Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 636 東大卒

2020年05月20日 | 1976 年 



" 東大エリート " を静かに拒否し続けた男
今シーズンが終了して間もなく井出峻外野手(中日)が「もう僕の役目は終わった。今季限りでユニフォームを脱ぎたい」と球団に退団を申し入れた。これに対して小山球団社長が「本人の意思は尊重する。ところで野球を辞めた後はどうするのか?」と問うと「別に今はこれといったアテはないです。しばらくはゆっくり休んで、身の振り方は後々考えたい。プロで10年やってきました。10年一区切りですから新たな道で人生を再スタートするつもりです(井出)」と答えた。井出は親会社の中日新聞からの出向という身分になっているので球団としては新聞社の仕事をするなど引退後も極力中日グループと関係を保つよう要請したが色よい返事は得られなかった。

それから1ヶ月後の11月22日に行われた納会の前に井出は小山社長ら球団幹部と会って今後の自らの去就について話し合った。球団側は引退後も球団に残ってチームの為に力を貸して欲しいと求めたが、井出は環境を変えて第二の人生の再スタートを切りたいと伝えて球団からの申し出を丁重に辞退し、正式に退団する事が決まった。新たな職場は美弥子夫人の実家が経営する藤森工業KK(東京・中央区馬喰町)で野球とは無縁の世界で再出発する事となった。藤森工業は包装材料の製造卸を行なう、いわば中小企業である。そこでは東大卒の肩書を一切かなぐり捨てる覚悟だ。

新宿高校を卒業後に一浪をして東京大学理科二類に合格し、いわば日本のエリートコースを歩んで来た。東大卒業時には三菱商事に入社が決まっていたのを中日がドラフトで指名。周囲の反対を押し切ってプロ野球の世界に飛び込んだ。当時もそして現在でも「野球なんかやらずに三菱商事へ行ったら今頃は中堅社員として世界中を駆け回るエリートサラリーマンだったのに…」と会う人、会う人に何度も言われた。そうした声にも井出は静かに笑ってやり過ごした。「いくら僕の気持ちを説明しても納得してもらえない。だから黙っている方が…(井出)」と。井出のこうした気持ちは本人ですら論理的に「こうだ!」と説明できないのかもしれない。

少年時代から野球が好きで高校生の時は母親には内緒で野球部に入部し白球を追う生活を送った。浪人時代ですら予備校仲間と野球チームを作り興じていた。大学卒業時に思いもしなかったプロからの誘いに井出は「好きな野球をとことんやれ、とのお告げだ」と衝動的にプロ入りを決めた。気持ちの赴くまま未知の世界に飛び込める井出には普通の常識では考えつかない「何か」を持ち合わせているようだ。こうした経緯を辿っていくと、一見物静かに見える井出には実は恐ろしいくらい激しい情熱を持った男なのかもしれない。それはつまり、ある種の自己に対しての異端児とでも言えそうだ。


中日新聞、解説者などの優遇も捨てて中小企業へ飛び込んだ理由
名古屋の地元マスコミは「井出なら解説者にうってつけだ」とばかりテレビ・ラジオ放送局がこぞって誘った。また中日新聞からの出向制度には出向していた期間に応じて本社に戻る際に社内職歴として加算されるシステムがあり、一般の転職組とは違って新入社員扱いはされない。こんな結構な待遇はそうザラにある話でない。しかも井出には東大卒という学歴もあり、中日新聞社内には喜んで入社するであろうと考える空気があった。それを振り切って中小企業へ飛び込み、一から裸一貫やり直すという井出には、三菱商事を捨ててプロ入りした時と同じような気概を今なお持ち続けているとしか考えられない。

東大卒のプロ野球選手第1号の新治伸治氏は今、大洋漁業の社員としてアメリカで活動している。井出も三菱商事に入社していれば今頃は専門のバルブ関係の仕事で世界中を駆け巡っていたに違いない。「東大から入社した同期はカナダで頑張ってますよ」と話す井出の目はどこか遠くを見ているようだった。今季の井出は開幕して暫くは二軍にいた。肩書は選手だがキャリアや技術を買われてコーチ補佐役の立場も兼ねていた。一軍が低迷から脱せずにいると「井出を一軍に上げてチームの雰囲気を変えるべき」との声が高まり、やがて井出は一軍に昇格した。相手のサインを解読したり、井出ならではの頭脳は中日にとって欠かせぬ存在になっていた。

今にして思うと井出はこの頃から身を引く考えを持ったようだ。巨人の10連覇を阻止した昭和49年の優勝にはチームに貢献できたと自負があったが、最近は代走や守備固めに起用される事が多く、戦力としてチームへの貢献度が低くなっていると感じていた。実は49年の優勝の3年前にも一度引退を決意したが与那嶺監督から「君はチームの戦力である」と慰留された過去がある。それだけに49年の優勝で「これで与那嶺監督の期待にも応えられたし僕の役目も終わった」と気持ちは一区切りしていて、この2シーズンは井出にとって附録であったのかもしれない。とうとう井出は最後まで本心をオブラートに包んだまま球界を去ることになった。
コメント
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