別所毅彦(昭和17年~昭和35年)
鉄腕というと稲尾を思い浮かべる人が多いだろうが、元祖は別所である。それを示すのが2リーグ分裂前の昭和22年に記録したシーズン最多完投記録の47試合だ。ちなみにセ・リーグ記録は昭和30年・金田(国鉄)の「34」、パ・リーグは昭和44年・鈴木啓(近鉄)の「28」である。昭和18年に若林(阪神)が39試合に先発して全試合完投をしたが当時の打者の平均打率は1割9分6厘と打撃の技量は低かった。別所が記録達成した年の平均打率は2割3分2厘と向上しただけに価値がある。更に巨人に移籍した昭和25年以降の勝率6割6分8厘(207勝103敗)もセ・リーグの通算勝率記録(投球回数2000イニング以上)として現在でも破られていない。
また南海の球団史上、唯一のノーヒットノーラン達成投手でもある。プロ入り2年目の昭和18年5月26日の大和戦で記録したのだが、惜しかったのは4日後の同じく大和戦で1安打完封したのだ。もしもこの1安打がなければ空前絶後の2試合連続の大記録だった。その後も昭和27年、30年にも1安打試合はあったが、ノーヒットノーランは達成できなかった。特に昭和27年の松竹戦の1安打試合は9回二死までパーフェクトに抑えていたが、27人目の打者に内野安打を許し大記録を逃した。
この27人目の打者はプロ入り2年目の控え捕手の神崎安隆。代打に起用されたが打てそうな気配はなく、二度セーフティーバントを試みたが失敗。別所も大記録目前で力が入り制球を乱してボールカウントは2-3のフルカウント。6球目を打ったが詰まったショートゴロ。遊撃手の平井が懸命に前進し打球を処理したが、前日の雨でぬかるんだグラウンドに足を取られて一塁送球が遅れて内野安打となった。大記録を阻止した神崎はプロ在籍4年で放った安打がこの時の1本のみ。別所にとって悔やんでも悔やみきれない結果となった。
別所の特筆すべきは投げるだけではないこと。昭和17年に滝川中学から南海に入団し、10月10日の巨人戦でデビューしたのだが、投手ではなく「三番・左翼手」だった。いかに投打ともに傑出していたかが分かる。選手層が薄かった終戦直後の昭和21年には投手として42試合に登板する傍ら、一塁手で22試合・外野手として5試合に出場した。他にも代打に起用されたのも一度や二度ではない。その間の打撃成績は2割5分3厘(二塁打15・三塁打6・本塁打4など計62安打)と野手顔負けだった。昭和23年は51安打、昭和25年も51安打し打率は3割を優に超えた。17年間で通算499安打・打率.253。本塁打は31本を放ったがこれは金田(36本)、米田(33本)に次ぐ歴代3位である。
吉田義男(昭和28年~昭和44年)
昭和28年、阪神に吉田義男が入団した。1㍍65㌢ はプロ野球界は勿論、一般社会でも小柄な部類だった。当時の監督は松木謙治郎。松木は春季キャンプに明治大学時代の恩師でもある岡田源三郎を招いた。岡田はノックの名人で左中間に直径2mの円を描いてホームベース上からその円を目がけてノックをすると打球は10球中5球は円内に落ちた。話はキャンプに戻る。遊撃のレギュラーは白坂長栄で新人の吉田は当然控え選手だった。キャンプイン2日目、ノックをしていた岡田が松木を呼び「おい松木、これから白坂とあのチビ(吉田)にノックをするからよく見とけ」と言うと3バウンド目で二塁ベース上を通過する球を打った。白坂は5~6歩ダッシュしたが二塁ベースまであと1mほど届かなかった。次は吉田の番。打球は白坂の時と寸分たがわぬコースを行き二塁ベース上を通った。次の瞬間、松木は目を疑った。二塁ベースの2m後方で吉田が捕球した。遊撃のレギュラーが吉田に決まった瞬間だった。次の日から白坂は二塁手として練習するようになった。
打撃と違い守備を数字で評価するのは難しいが吉田の守備範囲の広さを物語る数字がある。補殺数である。補殺とはその大半がゴロを捕球し一塁などに送球してアウトを記録すると残る数字だ。吉田は昭和28年464補殺、29年448補殺、30年436補殺を記録した。吉田とは同世代で同じ遊撃手として人気を二分した広岡(巨人)の最多補殺数は昭和30年の384である。昭和41年頃から年齢的な肩の衰えが見え始めた吉田は二塁を守る機会が増えた。それに伴い、吉田以外の阪神遊撃手の補殺数は目に見えて減少した。昭和40年の吉田は471補殺、吉田の二塁転向後の昭和42年の阪神遊撃手の合計は380補殺だった。その差の全てがそうだとは言えないが吉田なら捕球しアウトにしていた打球を安打にしてしまった可能性は高い。
打撃に関しては小柄でグリップエンドを大きく空けてコンパクトなスイングに徹していたせいもあり、三振の少ない打者であった。規定打席以上の選手の中で最少三振打者になったのが10回。昭和35年から40年にかけては6年連続でセ・リーグの最少三振打者になっている。昭和39年には3月28日の対大洋戦、7回に高橋投手に三振を喫したのを最後に6月2日の同じく大洋戦で大崎投手の速球に空振り三振するまで実に179打席連続無三振だった。こうした場合は記録を意識するあまり中途半端なスイングになり打率は下がりがちになるのが通例で、過去に昭和30年から31年にかけて浜田義雄(東映)が196打席連続無三振記録を残した時は打率1割8分1厘の低打率だった。しかし吉田は3割1分6厘・4本塁打だった。
通算4490奪三振の金田正一が一番の苦手としたのが吉田だった。 " 打撃の神様 " 川上から9年間に41奪三振、長嶋からは7年間で31奪三振なのに吉田からは17年間で僅か15奪三振と1シーズンに1三振に満たない割合だった。しかも昭和35年からの4年間はゼロである。ただ三振しないだけではない。17年間の対戦で329打数102安打・打率3割1分0厘。吉田の通算本塁打は66本だが金田からは8本と、金田をお得意様にしていたのが分かる。そんなカモにしていた金田に対して昭和44年は8打数無安打に終わった。この年限りで吉田は引退するのだが、9月21日の試合が金田との最後の対戦となった。7回に代打に起用され遊ゴロ、9回は最後の打者で二ゴロに倒れ金田は勝利した。ちなみにこの試合が金田の現役最後の完投勝利試合だった。