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買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 398 私説・長嶋巨人軍 ① 

2015年10月28日 | 1983 年 



筆者は昭和50年、長嶋巨人誕生と同時に球団広報担当に就任した。空前の長嶋人気、最下位とV1、王の本塁打世界新記録、そして江川の空白の一日・・巨人史上かつてない程の激動の時期にフロントと現場のパイプ役として様々な場面の目撃者となってきた。その筆者の貴重な証言の記録であり、それはそのまま長嶋巨人の裏歴史となる筈である。


長嶋巨人がスタートした昭和50年は屈辱の日々が続いた。シーズン半ばで最下位が事実上決まったと言って構わない程の負けっぷりだった。8月初旬の大阪遠征中の事、私は芦屋にある竹園旅館の長嶋監督の部屋を訪れた。そこでは遠征に同行していた佐伯球団常務も交えて来季の補強について話し合い「とにかく投手陣の立て直しが必須(長嶋監督)」との結論に至った。この年の巨人は1試合平均2.8人の投手を起用していた。完投したのは26試合(23勝3敗)だけで長嶋監督の投手起用に批判が集中していたが監督も好きで投手を交代していた訳ではない。エースの堀内投手をはじめ信頼出来る投手が皆無だったせいだ。そこで投手陣の軸となる投手が必要となった。

先ずターゲットを絞った。狙いは太平洋クラブの東尾・加藤投手のどちらか、と考えた。9月9日の阪神戦は6回表までリードしていたが先発の高橋一投手が池田選手に逆転満塁本塁打を浴びてKO。私は高橋投手のコメントを記者席まで伝えに行った。負けに慣れてしまっていたとは言え、俯きながらトボトボと薄暗い通路を歩いていた時だった。「今日も厳しいな」と声を掛けられた。声の主は太平洋クラブの青木一三球団代表だった。私は周りの記者達に気取られないよう青木代表に目配せした。青木代表とは青木さんが阪神のスカウト時代からの知り合いでその後、毎日や太平洋に移った後も交友は続いていた。私の目配せに直ぐに「分かった」と素知らぬ顔で合図を送ってくれた青木さんはやはり只者ではない。

関係者入口を出てすぐ向かいの喫茶店に入った。試合中だけに周りに記者の姿はない。私は単刀直入に「お宅の東尾くんか加藤くんを頂けませんか?そりゃ二人揃ってなら万々歳ですが、せめて一人を譲って下さい。交換選手は出来るだけ要望に沿えるよう努力しますので」と頭を下げた。東尾と加藤は太平洋クラブの主力投手であり、自分でも厚かましさで顔が引きつるのが分かった。即座に「ノー」と断られてもおかしくない話だが青木さんは「ゆっくり考えてみましょう」と言ってくれた。試合後、宿舎に戻った私は長嶋・佐伯の両氏に報告した。ちなみにこの大阪遠征は3連敗、その後のヤクルト、広島戦にも負け続けて泥沼の11連敗を喫したが私には来季への微かな光明が見えた遠征だった。

自宅が大阪にあった青木さんは博多のグランドホテルを常宿にしていた。私は幾度となく連絡を入れていたがシーズン終了間近になって「東尾は無理だが加藤ならいい。見返りは投手、左右二人欲しい」と回答があった。早速にフロント陣に報告すると「2人も出して1人しか獲れないのか」と難色を示した。だが「先方がそう言うなら仕方ないでしょう。ウチから頭を下げて申し込んだのですから」と長嶋監督の一言で佐伯常務や長谷川球団代表も納得し交渉を続ける事となった。しかし太平洋クラブが望む左腕投手が新浦投手と判明すると今度は長嶋監督がウンと言わなかった。打たれても打たれても新浦を使い続けたのは「必ず化ける(長嶋監督)」と信じて起用し続けた投手だけに新浦だけは出せないと言った。

そうこうしているうちに10月15日の後楽園球場での広島戦に完封負けしカープが球団初のリーグ優勝を遂げ古葉監督の胴上げを見る屈辱を味わった。世間の目が日本シリーズに集中する間隙を縫って私は博多へ飛んだ。ホテルを訪ね「関本投手と玉井投手を出します。新浦は長嶋監督がどうしても勘弁して欲しいとの事でした」「ウチは投手2人を出すのでそちらも加藤ともう1人つけて欲しい」と畳みかけた。私なりの情報分析では若菜(現大洋)、真弓(現阪神)、山村(現南海)らが放出可能と見ていた。ところが青木さんは片岡(現阪急)を推して譲らない。押し問答は深夜まで続き「若菜なら考えていい」とまで譲ったものの「もう1人については中村オーナーの了承が必要。返事は暫く待ってほしい」と決着しなかった。

後日「オーナーの了承を得た。加藤と若菜でOK」と返事を貰い意気揚々と長嶋監督に報告すると「ワカナ?知らないなぁ」の一言で若菜は見送られ再交渉する事に。赤坂にあった中村オーナーのマンションを訪ねたのは11月10日の夜だったと記憶している。中村オーナーは若菜じゃないなら片岡か西沢の両捕手を候補に挙げたが私は真弓と山村の内野手を希望した。午後8時頃から始まった交渉は午前零時を過ぎても決着せず、業を煮やした私は電話を借りて自宅で待機していた佐伯常務に難航している旨を伝えた。「他に出せる選手は誰か聞いてみろ(佐伯常務)」「真弓や山村じゃなくても構わないのですか(私)」と確認して席に戻り中村オーナーに放出できる選手は他にいるかと尋ねた。

「伊原なら出せる」それが中村オーナーの答えだった。それを佐伯常務に報告し正力オーナーの了承を得てようやく交渉が決着した。11月27日のスポーツ紙の一面にこのトレードが載った。紙面を見た私は思わず笑みがもれた。当時の様子を加藤投手は「実家は静岡で周りは巨人ファンばかりでしたから自然と自分も巨人ファンだった。だからこのトレードは願ったりだった。ただ女房は福岡生まれでちょうど二番目の子を身ごもっていたから不安だったかもね」と述懐する。巨人に移籍した年の広島戦でノーヒット・ノーランを達成し、15勝をあげて長嶋巨人のV1に大いに貢献した。その後は血行障害など二度の大病を克服し不死鳥の如く蘇った加藤を見ると昔を思い出して感慨深い。

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