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買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 634 大いなる賭け

2020年05月06日 | 1976 年 



ドラフト会議で2番くじを引いた中日が社会人や大学で名の知れた即戦力には目もくれず中央球界では殆ど名前を知られぬ無名選手を指名した事が冒険的な賭けをやったとプロ野球界の注目の的になっている。中日の無名選手指名は果たして冒険であったのだろうか?

『裕次郎』、『裕之』 って誰?
11月19日に行われたドラフト会議に中日は小山球団社長・中川球団代表・土屋総務・与那嶺監督・法元スカウトなど球団首脳総動員で臨んだ。ドラフトの成否はくじ順にかかっている。中日は2番くじだった。昼食休憩を挟み指名が始まり1番くじを引いたヤクルトは迷うことなく酒井投手(長崎海星)を指名した。続く中日は斉藤投手(大商大)か佐藤投手(日大)か、会場が注目する中で中日が指名したのは「都裕次郎」だった。各球団のスカウト連中には名前を知れてはいたが、2番くじで指名されるとは想定されておらず会場内は「おや?」という雰囲気に包まれた。まだざわめきが残る中、3番くじの大洋は「シメシメもうけた」とばかりの表情で斉藤投手を指名した。

意外な指名は続いた。2位指名は生田裕之投手。他球団のスカウトでさえ「聞いたことないな」と呟くほど無名な存在で、勤務先の「あけぼの通商」の名前がドラフト会議で呼ばれたのが初めてだったので無理もない話である。3位指名の宇野勝選手(銚子商)はまだしも就職が決まり他球団が見送った今岡均投手(中京商)、高元勝彦投手(廿日市)とまさに意表を突く異色の指名だった。名を捨て実を取る。これが今ドラフトの中日の方針だったが、いわゆる即戦力選手ではなく無名の選手を選んだのはなかなか勇気のいることなのである。その裏にはスカウト達の地道な活動と苦心の努力があったのは言うまでもない。

都投手を指名したのを耳にした鈴木孝投手は「都くんの指名を聞いてちょうど4年前に自分が指名された時を思い出しましたね。あの時も中日は2番くじ。甲子園の優勝投手だった仲根くん(日大桜ヶ丘⇒近鉄)を指名出来たのに無名の僕が指名されて驚いた。都くんも心配しないでプロ入りして欲しい。来シーズンは一緒に頑張りたいね」と懐かしんでいた。当時はどうして人気抜群の仲根投手ではなく鈴木投手を指名したのか、と批判もされたが二人の現在を見れば中日スカウト陣に軍配は上がるだろう。こうした過去の実績が今回の指名に少なからず影響を与えているのかもしれない。

見てビックリ、捕手が捕れぬ快速球
中日の関西地区担当は法元英明スカウト。関大出身で投手から打者に転向し昭和31年から13年間中日のユニフォームを着た。関西では高校から大学・社会人に至るまで顔が広い。今年の5月頃、奈良を訪れた際に郡山高の監督から聞き捨てならぬ情報を教えられた。「滋賀県の堅田高に三振をじゃんじゃん奪う投手がいるらしいよ。京都の伏見工を相手に22奪三振したと聞いた」というものだ。伏見工といえばかなりの強豪校で俄かには信じられなかったが、百聞は一見に如かず。とにかく自分の目で確かめようとその足で堅田高に向かった。京都駅から湖西線に乗り換え大津を過ぎて堅田という湖岸にへばりつくような町に降り立った。

堅田高は県立校で進学校。校庭の練習を見渡しても野球部員はパラパラ程度でいかにものどかな雰囲気。そんな中、都投手は一見して分かった。1㍍80㌢の長身から投げ下ろす速球に捕手は右往左往していた。捕球するのに精一杯で少しでも高目に投げるとミットをかすめて後方へ抜けた。「ワー、これじゃ投手が気の毒。他の部員とレベルが違い過ぎる(法元)」と驚いた。それからしばらくして練習試合があると聞いて再び訪れた法元スカウトは二度ビックリ。左腕投手で球が速ければ大抵はノーコンと相場は決まっていたが全く違っていたのだ。「これは間違いなく本物だ」と法元スカウトは確信した。

