面白き 事も無き世を 面白く
住みなすものは 心なりけり

「それでもボクはやってない」

2007年01月19日 | 映画
本ブログにお越しいただいた諸兄は必見の映画。
特に、通勤・通学に公共交通機関をご利用の皆さんは、この映画を観て肝に銘ずべし。
ひとたび痴漢とされたが最後、それを覆すには、並大抵の努力では覚束ない。
いや、有罪は免れないと心得べし…。

金子徹平(加瀬亮)は会社の面接に向かうため、すし詰めの満員電車に揺られていた。
目的の駅に着き、列車から弾き出されるようにホームへ降り立ったところを、泣きそうな顔をした気弱そうな女子中学生に袖口を掴まれ、呼び止められる。
「痴漢したでしょ?」
身に覚えのない徹平は、連行された警察署でも容疑を否認すると、そのまま拘留される。
その後も一貫して無実を主張し続けるが、結局起訴されてしまう。
徹平の無実を信じる母(もたいまさこ)や友人・達雄(山本耕史)の依頼で、ベテランの荒川(役所広司)、新米の須藤(瀬戸朝香)の二人の弁護士が徹平の弁護を引き受け、裁判が始まった。

「Shall We ダンス?」の周防正行監督が11年ぶりに放つ新作は、痴漢冤罪裁判を通して、刑事裁判の現実と問題点を浮き彫りにした傑作。
被疑者を捕らえて自白を迫る警察、あくまでも有罪を前提に起訴する検察、そして何より恐ろしい、有罪を前提に審理を進める裁判所。
特に、痴漢に対する有罪立証への道のりは、他の犯罪に比べても圧倒的に被疑者に不利である。

被害者からの親告罪である痴漢は、「ワタシはこの人に痴漢されました」という訴えを根拠として、ほぼ100%犯人の被疑者として扱われる。
映画の中でも、主人公は刑事から「お前は被害者に現場で逮捕された現行犯だ」と言われる。
もしかすると痴漢というのは、衆人環視のもとに包丁で人を殺した人間を殺人の真犯人として扱うよりも、正真正銘の真犯人として扱われるかもしれない。
殺人の場合は「未必の故意」という余地があるが、痴漢にはそれが無いのだから。
そんな司直の姿勢の基本となっているのは、「恥かしい目に遭った被害者が勇気を振り絞って親告しているのだから間違いない」という認識だ。
全てはこの発想の元、「推定有罪」として捜査が始まり、起訴され、裁かれ、有罪へと導かれる。

更に、痴漢裁判では、物証は無いまま、被疑者の自白調書と被害者の訴えのみを頼りに、司直は事を進めていく。
物証が無いのに有罪とされた身の潔白を晴らすのは困難極まりない。
無罪を証明するための物証も無いのだから。
しかし、自分の無罪を証明しなければ、痴漢冤罪からは逃れられない。
本作は「痴漢冤罪裁判」の恐ろしさを余すところ無く伝えている。

法学の道に進むとき、誰もが教わる言葉がある。
「疑わしきは被告人の利益に」
まずこの言葉を念頭に置いて、裁判官も検察官も法曹界への第一歩を踏み出したはず。
しかし、一度その両職に就いたとき、自己保身と立身出世に汲々とし、そんな言葉は記憶の中から雲散霧消してしまうというのだろうか。
官僚という巨大で安泰な組織の中で成功を収めるとは、かくも醜いものだということなのか。
曲がりなりにも法学部を出た身としては、疑わしきは罰せずという理念を決して忘れてほしくないと、青いことを言わずにおれない。

この映画の主人公は「裁判」そのものである。
ごくフツウの一般人が、ちょっとしたきっかけで、あれよあれよという間に犯罪者に仕立て上げられていく過程を、ひょろっとしてちょっと情けない表情の加瀬亮が、イマドキのごくフツウな若者として好演。
自分は、判決前夜の眠れない彼に完全にシンクロし、観ていて息苦しさを覚えた。
弁護士の友人がいることを、これほど心強く思ったことはない。
(よろしくお願いします。K君!)

世の男性諸君!
ぜひ本作を観て、痴漢冤罪から身を守るための対策を練っておくべし。

本作の公開は1月20日。
先がけて大阪・御堂会館で開かれた「試写会&シンポジウム」に参加した。
映画鑑賞後、周防監督を迎えての刑事裁判に関するシンポジウムでは、本作を制作した意図が解説され、非常に興味深いものであった。
※この件については改めてご紹介したい

それでもボクはやってない
2007年/日本  監督:周防正行
出演:加瀬亮、瀬戸朝香、山本耕史、もたいまさこ、役所広司