青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

朝と夜のはざまで My Sentimental Journey(第26回)

2011-05-23 21:12:33 | 雑記 報告




週刊B誌K記者28才、ジン君23才、某大女優ジュニア22才、なっちゃん24才、僕63才、恒例の上野食事会です。会を終え次第、品川に出て11時過ぎ発の大垣行き夜行列車、“ムーンライト長良”(いわゆる「青春18」の主力列車)で西へ向かう予定だったのですが、な、なんと!運行廃止になっているではないですか。予定していた大阪・神戸発のフェリーが、軒並み点検休航ということもあって、どうやってスケジュールを組めば良いのか?

ジタバタしても始まりません。ということで、2次会、3次会。僕は普段アルコールは全く飲まないのだけれど、ここのところ自棄酒を煽る毎日です。なっちゃんはアルコールに強いはずなのですが、酔っ払って潰れてしまいました。深夜2時過ぎお開き、なっちゃんをK記者にタクシーで送って貰うことにして、僕は新橋のマックで夜を明かし、品川始発(AM6:00)「のぞみ」で小倉着AM10:35、接続6分で在来線に乗り換え、下関着AM10:58。国際フェリー「青島」行きAM11:30に間一髪間に合いました。

成田から香港に飛行機で行くとか、在来線でのんびり西下して数日後の船便にするとか、まだしばらく東京に滞在するとか、、、、いろんな選択肢があったのだけれど、一刻も早く東京を離れたくて、綱渡りの強行軍となった次第です。

失恋感傷逃避行です。感傷の旅は船便に限ります。
なっちゃん「また失恋したの?誰に?」
僕「そんなこと知るもんか!」
正確には“そのうち失恋”感傷旅行、生前葬のようなものです。

ということで、5月19日PM3:30、青島入港。10年ぶりの青島です。別にここに用事があるわけではないので、すぐに四川・雲南に向かいたいのですが、新幹線代2万円、船賃1万5000円。残り財産は1万円余。行動は制約されてしまいます。ついこの間まで60万円あったはずなのに、一体どこに消えてしまったのでしょうか?

なんとしてでも4桁稼いで(3桁でも可?)、ジン・Jr.・なっちゃんをお供に、condensmilk版「高岳親王航海記」を実現せねばなりません。なっちゃんには手応えを感じているのだけれど、ジン君説得が難関ですね。

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なっちゃんには多大な弱みを掴まれています。飲み会でもバラされちゃった。この機会に、僕自身で懺悔をしておきます。いや、本当に反省しているのです。

3月11日の地震の翌日、大阪にいるなっちゃんに電話をしました。

僕:地震にもメリットはあるよ!公衆電話がタダなんだ。さっき、中国の元カノのスーリンと30分ほど電話し、それから(僕のブログを作ってくれている)佐世保のあや子さんに1時間余り電話してしまった。「今回の地震は我慾の固まりである日本人に対しての天罰だ」の慎太郎の言を評価(念の為、慎太郎本人は大嫌いです)したら、あや子さんは、「青山さん、そんなこと言っていいの?慎太郎は酷い人だよ。都民のことなど真剣に考えず、好き勝手にのうのうと暮らしている金持ち、そんな奴に天罰だなんぞ言われる筋合いはない。天罰を受けるのは自分のほう。青山さんが本当に慎太郎を評価するなら、もう絶交です」といったやり取り。

なっちゃん:え~!この大変な、みんなが電話が繋がらなくって困っている時に、、、、一番やってはいけない行為だわ!

僕:そ、そうだね、でも公衆電話がタダってことは、ほとんどの人が知らないみたい、それに、もとより公衆電話は、ほとんど誰も使って無いんだし、、、、と苦しい言い訳です。ここは謙虚に反省するしかないですね。

でも時すでに遅し。なっちゃんの僕がらみの持ちネタとなってしまっていました(あちこちでバラされているようです、汗)。

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一昨日(飲み会の前日の5月16日)は、ある意味、僕の63年の人生を凝縮したような、波乱万丈の日でした。表向きは、ごく平常な一日だったのかも知れませんが、僕の心の中には、ただならぬ風雨が吹き荒れていたのです。

午前11時、渋谷でアイルランドのジョン氏と会談予定。しかし11時きっかりに渋谷から電話したら、「ごめんなさい、どうしても外せない急用が出来て、(携帯電話を持っていない)貴方に連絡の取りようもないし、、、、夕方6時新宿に変更して頂けないでしょうか?」「もちろん構いません、では6時に新宿から電話します」。

7時間もあります。飯能の野口氏67才を訪ねようか、友人のA新聞K氏62才と会おうか、幾つかの案を考えたのだけれど、ふと、別の案が頭をもたげました。

その前日、ジン君のライブがありました。場所は下北沢。超満員の盛況で(僕以外は全員が若者)素晴らしいライブでした。ジン君はきっとメジャーになる、と確信、この日に合わせて日本(東京)に滞在していたのは、正解だったと思います。

