5年生が取り合わせの俳句に挑戦している。
何回も言っているように、取り合わせの俳句は難しい。
子どもが取り合わせの微妙な感覚を理解することが困難だからだ。
取り合わせは、「抽象画」と同じだ。
しかし、取り合わせの俳句を作ると俳句っぽくなる。
コンテストなどで入選する句に取り合わせが多いのはそのせいであると私は思う
今回は、実験である。
何回か取り合わせを体験して、意識的に指導すれば、取り合わせの句に慣れ、感覚を掴むことが出来るのか否か。
もし、感覚を掴むことが可能であれば、積極的に取り入れてもよい。
もう一つ、今回の目的は、「季語」を理解することにある。
秋の季語を挙げなさい。そう言えば、子ども達は、それなりに秋の季語を挙げることが出来る。
これは、二、三年生でも、五、六年生でも基本的に同じである。もちろん語彙が豊富な分だけ高学年の方が多く挙げるだろう。
では、その量的な問題だけで良いのか。
俳句にとって季語が重要なのは、季語が歴史を積み重ねた言葉であり、同じような言葉でもその季感には、微妙な違いがある。そうした違いを意識的に掴ませることが、高学年では必要と考えた。
例えば、 秋の空 秋高し 天高し 秋天 は同じ秋の空を表しているが微妙に感じが違う。
花にも表情がある こすもすと彼岸花では感じが異なる。
この違いすべてをわかることは到底無理なことだが、「違う」という認識を持つことは出来ると思う。
もっと簡単な例を言えば、 秋晴 と 秋雨
秋晴は明るい気分であるのに対して、秋雨は何となくさびしい。こうした観点を以て季語をみるだけで俳句は変わると思う。
取り合わせの句をつくる過程で、この季語の雰囲気を味わわせることが出来ると考えるのである。
骨折したA君が、こんな句を作った。
秋晴や松葉杖とはおさらばだ
うまい!
B君はこんな句を作った
秋晴や逆転満塁ホームラン
これもいい。B君はホームランを打った方のチームの側にいるのだろう。
もし、打たれた方だったら、
秋雨や逆転満塁ホームラン
となっていたかもしれない。
自分の気分に最もあった季語を選ぶことが出来ると、日本語の感覚が一段とアップしたと言えるだろう。