が進んでいることだ。と言う。
   ・・・きわめて人目を引く例は、京都の景観を損なう白い円筒状の異物と言う具体的な形をとって目の前に現れた。として、京都駅前に立つ京都タワーを糾弾している。

   応仁の乱で、荒廃して廃墟のようになった京都を、秀吉や徳川歴代将軍が復興に多大の努力を費やし、ルーズベルト大統領も、京都の建築物と文化遺産がいかに貴重であるかの指摘に耳を傾け、空襲で破壊されることを思いとどまって、せっかく、人類文明の最も重要な遺産を必死に守り、古い街並みは傾斜した屋根が見渡す限り続き、ところどころ優美な五重塔や寺院の門で途切れているだけで、素晴らしく均整の取れた景観を形作っていたのを、京都タワーは台無しにしてしまった。と慨嘆し、
   それをきっかけに、最早破壊行為に歯止めが効かなくなり、何ブロックにもわたって続く美しい町家や商家は次々に取り壊され、近代建築の粋を凝らしたとは言い難い醜悪で凡庸なビルや、電信柱と絡み合う電線の束に取って代わられた。として、
   美的感覚や歴史を重視する人々の意思を無視して、日本政府の無策や国民の無関心などによって、どんどん、日本文化と歴史が営々と築き上げてきた景観や美観を破壊し続けていると、説き続けるのである。
 
  ウィキペディアによると、京都タワーは、ル・コルビュジェ、ヴァルター・グロピウス、エーリヒ・メンデルゾーン等に影響を受けたモダニズム建築を実践した山田守の設計で、
   政財界中心の建設推進派と、学者や文化人主導の反対派が世論を二分して議論されたが、これは都市の美観論争として日本で初めてのことだったと言う。
   その前後に京都で学生生活を送り、工事中にタワーの中にも入って見ているので、知らないわけでもなく、超保守的で、逆に、強烈な左翼勢力の強い京都で、よく、このような奇天烈な塔が建ったなあと不思議に思ったのを覚えている。
   
   しかし、 ターガート マーフィーの見解は、分からない訳ではないが、やや、独善的気味で言い過ぎだとは思う。
   世界の歴史的な都市を見ても、 例えば、ドイツの街を筆頭にして、ターガート マーフィー流の見方をすれば、旧市街は、中々、雰囲気があって美しいが、その外側の戦後復興建設された新市街の開発は、日本の場合と同じで、決して美しくもモダンで感興をもよおすような景観美を備えたものではないことは、周知の事実であろう。
   ただ、欧米のように、新築及び増改築などについては、許可基準が厳格で美観も考慮され近隣の同意条件も厳しいのと比べて、日本の建築許可は、景観美などを殆ど顧慮せずに建築基準を満たして居れば簡単におりているようで、街並みは無茶苦茶であるし、安普請の建築物の景観などは相当ひどいことは事実である。
   それに、電信柱や電線、それに、無秩序な看板やネオンなどの存在は致命的で、欧米と比べて、都市景観が、美しくないことは事実であろう。

   さて、都市景観であるが、今ではパリの象徴のように有名なエッフェル塔でさえも、当時は、あまりにも奇抜な外見のために、賛否両論に分かれ、建設反対派の芸術家たちが連名で陳情書を提出したと言われており、ギー・ド・モーパッサンなどは、反対派の最右翼だったと言う。
   突然出現した斬新なデザインの建築物が、賛否両論を巻き起こしながら出現し、その後、長い歴史に風化しながら都市景観を醸成して行き、都市美を形成して行く、
   それを、我々現在の人間が評価して、楽しんでいると言うことであるから、歴史の風雪に耐えて生き抜いてきた建造物には、文化財の価値があると言うことであろう。

   ところで、興味深いのは、ノートルダムの再建についての動向で、
   NHK BS朝のフランス放送局のニュースで、火災で崩れ落ちたノートルダム寺院の新しい屋根と尖塔のデザインを公募する計画を発表したことを受けて、超モダンな尖塔絵を合成したデザインを放映していた。 
   AFPBB Newsの「寄付と再建方法で論争 ノートルダム火災、仏社会結束ならず 」にも、このトピックスに触れて、次のようなコメントが記されていた。
   保守派の政治家らは18日、大聖堂に近代的な建築物が加わる可能性に懸念を示した。政府はこれに先立ち、新しい屋根と尖塔のデザインを公募する計画を発表。マクロン氏は再建を5年で完了する目標を定め、「近代建築の要素も想像できる」と述べていた。極右政党「国民連合(National Rally)」のジョルダン・バルデラ(Jordan Bardella)氏は仏ニュース専門局LCIに、「この狂気の沙汰を止めよう。私たちはフランスの文化財を絶対的に尊重する必要がある」と述べ、「現代アートとやら」が加えられるかもしれないとの考えを一蹴した。