下北沢は僕の青春?の地です。といって、街を彷徨していたわけではありません(そういった観点では、見事にこの街の事を知らない)。単に、住んでいたというだけ(正確には、羽根木公園の近く)。1974年からの16年間、その後鎌倉に居を移してからも、1998年までは、毎日のように近く(松原、豪徳寺、桜上水、浜田山、駒場、、、、etc.)を訪れていました。都合25年間ですから、この辺りが第2の故郷と言えるかも知れません。

その下北沢を、10数年ぶりに再訪したのです。もっとも、正確には、3年前にも一度訪ねている。2008年9月某日の夜。ほとんど完全に関係が決裂していた状況下で、千明さんと最後に楽しく話を交わしたのが下北沢。千明さんはその日、横浜で国家試験のテストがあり(答案を白紙で提出して裏っ側に僕の頼んでいたイラストの下書きを書きなぐっていた由)、雷が轟き渡る集中豪雨の中、武蔵小杉で落ち合い、ホテルを取って最後の話し合いをするつもりでいたのですが、思い直して下北沢に移動、スターバックスでしばし議論、椅子から立ち上がろうとした瞬間、突然のぎっくり腰に襲われました。そのあと、猛烈な腰の痛みに耐えつつ別のカフェレストランに場所を移して議論を続け、小田急線で登戸経由で帰宅したのですが、途中、彼女の実家のある千歳船橋で一旦下車、プラットホームでうんうん唸っている僕を、「送って行ってあげようか?」と千明さん。「大丈夫、一人で帰れる」と僕。

突然、幕引きとなったのは、その数日後のことです。この時、下北沢のカフェレストランで千明さんが示した最終提案を、僕が受けていたなら、その後の人生は変わっていたかも知れません(ぎっくり腰でウンウン唸って無けりゃ、もう少し冷静になって聞きいれていたかもしれない、と今になってふと思います)。

この時点で、完全決裂して最悪の関係となってから、すでに数週間が経っていました。それにしては、千明さんは上機嫌で、とても楽しい時を過ごせたことを、不思議に思うのです。これほどの悪感情を互いに持ち続け、電話では罵倒の限りを尽くしていたのにもかかわらず、実際に会った時に、なぜ、これほどフレンドリーに楽しく過ごすことが出来たのでしょうか。

そのたった一晩だけを切り取っても、僕にとって何ものにも代えがたい、思いの詰まった街なのです。

むろん、友子さんとの18年間の主要舞台も、下北沢の界隈です。僅か数ヶ月といえども“良好な関係”があった千明さんの場合と違って、18年間、最初から最後まで、戦いの連続。楽しいことなど、ひと時としてありませんでした。でも、そうした中にあっても、もしかしたら精一杯、誠心誠意尽くしていてくれていたのではないか、と、今になって思うのです。

友子さんとの最後の場面(1998年7月末のある夜)も、プラットホーム(明大前駅)です。ホームの端に座り込んで頭を抱え込んでいる僕の傍らで、「青山さん大丈夫?元気を出して」と、一時間近く付き添ってくれたのです。

その翌日、仕事上での大きな進展がありました。朗報を届けに行こうとした際に、思わぬアクシデントが。そして、浜田山神戸屋ベーカリーで待ち続けていた友子さんと一度も会えぬまま、13年の月日が経とうとしています。

下北沢、井の頭線、、、、久しぶりにこの街を訪ねたとなれば、何食わぬ顔で冷静を装うとしても、特別な感慨を絶つことは出来ません。

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千明さんのK弁護士には、正月明けにメール送信したのですが、これまでは必ず折り返しすぐに返事を頂いていたのに、珍しく返事が来なかったのです。相当にお忙しい(暴力団関係ほか数多くの事件を抱えている)ことは承知していたので、再度の打診はしないでいたのです。僕としても、千明さんの事は、いたずらにずるずると時を重ねるつもりはありません。K弁護士との話会いの際には、平行線の繰り返しにならないよう、受け入れて貰える案を用意して行きたい、だから次に連絡を取る時には、満を持して、という思いがあったのです。

早ければ明日、遅くとも数日中には再び東京を離れることになります。次ぎに戻ってくるのは、いつになるのか定かではありません。今のうちに、一度連絡を入れておかねばと、久しぶりに電話をしてみたのです。

K弁護士は、一月に送信した僕からのメールを、当初見落としていていたとのこと。後日気付いたそうなのですが、返事を出しあぐねているうちに、3月末になって突然千明さん側から解雇されてしまった。K氏は、まだ解決には程遠いので、契約を継続したいとの意向を主張したそうなのですが、その必要なし(本人か家族か、どちらが主導の意向なのかは、教えてくれなかった)と、契約不続行となってしまったのです。

交渉は白紙に戻すしかありません。K弁護士は信頼に足る人物です。方針を冷静に練り直し、今後とも何らかの形で助けて頂くことが出来れば、と願っている次第です(僕の要求は、千明さんの誠意ある説明と謝罪、それ以上でも以下でもなく、お互いにとって一番望ましい形に、ソフトランディング出来ることを願っているのです)。

