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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 635 沢村栄治

2020年05月13日 | 1976 年 



燦然と輝く沢村栄治の不滅の伝説
一代の英雄、沢村栄治は伊勢市岩渕町にある近鉄線・宇治山田駅裏の一与坊墓地で静かに眠っている。昭和9年秋、ベーブ・ルース一行を迎えた静岡・草薙球場での快投。昭和12年、タイガース相手にプロ野球史上初のノーヒットノーラン。同年12月、タイガースとの洲崎の決戦から優勝決定戦までの3連投。応招を繰り返した後の戦死。等々エピソードは数多く今なお当時を知る人物によって語り継がれている。「ワンバウンドすると思った球がホップして低目にズバッと決まった」と語るのは草薙球場での大リーグとの試合をバックネット裏で観戦した小坂三郎氏。また職業野球人として巨人軍との契約第1号選手だった三原脩氏もその一人だ。

三原は「金田と沢村はどちらが速い?」「絶好調時の江夏とは?」「稲尾は?」と聞かれる度にわざわざ「沢村という伝説的選手を美化する気は毛頭ないが」と前置きをして「私は躊躇なく沢村だと言える。金田も江夏も速かった。でも沢村には及ばない」と答えるのが常だった。また「今の投手のように球の種類がたくさんあるわけではない。スピードボールと懸河のドロップの2つで抑えた。リストの素晴らしさで一度ポーンと上がってからストーンと落ちるドロップ。あれが本物のカーブだ」と語るのは沢村が京都商に在籍していた当時に対戦した元巨人軍選手の南村侑広氏。

南村は旧制・市岡中学のエースとして昭和9年5月に藤井寺球場で沢村率いる京都商と対戦した。南村は4年生、沢村は5年生だった。沢村の速球は唸るというよりブルブルと震えるようだった。市岡中は全く歯が立たなかった。その証拠に市岡中は9回終了時点で25三振。27個のアウトのうち25個が三振だった。だが一方の南村も好投し京都商を無得点に抑えて試合は延長戦へ。11回、南村に四度目の打席が回ってきた。南村は考えた。「まともにいっても打てない。奇策でいこう」と。そこで初球をセーフティバントを試みた。なんとか速球をバットに当てたと思った瞬間、南村は呆然とした。

カ~ンという乾いた音と共にボールはバント処理に前進してきた遊撃手の頭上を越えて左翼手の前にポトリと落ちた。あまりに球が速いので反発力も強く左前安打になったのだ。日本の野球史上、セーフティバントが左前安打を記録したのはこの南村しかいない。この話には続きがある。南村は市岡中学を卒業後、昭和11年に早稲田大学に進学した。当時は市岡中学から早稲田大学へ進学を希望する選手が多く競争率は高かったのだが、南村の場合は早稲田側から入学を求められた稀有な選手だった。というのも、あの沢村から左前安打した選手として南村の名前が遠く離れた東京でも評判になっていたからだ。その安打がセーフティバントだったと知る大学関係者はいなかった。


甲種合格でなかったら戦死も…
今でこそ硬貨を入れて遊ぶゲームマシーンは街中で見かけるが、巨人軍が初めてアメリカに遠征した昭和10年当時は殆どの選手にとっては見たことのない物だった。5セント硬貨を次々と取られてしまう選手が続出する中、沢村は勝って小遣い稼ぎに成功した。沢村は筆マメな一面もあった。「この前、街中を歩いていたらアメリカ人にサインを頼まれた。俺も有名になったもんだ」と日本の知人に手紙を書いたが、実はそれはカージナルスのスカウトが差し出した契約書だったという逸話が綴られていた。明るく陽気で茶目っ気もあった沢村。色々な知人に送った手紙には普段は表面に出さなかった悩みも打ち明けていたという。