   斬新で奇抜なデザインの建造物には、賛否両論が渦巻き続けるのは、必然の推移。
   フランスでも、ルーブル美術館の中庭に、巨大なガラスのピラミッドが建設されるなど、木に竹を繋いだような歴史的建造物が生まれている。
   これからも、どんどん、近代的なモダンで技術の粋を体現した建物が生まれてくるのだろうと思うと、わくわくする半面、歴史的文化財とは、一体何であろうかと、考えざるを得なくなる。
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ダンテにとってのベアトリーチェ

2018年08月13日 | 学問・文化・芸術
   ダンテにとっては、やはり、ベアトリーチェ。
   まず、口絵の絵だが、ヘンリー・ホリディが、1883年に描いた「聖トリニータ橋でのダンテとベアトリーチェの邂逅 Dante meets Beatrice at Ponte Santa Trinità」(リバープール国立博物館蔵)
   ヴェッキオ橋の近くのアルーノ川河畔で、ダンテが、18歳の時、2回目に、愛するベアトリーチェに会った運命的な出会いの瞬間を描いたものである。
   ホリディは、時代考証のために、1881年に現地へ出向いて調査して、ヴェッキオ橋とトリニータ橋との間はレンガ舗装されており、左右に店舗が並んでいたこと、そして、水害で崩落したヴェッキオ橋が、13世紀末には再建されていたことなどを調べて、絵に描いている。
   アルーノ川の聖トリニータ橋のたもとで、二人の女友達にはさまれて歩いているベアトリーチェに再び逢ったが、その時彼女は、ダンテを意識して優しく優美に会釈した。と言うのだが、この絵で見る限り、魅力的な女性像ではあるものの、じっと見つめるダンテに目もくれず、つんとすまして通り過ぎて行こうとする雰囲気である。

   さて、「神曲」でのベアトリーチェだが、
   前述のベアトリーチェをモデルにしたという実在論と、「永遠の淑女」「久遠の女性」としてキリスト教神学を象徴する象徴論があるようだが、難しい話は別として、前者では、ベアトリーチェを、ダンテは「永遠の淑女」として象徴化しており、後者では、ダンテとベアトリーチェが出会ったのは、2人が9歳の時で、再会したのは9年の時を経て、18歳になった時であり、三位一体を象徴する聖なる数「3」の倍数が現われているので、ベアトリーチェも神学の象徴であり、ダンテは見神の体験を寓意的に「永遠の淑女」として象徴化したという。

   ところで、他の記述は分からないが、野上素一教授の「ダンテ」と「ダンテ その華麗なる生涯」を読んで得たベアトリーチェの記事を纏めて興味深いベアトリーチェ像が浮かび上がってきたので、それを考えてみたい。
   
   ダンテが、最初にベアトリーチェに会ったのは、1274年、フィレンツェの少年少女の祭りの日で、真っ白な服を着て色白の美少女ベアトリーチェを一目見るや、雷に打たれたように我を忘れて彼女に執心し、その愛は一生変わらなかったと言う。
   神秘的な婦人ベアトリーチェは、じつに清新体の詩の女主人公としてはふさわしい人物で、ダンテは、彼女を主題として詩を書き、熱愛していたが、プラトニック・ラブに終わったのは、同じ貴族なので身分上の差からではなく、フィレンツェ第一の銀行家大富豪と貧しい両替業との経済的な落差の大きさだったのだと言う。

   さて、18歳のアルーノ川河畔での邂逅以降、ダンテのプラトニック・ラブはつのる一方で、面白いのは、それを他人に気づかれるのが嫌で、彼女を教会で発見した時に、自分が彼女を凝視しているのを隠すために、二人を結ぶ直線状に座っていた一人の貴婦人に関心がある様に装い、そのスケルモ(隠れみの)の婦人が居なくなると、別の貴婦人をスケルモにして凝視し続ける、それを知ったベアトリーチェが、その夫人に迷惑をかけたと言ってダンテを非難して、それ以降は路上で会っても会釈を拒否したと言うのである。

   ピサへの従軍から帰ったダンテに、ベアトリーチェの父フィルコ・ポルティナーリが病没したと言う知らせが入り、その後、それを追うように、ベアトリーチェも、心労と産褥熱で、25歳の生涯を閉じる。
   ダンテは、ベアトリーチェの死去のニュースに、愕然として、この重大ニュースを世界中の人に知らせる必要があると思って、「地上の君主たちに告げる」と言う詩を書いて発表したと言うのである。
   この部分での、次の野上教授の文章が面白い。
   ”ベアトリーチェは、それ程美人ではなかったが、見る人に好感を抱かせるような姿をしており、当時、フィレンツェでは、珍しく有徳な婦人であった。
   だが、ダンテが彼女の行為を記録したものを読んだ限りでは、死後天堂界に昇天し聖母マリアの傍らに行ける程聖性に富んだことは一つもしていない。また、詩人ダンテに対して彼女が与えたインスピレーションとしては、ダンテが彼女の信頼を裏切ったことの復讐として、彼のした挨拶に対して挨拶をするのを拒んだことくらいである。そして、「神曲」の中での彼女は、ダンテが地上の楽園で逢った時も未だ冷淡に振舞っている。これは女性らしい意地悪い行為である。”と書いている。
   あばたもエクボとも言わんばかりの表現だが、そうであっても、私は、ダンテの気持ちは、理解できる。直覚の愛を信じているので、理屈抜きなのである。
   ベアトリーチェが、素晴らしい美人であって、聖女のような清らかな婦人であったと言うのは、ダンテを読む読者が考えればよいことである。
   
