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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#210 スター選手変遷史 ①

2012年03月14日 | 1981 年 



神話がファンとの合作であるとするならばファンに最も愛された神々の中の神、すなわちゼウスは沢村栄治をおいて他にはいない。昭和9年11月20日、静岡県草薙球場の上空は爽やかに晴れ渡っていた。しかしバットを持つ白人の大男たちは爽やかどころではなかった。ベーブ・ルースやルー・ゲーリックにレフティ・ゴーメッツ、ジミー・フォックスら当時の大リーグのオールスター軍団。対するマウンド上には16歳の沢村栄治。この少年相手に大男たちは点が取れず、6回までに7奪三振。7回に何とか四番に一発が出て完封を逃れるのがやっとで9三振を喫する辛勝だった。大リーガーの対戦相手に急遽寄せ集められた「大日本東京野球倶楽部」の一員としてが沢村神話のスタートだ。沢村の全盛期は昭和11・12年で、この2年間で46勝13敗・防御率は1点台。 二度のノーヒット・ノーランを達成している。当時は東京ジャイアンツと大阪タイガースの実力が抜きん出ていて常に覇権を争うライバル関係にあった。

宿敵大阪タイガースに強かったのが沢村人気に拍車をかけた。昭和12年のシーズンでは対タイガースは48回1/3投げて自責点は僅かに「1」と加藤清正も脱帽の虎退治ぶりだった。沢村の直球はどれくらい速かったのか?全米チームのゴーメッツは「サワムラの持ち球は直球とドロップだが直球の方がいい。あのスピードで浮いてくると打てない(村松梢風著『巨人軍の花』より)」と語っている。だが二度の応召が不世出の名投手を蝕んでいく。帰還後の3年間では16勝しか出来ず三度目に応召された昭和19年12月2日、台湾沖の海底に船と共に沈んでいった。

沢村を語るなら
西村幸生(大阪タイガース)を抜きにする事は出来ない。いわずと知れた酒仙投手で酒の
匂いを漂わせてマウンドへ上がることもしばしば。「幸さん酒を控えないとエライ事になるよ」と同僚に忠告されても「ワシは投手がダメになったら、おでん屋をするからエエんや」とうそぶく豪傑だった。ここまでならどうと言う事のない酒豪譚の話だ。西村が凄かったのは全盛期の沢村相手に投げ勝っていたことである。昭和12年秋のシーズンでタイガースはジャイアンツに7戦無敗、そのうち西村が1人で5勝している。さらに年間王座決定戦の3戦を西村が3勝している。沢村を抑えて最多勝・防御率・勝率のタイトルを独占した。生まれは奇しくも沢村と同じ三重県宇治山田市だが、剛の沢村に対し柔の西村と投球スタイルは対照的だった。阪急や巨人を相手に勝つと20円、他は10円の賞金が球団から出て活躍度によって選手に分配された。西村は度々10円ほどを手にしたが、それを一晩で飲んで使い切ってしまった。お銚子1本30銭の時代に。酒の神ディオニソスのような西村も昭和14年に応召され帰還する事はなかった。

西村が沢村に投げ勝つ事が出来たのは打線が沢村を打ち崩したからである。タイガース打線の中心には
景浦将が鎮座していた。昭和11年11月7日に洲崎球場で行なわれたジャイアンツとの年間王座を賭けた
優勝決定戦の第1戦「五番打者の景浦が打席に立った。"こわっぱ沢村何者ぞ"とタイガース随一の強打
者は頭から呑んでかかっている。沢村は景浦の鋭鋒を挫くべく得意のドロップを投じたが景浦は物ともせず曲がり鼻をハッシと叩いた。球はグングンと上空へ伸び痛快無類の左翼本塁打となりタイガースは一挙に3点をあげた。東京の観衆は、かねてより噂に聞いていた強打者景浦を目前にし呆然。やがて球場はどよめいた。(上記『巨人軍の花』)」

ヘラクレスばりの躯体で戦前の広い甲子園(両翼100m 中堅130m)のスタンドへ軽々と放り込めたのは景浦ぐらい。桁外れの腕力と膂力で遠投は140㍍を超す、沢村なんぞ小僧扱いして当然だった。景浦は立教大を2年で中退してプロ入りしている。立教と言えば長嶋と比べたくなるが、2人が腕を磨いた東京・東長崎のグラウンドの外野ネットを越える打球を放ったのは、後にも先にもこの2人だけ。しかしネットの先にある小川を越える打球を放ったのは景浦ただ1人。首位打者1回、打点王2回とタイトル獲得が少なかったのは「成績を残しても給料は上がらず個人記録に固執していなかった(松木謙次郎)」が理由らしい人間離れした怪力の持ち主もまた遠い異国の地フィリピンで散った。



2009年3月15日に始めた当ブログも4年目に突入します。ほぼ毎週欠かさず買っていたのは1980年代の後半位迄でしたので、このペースで行くと最後の投稿は、あと10年近くかかる計算になる事に気付いて少々めまいがしました。さすがに10年も書き続けるスタミナが有るとは思えませんが・・

読み返してみると最初の頃は、週べの記事を丸写しにしないようにと無駄な抵抗をしていた形跡が見られますが、そのうちに素人が書くよりも本職が書く文章の方が内容が伝わり易く且つ、自分も楽ができる事に気付いたようです。・・・いつまで続けられるか分かりませんが今後とも宜しくです。

追伸、コメントを寄せて下さる皆様へ。週イチで投稿した後は放ったらかしでブログをチェックしてないのでコメントに逐一返信できず心苦しく思っていますが必ず目を通しています。

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2 コメント

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今となっては (関六太郎)
2012-05-08 10:06:22
景浦さん古い記録を見ると松商時代は6番打者だった当時の松商のクリンナッフに景浦さん以上の選手
がいたのかそれとも立大で飛躍的に伸びたのか噂されているように当時の職業野球(当時の名称)が嫌われて選手が集まらなかった結果景浦さんにチャンスが回ってきたのか?
 今となっては残念だがもうわからない。
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お返事 ② (管理人)
2012-05-08 18:34:02
昔の選手は郷愁と言うか過大評価されるのが常ですからね。六大学野球の古いフィルムを見ると投球フォームは素人投げで120㌔も出てないのが窺えます。沢村投手も恐らく140㌔は超えてなかったのでは?ただ戦前の甲子園球場でアーチを架ける事が出来た怪力は本物ですね。
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