青山潤三の世界・あや子版

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青山潤三日記 2020.6.8

2020-06-08 14:11:52 | 「現代ビジネス」オリジナル記事


今日、「現代ビジネス」の新しい記事がアップされました。

「とりあえずマスク」ですっかり安心している日本人への違和感
ただの「同調圧力の象徴」になっていないか


ついでに、オリジナル記事を掲載しておきます。

日本と中国の感染者数が、欧米諸国などに比べて(相対的に)少ない理由の、考えられる可能性。
① 分母(検査数)の問題。←それぞれの国の取り組み方針に関与。
② 「感染」の定義付け、あるいは検査方法、関連死の範囲、ウイルスそのものに対する解釈の違いなど。
③ マスク着用が功を奏した(中国での着用命令、日本における元からのマスク好き)。一定期間の移動禁止(中国)制限(日本)の効果。
④ 多くの東アジア人には、既に新型ウイルスに対する抗体がある。

常識的には③なのでしょうね。でも僕は、直感的にですが「違う」と思っています。その前提で書きます。

追記を三つ加えました。ⅠとⅡは、中国における具体的な話。しかし、2~3カ月前頃ならばともかく、今になっては取って付けたような不自然な形になってしまうので、とりあえず割愛しておきました。

案外、Ⅲが重要なポイントを示唆してるかも知れません。むろん「現代ビジネス」の記事としては不適切ですが。

>湖北省(長江中流域)周辺地域同様、日本列島もまた遺伝子の宝庫である。東アジアの生態系のエキス(「動き続ける極相」の原型)が、意外に身近な空間に残っている。ウイルスも然り。ひいては、(日本発祥源という可能性も絶対拒否はできないということも含めて)「日本人には特別の抗体が備わっているのかも知れない」という問題に、、、。

↓記事はここからです

「マスク」と「風」と「新型コロナウイルス」

世の中には、「そんなことは誰でも知ってる、いまさら言う必要性も価値もない」と、誰もそのことについて深く探索しないまま、有耶無耶にされていく「大事な案件」があったりします。「新型コロナウイルス問題」の、(本質的な部分での)成り行きに対しても、みんな、「なんかおかしい」と感じているのではないでしょうか?でも、正面から向き合うことなく、ただただ空気に従って、やみくもに「出口」を目指している、ように思えます。

例えば、マスクの集団に対する違和感。

昨年の、ちょうど今頃、香港で中国本土政府の行政支配に抗議する大規模デモが勃発し、ほぼ半年間に亘って、世界を困惑させ続けてきました。今年に入ってそれと入れ替わるように、中国を発信源とする新型コロナウイルスが、世界を震撼し始めたのです。

アジアの民主主義にとってのマスクは「同調強要空気」形成の象徴的存在

香港デモは、一見した限りでは、最近勃発した米ミネソタ州に於けるアフリカ系市民の抗議運動(一部暴動化)と、重なって見えます。怒りの対象が「警察」に向けられていることは、双方同じです。

でも、根本的な性格は、まったく異なります。筆者は、大規模デモ発生の当日(2019.6.12)から数か月間にわたり、デモの周辺をチェックし続けてきました。スタートの時点で「容疑者とされる黒人青年」を殺害したミネソタの警察官とは違って、香港の警官は自分たちが能動的に何かをしたわけではありません。

(思想的な訴えを拠り処に)暴徒と化した若者中心の香港市民に対し、少なくても暴動が人的被害を及ぼすようになるまでは、警察は、一般の市民や自分たちを危険から防ぐ最低限の防御しか行っていません。

しかし、一部の(といっても膨大な数の)香港市民たちは、「警察は悪」と世界中にアピールするべく、(メディアを通して)徹底的なパフォーマンスを続けました。「中国共産党の手先である香港警察は、民主主義・香港市民の自由の権利を剥奪しようとしている、ひいては、我々を殺そうとしている」という名目で、警察官達に(当然の権利であるかのように)一方的な暴力を奮い、あるいは、各国の報道陣の前で、膝まづいて、そこに居もしない警官に向かって「どうか私を殺さないでくれ」と懇願するなど、パフォーマンスを行なったりしてきました。いわば警官を「仮想敵」と位置付けたわけです。

そして、そのパフォーマンスのために利用された小道具(同時に主役的役割も持っていたように思う)が 「マスク」です(「現代ビジネス」記事参照)。香港デモは、「民主主義=正義」「共産主義=悪」という大前提の上に成り立っています。その是非は、政治音痴の筆者には分かりません。でも、香港市民の大半と、日本の多くの大衆が、疑いもなくそれを信じているらしいことは確かなようです。