   悲嘆に暮れるダンテを同情的な眼差しで凝視していた隣の家の窓辺の婦人に慰められ、ダンテは、心を癒すために、哲学書に没頭したと言う。
   その後、ダンテは、意気消沈して病人のように窶れ果て、それを心配した家人の手配で、子供の時からのフィアンセであった、フィレンツェの名家ドナーティ家の娘ジェンマと持参金200リラ付きで結婚した。
   女嫌いの独身者であるボッカチオが言うのだから割り引いて考えないといけないのだが、ジェンマは、利己的で、平凡で、面白みのない、年中めそめそしている婦人で、ソクラテスの妻クサンティペに似ていると言ったと言うことだが、実際には、何処にでも居る平凡な女性だったが、ダンテが少しも面倒を見なかった息子たちの養育に励み、主婦としてやるべきことは立派にやっており、ダンテが真剣に彼女を愛したならばそれに応えたであろうと言う。
   そのダンテは、ベアトリーチェの死がショックだとは言え、生活はひどく乱れて、家を顧みずに、下等な女たちとの交際に入れ込み、低俗な生活に溺れて、ジェンマの従弟のピッチの悪行にも関わったりしていたと言うから、一時的とは言え、モラル最低のグータラ詩人であったと言うことであろうか。

   煉獄篇の第三十歌と第三十一歌で、エデンの園で、再開したベアトリーチェが、ダンテに、正道を踏み外した過去十年間の行状を攻め立て、恋焦がれたのは美しい姿態であって、亡くなると、至上の喜びも脆くも失せて、現世の他のものに惹き付けられたとして、激しく糾弾したので、ダンテは、目をベアトリーチェへの愛から逸らせたことへの罪を悟って激しい悔恨の情に苛まれ卒倒したと言うストーリーは、このあたりのダンテの反省をも反映しているのであろうか。

   ダンテが、「神曲」を書き始めたのは、1307年頃だが、「神曲」でダンテが、暗い森に迷い込んで地獄に入ったのは、西暦1300年の聖金曜日(復活祭直前の金曜日)で、人生半ばの35歳の時である。
   やっと、地獄篇と煉獄篇を読み終えたところなので、天国篇は、どうなるのか、楽しみに読み進めたいと思っている。
   
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日本古典芸能の明るい将来を五輪で

2018年08月08日 | 学問・文化・芸術
   文楽協会への補助金を切った橋下市長の対応が気になって、6年ほど前に、「文楽への補助金カット~文化芸術不毛の橋下市政」を書いて、その後も、日本の古典芸能の育成強化が如何に日本にとって大切なことかを、書き続けて来たが、危機感を抱いた文楽界の発奮努力が功を奏し始めたのか、最近では、本拠の大阪の方は、まだしも、東京では、満員御礼の公演日が結構続くなど、チケットの取得が、大分、難しくなってきた。
  この9月の国立劇場の文楽は、明治150年記念事業の第一部「南都二月堂 良弁杉由来」「増補忠臣蔵」と、第二部「夏祭浪花鑑」と言った人気番組なので、既に、ソールドアウトの日もあって、良い席は取れなくなっている。
   このチケット予約の時も、あぜくら会日ではあったが、10時から30分くらいは、インターネットが、国立劇場チケットセンターに繋がらなかった。

   一方、国立能楽堂の能・狂言の方は、9月は、開場35周年記念公演で、「翁」を皮切りにして、各流派の宗家や人間国宝総出演とも言うべき意欲的な5公演の舞台であり、627席しかないので、一人2枚までと制限していたが、あぜくら会分は、今日の発売日10時から殆ど1時間くらいで完売と言う超人気で、明日9日の一般販売日では、恐らく、瞬時に売り切れるのではないかと思われる。
   一番、売れ行きの遅かった公演は、
   能 嵐山 白頭働キ入リ 金春 安明(金春流) 間狂言 猿聟 野村 万之丞(和泉流)
   能  定家 浅見 真州(観世流)
   だったのだが、金春安明宗家の「嵐山」に、間狂言「猿聟」が同時上演される本格的な舞台に、浅見真州師の「定家」と言う願ったり叶ったりの豪華舞台であるから、他の公演は推して知るべしであろう。
   能・狂言の場合には、特別なことがない限り、たった一回の一期一会の公演なので、国立能楽堂の主催公演は、殆ど、満席で上演されているようだが、殆ど数週間ないし1か月にわたって上演されている歌舞伎や文楽とは違って、能楽堂が各地にあるとは言っても、トータルの観客数は、少ないと言うかファンの層が薄いと言うか、やはり、歌舞伎や文楽などほかの古典芸能と比べて、難しいと言うか程度が高いと言うか、大衆性に欠けるのかも知れないと言う気はしている。

