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#295 野球人生の岐路

2013年11月06日 | 1983 年 



巨人・王貞治助監督が自らの野球人生における分岐点について語った


高校3年の夏…甲子園出場をかけて延長戦にもつれ込んだ明治高との東京都予選決勝戦。11回表に早実が4点を入れた時点で大会関係者は賞状の「優勝」という文字の斜め下に「早稲田実業高等学校」と書いた。誰も早実の甲子園出場を疑わなかった。勿論マウンド上の王自身もである。ところが制球を乱し走者を溜めて適時打を浴びて降板、右翼に回り救援した投手が同点打を打たれると再びマウンドに上がるもサヨナラ安打を喫し甲子園出場の夢が絶たれた。

「あの決勝戦を戦うまではプロ入りなんて全く考えていなかった。早大に進学して六大学でプレーする事ばかり夢みていたけど、勝敗で一喜一憂するのがあのサヨナラ負けで嫌になったんだ。勝った負けたでさほど動じないプロ野球に行こうと決めた」「父親が望んでいた電気技師か大学を出て普通のサラリーマンになってたかもね」 あの敗戦が無ければ後の本塁打王は誕生しなかったかもしれない。



プロ入り…高校卒業を前に幾つかのプロ球団が勧誘に王家を訪れた。最も熱心に誘ったのが阪神だった。阪神スカウトの「ウチは高校出の選手が多いのですぐにチームに馴染めますよ」の言葉が両親、特に母親の心を揺さぶった。巨人は当初「王は進学する」と判断し勧誘に動かなかった。更に巨人は広岡・長嶋・藤田など主要なメンバーは大卒が多い事が母親の心配の種だった。両親の薦めもあり王の気持ちも阪神入りに傾いていたが王の心変わりを察知した巨人の巻き返しが始まった。

度重なる家族会議で形勢は阪神入りに決まりかけた頃、押し黙る王に兄の鉄城さんが「貞治の本心はどこに行きたいんだ?」と問うと「巨人に行きたい」とポツリと吐露した。両親の思いを考えて巨人入りを言い出せずにいて、兄の助け舟が無かったらそのまま阪神入りしていたに違いない。しかし希望の巨人に入ってからも投手と打者との二刀流で中途半端なままキャンプを過ごすも投打ともに結果が出ず、わずか一週間で打者転向が水原監督の判断により決定された。「あのまま二刀流でシーズンに突入していたら2~3年で潰れていたかもね。即断してくれた水原監督に感謝・感謝だよ。まぁもっとも誰が見ても投手失格だと判断するくらいのレベルだったけどね」と王は苦笑い。



一本足打法…打者に専念したもののプロ入り4年目になっても王は安定した成績を出せずにいた。転機は荒川博コーチの入団だった。王が中学2年生だった7年前、荒川は草野球をしている王を見て「こいつは将来大打者になる」と母校の早実に進学させて以来の再会。だが恩師の指導を受けても王のバットは湿ったままだった。昭和37年7月1日、巨人は川崎球場に来ていた。午前中まで降り続いた雨のせいで試合開始が伸び、その余った時間を利用して首脳陣による緊急会議が開かれた。議題は「なぜ王は打てないのか?」だった。原因は練習不足なのか、経験を積めば見込みは有るのか否か、そもそも技量がプロレベルに達していないのでは、など意見が噴出し二軍落ちを主張する者もいた。

王の素質に惚れ込んでいた荒川は半ばヤケ気味に「新打法を使えば必ず打てる」と啖呵を切った。まだ荒川一人の腹案で王本人にさえ教えていなかった一本足打法である。試合開始までの僅かな時間で王に一本足打法のコツを叩きこんだ。結果は第一打席で右前安打、第二打席では弾丸ライナーで右翼席に放り込んだ。「あの時に三振や凡打だったら一本足打法は捨てていたかも。素晴らしいマグレ当たりだった」と振り返った。あの日雨が降らず予定通りに試合が始まっていたら、荒川がヤケにならなかったら…歴史は変わっていただろう。



引退…昭和55年の開幕の時点で王の頭に引退の文字は全くなかったが、6月・7月と不振が続くと心境に変化が現れ始め「打てない事よりも討ち取られても悔しくならない自分に愕然とした。バットマンとして来るべき時が来た」と気持ちが固まるのに大して時間はかからなかった。11月4日の午前中、報道各社に巨人軍から「午後5時より記者会見を開く」との連絡が入った。この時点で各社の反応は様々だった。会見の内容は明らかにされておらず「ひょっとして王が…」と考える社がある一方、「本人が『来季も現役を続ける』と明言したばかりじゃないか、それも昨日」と引退に懐疑的な社もあった。夕刊の原稿締め切りが迫り新聞社は確認取りに奔走していた。当然、王家の電話は鳴りっぱなしだったが誰も出なかった。

この時すでに王は自宅にはいなかった。家にいたら電話に出て応対しなければならず、外に出れば記者の質問攻めに合うだろう。この期に及んで嘘はつきたくないが1つの社に独占的にスクープさせる訳にもいかない。常々、父親から「一人を喜ばせるよりも一人の人も悲しませるな」と教えを受け、忠実に実行してきた。長嶋の婚約は一社の独占スクープになったが王の場合は共同発表だった事でも王の誠実さが伺える。家に押しかける記者らに恭子夫人は「主人は留守です」と繰り返すのみだった。この時、王は実家にいたのだ。両親が息子の引退をテレビで知る事となるのは忍びない。自分の口から最初に伝えたいと思っていたのだ。

そもそも記者会見をなぜ11月4日に設定したのか?既に引退する気持ちが固まっていた王にしてみれば情報が漏れるのを避ける為にも1日でも早く発表した方が良かった筈。読売グループや球団関係者に対する引退報告はシーズン終了直後には済んでいて10月下旬には発表する準備は出来ていた。「記者だって人の子、長いシーズンが終わって一息つきたいだろう。それまで出来なかった家族サービスを予定している者もいるかもしれない。引退発表後の記者には目が回る忙しさがやって来るだろう。ならばせめて11月3日の文化の日の祝日が過ぎてから発表しよう」と王が考えたからだ。王貞治とはそういう男なのだ。

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1 コメント

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名言と余談 (th)
2013-11-06 23:26:25
一人を喜ばせるよりも一人の人も悲しませるな。

これは名言だな。

あと二刀流の件。

現代の大谷にはどう映るか?彼の場合は専念させるなら投手だろうな。
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