アジアの民主主義にとってのマスクは、実に都合のいい、「同調空気」形成の象徴なのだと思います。

許より、日本人のマスク好きは、海外ではお笑いの種になっていたり、軽蔑の対象とされてきたりしました。
ある意味、日本人の「平穏志向」(あらゆる波風を嫌う風潮)の象徴でもあります。何もない時でさえ、ひたすら「保身」を心がける。

筆者は(国外在住機会が多いこともあって)、普段から飛びぬけて高いと思われる日本人のマスク着用率が、不思議でなりませんでした。この御時世なので今に関しては当然の事と理解していますが、それでもマスクの集団は、筆者にはどうしても異様な光景に映ってしまいます。

顰蹙を買うことを承知で敢えて言いますが、ともすれば「日本は初期からのマスク徹底着用効果によってコロナに打ち勝った」 と内外で理解されてしまっているかも知れないことに、一抹の危惧を感じています。本当にその認識でいいのでしょうか? 今後、何らかの「アゲインスト」がやってきたとき、再び「マスク」で切り抜けることは出来るのでしょうか?

マスクの着用が全く意味がないとは思いません。飛沫唾液の防御など、一定の効用はあるはずです。むろん筆者も、人との対面時や密封空間(近くに人のいる室内や車内)では、基本的にマスクを着用しています。でも、そうでないところではしません。

なんか変ではないでしょうか。例えば、外に出歩くときは常時マスク着用しているのに、家庭内では着用しない。そのような人たちも少なくないと思います。通常は、家族の誰かが家族外の人々とも接触しているでしょうから、もし一人が感染してしまったら、別の家族から第三者へと媒体してしまうことになります。本当に感染を警戒しての「常時マスク着用」ならば、家庭内でも常にマスクをしたまま対面していないと、意味がありません。

結局、確たる根拠もなく、「人にうつすのも人からうつされるのも嫌だし、していないことで後ろ指を指されたくないから」当たり前のようにマスクをしているわけです。

筆者は、マスク着用は、結果としてむしろ弊害のほうが大きいと思っています。きちんと「三密」(必要な時以外は、むやみに集まらない、距離を保つ、密閉しない)を守ることを前提に、その上でのマスク着用ならば意味があると思います。でも、それらがきちんとなされているとは思えません。なのにマスクだけは皆が着用。それで安心してしまうことで、本来の感染防御が疎かになってしまうとしたら逆効果です。

いずれにせよ、どうやら、今のところ日本は「ウイルス防御」に、概ね成功している、と内外で思われているようですね。その要因の一つがマスク効果であると。でも本当にそうなのかどうかは分かりません。効果があったとも、効果がなかったとも証明出来ないわけですし。

この「新型コロナウイルス」の問題点、ひいてはそれに対して人類が採らねばならない姿勢は、もっと次元が違う所にあるのではないだろうか、と筆者は思うのです。具体的なことはここでは触れませんが、「こうだから、こうなった」という、単純な因果関係で説明可能な次元とは、全く異なった道筋の上に成り立っているような気がします。

不可解なことは、幾つもあります(以下、付記したⅠの部分を割愛)。

前回の筆者の記事には、予測違いが一つありました。「確かなことは、余りにも衛生概念が低い中国のこと、ウイルスの蔓延が起こっても当然」といった旨の意見を述べたことです。日本と中国の衛生に対する概念や環境は比較になりません(むろん日本のほうが桁外れに素晴らしい)。

その実態をもってすれば、人口比率も含め、大げさではなく、日本での10人や100人のカウントが為されれば、中国ならば10万人、100万人単位でカウントが為されても、おかしくないレベルだと思います。次元が異なる結果が表れても、不思議ではないのです。 

にもかかわらず、実際の両国の被害状況は、「比較のできる範囲」で収まっているように思えます。それは、なぜなのか?

それに世界を見渡せば、膨大な感染者数の国々がある一方、一人も感染者がいない国があったりします。
例えば、欧米と東アジアを見比べると分かり易いですね。なんで、中国や日本は、(相対的に見て)こんなに感染者数が少ないんだろう。 

>そりゃあ、日本は優秀だからでしょ。マスクだって皆してるし、他の国々とは道徳的レベルが全然違う。

じゃあ、何で中国も少ないの?

>むろん、隠蔽工作してるから。

それを言えば、日本だって、例えばアメリカに比べれば圧倒的に検査数が少ない。最初から計上しないのと後で減らすの違いはあっても、似たようなものです。都合が良すぎだと思うけれど。

日中どちらか一方が、世界的に見て(相対的な)感染者・死者数が少ない、というならば、まだ答えの探りようがあるのでしょうが、同じようなレベルに収まっている、というのは、どう考えても不可解です。

ちなみに中国では、1月23日、国家の独断で全国民に外出時のマスク着用令が出され、次いで14日間の移動禁止と、移動後14日間の再隔離の命令が出された。全ての国民は、有無を言わせず従わざるを得なかった。しかし、14日+14日の隔離解除後は、(一部の公共機関利用時を除いて)大半の市民はマスク無しで生活している。中共独裁政権による自由の締め付けがある代わりに、日本のような「無意識に為される同調空気への強要」はないのである(日本人から見れば、「自由」ではなく「自分勝手」ということになるのかも知れないけれど)。