   私が話題にしたいことは、こんなことではなく、
   2020年に開催される東京オリンピック・パラリンピックの開会式と閉会式の基本プラン「東京2020 開会式・閉会式 4式典総合プランニング」を演出する総合統括に、狂言師の野村萬斎師が就任したと言うことである。
   理屈抜きで、大変な快挙であり、素晴らしい五輪大会のオープニングとフィナーレを飾るイヴェントが繰り広げられること間違いないと思う。
   気に入ったのは、「東京五輪は日本文化を発信する好機」 と言うはそうもそうだが、インタビューで言っていた、次の言葉、
   世界から見た日本文化の特長は何かと聞かれて、
   「日本の文化的アイデンティティーは『発酵文化』だと思う。僕がかつて留学した英国から見たら、日本は極東。大陸から日本に渡ってきたものが太平洋の手前で集積する『エッジ・オブ・シルクロード』の地だ。集積したものが発酵して違うものになる。例えば、数千年前のギリシャから伝わったという仮面芸能が日本で独自の発達を遂げ、能狂言という全く違うものになった。他者を否定せず、互いに影響しながら混然として様々な要素を残しているのも特長だ。こうして熟した文化の厚みは他に類を見ないと思う。日本は文化の宝の山だが・・・

   私が、萬斎を最初に見たのは、随分前、蜷川幸雄のシェイクスピア「テンペスト」のエアリエル、その後、5年前に、観た「釣女」。
   その後、父君の万作師の舞台と共々、何回観ているか、数えきれないが、折り目正しい真剣勝負の遊び(?)の芸術を、ずっと、楽しませて貰っている。
   私自身、ロンドンで、万作師とのシェイクスピア「法螺侍」の狂言の舞台で、イギリス人を感服させていたのをこの目で見ており、その後、イギリスに留学をしてシェイクスピア戯曲を徹底的に勉強しているのだから、萬斎師の力量に心服するのは当然。
   あの羽生結弦に陰陽師を通じて、プラトーンが言う神に攫われた至高の芸術を移し植えたその力量。

   ここで、今道友信先生の説明を借りると、ギリシャ悲劇は本来詩劇であって、日本の能が、謡曲の歌うように謡う詩でできており、同様に、登場人物が極僅かで仮面を被って殆ど動きがなく、悲劇を観に行くではなくて、悲劇を聴きに行くと言う言い方をする。能は、シテの舞が重要な位置を占めるが、やはり、謡曲が命。文楽も浄瑠璃を聴きに行くと言うし、シェイクスピア戯曲も、観に行くではなく、聴きに行くと言う。
   萬斎師が言うように、ギリシャ悲劇と能狂言は、シルクロードを隔てた同根の芸術。
   日本は、文化文明、そして、芸術の『エッジ・オブ・シルクロード』と言うのだが、
   いや、パラダイス・オブ・シルクロード、文化文明の終着点、集大成地点かも知れない。

   随分、あっちこっちを彷徨い歩いて、色々なものを見て来たが、日本の文化文明の高さ、その芸術の高度さは身に染み見て感じている。
   萬斎師は、「復興五輪の名に恥じないよう、シンプルかつ、和の精神が表現できるように頑張りたい」と言った。
   ギリシャ劇の精神であり万国共通の芸術の極致でもある、削ぎに削ぎ落して美のエッセンスを凝縮した究極の美を追求した能狂言の世界、「シンプルかつ、和の精神」を、世界に歌い挙げようと言う壮大な心意気であろう。

   大阪万博の時に、私は、日本の古典芸能の公演があったのかどうかは知らなかったので、ベルリン・フィルやニューヨーク・フィル、ベルリン・ドイツ・オペラやボリショイ・オペラばかり観に行っていたが、今度の五輪大会には、歌舞伎文楽、能狂言等々日本古典芸能の舞台で、外国からの人々を虜にしてほしいと思っている。
   
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ダンテの「神曲」が生んだ「地獄の門」

2018年08月06日 | 学問・文化・芸術
   この口絵写真は、ロダンの「地獄の門」
   文化会館でのオペラ鑑賞の合間に、隣の西洋美術館で、撮った写真で、最初に見たのは、この像だが、世界に三つしかないと言われていた(実際は7つで静岡にもある)ので、留学中にフィラデルフィアで、その後のヨーロッパ旅行でパリで見た時には、いたく感激した。
   それに、上部中央に、「考える人」があって、鏤められている人間の群像の多くが、「パオロとフランチェスカ」や「ウゴリーノと息子たち」を含めて、ロダンの有名な作品で、物語を読んでいるような鑑賞の楽しみがあって、見飽きなかったのである。
  