「戦況が厳しくなる中、往年の快速球が影を潜め、勝てなくなった沢村は巨人軍からも冷遇されるようになった。独り者の沢村は私が世話をしたアパートに住んで、朝・昼・晩と私の家に来て食事を摂っていた。中野駅前14番地にあった中野荘という一戸建てアパートの2階を間借りしていた」(藤本定義著『風雪三十年の夢』より抜粋)。短い生涯だったが淡い恋も経験した。当時の巨人ナインの間で " 一塁側スタンドの令嬢 " が話題となっていた。沢村が登板すると必ず母娘が観戦に訪れた。他の選手にひやかされるとベンチ裏に隠れてしまう程シャイな男だった。若い頃に沢村の球を捕った山口千万石氏は、そのあまりの剛球ゆえに左手の指が曲がってしまった。そのせいで徴兵検査で「第二乙種」となった。「沢村もねぇ甲種合格にならなければ…(山口)」と涙を浮かべた。

昭和13年1月に入営。武漢作戦の軽機関銃手になり、手榴弾を78㍍も投げたという。左手に被弾し負傷して昭和14年8月に除隊となった。グラウンドに戻って来た沢村の身体は天性の柔軟性を失い、持ち前の快速球は影を潜めていた。それでも昭和15年7月に対名古屋戦で自身三度目となるノーヒットノーランを達成した。しかし昭和16年10月に再応召されミンダナオ島へ派遣された。昭和18年1月に日本に戻り飛行機製作工場に職工として配置される。昭和19年に三たび応召されその年の12月2日、乗船した艦船が台湾沖で撃沈され沢村は船と共に深い海へ沈み日本の地を再び踏むことはなかった。


沢村の向こうを張った酒仙投手・西村幸生
伊勢が生んだもう一人の名投手がいた。沢村は宇治山田の明倫小学校のエース。同じ町の厚生小学校のエースだった西村幸生だ。やせ型でスラリとした容姿の沢村に対し西村はガッチリ体型のやんちゃ坊主だった。沢村は今で言うところの野球留学で京都商業に進学したが、西村は地元の山田中学を経て関西大学へ進んだ。関大のエースとなった西村は昭和7年暮れから翌8年春にかけて東京六大学のチームを撃破した。今でこそ関西の大学が関東の大学と互角に戦うのは普通だが、当時は「大横綱の双葉山の70連勝を阻止した安芸の海に匹敵する快挙(大和球士氏)」と称賛された。その大和氏が後に西村を酒仙投手と名付けた。

昭和12年にタイガースに入団した西村は沢村がいた巨人を抑えてタイガース黄金期を支えた。西村の根底にあったのは東京への反抗、ライバル沢村への敵愾心だ。西村は酒を浴びるように呑み、「幸さん酒を慎まないと投手生命を縮めるよ」と周囲から忠告されても「投手がダメならおでん屋でもやるつもりだから心配御無用」と意に介さなかった。だが巨人も負けていない。打倒・西村を合言葉に猛練習を積みやがて第一次黄金期を迎えることになる。こうしてタイガースと巨人が競い合い、切磋琢磨したことで創設間もないプロ野球界を繁栄させたのである。

「東京のチームに負けるのが俺は大嫌いだ。我慢できん」と常に公言していた。ある日のことタイガースと巨人の選手が同じ列車で移動することがあった。西村は食堂車でコップ酒を一杯あおりながら「(前日の試合に負けた)巨人の野郎どもはきまりが悪いのか誰も食堂車に来んな」と毒ついた。あたりを見渡した後輩の御園生選手が「幸さん車両の後方に藤本さんと水原さんがいますよ。大声は控えて下さい」と言うとやおら振り返り「やあやあ御両人。後楽園では失礼しました。どうか気を悪くせんといて下さい。こちらは祝い酒ですがそちらは何酒ですか?ワッハッハー」とトロンとした目つきで挑発し、「おい西村…」と立ち上がった藤本を水原が抑えた。

だが忘れてならないのは西村のもう一つの顔だ。「酒ばかり呑んでいてあの投球が出来る道理はない。僕が知る投手の中で西村ほど練習をした投手はいない。他の投手の2倍も3倍も練習していた。だから僕も後輩の彼に負けるもんかと練習に励んだのが後の好成績に繋がったと思っている」とライバルでもあった若林忠志氏は述懐した。人の2倍も3倍も練習したという事実こそが先輩の藤本定義や水原茂に対して「おたくらは何酒?」と嘯く反骨心に燃える豪傑の支えであったのであろう。西村は戦争で短い生涯を閉じたが、愛妻はハワイで多くの孫に囲まれ暮らしている。


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