幻影としての「新型コロナウイルス」

なんか、この新型コロナウイルス騒動自体が、おかしいところが有り過ぎなような気がします。少なくても、単純ではない。理屈で答は割り出せない。でも大衆は答えを欲しがる。それが出来ない、というジレンマ。その結果が、マスク着用の功績へのすり替え。でも、そこで終わらせてしまっていたら、後で大変な展開が待っているような気がします。

はっきり言えることは、「“新型コロナウイルス”は“大きな脅威”ではあるとしても“特別な脅威”ではない」と言うことです。「脅威」を広く捉えれば、種々の病気はもとより、「交通事故」とか「自殺」 といった例も含まれるでしょう。それら他の全ての「脅威」も、単純ではないはずです。それぞれに複雑多様な、時には不可解な要素によって構成されている。

さらに、これを言ってしまえば身も蓋もないことですが、そもそも「新型コロナウイルス」(問題)は存在するのか?

早い話、未だに「SARSやMARSのような一般的な固有名称」が付いていないのですよ(あえて言えば「SARSⅡ?」)。そのことには、思いのほか大きな意味合いが含まれているのかも知れません。

一般的に言って生物(ウイルスは生物ではないという定義も出来るようですが、自然界に存在し自ら動きを示す多様な実体、ということでは同じです)の種(species)の形成は、100万年以上の単位で為されます。人間社会が成り立つ時空における「新種」は、「新たに出現した種」ではなくて、「新たに見つかった(事務的に記載された)種」です。

中国の奥地で長い間昆虫や植物の調査を続けてきた筆者にとっても、調べれば調べるほど、途方もなく多様で複雑で混沌としたそれぞれの「種」の実態は捉えようがなく、肉薄出来ないままでいます。平たく言うと、同じ種(遺伝的なレベルで同一種)であっても、集団(ときには個体)ごとに、まったく性質が異なったりするのです。

「新型コロナウイルス」も、それに準じると考えて良いでしょう。例えば、SARSの無数のタイプの一つ。それが、華々しく人間社会にデビューしたのです。換言すれば、まだデビューしていない「無数の新型」が存在するわけですね。いずれにしろ全てに対応することは不可能でしょうし、一部は(見つかったとしても)意図的にスルーされているものもあるかも知れません。

筆者自身のことを少し書きます。中国を主要フィールドにしてから、今年で33年目になります。この1月の「新型ウイルス」発覚時にも、中国に滞在していました。今回の滞在中は湖北省には行かなかったけれど、武漢とは日常的に大勢の人々が交流を持つ、広州に滞在していました。

2月に入って日本に帰らざるを得ず、(中国に身の周りの物やアシストしてくれる人々を残したまま)今も日本で心細い一人暮らしを余儀なくされています。

帰国時の時点から、今に至るまで、感染検査は受けていません。今回は湖北省に行っていないこと、37.5度以上の熱がないことから、検査を受ける資格がないのです。

我慢しがたいほどの肺と気管の圧迫感、猛烈な吐き気、頭痛と眩暈、味覚の完全消失、、、それがずっと続いています。主治医の見解(肺や頭部のCTスキャン、心電図、血液検査などには異常なし)では、「きっとウイルス性でしょうね、それが新型かどうか分かりませんが」「青山さんは抗体出来ちゃっているだろうから大丈夫ですよ(その場合他人にはうつりません)」。

呑気・無責任なように思われるでしょうが、それなりのわけがあります。それらの症状は、今回現れたものではなく、ずっと以前から長い間続いています。33年間に亘る中国滞在中も、何度も現地(中国各都市)の病院で検査を受けています。結論は大抵「ウイルス性」。「新型だろうから対処の仕方は良くわからない」「衛生に留意して、充分な栄養と睡眠をとり、体調維持を続けること」。まあ、それが正解でしょうね。

「新型コロナウイルス」は、人類にとっての「脅威」ではあるのでしょうが、あくまで数ある「脅威」の一つにすぎません。突き詰めれば、自然界に存在するものは、全てが人類の脅威に成り得るわけです。そして、すべての脅威は、固有の性格を持っている。

本来、知らなくてもよかったのかも知れない「何か」を見てその存在を知ってしまったとき(いわゆる「“パンドラの箱”を開けてしまった」ということ)、見てしまった、知ってしまったからには、対応しなくてはならない。それが人類に「脅威」を与える存在であれば「排除」「退治」ということになります。