   ダンテの「神曲」地獄篇第3歌の冒頭に登場する「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の銘が記さた地獄への入口の門に想を得てロダンが制作した巨大な彫刻だが、最近、ダンテの「神曲」地獄篇を読み、今道友信先生の「ダンテ『神曲』連続講義」をビデオ聴講して、少しずつ、地獄に興味を持ち始めた。
   このダンテの「神曲」地獄篇第3歌の詩だが、岩波の山川丙三郎訳を借りると、
   我を過ぐれば憂ひの都あり、
   我を過ぐれば永遠の苦患あり、
   我過ぐれば滅亡の民あり
   義は尊きわが造り主を動かし、
   聖なる威力、比類なき智慧、
   第一の愛、我を造れり
   永遠の物のほか物として我よりさきに
   造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、
   汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ
   
   三位一体の神が、正義を守るために、地獄をお創りになり、この地獄への門を通れば、憂いの都、永遠の苦患、滅亡の民、(平川訳だと、憂いの国、永劫の呵責、破滅の人に伍す、)の世界に入ることとなり、一切出てこれなくなる。この門を潜る者は、(今道先生の説明では、)一切の希望は、ここへ置いて行け。と言うことである。
   私は、この一生涯脱出不可能だと言う話で、ベネチアのため息橋を思い出した。サン・マルコ広場に面して建っている壮麗なドゥカーレ宮殿は、細い運河を隔てて対岸の牢獄跡と、ため息橋で結ばれているのだが、この小さな渡り橋のことで、この橋を渡って牢獄に入った罪人は、一生涯太陽を拝めないと言う悲しい運命の橋なのである。(右手の暗い渡り橋)
   

   ミケランジェロが、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇に描いたフレスコ画「最後の審判」を描くのに、この絵の右手および下層の地獄絵の構想に、ダンテの地獄篇を借用している。
   3回ほど、この絵の前に立って眺めていたが、凄い作品である。
   右下の水面に浮かんだ舟の上で、三途の川の渡し守カロン(下記絵の下方キリスト像の右上)が、地獄行きの死者たちに櫂を振り上げている絵が描かれているが、ダンテによると、このアケローン川を渡った者たちは、この後、漏斗状の大穴をなして地球の中心にまで達した地獄の世界、最上部の第一圏から最下部の第九圏までの九つの圏から構成される地獄へ、罪の軽重に応じて各階層へと振り分けられて行く。
   最も重い罪は、裏切を行った者で、弟アベルを殺したカイン、イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダと言った者で、永遠に氷漬けとなっている。と言う。
   
   
   ダンテの地獄にも、日本の地獄のように三途の川が流れていると言うのも興味深い。
   日本にも凄い地獄絵が沢山描かれていて、地獄へ落ちる恐ろしさを説いているが、その代わり、狂言や落語などで、笑い飛ばす話もあって面白い。
   
   落語では、結構、地獄話があるようだが、面白いのは、やはり、米朝の「地獄八景亡者戯」。鯖を食って死んだ男が、三途の川、六道の辻、賽の河原、閻魔庁へと、しかし、今様庶民旅行とも言うべき全くのバカ話で、、閻魔庁での裁き、後半は、地獄に落とされた山伏・軽業師・歯抜き師・医者の四人がそれぞれの特技を生かして地獄の責めを逃れると言う噺。とにかく、あほらしいが面白い。
   また、落語「死ぬなら今」は、閻魔庁の鬼たちが地獄入りの死者から賄賂を取って天国行きに変えるなど汚職が蔓延し、その悪事が露見して、地獄の鬼たちお偉方は、すべて、天国にしょっ引かれて、地獄は空っぽ。「死ぬなら今」だと言う噺。

   狂言では、仏教信仰の発展で極楽へ行く死者が多くなって、財政的に困窮を極めた閻魔大王が、自ら客引きのために、六道の辻に出かけて死者を待つ話で、閻魔大王が、連れて来た博打打ちの亡者に負けると言うのが「博打十王」で、その死者が八尾の男で、八尾の鬼である閻魔大王が、昔は、八尾の地蔵と良い仲であった艶話を思い出して涙ぐみ天国へ送ると言う話、いずれも、今の官庁のようで締まらない話である。

   厳粛高尚なダンテの「神曲」の話に、狂言や落語の笑話で気が引けるのだが、あまりにも落差が激しくて、次元の違いが気になるのだが、普通の人間には、特別な事情がない限り、どちらであっても、気にはならない話であろう。
   Youetubeあればこそであろうが、今道友信先生の「ダンテ『神曲』連続講義」を聴いた後で、米朝の「地獄八景亡者戯」を聴いて笑い、ルネサンス絵画集を開いて、ミケランジェロの「最後の審判」を眺めながら、ダンテの「神曲」の影響を受けた宗教画を観ていて、結構、楽しめているのであるから、私も、まだ、あの世へは、大分間があるのであろうと、変な安心をしている。
   
