人生80年時代となって、文学の様相が変わったように思う。
これまでは、若くても年とっても、そんなことは関係がない。
文学は文学である。若い人は、若くして才能を発揮したと考えられていた。
青春文学というくくりとか、児童文学というくくりはあった。
しかし、それは、読者をどう想定するかという話であって、書き手の話ではない。
児童文学と言っても書くのは大人だ。
しかし、人生が長くなる中で、「老人文学」が現れた。
それは、老人にならなければ分からない感覚を書いたということだ。
それぞれの世代にはそれぞれの世代にしか分からない感覚と言うものがある。
そこでだ。
子どもはどうかという話である。
子どもは大人になる途中で未完成であり、勉強している途中だ。
こうした考え方もできるが、一方で、子どもの俳句の中には、
子どもの時代にしかない感覚を書いているものがある。
それは、大人になると消えてしまうような感覚だ。
子どもが子どもを表現するためには、どんな表現方法が適しているか。
小説やエッセイという方法が子どもに適さないことは明瞭だろう。
「俳句」とか「一行詩」「短歌」などの短詩型文学は、子どもの感覚を表現することのできる可能性を一番もっているように思う。
子どもの俳句は、大人の俳句につながる練習の舞台としてではなく、それ自体が一つのジャンルを形成するものになる可能性を秘めていると思うのである。
子供ならではの子供らしい俳句を創るということは、自分の素直な感覚・気持ちを素直に表現することで、大人にも共通している大切なことなのかもしれませんね。