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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#241 監督交代 ・ 横浜大洋編

2012年10月24日 | 1981 年 


1981年のオフは5球団の監督が交代する激動の事態に。その中で真っ先に動いたのが大洋でした。


「長嶋さんを是非ともウチに…」長嶋氏が大リーグ視察から帰国した翌日の9月18日、球団の意を受けた人物が長嶋氏と接触した。事実上の監督就任要請である。大洋漁業本社・中部藤次郎社長が最初に長嶋氏に親書を送ったのは3ヶ月前の6月上旬と言われている。その頃の大洋は最下位を独走中で昭和35年の初優勝以来最低の成績(昭和51年、秋山登監督時代の45勝75敗7分)を更新しかねない状態だった。

9月24日、中部社長が正式に長嶋氏招聘を宣言したが驚いたのは寝耳に水の土井監督だ。今シーズンはまだ15試合を残し、しかも当日もヤクルト戦が予定されていた。試合終了後の午後11時過ぎ武田球団社長が「このまま指揮を執らせるのは気の毒」と土井監督の解任を発表、しかし後任は未定。翌日は広島への移動日で、この移動の間に山根コーチに監督代行を要請し了承を得た。いかに中部社長の発言が根回しもなく唐突であったのかが分かるドタバタぶりを露呈してしまった。

「私は昨年の12月頃には大洋の監督には長嶋氏をおいて他にはいないと考えていた。長嶋氏が来てくれるならコーチはもとよりスカウトまで全て長嶋氏にお任せする用意は出来ている。もし二浪するというのならばその間を別の人物に指揮してもらい、例えシーズン中での監督交代となっても構わない」これが中部社長のコメントである。思えば今年1月1日のスポーツ紙に『大洋、長嶋獲得へ』の見出しが躍り、土井監督はその日から「長嶋監督」の影武者にならざるを得なかった。

「大洋さんと接触した事実はありません」 一方の長嶋氏は全面否定だ。それは無理からぬ事で、仮に監督就任となりコーチ陣を組閣するとなると現コーチたちのクビを切らなくてはならない。その手の汚れ役は本来なら球団がすべき事だが、ここまで表沙汰になった以上はコーチやスカウトの解雇は長嶋氏の意向という事になってしまうからだ。球界のしきたりを無視した中部社長の勇み足発言により、長嶋監督実現の可能性はほぼ無くなり大洋の監督探しは振り出しに戻る事となった。

新監督探しは難航し1ヶ月が経ち秋季キャンプが始まっても決まらない。東京・大手町の本社内には混乱を早く収める為に球団OBの秋山登、近藤和彦氏らを推す声もあったが中部新次郎オーナー(本社副社長)は「OBではこれまでと変わらない。野球を良く知り、クリーンな人」と旧来の人事を良しとしなかった。11月になっても決まらず難破寸前だった大洋丸を救ったのが関根順三氏だった。所属先のニッポン放送が大洋球団の株主(30%所有)という関係もあって関根氏に火中の栗を拾ってもらい、11月6日にようやく新監督就任会見の運びとなった。

会見での質問は専ら長嶋氏に関する事に集中した。「長嶋君が来るならいつでも監督の座を明け渡す」と新監督は明言した。「昭和50年長嶋巨人の1年目、ヘッドコーチとして招聘されながら期待に応えられず長嶋君には不義理をしてしまった」「長嶋君にバトンタッチするのが私の仕事だと思っている」等々、「関根監督&長嶋総監督」の様相を呈した会見となった。長嶋監督に少しでも良いチームにして禅譲する為にするべき事として、➊投手陣の底上げ ➋ドラフトでは即戦力投手を指名 ➌ラコック、ピータースの両助っ人は解雇し右の大砲の獲得 を今後の目標としてあげた。大洋は本気で長嶋監督実現を目指している。本気度を示す球団人事も同時に発表された。武田五郎球団社長、別当薫球団代表、芹野真也総務部長を解任し新たな人材登用で旧来の球団色を払拭。加えて取締役管理広報部長職を新設して新生・関根大洋丸は出航した。

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