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口承文学の凄さ不思議さ面白さ

2018年08月04日 | 学問・文化・芸術
   ダンテの「神曲」を読もうと思って、まず、今道友信先生のダンテ「神曲」連続講義を聴こうとインターネットに向かって、勉強をし始めた。
   冒頭のホメーロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』の説明で、これが、口承文学であって、口誦言語芸術として伝承されていて、紀元前6~8世紀に書かれて文章化したと説明されていた。
   両長編叙事詩とも、膨大なボリュームで、朗誦するのに何日もかかると言うことだが、
   これが、正確な口承文学かどうかについての疑問についてだが、今道友信先生は、金田一京助先生から直接聞いた話だとして、アイヌのユーカラの記録の話をされた。
   金田一先生は、アイヌの村落に出向いて、古老の語るユーカラをローマ字で筆記し、その真否を確認するために、別な老婆からも聞いて筆記したが、殆ど異同がなかったと言うことであった。
   
   今道先生は、「イーリアス」の原文を聴講者と暗唱しながら、リズムが文字よりも前に伝承の担い手であったと、丁寧に説明されていた。
   このリズムと言うことだが、歌舞伎の七五調の流れるような名調子のセリフや、素晴らしい詩人の詩や、名作小説の冒頭など、好んで暗唱している文章などは、正確に何度でも繰り返されるが、普通に語っている語り言葉は、もう一度言ってくれと言われても同じ表現は繰り返されない。
   アイヌのユーカラの記録の時にも、途中で記録をミスって、もう一度同じところを繰り返してくれと言ったら、古老は出来ないと言って、初めからやり始めたと言う。
   口誦文学には、そのような人間の体にビルトインされた暗唱のリズム感覚が息づいているのであろう。

   日本の「古事記」も、文字のなかった頃からの口承文学で、中国から漢字の伝来を待って、天武天皇の命によって、稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』と『先代旧辞』を太安万侶が書き記し、編纂したものだと言われている。
   いずれにしろ、ホメーロスの長編叙事詩と同様に、口誦言語芸術を筆記文章化して、今日に継承されたと言うことで、人間の口誦伝承芸術の凄さは、人知の限りなき英知を象徴していて脅威でさえある。
  
   さて、平家物語だが、鎌倉時代に、信濃前司行長が作者で、生仏という盲目の僧に教えて語り手に伝えられて来たと言うことで、盲目の僧である琵琶法師が日本各地を巡って口承で伝承してきたと言う印象が強いのだが、勿論、漢字も仮名をあった時代であるから、読み本と言う形態も残っている。
   一度、越前琵琶奏者の上原まりの「平家物語」を聴いて感激した記憶があるが、これなども、口誦伝承の系譜であろうが、琵琶法師の語りにおいても、琵琶のサウンドなりリズム感が、大きく作用していたのであろうと思う。

   口承文学には、ウィキペディアによると、ユーカラの他にも、
アメリカ大陸のインカ神話・ネイティブアメリカンの神話
オーストラリアのアボリジニの神話
太平洋島嶼部のポリネシア神話、マオリ神話、ハワイ神話
アフリカ神話
北極地方のイヌイットの神話
アイルランドやウェールズのケルト神話
ヴァイキングなどの北方ゲルマン人によるエッダ  
   などがあるようだが、すべて、その民族の神話なり、民族のアイデンティティの象徴を表現している。
   神懸り的な語り部が、自分たち民族の成り立ちや誇りを、語り続けたと言うことであろう。

   ところで、余談だが、今道先生は、ダンテの「神曲」を読むために、ウェルギリウスを理解することが必須だとして、ついでに、ウェルギリウスの叙事詩「アエネーイス」について面白い話を語っていた。
   ギリシャ人は、ギリシャ神話の神の子だが、ローマ人は、狼に育てられたロームルスとレムスによって建国されたとして、見くびられているのが癪に障るので、権威のある物語を書けと、皇帝アウグストゥスが刊行を命じたので、ウェルギリウスが、トロイアの王子でウェヌスの息子であるアエネーアースが、トロイア陥落後、イタリアに渡って、ラウィニウム市を建設して、このアエネーアースが建設した町がローマへと発展することになる。 とする叙事詩「アエネーイス」を書いたと言う。
   この作品は、結構流布して、ベルリオーズのオペラ「トロイアの人々」はこれをテーマにしており、絵画や彫刻などほかの芸術にも影響を与えていると言うから面白い。


   口誦芸術については、どう考えても、ホメーロスなり、稗田阿礼が語り継いだと言う人知を超えた偉業に感嘆せざるを得ず、この調子だと、AIもそれ程、恐れずに足らずと言う気もしてくるから愉快である。

   
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種の多様性の崩壊

2018年07月06日 | 学問・文化・芸術
   今朝の日経に、「豪の爬虫類7%危機 国内ミミズ3種も認定 レッドリスト」と言う記事が掲載されていた。
   国家自然保護連合(IUCN)が5日に発表した絶滅危惧種を纏めた最新版の報告で、地球温暖化や都市化の拡大などの影響で、少しずつ生物が地球上から絶滅して行き、地球上の生物の多様性が、危機に瀕していると言うことである。
   生物多様性については、生態系の多様性、種の多様性、そして遺伝子の多様性の3つがあるようだが、難しいことは兎も角、奇跡的にも長い年月を経て生まれ出でて生息してきた神の創造物が、どんどん、消えて行き、この地上から永遠に消えて行くとなると、その種の一つである人類の滅亡も他人ごとではなくなる。