*ちなみに、ポジティブな意味合いでは、「科学」もその一つだと思います。無限の素材の中に潜む新たな方法論を見つけ出すことで、人類にとってより有益な世界を構築していく(筆者はそのこと自体ネガティブに捉えていますが、ここでは触れないでおきましょう)。

邪悪な存在(「新型ウイルス」)がわかったけれど、その実態は見えて来ない、ということで、見えない敵を退治しようとしているわけですね。シュワルツネッガーの映画だと、敵は最終的に姿を現し、多大な犠牲を伴ったうえで退治が為され、人類の勝利となるのですが、コロナウイルスに関しては、そうはいかない。続編は延々と続くはずです。

車窓からの風の心地よさ

「新型ウイルス」は、実は「敵」ではないのです。

本来なら人類と共存しなければならない「現象」の一つです(地震とか台風とかと同様に)。

もしウイルスを「敵」と見做すならば、突き詰めて探っていけば、自然界に存在するあらゆる対象が、「敵」に相当してしまうことになりかねません。

全ての生物は、他者に対する「忌避機能」を有しているはずです。自然界の全ての食材は、人類の健康に何らかの害を及ぼす、ということが、追々分かってくるのかも知れません。そうなると、人類は自然界から齎される食材を、何一つ食べることが出来なくなってしまう。

ついでに言うと、「新型ウイルス」(以前のSARSの時も含めて)は、「コウモリ主犯(媒体)説」が根強くあるようですね。筆者も、そうかも知れないとも思います。中国の田舎では、野生のコウモリはごく身近な存在で、その料理もポピュラーです。でも、コウモリがウイルスの媒体の一因を担っているとはしても、責任を全て被せてしまう(「だからコウモリを排除しよう」とか)のは、なんだかなあ、、、という気がします。

科学の力でもって「人間にとって有益」なものだけを発展させ、そうでないものを排除していく。科学、文明(その基盤を成す)民主主義社会、、、それらを絶対的な「善」として他を排除し続けて行くならば、いつか予期しないクライストが襲ってきたときに、制御不能になって、人類の未来は「詰まって」しまうのではないでしょうか?

でも結局のところ、世間は自分たちにとって有益なものだけを受け入れ、すべての悪を許さないのですね。戦って全部潰す。正義が悪を撲滅する。

ことに日本人は、良くも悪くも、「清濁併せ飲む」ことは出来ない民族だと思います。「善(人類)」と「悪(ウイルス)」が共存することを良しとしない。一方を肯定し、他方を否定する。皆が納得する答えを求める。

とりあえずの、容易でかつ目に見える答えの象徴が「マスク」着用です。(「ウイルス」とか香港における「共産政治の介入」とかを含めた)外部の空気を拒絶排除し、内側だけの同調空気の形成。マスクをしていれば、個人の自由(防御)も保てるし、周囲との(常に安定した)同調空気も共有できる。

筆者が試験問題出題者なら模範解答だとは思はないので、別の答えを用意します。「マスクなんて(よほどの事態でない限り)日常的に着用し続けるのはやめよう」「外部を受け入れ、自然の風との共存をしよう」

ひと時とは言え、新型コロナウイルスは(皮肉にも)私たちにマスクとは対極のプレゼントをしてくれました。「外からの風」です。いったい何年ぶりだろうか?電車の車窓を思いっきり開けて、外からの心地よい風を楽しむことが出来たのは。

でも、収束(勝利?)に向かうにつれ、「風」は再び追いやられてしまいそうです。冷房を生かすためには「密封」することが必要ですから。

今回のコロナウイルス騒動の被害が(世界レベルで見て相対的に)少なかった事は僥倖です。三密対策とか、移動制限とかも、被害を抑える意味はあっただろうし、多くの人が、その窮屈な生活を受け入れた、努力の賜物です。

ただ、それは 根本的な解決(最終答案)ではないと思うのです。せっかくの機会です。次の選択肢は、全く異なった次元から選んでも良いのではないでしょうか。(コロナウイルスも含めた)自然との共存。

人間の都合だけの、見せかけの共存ではなく、(少々便利さや快適さを放棄しなくてはいけないとしても)自然の側に身を委ねた、積極的な取り組みを。

筆者は、別に、原始への回帰を推奨しているわけではありません。とりあえず、少し戻ろうと。山で道に迷った時の鉄則、もと来た道をとりあえず戻ってみる(先に進むよりずっと辛いですが)。

まもなく、熱中症の季節がやってきます。「室内冷房」と「密閉」。どう折り合いをつけるのでしょうか?

私たちが為すべきことは、マスクの常時着用による平穏の維持、エアコン頼りの文明からの恩恵に安住すること、、、、ではないように思うのですが、、、。(自分たちの世界が作り出した)一か所に漂う空気に浸るのではなく、絶えず流れゆく自然の風を受け入れる時が来ている、のではないでしょうか。


JR青梅線にて


中国泰嶺山地にて


中国南嶺山地にて




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