名古屋に戻ると直ぐに東方利重スカウト部長に「まだ他球団のスカウトは来ていません。この分なら今年の掘り出し物になるかもしれません」と報告した。その日以降、法元スカウトは大阪方面に出かける度に都投手の元を訪れるようになった。しかしこれだけの逸材を他球団が見逃すことはなかった。在阪の南海・阪急・阪神らのスカウトが堅田を訪れるようになるのに時間はかからなかった。やがて夏の地方予選が始まると東方部長自ら堅田に足を運んだ。試合の行われる皇子山球場へ向かう湖西線の車内で顔見知りのスカウト達と遭遇。「おや、東方さんも都投手がお目当てですか?」と聞かれ、「もうバレたか」と内心ドキリとしたが平静を装った。


事前の接触が実を結んだ高元
法元スカウトは昨年は同志社大の田尾選手を担当し田尾選手は見事に新人王に輝いた。選手を見る目には定評がある。その法元スカウトが都投手と同様に高く評価していたのが高元投手だ。広島・廿日市高から地元の三菱自動車広島に就職が内定していた投手である。当然地元のカープも目を付けていたが視察に訪れる他球団のスカウトの姿は見当たらず5位か6位ぐらいの指名を考えていた。ところが指名直前に中日に5位で指名されて逃してしまった。「それにしても中日さんが高元を知っていたとは…」とガックリ。たまたまウエスタンリーグの広島戦に帯同した横山育成課長が二軍戦の合間に練習試合で投げる高元投手を見て惚れ込んだ。

学校関係者に挨拶を済ませた後に日を改めて法元スカウトが高元家を訪れた。しかし夏の県大会予選が終了した頃に両親から「就職が内定しました」とプロ入り辞退の連絡が入った。ドラフト会議を2日後に控えた17日に東京のホテルでスカウト会議が行われ、その場で高元家に電話で最終確認をしたところ「もし中日さんが指名してくれるのなら三菱自動車さんには内定辞退を申し入れます」との返事が来た。高元投手が三菱自動車の練習に参加した際に同じ野球をするなら社会人もプロも変わらない。それならプロへ行こうと決めたのだ。スカウト会議で高元指名が衆議一致した。中日はドラフト会議後にカープの真意を知り胸を撫で下ろしたのだった。


無名選手指名は綿密な作戦から
4位指名の今岡均投手(中京)も日本石油に内定していたのを東方部長が事前に礼を尽くしていたからこそ「中日ならお世話になってもいい」という好意に繋がったとみてよいだろう。東方部長は昭和45年まで球団代表だった。親会社の中日新聞時代には運動部長を務め、野球に限らずスポーツ全般に明るい。円満な人柄と緻密な仕事ぶりはスカウト業の元締めとしてうってつけで、中日がドラフトで効果を上げ始めたのは東方部長の存在なくしては有り得ない。ともすれば選手出身のスカウトはデータ収集やプランナーといった面を不得手とする傾向があるが、サラリーマン経験のある東方部長はお手の物だ。

部下達も多士済済で田村次長は中央大OBで冒頭で触れた鈴木孝投手のドラフト指名に深く関わったスゴ腕の持ち主。" 堂上2世 " の呼び声が高い2位指名の生田投手は地元・東海地区担当の山崎スカウトが昨年あたりから目を付けていた。もともと生田投手は解散した愛知県瀬戸市にある丹波羽鉦電機(昨年のドラフトで日ハムが指名した福島投手・中村投手が在籍)で控え投手だったが山崎スカウトは注目していた。チーム解散後に福岡県にある「あけぼの通商」に移った後も接触を絶たず今回の指名に至った。今ドラフトに関して「なんだ訳の分からない指名をして…」という声が一部にあるのは事実だが、中日スカウト陣のたゆまぬ努力の結晶なのである。


都裕次郎 : 243試合・48勝36敗10S   
生田裕之 : 一軍出場なし   
宇野 勝 :1802試合・打率.262 ・338本塁打
今岡 均 : 一軍出場なし
高元勝彦 : 1試合・0勝0敗0S



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