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次ぎに、友子さんの父上を訪ねることにしました。いつかはお会いしなければ、と思い続けてきたのですが、父上ももう80才です。元気でいらっしゃることでしょうか? 友子さんも元気で過ごされているか、心配です。

13年間、友子さんの夢を、週一程度の頻度で見て来ました。何故か楽しい内容ばかりなのです。しかし、この数ヶ月彼女の夢を見ていない。そして最後に見た夢は、珍しく怖い夢だったような気がします。

ご自宅の玄関のベルを押すと、父上が出て来られました。80才といってもとてもお元気そうです。友子さんとの面会は、むろん完全拒否です。自分が生きている間は、会わすのはむろん、友子に関する話も一切しない、ということは承知しているので、仕方がありません。

お元気でいられるかどうかだけでもお伺いしたかったのですが、それをも含め答えられないと。彼女に最後に会った頃、持病の子宮筋腫の悪化が進んでいて、摘出手術を受けるかも知れないと真剣に悩んでいたものですから、13年も経った今、それはもう心配なのです(ご健在であることは確かなようで一安心ではありますが)。

父上は、“友子とは関わりなく、個人的に話をする機会を持つことは吝かではない”と仰ってくれています。一貫して誠意を示して下さっているので、感謝はしているのです。

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話題を最初に戻しましょう。

今週(先週)号の週刊B誌の目玉記事が「60才からの○○○」。K記者の担当ではない由ですが、ちらりと目を通した限りでは、僕とは無縁の世界のように思われます。

でも、この話題に関しては、僕はギネス級??実績を持っているのです。K記者に、なんで僕にインタヴューしなかったのですか(笑)と。

そもそも、K記者との付き合いは、千明さんとの関係が絶好調の時、やや似た話題の「枯れ専ブーム」特集があったことがきっかけなのです。ブームになった理由の結論は、女性側に純粋な愛情があってのものではなく、何らかの企み(例えば経済的援助の要求とか)があるのだと。そんなことはない、僕たちは純粋に愛し合っていますよ、と編集部に反論したら、わざわざK記者が直接対応して下さったのです。

ちなみに“ギネス級”というのは、、、、。30才まで0回。30~60歳までは、まあそこそこ(普通の細帯者よりずっと少ないと思う)。60才の2ヶ月半に、それまでの人生全てを上回る回数(笑)。61才以降は、たぶん死ぬまでまた0回。

これ(60才での一極集中)、凄いと思いません?

なっちゃん「この雑誌、私が貰います、特集も読んでおきます」。おいおい、そんなつまらない記事、読まないでくれよ。


友子さんとは、18年間(途中強制隔離期間1年半を含む)、東京にいる時は、“嫌われ続けながら”ほぼ毎日会っていたわけです。

千明さんとは、4カ月半。そのうち3ヶ月は、僕の人生唯一の相思相愛期間。残りの1カ月半が、吹き荒れる嵐の中の関係。でも、今思うに、順調な時の出来事は、何故か、ほとんど覚えていない、関係が完全に悪化してからの期間のほうが、苦しみも大きかったけれど、何故か楽しかったように想い出されるのです。

もしかしたら、そこからが本当のスタートだったのかも知れません。“良い時にどうした”のではなくて、“悪い時にどうするか”のほうが、大切な事なのではなかっただろうか、と今になって思うのです。

植物生態学的に比喩を行えば、極相よりも、遷移の途上こそが、多様な自然要素を育む魅力ある状態ではないかと思う。僕がオナガギフチョウ棲息地の秦嶺の「天然の雑木林」としてしばしば例に引く「常に遷移し続けるという状況としての極相」。

なっちゃんとの関係は大事にしたいですね。

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5月21日午後3時青島発の夜行列車で、22日正午過ぎ漢口(湖北省武漢)着。すぐに長距離バスに乗り換え、22日深夜、湖北省恩施着。恩施というのは、以前ブログで紹介した「白いレンゲソウ」探索地で、(屋久島-)上海-●-成都(-ラサ)の東西ラインと、(北京-)西安-●-桂林(-香港)の南北ラインのジャンクションに当たる地です。今日23日は快晴なのでフィールドに出たいのですが、予算が尽きてしまい身動きがとれません。資金捻出が出来次第、重慶・成都を経て、四川雲南の山岳地帯へ入る予定です(最悪の場合は、このまま何もせずに帰国することになるかも知れません)。


青島-武漢(漢口)の寝台列車の僕のコンパートメントの回りは、武漢から青島への旅行帰りのおばさん達の一団で埋め尽くされていました。それはもう賑やかな事、大阪のオバちゃんと同じですね。お菓子やら果物やらを、次々とおすそ分けしてくれるので、有難いと言えば有難かったのですが、、、。記念写真をせがまれ、ついでに僕のカメラでも、中で一番年少(25才とのこと)の娘とパチリ。細い眼が完全に無くなってしまうほど、ヤニ下がっています。







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