   ブックレビュー中のトーマス・フリードマン著「遅刻してくれて、ありがとう(下) 常識が通じない時代の生き方」の「政治のメンターとしての母なる自然」の章に、種の多様性について書いているので、これについて少し考えてみたい。

   母なる自然は、多様性によって繁栄する能力―――多様性を育み、植物と動物のすべての種に褒美を与えている。
   最も理想的な状況を進化させ促進するのには、あらゆる種を大量に溜めて置き、どれがどの生息場所に適応できて全体の役に立つかを見極めるのが最善の方法であり、生態系のレジリエンスや健全な相互依存を強化するには、多様性に富んだ動植物の宝庫があって、夫々の種がお互いや、特定の生息場所に適応してることが最も望ましいからだと言うのである。
   高度の多様性があれば、すべての生息場所が満たされて、全体のバランスを維持すると言う役割を果たす。と言うことである。

   尤も、自然界に空いた場所があると、そこでどの生物が最もよく共進化できるのか、そこに適応する方法を見つけた生物が、他の種が生きて行けないように排除することもあり、また、新たな機会が現れると、自然は常にイノベーションし、突然変異を創出する。
   いずれにしろ、ダーウィンが「種の起源」で述べた、
   生き延びるのは、最も知的な種ではなく、最強の種でもない。自らが置かれた変化する環境に、順応して調整するのが最も得意とする種である。と言うことではあるのだが、種の多様性が働いて最も適したエコシステムを構築すると言うことであろう。
   
   ところで、この口絵写真は、世界最高峰の植物園であるロンドン郊外のロイヤル・キューガーデンのの一景色である。
   この植物園のエントランスにほど近い住宅に3年間ほど住んでいて、年間パスポートを買って通っていたのだが、このキューガーデンが、the Millennium Seed Bankと言うプロジェクトを立ち上げて、種の保存を意図して、2020年までに世界中から25%の種を集めようとしている。(vital mission to conserve 25% of the world’s plant species by 2020.)
   Seed Collection
Within the vaults of the Millennium Seed Bank is the Seed Collection, which represents the greatest concentration of living seed-plant diversity on earth. The bank is a global resource for conservation and sustainable use of plants.
   仕事が多忙を極めていたので、花の写真を撮りに時々訪れる程度で、残念ながら、通って勉強する時間がなかった。
   何百年も前から、世界各地に、プラントハンターを送り込んで、多くの植物を集めて来た冒険話など非常に面白いし、この植物園の歴史を紐解くだけでも、イギリス文化文明の凄さに触れて感激する。

   ところで、余談だが、
   多様性が大きいと、平均的に植物コミュニティでは生産力が大きくなり、生態系における栄養保持が高まり、より大きな生態系の安定をもたらすと言う。

   問題は、我々人間も、温暖化による地球環境の破壊で、宇宙船地球号と運命を共にする危機的な状態に陥りつつあるのだが、急速に進んでいる種の多様性の破壊は、極めて由々しい問題で、真剣に取り組むべき喫緊の課題である。
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THE METミュージアム:フェルメール模様替え

2018年07月04日 | 学問・文化・芸術
   いつも受けているメトロポリタン美術館からのメールで、
   A New Look at Vermeer と言う記事が、掲載されていた。
   フェルメールは、最も好きな画家なので、気になる記事でもあったので、一寸、ここで立ち止まろうと思う。
   口絵写真が、新しい展示場のディスプレイで、下の写真が、5点のMETのフェルメールコレクションである。
   

   現在、METミュージアムは、The Met's European Paintings galleries を改装中で、殆ど倉庫入りだが、最も人気の高い作品を選定してパブリック・ビューとして特別展示することになって、まず、第一弾として、フェルメールを、gallery 630の壁面に一列にディスプレィしたと言うのである。
   この10月には、上野の森美術館のフェルメール展で展示される「リュートを調弦する女」を除いて4点のフェルメールは、In Praise of Painting: Dutch Masterpieces at the Met に移されて展示されると言う。

   このブログでも、左欄のカテゴリーの「ニューヨーク紀行」をクリック頂くと分かるが、メトロポリタンとフリック美術館でのフェルメール画の印象を書いているなど、書評や展覧会などの欄でも、結構、フェルメールを話題にしてきている。

   フェルメールのファンになったのは、もう、40年くらい昔のことで、はじめてアムステルダムの国立博物館へ行って、レンブラントの「夜警」を見た時に、フェルメールの「牛乳を注ぐ女 」(今回上野に来る)を見て、女の捲り上げたシャツの黄色っぽい辛子色から黄緑へとグラジュエーションの微妙な色彩の豊かさなど、何とも言えない程、美しく、注がれれている牛乳の微妙な光など、細部まで、感動して、一気にフェルメールビイキになってしまった。
   

   それから、幸いヨーロッパとアメリカに住んで、あっちこっち旅する機会がったので、美術館や博物館を回って、フェルメール全作品36作(METは34作認定)のうち、30ほどは、見ることが出来た。
 
   このフェルメールの素晴らしさを味わうためには、あの映画「真珠の耳飾りの少女」を見れば少しは雰囲気が掴めるが、やはり、フェルメールの作品「デルフトの眺望」とほとんど変わっていないデルフトに行って、路地裏に入って、民家に迷い込んで、オールドデルフトにタイムスリップすることだと思う。
   私は、3年間、オランダに住んで仕事で飛び回っていたが、美しくて絵になるような風景に何度も触れて感激し続けて来た。
   
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ローレンス・S・バコウ:次期ハーバード大学長に

2018年02月12日 | 学問・文化・芸術
   NYTの電子版をみていると、”Harvard Chooses Lawrence Bacow as Its Next President”と言う見出しの記事が載っていた。
   この学長選出において、トランプの影が差しており、面白いと思ったので記事にした。

   ローレンス・S・バコウ(66歳)は、ミシガンのポンチャックで育ったが、19歳の時に、戦後になって、リバティー船で渡米して来た、家族で唯一のアウシュビッツ生き残りの母と、ミンスク生まれで、子供の時にナチの大量虐殺から逃れて来た父との間に生まれた移民の二世で、BAはMIT、J.D.、M.P.P. と Ph.D.はハーバードから取得しており、前のタフツ大学の学長であった。
   今回、高等教育が炎上しているこの時期に、彼の外交的手腕とリーダーシップ能力を評価されて、ハーバード大の学長に選ばれたのだと言う。
   バコウは、学者と言うよりは、マネージャーや組織のリーダーとして有名であり、膨大な基金を得ているエリート大学に対するトランプ政権の敵意(antagonism)に対応するために、舵取りが難しい時に、自制力のある冷静な対応を取れると言うバコウの資質が、ハーバードのニーズにマッチすると言うのである。
   そのまま、引用すると、委員会議長のウィリアム F・リーが、   
    Mr. Bacow as the right leader “at a moment when the value of higher education is being questioned, at a moment when the fundamental truth of fact-based inquiry is being questioned and called into doubt.”と述べていて、非常に興味深い。
   the fundamental truth of fact-based inquiryをどう理解すべきか、
   事実に基づいた研究の基本的な真実 と言う意味だとすると、それに、疑問符が打たれて、疑いが持たれていると言うのであるから、非常に、深刻な問題であろう。

   トランプの文教政策につては、手元に資料がないので分からないが、文教予算をぶった切り、アメリカファーストで最も重要なイノベーションを生む根幹とも言うべき研究開発費を大幅に削減すると言う方針を立てて、例えば、エネルギー研究開発費を半分に削減すると述べたのを覚えているので、高等挙育に対しては、目の敵にしているのであろうか。
   それに、米国でICT分野は勿論、学者や研究者、企業の高級技術者など、その多くを外国からの移民や入国者に頼っていると言うのに、ビザの発給を差し止めるなど、アメリカの活力を削ごうとしていた。

   いずれにしろ、ハーバードと雖も、トランプの時代逆行と言うか、時代錯誤の文教政策にたいして、身構えて、政治的な対応をしなければならない、と言うことが起こっている。
   このことを、この学長選出記事を読んで、悲しいかな、トランプが大統領になったばかりに、かなり激しいアメリカの迷走が、歴史を逆行させているように思えたのである。
   
   余談ついでだが、
   トランプは、ワシントン・ポスト取材班著の「トランプ」で、たしか、箔付けにウォートン・スクールへ行ったのだと書いていたように思うのだが、日本では、不動産学専攻のMBAだと誤解されて報道されているが、英文のウィキペディアでは、Alma mater The Wharton School (BS in Econ.)と記されているから、修士ではなく経済学士であって、在学中に、父の事業不動産業に携わっていたと言うから、大学課程だけでは、経済学なり学問に身を入れて勉強したとは思えない。
   MBAかどうかは、ウォートンの卒業者名簿を見れば分かるのだが、倉庫の奥で探せないので、諦めるが、実業者として大変なキャリアではあるものの、トランプの主義主張や政策を見ていると、どうしても、知的な香りを感じられないのである。
   それに、アメリカ人学生でも必死になって勉強していたから、トランプが、MBAコースを履修していて、本人が言っているように、一番で卒業できたなどと言う程、ウォートンは、甘くないのである。

   潤沢な資金を投入して、世界最高峰の学問水準を維持して、最高最先端の研究開発を追求することによって、世界中から最高の頭脳、俊英を糾合して、人類の文化文明の高みを目指す。
   これが、アメリカの誇りであり、国是であった筈なのだが、この夢を、ことごとく、野蛮人のトランプが叩き潰そうとしている。
   極論かも知れないが、そんな思いと恐怖が、アメリカの学問の府にあるのではないかと言う気がしている。
コメント (1)
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